第二十九話『魔気』
魔界の空気は何処か、澄んでいた。想像とは違う、感覚に些かの戸惑いを感じるもそれはすぐに気にならなくなった。
私の遊撃隊としての任務が始まったのだ。
私が任せられたのは周囲の警戒だ。それを行うため、出発こそ、同タイミングでも、魔界領域へと入ったあとは生徒や教師陣とは離れることになる。
この遠征の概要はまず、誰よりも先に魔界へと赴いたメルクリウスが周辺の魔物を殲滅。これを生徒の一団が通過する地点ごとに行い、その討ち漏らしを私や教師陣がカバーするというのが主な内容だ。そのため、私に求められるのは魔物の早期発見及び討伐にある。
これが作戦通りに行けば、生徒は魔物の姿を一度も見ることなく、聖域へと帰還できる。ただし、さしものメルクリウスとはいえ、身体は一つしかない。広範囲に及ぶ遠征予定地で完璧に対処することは不可能に近い。
最前線で魔物をすべて相手にするメルクリウスの負担は想像だにできない。それでも魔界に入って半刻。隊を離れてから十分が経過しても、特に異常と呼べる事態は起こっていなかった。
軍馬が逞しい脚で地を駆ける。それこそ、魔術師の肉体強化魔法に勝るとも劣らない速度で走り続けることが可能だ。
無論、身体能力は他の馬とは比べるくも無い。しかしながら、この馬も理の中に生きる生物。異常なまでの能力の秘密は全身を包む、馬鎧にある。
この馬鎧は多数の機能を有する魔導具であり、その高度を保ったまま軽量化され、更には肉体強化魔法と同等の効果を馬へと与えている。元より、人間よりも馬の身体は走ることに特化している。これがもしも、馬自身が魔力を扱うだけの知能があったならば、単純な速さ比べにおいて人間に馬を超える速度は出せないだろう。或いは騎乗者が常に馬へと肉体強化魔法を掛けたならば、同様のことが言える。
しかしながら、人間にとって馬の筋繊維一つ一つを意識しながら騎乗することは至難の業だ。超級の魔術師の中にはそれを可能とするものもいるらしいが少なくとも私にはできない。
それでも十分過ぎる速度を持ってして、颯爽と魔界の大地を踏みしめ、走る軍馬。軍馬にしては珍しく、雌馬であるという彼女にしがみつきながら、遠方の隅々まで目を凝らす。
私が駆る軍馬は若く白い体毛をした雌馬で、初めて乗せる私を嫌がらず、素直に従ってくれる良い子だった。それどころか、馬術に関してなんとか次第点といったところの私をサポートするような動きを見せ、試しに任せてみれば、完璧な走行を見せてくれた。名前をヘレナと言う彼女の賢さには舌を巻く。そのおかげで私は無用な注意を向けることなく、周囲の警戒に専念できるのだから、ヘレナ様々だ。
私の魔法で強化した視力が十分に捉えられる範囲は、最大でも半径500m程だ。
それを速歩にして、時速30kmのヘレナに騎乗することで毎秒約8m、一分間では更に500m程度、つまり半径1km範囲の索敵が分換算では可能となる。
並の馬の速歩であれば、時速13km程度で一時間走り続けられる。しかし、このヘレナは時速30kmをキープし続けながら、三時間走ることが可能だ。その後は常歩で緩やかにスピードを抑えながら十分程度、休ませればまた速歩での走行が可能となる。
魔導具の補助があるとはいえ、生物として破格の身体能力を持つことはまず間違いない。
軍属魔術師の間では未熟な魔術師同様、本能的に馬が自ら、魔力を用いて身体の強化を施しているのではないかと、専らの噂である。
生物の本能というのは侮れないものだ。魔術師としての訓練を始めた最初の頃、師には「頭で考えるな。反射で動けるようになれ」と口を酸っぱくして言われたのを思い出す。
今になって、師の言葉がこう何度も頭に浮かぶのは自身が危機感を持っているからなんだろう。
メルクリウス曰く、聖域の中と外とではまるっきり次元が違うという。空気中の魔力はより濃密かつ大量。故に魔法も強大なものとなる反面、暴走しやすくなる。ここに技量が必要となり、裏を返せばその技術がないならば、宝の持ち腐れといえる。それどころか、魔術師がそうであるように魔物も魔界では活性化するため、そのステージに立てないことは死を意味するそうだ。
