婚約破棄令嬢の淡い恋
「婚約を破棄する」
王家の突如として湧いたスキャンダルに会場がざわめく。
王子は蒼白な婚約者を見て、愉悦を顔ににじませながら、自身の婚約者がいかに自分の役に立たない無能なのかを話して聞かせた。
周りに侍る従者や令嬢が、断罪されている渦中の婚約者を、王子と共にさげすみ嘲笑いながら見つめている。
婚約者、アシュリー・オーサーは、王子と婚約して以来、王妃になることが唯一の道と思いたゆまぬ努力を続けていたので、その未来が潰えたことに深く絶望した。
しかし、王子の言う『役に立たない』『無能』という言葉を、アシュリーは否定できない。
アシュリーは血のにじむような努力をしていたが……結果が伴っていなかった。アシュリー自身、自分は役立たずの落ちこぼれだと感じていたのだ。
王妃教育の教師は何人か変わったが、最後の教師も、初めてアシュリーを見た時は、一挙一動を見てため息をついた。
『あなたは何年教育を受けているのですか? この程度のこともできず国民の上に立つおつもりで?』
今だってアシュリーは、言われっぱなしである。
反論をしようにもガタガタ震えるばかりで声が出せない。こうやって不安がすぐ顔に出てしまうことや、ユーモアの1つも切り返せないことを、教師にはいつも叱られていた。
努力が実るというのは本当だろうか。アシュリーは最後の教師の言葉を覚えている。あの教師だけは、厳しくも、アシュリーを見捨てなかった。
『せめて、余裕ある顔で微笑むくらいはしなさい。それができるだけでも人の印象は変わる』
しかし、それすらもできなかった。
注目に、弱いのだ。
人々からの探るような目線に耐えられず、意地悪な物言いに反論できず、人々の目が侮りに変わる姿を見る度、更に萎縮した。
「少しくらい何か言えばどうだ? アシュリー・オーサー」
王子がアシュリーに話を向けた。ここで無言を貫くのはさすがに不敬だ。アシュリーは混乱し震えながら口を動かす。
「もっ、ももも申し訳ありません」
皿を割った女中のような返答に、会場にいたギャラリーまで吹き出し、笑い出した。
アシュリーは結局言われるがまま、婚約破棄となり、実家へと逃げ帰った。
****
アシュリーにとって幸いだったのは、実家の家族達がアシュリーの味方だったことだ。
王子と婚約する前までは、心優しく美しい天使のようだったアシュリーが、今や笑顔の作り方も忘れてしまった様子に、家族はとても心を痛めた。
「おかえりなさい、アシュリー。あなたのつらい境遇に気づかなくてごめんね。もっと早く、あなたを連れ戻していたらよかったのにね」
アシュリーの母は泣きながらそう話して、アシュリーを抱きしめた。父もアシュリーを安心させるように言う。
「婚約破棄を罪に思うことはない。このまま結婚せずずっとここにいればいい」
「ででも、わわわ私のせいでで、かか家名が傷つつついたわ。婚約破棄されたど、どもり令嬢の家って……」
「いいかい、アシュリー……家名はこんなことでは傷つかない。そして、私達の望みは、アシュリーが幸せに暮らせることなんだ。笑顔がなくなるような場所から、離れることができたのだから、これでよかったんだよ」
酷い言葉を浴びせられると思っていたアシュリーは、予想外の温かい言葉の数々に目を見開くと、数年ぶりに張り詰めていた心がゆるんで、その途端、これまで決して流すことのなかった涙が、美しい翡翠色の瞳から次々とこぼれた。
アシュリーは家族とたくさん泣いた。
****
アシュリーがオーサー家に戻ってから幾日か過ぎた頃、ノーム・フォーベスという男が訪ねてきた。アシュリーの最後の教師だった男である。
オーサー家当主は当然追い返した。
アシュリーを傷つけた王宮の人間に敷居をまたがせるつもりはないと。すると、2カ月ほど過ぎてから再びノームは訪れる。
「王宮務めを辞め、平民の学舎で教師となりました。どうか、一目、アシュリー様に会わせてください」
