第六話『伝える言葉』
思い出すのはあの日の事だった。
どうしたってメルクリウスは私にとって恩人なのだ。彼がなんと言ってもその事実は消えてなくなる訳じゃない。例え、それがもし偽りのものだったとしても。
私は今でもメルクリウスに助けられているじゃないか。
私は溢れ落ちる雫を乱暴に袖で拭い、目を覚まさないメルクリウスの隣に立った。
「メルクリウス、ごめんなさい」
意識がないのは目に見えて分かる。彼に私の言葉が聞こえようはずもない。それでも、私はその言葉を吐かなければならないと思った。
そうでなければ、私の行動はとても許されるようなものではないだろうから。
名も知らない誰かが死ぬのはいい。その誰かとの間に共有する過去は一つとしてないから。日常の片隅にその誰かが居ることはないから。
冷たい、と罵りたければ言わせておけばいいのだ。所詮は人間、そんなもんなのだから。
心の内に入れられる人間とそうでない人間とを明確に定めなければ、この世界を到底、生きていく事なんてできない。
残酷だろうとなんだろうとそうであらねば、そうでなくては……。
「そうじゃないといけないの」
私は部屋の出口へと向かう。もう一度だけ、今もまだ血を流し続けるメルクリウスの方を振り返る。その痛ましい姿に目を覆いたくなる気持ちを堪え、私は後ろ髪を引くそれを振り払って駆け出した。
早鐘を打つ心臓に、私は思わず、それが収まる胸を押さえる。服を鷲掴んだままに整備された街道の上を魔法まで使って駆け抜けた。そうすれば、ものの数秒で城かと見紛うほどの巨大な建造物、その門にまでたどり着く。
寮室を出た私が向かっていたのは、何を隠そう、学院長の下だった。
メルクリウスの正体を知っていて、尚且つ私が居場所を知っている人物ともなれば、あの偉大な魔術師以外には、思い付かなかったのだ。
頼みを聞いてもらえるかどうかは分からない。しかし、何も分かっちゃいない無知な私なりにもただ一つ分かりきっていることがある。
(メルクリウスはこれからを生きるべき人間だ)
私なんかよりも、誰よりも。
全人類の半数と彼を天秤にかけたとして、それでも彼に傾いてしまうくらいには、きっと。
彼はそれだけの事をしてきたに違いないのだから。それを人々は知らないのだから。
それぐらいは受けて然るべき、だなんて。そんな自分勝手な考えを持っている私は。
まだまだ子供なのだろう。
学院に辿り着いた私は一直線に学院長室へと向かった。
普段であれば学院長に会うなど、今朝のような事があって、その上、当事者がメルクリウスやアリシアのような人物でなくては早々あることではない。
職員室に向かい、担任に申し出て、更にそこから学年主任へ話が通り、統括へと繋いでもらってその統括によって初めて、学院長に対して話がなされる。そこで学院長が了承するか否かはその申し出た人物と事の重大さによるが、それこそ学院長の采配次第といった所だ。しかしながら、そのような正規の手順を踏んでいる時間が私には、いや。メルクリウスにはないのだ。
瞑目した後、私は扉を手の甲で叩く。
室内から落ち着いた女性の声が聞こえ、それだけで安心してしまう私は馬鹿みたいだ。
「何用でしょうか、ルミアさん?」
「ふ、副学院長様。少し込み入った話が……」
扉を開ける前に、訪問者の名を言い当てるは"白燐"ルーメニア・ガルロニア副学院長。彼女もまた卓越した魔術師の一人である。それは一見して威圧にも聞こえる児戯の中に彼女の実力、その一端を垣間見ることが出来る。
その索敵能力の高さに一人、慄きながら私は暗にルーメニア副学院長に入室の許可を申し出る。すると、中から魔力の高まりを感じ、次いで扉が開け放たれ、私は中に入った。