本音を言えば、こんな場所に一人でいることが恐ろしい。魔物の姿を見て冷静でいられるのかすら、分からないのだ。
だなんて、そんなことを思っていた折、ヘレナが速度を落とし始める。敏い馬だ。私が遠く前方へと視線を向け、そこに真っ黒な獣を見つけた瞬間のことだった。
私用にとメルクリウスが用意してくれた、将来の愛馬となろうこのヘレナはなんともまぁ、優れた馬であるらしい。私の僅かな強張りから異常を見抜いてみせた。
私はヘレナの手綱を取ると緩やかに速度を落としながら、横合いへと回り込むよう指示を出す。即座にそれを実行へと移す彼女の背で私は瞼を閉じ、集中を高めた。
「"セーブするな。一気に斃してしまえ"。この空間は私の味方だ」
出発前、メルクリウスにもらった助言を呟きながら、私は閉じていた目を開く。魔物との距離は300m前後。標的は一見して大きな黒犬のような姿をしている。しかし、目は左右二つの計四つ。脚は六本と禍々しい。その姿から、恐らくはグルニコス種と思われた。
ヘレナに完全静止の命令を出して、私は呼吸を整えた。
右手を突き出し、掌の先ををグルニコスへと向ける。魔力を右手の掌へと集中、普段の倍々で魔法の威力をイメージする。
そして、魔法が完成し、魔物へと放つその瞬間。
グルニコスの真っ黒な瞳が、四つ同時にこちらへと向いた。
その瞳を向けられた時、確かに私は恐怖で固まった筈だった。ただ、既に脳が送り出した信号までは遮断されることがなかった。仮にグルニコスが私に気付くのが数瞬早ければ。私は敵を前にして、何も出来なくなっていただろう。
「《雷撃》」
小さく漏れた声が魔法のトリガーを引く。私の掌から真っ直ぐに飛んでいった一筋の雷。それがグルニコスの頭を貫く。いや、それは正しい表現とは言えなかった。正しくは消し飛ばした、だった。
200m程度、離れた位置にいたグルニコスが倒れる。その頭部が丸々、スプーンで抉られたかのように消えていた。
魔界では魔術師の力は底上げされる。メルクリウスから説明されていた通りの事象だった。
これなら戦える。これならば、立ち向かえる。
私の中の冷静でいる部分がそう結論付ける一方。つい今し方、恐怖に駆られ、動きを止めた私の感情的な部分が今すぐにでも逃げ出したいと叫び出す。
あの四つの黒い瞳と目があったとき、私は死を覚悟した。脳髄に恐怖が染み渡り、機能不全を起こしていた。
それでも倒したんだ。
頭の大部分を失い、横たわるグルニコスが起き上がる気配はない。その事実が辛うじて、私を正気にさせていた。
しかし、問題はその後だ。メルクリウスやクロス教官からは魔物の死骸は魔界における装備品として優秀だと言われている。
『魔物を倒したなら、その死骸から皮を、爪を、牙を、或いは角を剥いでおけ。即席でも十分通用するから』と。
魔物の死骸は高い魔力伝導率を誇る。魔物はその体質故に強力無比を誇り、魔法でなくては殺せない。それは死後も同様である。
今は《想庫》に格納している例の黒剣がそうであるように、魔物から作った武器や防具は進化する。使用者の魔力を浴び、敵対者の命を啜ることで成長する。世間一般には魔導具の一種として、対魔物兵器とだけ銘打たれるそれら。
学生街を襲った魔物たちの襲撃。メルクリウスがその脅威より市民を守った例の一件の後、彼から直接聞いた話だった。
ただ、そんな話を聞いたとしてそれを実行に移せるかどうかは別だ。死骸に近づくことさえ、強い拒否感がある。況んや、触れることをや、だ。
既に加工されたものを持つことと、自身で手ずから仕留め、身に付けることとでは感じる忌避感に大きな差がある。それは言うなれば、屠殺場を見て回ったあとに食べる肉とそれ以前に食べる肉とぐらいの埋めがたい差だ。
結局、私はそこに五分程度居座った後、グルニコスの死骸を燃やし尽くす。
「ハイッ!」
ヘレナに合図を出して、警備へと戻るのだった。
遠目から視認、魔法による遠方攻撃による討伐。こんな軽い接敵が数度、繰り返された頃、ある違和感を覚える。
──接敵の頻度が増えている?