まさか栄誉職を手放すとは。そして、そこまでして家に再び訪れて、告げる望みは『たった一目アシュリーに会うこと』……当主は当惑した。
「……アシュリーは傷ついていて、最近になってようやく笑顔をみせるようになってきたところだ。
2人きりにさせるつもりはない。……アシュリーがフォーベス殿と会うことを了承した場合でも、家族が同席するがそれで構わないか?」
「はい、もちろん構いません。……機会をいただき、ありがとうございます」
そうして当惑した表情で、アシュリーが入室する。
「な、なぜ、辞められたのですか? フォーベス様は、お仕事を全うされていらっしゃいました。
私が……できそこないだっただけです」
そんなアシュリーを見て、ノームは驚いた顔をしている。王宮にいた時のおどおどビクビクしていたアシュリーとあまりにも違い過ぎて。
アシュリーのどもりは、実家に帰って、取り巻く環境が安心できるものに変わったことによって、ずいぶん改善されていた。考える時間があって、伝えたい言葉があって、相手が自分の言葉を待っていてくれるなら、アシュリーは普通に話すことができた。
でも、王宮にいた時は、今すぐ答えろと即断即決を迫られることが多かったから、上手く話すことができなくて、失敗体験を重ねるほどに、アシュリーはなにも言えなくなってしまったのだ。
ノームは、我に返ると、アシュリーにどうしても会って伝えたかったことを、伝えた。口の中が渇いて、第一声はかすれ声になった。
「いえ、私が思い上がっていたのです。これまでの成功例で思考を止めて、誰に対しても一元的なやり方を押し付けていました。……1人1人の性格に合わせて、より効果的なアプローチを考えるといった、初歩的なことに思い至らなかったのです。結果、あなたを酷く傷つけてしまいました。此度のことは、私の力不足によるものです。申し訳ありません」
そう言うとノームは頭を下げた。
アシュリーの努力が実らずに、あんな惨めな婚約破棄になってしまったのは、自分の力不足のせいだと、ずっと思い悩んでいたのだ。
でもそんなノームを見てアシュリーは考える。
押し付けていた? 酷く傷つけた? ノームが?
……はたしてそうだっただろうか。アシュリーはこれまでの教師達を思い浮かべる。
ヒステリックに怒鳴り散らす教師がいた。
難癖をつけては腕に鞭打つ教師がいた。
『なぜこの私ができそこないの担当なんだ』と憎しみの目で見つめる教師もいたし、『教えても無駄なやつはただ座っていろ』と、アシュリーを椅子に縛り付けてなにもさせなかった教師がいた。
でも、ノームは……どうだっただろうか。
ノームが来た頃のアシュリーは、もう、すっかり心を閉ざしていた。
でも、彼だけだ。ノームだけが言ってくれた言葉がある。
「……顔を上げてください、フォーベス様。あなたが言ってくれた言葉で私、とても救われた言葉があります。『あなたの努力が見える。いつか実る。でも言葉が出ない時は、せめて、余裕ある顔で微笑むくらいはしなさい。それができるだけでも人の印象は変わる』……一字一句覚えています……とても嬉しかったから」
ノームが顔を上げると、アシュリーは微笑んだ。
王宮にいた頃には決して見ることのなかった天使のような微笑みだった。
ノームが見とれていることに気づかぬまま、アシュリーは続ける。
「あの頃は、微笑むことができなくなっていたけれど……それでも嬉しかったです。私にできそうなことの中から、状況を変える手段を考えてくれていました。……王宮暮らしをしていた日々の中で、私を私として見ていてくれたのは、フォーベス様だけでした。だから、なにも気にやむことは、ありません。あなたは素敵な教師でした」
「……あなたが、今、笑顔でよかった。幸せそうでよかった。笑顔のあなたにお会いできてよかった。あなたの幸せを、心から願っています」
