スピレッタ調教場
気が付くと、ベッドの上に横たわっていた。
どうやら助かったらしい。
視界がぼやけていて、身体が思うように動かない。まだ麻酔が効いているのだろうか。
ぼんやりとした頭で、レースに復帰するのはいつ頃になるだろうかと考える。
騎手は落馬負傷からの復帰が早いと言われるが、刺し傷までそうなのかわからない。
路上で刺された騎手なんて恭介の知る限り一人もいなかった。
内臓まで傷つけられたとしたらどのくらいで治るのか見当もつかない。
考えても仕方ないと思い、恭介はまた目を瞑ろうとした。
「気がついたかしら」
女性の明るい声が聞こえた。
恭介は気怠く首を回して女性の姿を見ようとした。
「あ、まだ無理しないでね」
女性が気を遣うように声をかけてきた。
足音が近づいてきたと思うと、女性が恭介の顔をのぞき込んできた。
――え?
恭介は強烈な違和感を覚えた。
目鼻口はぼやけていてよくわからないが、彼女は普通ではない気がした。
最近の看護師はこんな格好をするのだろうかと訝しんだ。
女性の髪は霞んだ目にもわかるほどの透き通った金髪で、白衣を着ている感じではなく、普通の白いシャツを着ているようだった。
「あの」
思いのほかはっきりと言葉が出て恭介は驚いた。
麻酔はもう切れていたのかと思ったとき、視界が明瞭になってきた。
「え?」
女性の顔が見えてくるようになると、今度は疑問の声が出た。
彼女は日本人には見えなかったからだ。
ほっそりとした顔の輪郭に薄桜色の唇はともかく、吊り上がり気味の眉の下にある、冴えた目つきに翡翠色の瞳が特徴的で、同じ人間とは思えないほど浮世離れした顔立ちだった。
――すげえかわいい。
彼女の容貌は、恭介の心をとらえた。
「こ、ここは」
恭介は女性に見惚れつつも、ベッドに肘をついて起き上がろうとする。
「ほらほら。無理しちゃ駄目って言ったでしょ」
女性は優しげな笑みを浮かべて、恭介の肩を押さえて寝かせようとする。
「あなたは?」
恭介は彼女に従って枕に頭を乗せてから訊いた。
「エレノア・スピレッタよ」
「外国人か。日本語がうまいな」
「なに言ってるのよ。外国人はあなたじゃない」
「え?」
事態が飲み込めなかった。
腹を刺されて病院に運ばれたはずなのに……。
「でも、言葉が通じるし、俺は日本語とほんのちょっとの英語しか話せないぞ」
「にほんご? えいご?」
エレノアは首を傾げて困惑げな表情を浮かべる。
「わからないけど、とりあえず言葉が通じるならどうでもいいじゃない。それよりもあなたの名前は?」
「畠山恭介。キョースケ・ハタヤマ」
恭介はそう名乗った。
エレノアというのがファーストネームと感じたので、彼女に伝わりやすいように言い換えた。
少し落ち着いてくると部屋の風景が目に入ってきた。
ベッドの横にある窓から射しこむ日の光に照らされて、壁板が巡らされている部屋にいることがわかった。
恭介にかかっている布団は清潔感があるものの使い古しているらしく、よれている感がある。
どうやらここは病院ではないらしい。
恭介は布団をよけて刺し傷を見ようとした。
ところが身体には包帯が巻かれておらず、傷口も塞がっていて、傷痕すらなかった。
事態が飲み込めず、両手で腹を触ってみる。
痛みが全くなく、完治したようだった。
「あなたが手当てを?」
と恭介は訊いた。
「手当ってほどのことじゃないわ。ただ寝かせて、気休めの魔法をかけてあげただけよ」
「まほう?」
何を言っているのか理解できなかった。
治療のことを魔法と例えたのだろうかと一瞬思った。
「じゃあ、刺された腹もあなたが?」
「そんな傷、なかったわよ」
「嘘だろ?」
恭介はあのときのことを思い返した。
たしかに怪しい男に刺されて強烈な痛みを感じたのだ。
「嘘じゃないわ。キョースケがあの子の背中に乗せられてきたときには、ぐっすり眠っていたわよ。ほんと、死人かと思った」
エレノアは可愛げのある微笑みを浮かべて言った。
その目元には愛嬌が感じられる。
「あの子?」
「アシタス、競走馬よ。うちのロディがあの子の背中に乗せて、ここへ連れてきたの」
「競走馬?」
ますます意味がわからなくなってきた。
