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プロローグ~足りないもの~

 二月某日、東京競馬場の第三レース。

 

 畠山恭介は今年三つ目の勝利を手に入れようとしていた。


 最終コーナーを曲がって最後の直線に進入し、先頭を捕らえようと進出を開始する。

 手応え充分のまま、一頭ずつ抜き去って行き、残り三頭ということろまで追い上げた。

 

 だが突然、先頭を走る馬が斜行してきた。

 鞍上は恭介と同期の騎手、田口大也(ひろや)である。


 大也は修正を試みて鞭を入れたり、手綱を動かしたりしてまっすぐ走らせようするも、馬が言うことを聞いてくれない。


 大也の馬が前方をカットしそうになったとき、恭介は手綱を引いてポジションを下げ、進路を左に切り替えた。


 なんとか斜行をかわして再び追いだしたが、もう遅かった。


 結果、恭介は三着に終わり、邪魔をした大也が一着に入選した。


 その後、着順に変更はなく、到達順位の通り確定した。 


 レース後、控室に戻ってやるせない気持ちを抱えながら椅子に座っていると、大也が謝りに来た。


 その後ろから先輩騎手の佐山順平が事の成り行きを見守っている。

 順平は恭介が怒りをぶちまける恐れがあると見たようだった。


 しかし当の恭介は、大也が何とかして馬をまっすぐ走らせようしていたのがわかっていたので、怒るに怒れない状況だった。


 全レース終了後、順平が二人を行きつけの居酒屋に連れて行った。

 仲裁というよりも反省会の意味合いが強い飲み会だった。

 

 もちろん恭介の分は大也が持つことになっている。


「ごめんな、恭介」


 大也は改めて謝罪した。


「まったく、珍しく勝てるかと思ったのによ」

 

 恭介は苦笑いを浮かべ、ハイボールを口につける。


「ま、二日間の騎乗停止で済んだのは運が良かったな。大也、恭介に感謝しろよ。恭介が上手く避けてくれなかったら降着、下手したら長期間の騎乗停止だってあり得たんだ。少しは反省するんだな」


 と、言ったのは恭介の向かいに座っている順平である。

 酒の進みが早く、既にビールを三杯空けていた。

 四杯目のジョッキを手に持ったまま恭介を見据えた。


「恭介。お前、大也が斜行するわけないって思っていたんじゃないのか」


「はい。大也は俺の何倍も上手いですし、癖のある馬に乗っていたわけじゃないですし」


「甘いな。常に斜行の可能性を考えてレースを進めないとダメだ。馬だって生き物だ。いつも鞍上の指示に従うわけじゃないんだからな」


 順平はビールを一口飲んでから、さらに言葉を続ける。


「俺から言わせれば、大也はただのぺいぺいさ。この間のAJCC(一月に中山競馬場で行われるG2のレース)を見たろ。進路取りに気を取られるあまり、後ろの馬に迷惑かけやがって。あんなことやっているようじゃ、ただの半端もんだ」


「ひどいなぁ、順平さん。俺だってちゃんとやっていますよ」


 大也は不満げに口をとがらせる。

 恭介に謝ったときの神妙な態度は消えて、甘えるような口調になった。

 

「どうだかな。大也、もっと腕を磨けよ。ただでさえコネがあるって妬まれているんだからな」


「はーい」


 大也は軽い調子で返事をする。

 それが気になったのか順平はさらに言葉を続けた。


「大也。たしかにお前は結果を出しているが、九割がた周りのスタッフのおかげだ。調子に乗るな」


「そこまで言いますぅ?」


 大也は気楽な口調で言った。


 その声音に呆れたのか、順平はジョッキを持ったまま頭を掻いて顔をしかめた。


「ま、いいさ。次からは気をつけろよ。それと、恭介」


「は、はい」


「おまえ、アンチャン(見習騎手の俗称)のわりには上手く乗れていると思うぜ。もうちょい経験を積めばいい騎手になれる」

 

 順平はそう言うと、ジョッキに口をつけてビールを一口飲んだ。

 

 いきなり褒められ、恭介はどう反応していいかわからずに、ただ順平を見つめるだけだった。


「いや、俺なんて大したことないです。大也の方が何倍も上手いですし、現に勝ちまくっていますから」


「そいつはどうかな? 俺も大也も小さいころから馬に触れてきたし、親のコネもあって騎乗機会に恵まれてきた。けど、その程度のアドバンテージ、あっという間に埋まっちまうもんさ」


「それはどうかなぁ」


 大也は恭介に顔を向け、冗談ぽい笑みを浮かべる。


「なんだよ、大也」


「恭介にはコネがないからな。なんだったら俺の乗り馬を分けてやろうか」


「てめえ、俺の進路を妨害しておいてその言い草はなんだ」


 と言って恭介は、隣の大也に腕を回してヘッドロックをかけた。


「ぐおおぉぉ……、ギブ、ギブ」


 大也がくぐもった声をあげてタップをする。


「お前の助けなんか借りなくても、いつかG1の一つや二つ、勝ってやるよ」


「ははは。恭介、もう勘弁してやれ」


 後輩たちがふざけるのを面白いと思ったらしく、順平が笑い声をあげる。


 それから、他愛のない無駄話をして時間を過ごした。


   ◇


 居酒屋を出ると、順平はもう一軒寄ろうと言った。

 まだ八時前なので飲み足りないらしい。


 河岸を変える道すがら、恭介は順平に言われたことについて考えた。


 順平も大也も競馬関係者の息子で幼いころから馬に接してきた。


 特に大也はかつて天才と称された騎手、田口大輔の息子で競馬関係者のコネもある。


 それに対し、恭介はごく普通の一般家庭出身で、中学を卒業し競馬学校に入ってから初めて馬に触れた。


 順平は大したことがないように言っていたが、実のところ幼いころから馬に触れてきたという経験は、重大な秘訣ではないかという気がしていた。


 かつてある障害騎手が、十二歳ごろから乗馬を始めていないと本能的な技術は身につかず、ある程度年を取ってから習い学ぶのでは充分な騎乗技術を身につけるのは無理だ、と語ったエピソードを聞いた覚えがある。