ノームはそう言うと微笑んで、アシュリーに付き添う家族にも、会わせてくれたお礼を言って帰っていった。
そして、それ以来、ノームがオーサー家の敷居をまたぐことは2度となかった。
****
「アシュリーお嬢様! ノーム様の学校を見つけましたよ!」
侍女の言葉に、アシュリーは読んでいた本を落としてしまって、本に変な折り目がついた。
「どこにいるの?」
「ここからそう遠くない平民の学舎です。今から馬車を飛ばせば、授業が終わる頃に着きますよ」
「……ついてきてくれる?」
アシュリーの珍しいお願いを、侍女は笑顔で了承した。
ノームがアシュリーへの後悔を絶ちきり忘れる為に、家に訪れた最後の日に、よりによってアシュリーは……ノームに恋をした。
まさか、恋をするなんて、アシュリーは夢にも思わなかった。だけど夢に出てくるのだ。ノームとの思い出にすがるのだ。今だって、もう不用な王妃教育の本を開いていて、ノームが線を引いた箇所を指でなぞっていた。
幸い、アシュリーの両親はもう、政略結婚を望まなかった。
そしてもし、最終的に傷つく恋だとしても……アシュリーの心が望むのなら、心のままに動くことを止めるつもりもなかった。
アシュリーは馬車に乗り、ノームのことを想う。
最後に会った日のノームの気持ちが、今ならわかる気がした。会えないまま、ずっと過去を思いすがり生きていくくらいなら、当たって砕けて前に進もう。そう思えた。
こんなに前向きな気持ちになれたことも、アシュリーは不思議だった。
『あなたの幸せを心から願っています』
きっとこの言葉のせいだ。ノームのつむいだ魔法の言葉が、アシュリーの心をとても前向きなものにした。
栄誉職を辞めてまで、伝えてくれた素敵な言葉。
アシュリーも同じように、心を伝えたい。
自分に自信はない。たぶんフラれると思う。
でも、それで傷ついても構わない。
****
「アシュリーお嬢様! 今ですよ今!」
「え、え、で、ででででも勇気が……!」
「あ、あ、あ、校内に入っちゃいます!」
学校に着いたものの、木の影に隠れて見つめるしかできないアシュリーと侍女である。
しかし、ノームから必死に隠れていても帰宅する少年少女には丸見えな感じなので「ねえねえなにしてるの?」「かくれんぼ?」と子ども心をものすごく刺激しているのだ。
「え、な、なんでちびっこに囲まれてるの!?」
「ひえーん、わかりません!」
「アシュリー様……そこでなにをしているんですか?」
そうしてノームにばれたのだった。
アシュリーはあわあわして、想いを伝えるなんて大層なことはもちろんできず、ノームに勧められるがままにお茶を飲み、授業の教材作りを少し手伝って帰った。
****
ちなみにアシュリーがいなくなってからの王宮は、少しずつ悪いほうへと転がっていった。
王子にはわからない。なぜこんなに王宮が暗く沈んでいるのかが。自分は正しいことをしているはずだ。王子は側近に聞いた。
「不出来な人間を淘汰して、優秀な人材を引き入れているのに、なぜこうも停滞している? なぜこうも次々と、不出来な人間が現れる?」
「……不出来な人間も、より不出来な人間がいる頃はまともに見えていたのでしょう。人間を優秀に見える順に並べて下のものを切ったところで、次はその1つ上にいるものが目につくのです。
新しい人間も育っておりません……今いるもの達が育てずに、次に淘汰させる生け贄にしているのです」
「なら一新させようか。今いるものを全て切れ」
「……従えません。私が辞めさせていただきます」
「そうか、残念だ」
そうしてまた1人、王子に進言するものが消えた。
徐々に孤立していく王子は、今しがた辞めた側近の言葉を反芻する。
「より不出来な人間か……アシュリーがいた頃は、アシュリー1人をみなで嘲笑うことで、王宮は成り立っていた。ふむ……」
嘲笑い貶められ、それでも逃げることなく、ひたむきに無駄な努力を続けていた愚かな女。彼女は実は有用なのか?