都会の真ん中からどうやって競走馬に乗ってこんなところまで来たのか。
自分の取り巻く環境を理解したいと思い、恭介はベッドから起き上がった。
思ったよりも身体が軽く、自分でも驚いた。
回復してすぐにこうまで動けるものなのか。
「ちょっと、無理しちゃ駄目よ」
「大丈夫。もう治ったみたいだ」
「ほんとに大丈夫かしら」
心配そうに見つめるエレノアを尻目に、恭介はベッドから抜け出る。
もう一度試しに身体を動かしてみた。
両手の指を握ったり、膝を曲げたり、両手を腰に当てて上体を反らす。
やはり刺された影響はないようだった。
「ほら、大丈夫」
恭介は両手を広げておどけた。
それがおかしかったのかエレノアは手を口に添えて笑った。
「で、ここはどこなんだ? どっかの牧場なのか? それともトレセン、外厩? 競馬場?」
かねてからの疑問を口にした。
競走馬がいる場所と言えばその四か所ぐらいしか思いつかなかった。
「スピレッタ調教場よ。レースに出すためにあの子たちをトレーニングさせる場所」
「調教場? 外厩ってことか」
聞いたことのない名前である。
美浦と栗東にあるトレーニングセンターの他にも外厩という調教施設がいくつか存在するが、そのような名前の施設には心当たりがない。
「ええ、わたしはこの調教場の責任者、つまり調教師よ」
「え? 嘘だろ? そんなに若いのに?」
恭介の記憶が間違っていなければ、中央競馬の調教師は二十八歳以上でなければ受験資格すら与えられないはずだった。
エレノアは明らかに若く、恭介と同じくらいの年齢か年下に見える。
「あら、調教師になるのに歳なんて関係ないじゃない」
「どういうことだ?」
混迷がますます深まる。まるで宇宙人と話しているような感覚に陥ってしまう。
もっともここが外国なら日本と違うルールなのかもしれないが……。
「ああ、そうだわ。あなたにはわからないことだらけね。とりあえず身体の調子がいいなら外の空気でも吸ってみたら?」
と、エレノアが誘ったので、恭介は同意した。
どうやら彼女は恭介がここにいる理由を知っているらしい。
今は大人しく彼女の言うことを聞いた方がよさそうだった。
エレノアについて行くと、大仲らしき部屋に入った。
壁にはボードが掛けられ、夥しい数の紙が貼られている。
部屋の真中に広いテーブルがあり、椅子が何客もあった。
隅の台所にはやかんや鍋といった調理道具も置かれている。
外へ続くドアの横に広めの窓があるが、擦りガラスのせいで外の様子がよくわからない。
日が射し込んでいるので晴れだとわかるぐらいだった。
テーブルには若い男と女が席についていた。
男は本に目を落とし、女は皿に盛ったパスタを食べていた。
二人はこの調教場の厩務員らしかった。
男は姿勢悪く背を曲げたまま欠伸をした。
女は視線をこちらに向けるとエレノアに気づき、慌ててパスタを飲み込んだ。
「あ、すみません。お嬢さま」
女は姿勢を正して言った。
ウェーブのかかった長い茶髪を後ろに縛りあげ、目尻が垂れ下がった目つきをしている。
丁寧な口調でエレノアに謝ったが、女の方が年上に見える。
男も目を見張って焦る様子を見せると、すぐ背筋を伸ばした。
「おつかれさま、オリアナ、ラモン。大変だったでしょう」
エレノアは微笑を浮かべてねぎらいの言葉をかける。
「いや、どうってことありません」
ラモンは謙遜して言ったが、疲れが溜まっているらしく、欠伸をこらえきれずに大きく口を開けた。
「こら、ラモン。お嬢さまの前で失礼よ。我慢しな」
どうやらオリアナの方が先輩らしく、少しきつめの口調でラモンを叱った。
「しょうがねえだろ、オリアナ姐さん。こっちは寝不足なんだから」
「ごめんなさい。わたしたちのせいであなたたちに迷惑をかけてしまったわね」
「あ、いやいや。とんでもないです。好きでやっていることですから。気にしないでください。お? 目が覚めたようだな」
と、ここでラモンは恭介に気づき、両手を広げて驚いた素振りを見せる。
「ラモン。キョースケよ。ほら、アシタスに乗ってきた人」
「ラモン・メイスンだ。よろしくなキョースケ」
とラモンは快活な口調で挨拶をすると、右手を差し伸べた。
「キョースケ・ハタヤマです、よろしくお願いします」