最初の接敵から既に二時間。三十分に一体というペースだったものが今は十分に一体だ。
単純計算にして三倍。如何にメルクリウスの殲滅範囲が時間経過とともに広がっているとはいえ、彼に限ってこんなことがあり得るだろうか。
今もまた、100m前方に魔物を発見する。ヘレナは最早、指示を出さずとも私が魔物を見つけた際の自分自身の行動を心得ていた。
静止したヘレナに跨りながら、これで九度目となる魔物の討伐を行う。使うのは変わらず、《雷撃》だ。但し、徐々に威力を上げる調整を重ねている。
その《雷撃》大地を抉りながら魔物へと直撃し、土埃を上げる。これもメルクリウスに言われたことを守った結果だ。
『魔界ではセーブされていた魔術師としての力が解放される。しかし、それは同時に"魔に呑まれやすくなる"ということだ。そうならない為にも力は少しずつ、出していけ』
今では魔物を初撃で消し去るだけの威力が出せていた。跡形もなくなるから後始末もせずに済み、楽だ。加えて、運も良かった。残っているのは弱い魔物ばかりなのだ。ともすれば、メルクリウスは私たちでは対処の難しい魔物を優先して倒しているのもしれなかった。
それならば、魔物の数が増えている理由にも納得がいく。ありがたい事だが、未だに魔物を見ると怖気で震えが止まらなくなる私としてはどちらにしても同じことだった。魔物の強さなんてものは関係ない。魔物というだけで私の心と身体は否応なく、恐れ慄くのだから。
「でも、頑張らなきゃ」
スーフィアたちの安全は私たちの働きに掛かっている。私が見過ごした一匹に遠征隊が半壊、なんてこともあり得るのだ。
あまりにもメルクリウスと私の実力がかけ離れているから、最近はずっと守られてばかりだ。けれども本来、私は守られる側にいるべき人間じゃない。
ヘレナのは今の速度を三時間維持出来る。しかし、その後三十分間の休憩を挟まなければならない。それを考えるなら実質的な活動限界はそろそろといったところだ。
「完全に休ませてあげることはできないけど……」
私はヘレナから下りると彼女の横で引き手を持ち、歩き始め──ようとして躓きかける。
理由は明白だ。ヘレナがその場から動いてくれないのだ。まさか、休憩を求めて駄々をこねているわけでもあるまい。
「ヘレナ、お願いだから動いて。隊の動きについて行けなくなる。そしたらスーフィアたちが──」
──危ない。そう言おうとした。しかし、その言葉はより大きな音にかき消されてしまった。
「シャァアアアアアアァァァ!!!」
慌てて振り返る。反射的に前方へと障壁を張るが力負けしていることは明らかだった。ヘレナの手綱を離し、彼女に逃げるよう発破をかける。賢い彼女はその意図をすぐに察し、魔物の攻撃範囲外へと一目散に駆け出した。
そのことに安堵するも束の間、私は障壁ごと吹っ飛ばされた。
「ぐっ……」
──視えなかった。
振り返る前に張った障壁は機能しても、振り返った瞬間には攻撃が振るわれていた。爪か、突進か、相手の攻撃が分からない。それは私の目が襲撃者の動きを捉えられていないということ。
ここに来てはじめて、私は本物の恐怖を覚えた。死、だ。今、死が濃密な影を私に落としていた。
吹き飛ばされ、距離が空いたことで私を襲った魔物の全容が見えた。
姿は蛇に似ている。ただし、そのサイズは私の知る蛇と比べれば、規格外と言っていい。更には角と翼が生え、禍々しい瘴気を放っているとくれば、ただの蛇とは見間違えようもない。
──落ち着け。さっきは油断しただけだ。最初から視界に入っていさえすれば、対処は容易。
そう思って、出方を窺うも相手は動かない。
ウワバミ種特有の、あの舌をチョロチョロと出す動きを見せるだけだ。
その間に先の攻撃により、罅の入った腕と肋骨を治す。
相手も一発で仕留めきれなかった私という存在について今度こそ、殺し切るという目的の下、情報を集めているのだろう。その時間を私が無為に過ごせば、情報の差は開くばかり。
私には蛇型生物に代表されるピット器官やヤコブソン器官のような生体情報を集める器官なんてものはない。メルクリウスは私の魔眼を流動を視るものといったが、今日までの私にそこまでの能力を身につける余裕はなかった。
故に私は知識で勝負する。
蛇のピット器官。あれは赤外線センサーとなっている。目さえ潰せば、コイツはそれに頼らざるを得ない。そして、魔法によってこの辺りの温度を高めてしまえば、相手は真に盲目となる。魔物の魔力感知も魔法で生み出した炎で囲んでしまえば、形無しだ。