****
「アシュリーお嬢様! 大変です!」
「あら、どうしたの?」
放課後、アシュリーがいつものように学舎に通い、翌日の教材作りを手伝っていると、商人に偽装した侍従が血相を変えて駆け込んだ。
そうして息を切らしながら青い顔をしている侍従に、ノームが温かいお茶を入れる。
アシュリーは、侍従が「旦那様からの言付けです」と渡してきた手紙を読み震えた。その並々ならぬ様子にノームが声をかける。
「アシュリー様……手紙にはなんと?」
「……家に帰るなと。王子が、私を探しています。お、王宮につっ連れ、ももも戻したたい、そ、そそうです」
そうして震えながらノームを見る。
「で、ででででもわ私、行き場所がありません。実家以外に、居場所がありません。お王宮に、も、戻るしか、な、ないっ」
すると、ノームがアシュリーの震える冷たい手を握った。不安に瞳を揺らすアシュリーに、真剣な目で伝える。
「それなら、私の家に。……このまま、侍女と侍従の方も一緒に。王子があなたを諦めるまで。……王宮で、私はあなたを守れませんでした。どうか今一度、守る機会を私にください」
アシュリーは、ノームからの思わぬ提案に驚きながら……その真摯な目を見つめ返してうなずいた。
****
そうして着いたノームの家は、平民の学舎の教師としては不釣り合いな大きさだった。
「いずれ引っ越すつもりでしたが……後回しにしていてよかったです。侍女達の給金もしばらくなら支払えます」
「ありがとうございます。給金は、実家が落ち着いたらお返しします。しばらくは、立て替えていただくしかありませんが……」
「元々、独り身で使う宛のなかったものです。お気になさらず。……異性には言いづらいものもあるでしょう。侍女にいくらかお渡ししたので、必要なものは全て侍女を通して買ってください」
申し訳なくひたすら恐縮するアシュリーに、ノームは安心させるように微笑んで、家の中を案内した。部屋数は多いが、王宮勤めを辞めた際に使用人に暇を出したそうだ。ノームは現在一人で住んでいる。
王子が自分を探していると知って、絶望に落ちたアシュリーだったが……なぜか好きな人と一つ屋根の下で暮らすことになって目を白黒させている。
侍女と侍従はすっかり隠遁生活に前向きだ。2人は馬車を瞬く間に処分すると、髪の毛をざっくりと切った。そして侍女は別人メイクをして、侍従はつけひげをつけた。
「ええ! すごい! こんな別人になれるの?」
「はい。アシュリー様もやってみます?」
「うん、やって。髪の毛切って」
「切るのはダメです!」
なぜか侍女と侍従とノームの3人の声がハモった。
そこまで反対されて尚切りたいわけでもなかったので、アシュリーは理解できないながらもまあいいかと、髪を結ってメイクしてもらうに留めた。
****
「なぜ女1人見つけることができない? 王宮の探索力はこの程度しかないのか?」
「申し訳ありません。……馬車を見つけましたが、複数の人間を仲介して売られておりました。屋敷に戻った様子も、連絡を取っている様子もありません」
王子はイライラと歯噛みする。
あれほどに愚鈍な女に遅れを取るのはなぜだ?
自分の周りに今いる人間達はより愚かなのだろうか。それとも……これらの人間は、自分を馬鹿にしていて力をわざと抜いているのか?