そこにはほんの数時間前に訪れたときと同じようにして、豪華な装飾の施されたソファが置かれていた。
して、"黒葬"レイデン・ガルロニア学院長が今朝と同じ長く黒い髪をした若い男の姿で首を回し、気怠そうにして、そこに座っているのもまた、同じであった。
「それで?」
姿形は人のそれであるにも関わらず、レイデン学院長は縦に割れた瞳孔を向け、私に問いかける。
その問いに対し、私は出来得る限り、感情を殺して事実のみを報告した。
余計な私情を挟まず、自らの意図を含まず、適切な声量と早さで。それこそがより効率的で正確な報告の仕方である、と培った経験から導き出された私の答えだったのだ。
その事後報告に含まれるのは今朝のことから先の事まで。それら全てを一息に話し、私は一番に伝えたいことを口にする。
「……寮に帰るとメルクリウスが倒れていました。多量の出血を確認し、現在も意識不明のままであり、私の回復魔法では何の効果もありませんでした。その為――」
「――それで打つ手もなくなり、俺様の所へ来た、と。なるほど。確かに由々しき事態であるようだ。なんせ、英雄さまが死にかけているのだから、な。
フッ、笑わせてくれる。俺様が何故、あのような小僧を助けねばならぬのだ。学院内で起きた事ならば、いざ知れず、学院外で、しかも小僧が勝手にした事まで俺様が面倒を見る義理などあるまいに。そもそも俺様はあのような犬畜生は好かん。否、心もないあの小僧は犬未満よ。力だけを振るう哀れな存在よな。その力に心の枷もない暴力の化身であることに気づかぬとは」
今もまだ、寮には出血したままのメルクリウスがいて。彼の身体からは既に三分の一程もの血が流れていて。私が見つけたときですらそうだったのだ。今ならば半分程度の血液が損なわれているだろう。
そうだというのに目の前で余裕気に寛ぐ魔術師はそれを人ではないのだ、という。
人ではないから捨て置け、とそう言うのだ。
困惑する私に彼は尚も言い募った。
「小娘、それでもあれを生かすと言うのか?アレはそれ程までにお主にとって大切か?」
早くしなければならないのに。
こんな時に何を言えばいいのかが分からない。
どうすれば上手く伝わるのか。
私はメルクリウスのなんであるつもりなんだ。
次第に心の声は私を呑み込まんばかりに大きくなっていく。
落ち着け。私は誰で何をしているんだ。
私は軍属魔術師で、メルクリウス・レイフォントの警護任務を請け負い、そして、その彼を助けるために行動してるんだろ。
目を閉じ、息を吸い、深く息を吐き、また目を開ける。たったそれだけの事なのだけれども随分と頭は冴え渡り、手足の震えもまた止まった。
酷い勘違いをしていた。助けを乞えば、助けてもらえるだなんてそんな甘い理想がない事なんて、知っていた筈ではないか。
いや、違う。私は助けられてしまったから。他ならぬ、私が今まさに助けたいと思う彼に。
「私は。私は……メルクリウスに助けられました。だから、彼を助けたい。彼が人であれるように。彼の力になりたい」
懇願。まさにその言葉が今の私には相応しい。
醜く、力ある誰かを頼るより他ない私は。なんの為に力を身に着けたのか。
ふと、笑みが溢れた。
「あれを好くか、小娘。お主も物好きな奴であるな。しかし、小娘。お主のそれは無機物への愛と同じよ。あの小僧は知らぬ存ぜぬとお主の心を踏み躙るであろうな。
聞かせてやってもいい。あの小僧がある戦場で起こした事件を。その場にいた生けとし者全てを震え上がらせた狂気の魔法を。さすればお主が今、ここであの小僧を見捨てる事になんの躊躇いもなくなるであろう」
「違いますよ、学院長様。メルクリウスは人間です。誰よりも強く、誰よりも儚い人間なんです。それを否定するのならば、たとえ学院長様であろうとも許す事はできません。