形通りの自己紹介をし、恭介はラモンと握手を交わした。
ラモンという名前の通り日本人ではない。
日に焼けたように肌が黒く、恭介よりも頭一つ分背が高くがっしりした身体つきの男である。
この体格で競走馬に乗るのは不可能に近いので、調教に乗ることはなさそうだった。
「で、こっちがオリアナ」
「オリアナ・ロフト。よろしく、少年」
「……俺、二十一っすけど」
身長百六十三センチ四十五キログラムという小柄な体型の上に小顔で目が大きいせいか、恭介を騎手だと知らずに見るとどうも高校生ぐらいに見えるらしい。
「おっと、ごめんごめん。もっと若いかと思ったよ」
あはは、と快活に笑い飛ばすオリアナ。
「オリアナ姐さんから見れば、誰でも若いんじゃねえの?」
歯をむき出しにして笑うラモン。
「ラモン、淑女に歳の話題は、禁句っつったでしょ」
オリアナは指をぽきぽき鳴らした。
目元は笑っているが瞳に輝きがない。
ラモンの軽い調子が触れてはいけない心の藪の中をつついたようだ。
「キョースケ、行きましょう」
「え? ああ」
エレノアが二人に構うことなく外へ出て行こうとするので、恭介は戸惑いながら彼女の後をついていく。
ドアを閉めると、ラモンの悲鳴がドア越しに聞こえた。
エレノアの平然としている様を見ると、スピレッタ調教場では日常的な光景らしい。
誘われるままに外へ出ると、そこはたしかに競走馬の外厩のようだった。
建物の正面は柵に囲まれた放牧地で、青々とした芝が一面に広がっていた。
どうやらデビュー前の馴致や育成も行っている施設でもあるようだ。
デビューした競走馬のための外厩には広い放牧地はないはずだと恭介は記憶を手繰った。
天から射す日の光が芝生をひと際輝かせている。
遠くに見える山頂がうっすら雪に覆われた山は形から察するに火山のようだった。
左側には厩舎らしき建物が軒を連ねているが、とても現代的に見えなかった。
壁がむき出しの木材で塗料を一切使っておらず、屋根が藁か茅のような草で葺かれていて、古い牧場をそのまま使っているようだった。
そよ風が顔を撫で、芝の香りが鼻腔に届く。
季節外れの暖かい風だった。
二月とは思えない。
二人が放牧地の柵に近づくと、一頭の馬が悠然とした足取りでこちらに歩み寄ってきた。
馬が柵越しに頭を出すと、エレノアの顔に優しげな微笑が浮かぶ。
「キョースケ、この子がアシタス」
と、エレノアはいたわるように馬の首筋を撫でた。
「え?」
と、恭介が声を上げたのは、この馬がサラブレッドらしく見えなかったせいである。
朝焼けの空のような赤い毛色を帯びた馬体だった。
サラブレッド並みの体高であるものの、全体的にがっしりとした馬体で、四肢がやや太く筋肉質である。
サラブレッドの平均馬体重は四七〇キロと言われるが、この馬はそれよりも馬格がありそうだった。
あえて強引に表現するなら、輓馬の脚を少し細くして胴をスリムにしたらこのような馬体になるかもしれない。
恭介が柵に手をかけると、馬は首を高くしてじっと見つめてくる。
そしてゆっくりと首を下げて顔を恭介の肩の近くまで動かした。
見知らぬ人への警戒心が全くないので、幼いころから大切に育てられたと感じられた。
「これが競走馬?」
恭介は馬の首筋を撫でながら、エレノアに訊いた。
「そうよ。見たことないの?」
「いや、俺が知っているのとは違うな」
そう言っている間にもアシタスは人懐っこそうに顔を寄せる。
「で、この馬が俺を連れて来てくれたのか?」
「ええ。アシタスったらキョースケのことがとても気に入ったみたいね」
「物怖じしないんだな」
「この子は特別ね。他の子はそうでもないんだけどーーあ、ほら、あの子はちょっとうるさいところがあるわ」
エレノアは天を指さした。
恭介はつられてその方角に目を向ける。
「え?」
雲一つない真っ青な空に、一つの点が浮かんでいるのに気づいた。
日の光を受けたその点がだんだん大きくなり、歪な輪郭を帯びてこちらに近づいてくる。
点が明確に形作られていくにつれ、地球にいるはずのない馬の姿がくっきりと目に映った。
「翼が、ある」
信じられない光景があらゆる感情を消し去った。
恭介は呆然と天翔ける馬を見つめることしかできなかった。