オーサー家の力が弱ければ、強く出ることもできたが、今の力関係でそれはできない。オーサー家に『知らぬ存ぜぬ』と言われたら王子と言えども引き下がるより他なく、それも王子の苛立ちの原因になっていた。
なにか、オーサー家を失墜させる火種があれば。
王子は自身を真に想う人間が、もう身近にいないことを心の底で感じている。そして、そうした薄暗い感覚が、より王子の心を残忍にした。
自分は王子だ。たとえ憎まれていても、力で無理やりねじ伏せて、従わせることはできる。
「そうだな……ごろつきを雇い、オーサー家に火を放て。くれぐれも、身元を伏せ、ばれないようにしろ」
王子の側仕えが、その言葉に耳を疑ったが、王子は周りの人間の感情に無関心だ。火を放ち財産を全て無くした後のオーサー家を想像してほくそ笑む。
そうして何もかもをなくしたところで手を差し伸べるのはどうだろう? アシュリーを王宮に連れてくれば、今後の生活を保障すると言ってやろう。
****
アシュリーは、名前を少しもじって『シェリー』と呼んでもらうようにした。別人メイクも相まって、全く違う別の人間に生まれ変わった気分だ。
そしてノームが、また、素敵な魔法の言葉を言ってくれた。
「あなたは『シェリー』に生まれ変わった。見た目だけではなく、心も。これからは、なりたい自分になってください」
なりたい自分。なりたい自分。
誰の為でもない……私が、なりたい私。
「私、普通の人になりたいです。だから、様づけを止めてくれますか?……実は呼び捨てに憧れてます」
そう言って『ノーム』『シェリー』と呼び合うようになった日には、ノームが学校に行った後で、枕に顔を埋めてキャーキャー言いながらベッドをころころ転がった。
その他にもアシュリーは……家の掃除をしたり、洗濯をしたり……侍女や侍従に教えてもらいながら、家事をしてノームを待つようになった。
ちなみに、洗濯についてはノームとそれはそれは長い話し合いをした。ノームが、自分の下着だけはがんとして自分でやると譲らなかったので、それは任せることにした。
「ただいま、シェリー」
「おかえりなさい……ノーム」
まるで夫婦のようなやりとりをして微笑み合う。
実際は、手を握ることすら、あの日以来、全くない清らかすぎる2人だけれど。
それでもアシュリーは、とても幸せだった。
世間の動向を探っていた侍従が、オーサー家が燃えて、家族が使用人ごと丸々失踪したことを伝えるまでは。
****
「お父様、お母様……なんで……?」
なんでこんなにつらいことばかり起きるのだろう。
どうして、静かに幸せに暮らすということが、こんなにも難しいのだろう。
アシュリーは何度もお願いして、オーサー家に連れて行ってもらった。完全に燃やし尽くされた屋敷を見に、大勢の野次馬が集まっている。
「この家は災難続きだな。例のどもり令嬢の家だろ? 婚約破棄の」
「あー、あの令嬢の家ここなんだ」
「全員失踪? 事件かなにか?」
「見られては困るものでもあって自分達で火をつけたんじゃないか?」
なにも知らない人達に、なんでそんな侮辱を受けなければいけないの?
アシュリーは家族へ侮辱を向けられたことで、自身に向けられていた時にはもう感じることのなくなっていたはずの、痺れるような怒りを感じた。
でも、怒ることに不慣れなアシュリーは、発散方法がわからなくて、震えることしかできなかった。
暴れる心を紛らわす為に、手を、爪が食い込むほど強く握りしめた。
「……シェリー。君は、シェリーだ」
「ノーム……」
ノームがアシュリーを抱きしめて言う。野次馬の姿が見えなくなって、アシュリーはノームの優しさと温かさを感じ、涙をこぼした。
「帰ろう。ここにいても仕方ない」
「……はい」
しかし、アシュリーがノームから体を離したタイミングで、無機質な声が聞こえた。
「失礼ですがご婦人、顔を拝見させてください」
その声の主は、アシュリーが返事をする前に、アシュリーの肩をぶしつけにつかんで無理やり振り向かせた。
王子の侍従だ。アシュリーは驚き見つめたが、ノームがじろりと見やるやいなや、侍従はすぐに非礼を詫びた。
「……申し訳ありません。同じ髪色の人物を探していたもので」
「それでも、突然女性の肩をつかむものではない」
「ええ、おっしゃる通りです」
「おや? 君は確か、アシュリーの教師じゃないか。そちらの女性は君のフィアンセか?」
ああ、もっと早く帰っていればよかった。
いや、そもそも来るべきではなかった。
なぜこの人がこんなところに?