作戦は決まった。あとはいつ仕掛けるか、だが……ウワバミ型の魔物としては最もオーソドックスなタイプである、バジリスク。
《雷撃》で討伐できなかったということはそれ以上の威力を誇る魔法でなければ、無意味だということ。通じるとすれば、《雷撃滅》並の魔法。しかし、この魔物相手に詠唱する隙を与えてはもらえないだろう。
やるしかない。今日初めての試みではあるが魔物を相手取って、近接戦で目潰しを決めるしかない。
「《二連雷撃》」
愛用の短剣を取り出し、両手の中、くるりと回す。バジリスクはその動きを敵対行動と捉えたのだろう。実際、それは間違っていない。大口を開けたバジリスクの目をめがけ、極小範囲に絞った《雷撃》を二つの刃先より発射する。
ただ、それは瞬膜に防がれる。その間に雷を纏った私は、バジリスクの顎下まで距離を詰める。
『ウワバミ型は総じて、ゴムのような弾性の皮膚を持ち、場合によっては魔法すら弾く。撃ち込むなら鋭さを持った、穿くものがいいだろう』
「《雷震》」
『ルミア。君は本当に意地っ張りというか、素直に従うことを嫌う。ただそれでセンスのいいところが師としては憎らしいところではあるんだが』
バジリスクの腹に当てた短剣より流し込む電流は通常、生物にとっての致死量に値する。
触れることさえできれば、一撃必死の攻撃。この魔法は内臓に直接作用するため、表皮の硬さに左右されない。魔物にも十分、通用する筈だ。
思惑通り、バジリスクの動きが止まる。ただ、これは布石。急いては事を仕損じる。その結果、招かれるのは友人たちさえをも巻き込んだ大惨事だ。絶対に失敗は許されない。
痺れているバジリスクの目に短剣を射出。
「ギィヤァァァアアアア!!!」
姦しい女の叫び声のようだった。痛々しいその声が響き渡り、短剣がバジリスクの眼窩を穿いた。
その一瞬の隙を突き、後ろへと飛びながら指弾を打ち鳴らす。それを合図とし、発動されるは《炎陥》。
その効果といえば、単純なもの。対象を炎の檻に閉じ込める。魔物を焼き尽くすだけの温度には程遠いが、物理的な目潰しに加えて感覚を壊すには十分だ。
場を支配する魔力濃度は魔界そのものがそもそも高い。そこへ魔法の連発だ。次の詠唱でこの空間における魔力濃度は飽和するだろう。これで決めなければ。
「《天の咆哮は音を隠し、その一撃を隠し、世に紛れし残滓を喰らい続けるが故、咎人を穿くまで止まらぬ:雷撃滅》」
起こすは雷蛇。ゆらりと鎌首を擡げ、射殺さんとす雷の化身。避雷針は既に敵の頭の中。
顎門を開いた雷蛇は周りにあった炎を吸い込んだ。そして──
「──喰らえ」
私の命令と共に雷蛇がバジリスクに喰らい付く。けたたましい雷鳴とバジリスクの奇声が混ざり合って、辺り一帯を包むが、しかし。それも長くは続かない。
バチバチッと音を残して雷蛇が消えたとき、ポツンと私の得物である二本の短剣のみがただあとに残るだけだった。
「ふーっ……」
満点とは言い辛い戦いだった。あと一歩遅ければ、初撃で命を落としていたかもしれない。それを考えると背筋に冷たいものが上る。
肉体的にも痛めつけられたが、それ以上に理性で抑えつけていた恐怖心が一気に戻ってきたことが疲れを倍増させる原因だった。そして、守りきったという安堵もそうだ。
あと一時間足らずで往復地点に入る。そうすれば……。
甘い現実を夢想する。だからだろうか。だから罰が当たったんだろうか。
短剣を回収し、ヘレナを呼び戻そうと安全圏へと逃げていた彼女の方を振り返る。そうすれば当然、今まで駆けてきた大地が見える訳だ。私達の行軍は大規模なもので、守護門から見て、私が任された荒野地帯が右、正面から左にかけては森林地帯が広がっている。
最初は何かが空を飛んでいるだけなんだと。鳥か何かだろう、と。
視界の端に捉えたものに、惚けた妄想が頭を掛け巡った。
嘘だ。そんな筈はない。信じ難い気持ちで私は現実に目を向ける。
その目に映ったのは無数に上がる、フレアガンが空に咲かせた花火だった。
お墓参りの車中、書いたものにございます。作者は書きたいところがやっと書けるとノリノリです。
昨日、投稿したつもりが投稿画面のまま、ほっぽりだしていたようで。昨日の時点で23時頃に間に合うよう書けたのに!となんだか悔しい想いをしました。