私は全力を賭して、それを証明します。
レイデン・ガルロニア学院長。
私は貴方に魔術決闘を申し出ます。そして、もし私が貴方に一掠りでも魔法を当てられたなら、メルクリウスを助けて下さい。そうであれば、私は死んでも構いません」
気味の悪い静寂が訪れる。
不思議と焦りはなかった。勝てる筋道など微塵も浮かばないというのに私は歓喜にも似た感情を抱いていた。
そして、次いで訪れた音は高らかな笑い声だった。
「よい、よい。そんなことをせずともよいのだ。
俺様は、小僧に忠告したのだぞ。くれぐれも人である事を見失うな、と。その忠告を無視したのはあの小僧よ。お主ではない」
「えっ……?」
「本当ですよ、ルミアさん。救世の英雄様は今朝の時点でアリシア・カルネシアがどのような状況にあるかを既にほとんど見抜いておりました。しかし、確証が無い為に私達が動くのはまだ早い、と仰られておりまして。だというのに自ら動かれたというのは完全に衝動を抑えきれぬ幼子同然。レイデンの怒りも最もなものです。少し、意地悪が過ぎましたが、それは後々に」
私が困惑に打ちひしがれる中、レイデン学院長は気を取り直すように一つ咳払いをし、頷き、話を続けた。
「ま、まぁ、そういう事だ。俺様も人よ。怒りが湧くこともある。少々、言葉が過ぎたがな」
「"少々"ではありません」
「……その、なんだ。時間があまりない。このまま、空間転移を行う。少し、頭の中を寄越せ」
割って入るルーメニア副学院長の茶々を躱しながら、レイデン学院長が奇妙な言葉を私に向かって投げた。
「あ、頭ですか?」
「そう、頭だ」
そう言って扉の前に立っていたままの私はルーメニア副学院長に背中を押されるがまま、レイデン学院長の前に立たされる。
すくっと立ったレイデン学院長は長身で私の頭に学院長の手が置かれるのに何ら不都合はなかった。
そして始まるのは魔法詠唱。聞いたことのない魔法言語の羅列に無意識に読み取ろうとした脳が処理しきれずに熱を持ち、溶けてしまいそうな感覚に襲われる。
これだから、魔法は。魔術師ってやつは。
そうは思っても瞬時に目に差した光の眩しさに、思わず目を閉じ、そうして開けた視界に映る光景に唖然とするがままに思考を放棄してしまったのだ。それ以上に頭に浮かんでくる言葉はなかった。
それに文句を言う暇もなく、学院長と副学院長の両名をメルクリウスが横になる寝室へと連れて行く。
「ふむ、大方、小僧は被害の一番出ない方法を選んだのであろうな。あれはそこにあるだけで空間を歪める類の言うなれば怪獣であるのでな。当初、小僧は十分に対処可能であると判断したが、何らかの歪みが発生し、計画の変更をせざるを得なくなったのであろうな。此奴は理性ばかりしか、働かせることが出来ておらぬゆえ、理論的に可能であるならば実行に移すであろうからな。
まぁ、なんとなくではあるが小僧の現状は分かった。取り敢えず、残った血を元に戻し、出血さえ抑えてしまえばあとは此奴が自力でなんとかするであろう。それにかけるしかあるまいよ」
言って、レイデン学院長はルーメニア副学院長に頷きかける。
彼女はそれに応え、幾重もの魔法陣が嵌る指を振るった。すると床や寝具、服に染みていたものに至るまで、すべてのメルクリウスの血が彼の体に吸い取られるように消えていく。まるで時間を巻き戻したかのような光景に私の魔術師としての心が感動を覚える。
次にルーメニア副学院長は、私がいくら頑張ったって、止まる気配すら見えなかったメルクリウスの出血を彼の体に手を翳しただけで抑えてみせる。
冷や汗が背を伝い、これ程の魔術師に啖呵を切ったのか、と今更のように思う。
勇気というものは中々、持続しないものなのだと痛感しながら、メルクリウスの目覚めを私達は待った。