色んな思いがアシュリーの心に渦巻いた。
王子が、アシュリーの顔を見つめ、これまで幾度となくアシュリーを追い詰めた目を向けている。
****
「……ええ、私の自慢ですよ」
「そうか、羨ましいな。私は知っての通り、今相手がいなくてね。……名前は?」
「シェリーです」
「君には聞いていない。ご婦人、ぜひあなたの口からお聞かせ願いたい」
王子の狙いはすぐにわかった。
今のアシュリーの顔はメイクで別人になっている。
でも、どもればすぐばれる。
「お答えいただけないのですか? 答えたくなければ『嫌だ』の一言でも構いませんよ?」
王子が嘲笑っている。
ついに見つけたと、目が言っている。
アシュリーは、焦って答えようとして……思い止まった。そして、他の方法で一拍分の時間を稼ぐ。
アシュリーは王子を見つめて、優雅に微笑んだ。
すると王子が驚いた顔をする。
そして、王子の驚いた顔を見たことによって、アシュリーの緊張も適度に抜けた。今なら、慎重に話せば大丈夫な気がして口を開いた。
「シェリーと申します。これでよろしくて?」
「ああ……どうやら本当に人違いだったようだ。失礼した」
アシュリーは愛を知り、苦手を克服した。
そしてここから、運命も好転する。
****
王子は、王宮に戻ってすぐに、これまでと異なる空気を肌で感じた。
どこかよそよそしく、中には蔑む目を向けるものもいる。
不敬を働いたものの顔はひとまず覚えておく。
だが、断罪より先に、この違和感の原因を突き止めておく必要があると感じた。
そして、血眼になって探しても見つからなかった1人を見つける。王子は外交的な笑みを張り付けて話しかけた。
「おや、これはこれは、オーサー殿。そして父上も久方ぶりです。まだ、ご帰還は先かと思っていましたが……いかがなさったのですか?」
「なに、我が国が心配でな。家臣達がはるばると私のところに来てくれたよ。実に国のことを考えてくれている、よき臣下達だ」
王は蔑むような目で、王子を見つめている。
王子は、離れた家臣が多すぎて、王に告げ口をしたものが誰なのか見当もつかなかった。
だが、慌てて否定する。
「父上はなにか勘違いをされておられます。私は誠心誠意、父上のいない間、公務を努めて参りました」
「ふん。その口の回りようはさすが我が息子だ……だが詰めが甘い。愚息よ。お前は敵を作り過ぎた。そして、ついには犯罪行為までも犯した。お前は幽閉する。那由多の時を悔いて生きよ」
****
「お父様、お母様! みんなも! どうして?」
アシュリーは、ノームの屋敷に集まった家族を見るなり涙を流した。
笑って泣いて、抱きついて喜ぶ。
「非常に難しい局面があって、連絡が取れずすまなかった。でも、全て解決だ。もう、逃げ隠れしなくていい」
「いいえ、あなた。住む場所の問題があるわ」
アシュリーの母がそう言うと、ノームをちらちらお茶目に見やる。だが、財産はまるっと無事なようだ。
買収されたごろつきを買収して口を割り、自分達で屋敷に火をつけたらしい。
ノームが笑う。
「実は私はしがない教師でして。この邸宅の維持費が持ちません。近場でもう少し小さな家に引っ越したいと考えています。なので、この家を買っていただけませんか?」
「なんと、そうきたか!」
「どうしましょうあなた」
「え、お父様とお母様はどうしようと思ったの?」
アシュリーは展開についていけない。
アシュリーの父が言い淀みながら質問してきた。
「えーと、2人はその……男女の仲にはなったのかね?」
「は!? は!? ななななにを言ってるのお父様!? は!? 全然ちちち違います!」
「お2人は端から見てもずいぶんジレジレと清い関係でございましたー」
アシュリーの語彙力低下っぷりを見て、侍女がかわりにそんなことを言った。
「そうかー、よし! じゃあこの屋敷は買おう! ノーム君、君にもぜひこのまま住んでほしいんだが、どうかね?」
「ええと、では……少しお待ちいただけますか?」
「ああ、いいとも」
「ええ、ごゆっくり。ほらほらアシュリーも行きなさい」
「え? え?」
アシュリーはわけがわからなかったが……ノームが手を差し出してくるので繋いで歩く。
そうして、2人きりになってから、とても素敵なことがおこった。
アシュリーは、これまでのつらかったたくさんのことが全て帳消しになるほどの幸せを感じて……そして、アシュリー自身が、以前ノームに言おう言おうとしていたことがあったことを思い出す。
アシュリーは、とても幸せな気持ちで、温かい想いで、ノームにようやく心を告げた。