 これはあくまで障害騎手の技術についてであるが、平地の騎手にも当てはまる気がする。


 小さいころから馬に触れてきた大也には、馬を操る本能的な技術があった。

 コネがあるから良い馬に乗っているというやっかみを受けながらも、恭介の何倍も勝利を重ねているのが何よりの証拠である。

 通算六十一勝で未だに見習騎手の恭介とは違い、大也はすでに見習を卒業し、しかも重賞勝利まである。


 さらに、後輩たちの追い上げも厳しかった。

 その中には将来を嘱望されている騎手も数人いて、中には恭介の勝利数を抜いた者さえいる。

 大也と有望な後輩たち、いずれも競馬学校に入学する前に馬に触れて来た騎手である。


 小さなころから経験を積んできた騎手たちのように、上手く乗れる日が来ないのではないかと半ば絶望的に思ってしまうのだった。


 ――経験も技術も、足りてねえなぁ……。


 と、自嘲の言葉を胸の内に吐いた。

 恭介なりに努力を積み重ねてきたが、足りないものを補えるのだろうか。

 順平は経験を積めばいい騎手に慣れると褒めてくれたものの、説得力が感じられなかった。


「大也ぁ、お前の親父さんなぁ、すごかったんだぞぅ」


 順平の酔った声が、恭介の考えを打ち切った。

 天才騎手の父親と比べられた大也は肩をすくめる。

 

 いつの間にか二人に置かれる形となった恭介は早足で後を追った。


 ――ん?


 二人に追いつき、繁華街の少し奥に入ったところで、恭介は道端に立っている男に目が行った。

 薄暗い街灯の中に浮かぶ男は、ハンチング帽をかぶりボロボロのジャンパーを着ていて右手をポケットに突っ込んでいる。

 日本人とは思えないほどの彫りの深い顔つきだった。

 じっとりとした目つきでこちらを見つめている。


「なんだ? あいつ」


 大也もハンチング帽の男に気づいたらしく、恭介に声を掛けた。


「無視しろ」


 とだけ恭介は言う。


 だが、男は澱みない足取りでこちらに近づいてきて、三人の行く手を遮った。


「見つけた……サヤマ、タグチ、ハタヤマ」


 不意に、三人に声をかけてきた。

 恭介の顔まで知っているあたり、相当コアな競馬ファンのようだった。


 恭介は声の主に顔を向ける。

 茶色の瞳に鈍い光を宿していた。

 この男も酒に酔っているのだろうか。


 恭介は嫌な予感がして、さっと順平の前に立った。


「順平さん、行きましょう」


 恭介は促した。

 こんなのにいちいち構っていたら、身体がいくつあっても足りない。


 三人は酔っ払いを無視して、彼の横を通り過ぎようとした。

 そのときも恭介は男と順平の間を遮るようにして足を運んだ。


「まってくれ」


 男が駆け寄ってきた。

 酔っぱらっているとは思えないほどの素早い足取りだった。


 すると、その男の右手が街灯の灯を受け、きらっと光るのが見えた。


「ヤバい!」


 恭介はとっさに身構え、順平と大也を凶刃から守ろうとした。

 それにもかかわらず、男は身を寄せるようにして恭介に近づいてくる。


「そうか、おまえか」


 男がそう呟いたのが聞こえた。


「なんだ、こいつ」


 男の吐いた言葉の意味を考えために、動きが鈍った。


 男の腕が恭介の身体にぶつかったと同時に、腹に激痛が走り、すっと冷たいものが入ってくる感触があった。


「う、うっ」


 恭介は痛みに耐えながらも、力を振り絞って男を突き飛ばした。


「やはり……」


 男が力ない声で言うと、すぐにその場を去った。


「まて、こいつ!」


 大也が男の後を追うのが目に入った。


 恭介は自分の腹を見た。

 緋色の刀身が腹に食い込んでいる。

 変わったナイフだと思う気持ちも起きなかった。


 周りから耳を裂くような悲鳴が聞こえてくる。


「恭介! おい、恭介!」


 順平の声が遠くなる。

 人々の顔や風景が、(しゃ)がかかったように見えた。

 脚に力が入らなくなり、両膝をつくと、地面に倒れた。

 アスファルトの上に頬がつき、無機質な冷たさを感じた。


 不明瞭な騒ぎ声が耳を打ち続けるうちに、目に映る風景が次第に黒ずむ。


 視界が完全な闇に閉ざされたとき、恭介の身体は何も感じなくなった。


参考文献:『女王陛下の騎手』 ディック・フランシス著 菊池光訳 早川書房

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