第一話『務め』
荒野にたった一人、金の髪をした少年が立っていた。
十にも満たぬような子どもだ。そんな子どもが一人で何をしているのか。一体、何があったのか。
そんな何一つとして分からぬ状況の中で、ただ一つ分かりきっていることがあった。少年が佇む荒野は、それがそうであったことさえ、分からぬほどにありとあらゆる魔物で埋め尽くされていたのだ。
大瀑布の激流を越えて、魔物が聖域ルナベリオン西部のメルトン平野に溢れだした件の一件。後に『魔流事件』と呼ばれるこの人類の存続に関わるような危機が訪れたのはつい、七年前のことだった。表向きは軍部の虎の子とされる対魔物特殊戦闘重装甲兵器『アルマ・ラグナ』による実戦投入という名目で行われた駆逐作戦により、鎮圧された件の一件。人々はその報せをなんの疑いもなく、信じた。実際にその『アルマ・ラグナ』なる兵器を見たものは誰一人としていなかったが、魔物の殲滅が確認されたことに加え、大規模な破壊痕の残ったメルトン平野の惨状を見れば、その存在へと確信を抱くのには十分足り得たのだ。十五年前のあの事件を彷彿とさせた魔流事件は西方領土の一端を呑み込んだに留まった。
二つの町が消えた。多くの人々の命の灯火が消えた。ただ、事の重大性を鑑みれば幸いとも呼べる結果だったのは紛れもない事実だ。一つ間違えればこの聖域は最早、人々の安息の地ではなくなっていたことだろう。
嗚呼。しかし、私は知っているのだ。
あの日、あの平野に一人の少年が居たことを。あの少年を私は救えなかった。救ってやることができたはずなのに。それを私は生涯にわたって悔やむだろう。あれは私の一生の罪なのだと、そう心に刻んだ。
聖域ルナベリオンは人類にとって至上最高の要塞であり、最後の生活圏だ。
巨大な《天の柱》と呼ばれるどこから流れてきているのかもわからない程に遥か上空より流れる大瀑布とその《天の柱》が落ちる先にある《大地の顎》と呼ばれる深さもどのようにして出来たのかも全くの未知である超規模の穴がある。それらがここ、聖域ルナベリオンとそう呼ばれる土地を囲うようにして存在する。
《天の柱》には東西南北、四つの水壁がない部分があり、その部分には《大地の顎》も続いていない。そのことから《天の柱》により大地が穿たれ、《大地の顎》が出来たとする説が最も有力であるが、そうなると《天の柱》とは一体何なのかという疑問が今度は浮上する。結局の所、それを解明しないかぎり、この人類圏の謎は明らかになることはないだろう。
そんな、未知たる聖域ルナベリオンがなければ人類はとうの昔に滅びていた。この天然の要塞ともいえる聖域があってこそ、人々は平和を享受出来ている。聖域ルナベリオン外は魔界と呼称され、その呼び名に違わず、魔物が魍魎跋扈しているのだから、そんな魔界に戦闘経験もないような一般市民が一日でも生きられたのならばそれは奇跡と言える。
聖域ルナベリオンが如何に人類にとっての安息の地であることか。
話を戻そう。そんな聖域ルナベリオン外、魔界にメルクリウス・レイフォントはいた。正確にはその一歩手前、聖域ルナベリオンの四つある空白地点のうちの一つ。そこにメルクリウスは一人、立っていたのだ。当然、そこには魔物の侵入を防ぐため、超巨大な人工物が聳え立っている。最早、近くで見れば、門とは思えない程の大きさを誇る最北の守護門、《レイセ=アイゼン》。またの名を北壁という。
メルクリウスは仕事の都合上、より効率的かつ端的に表せる、北壁という名称を好いていた。もとより、あらゆるものに対する興味が薄いきらいがありはしたが、なかでもこれを含めた四つの守護門と呼ばれる馬鹿でかい門に名前をつける理由もないと、断じていた。
ただ、そんなメルクリウスの心情はともかくとして、この土地に住まう住民たちにすればこの《レイセ=アイゼン》こそ、自分たちを守る防壁である。五百年もの間、一度も魔物の侵入を許していないこの守護門が神格化されるのも必然だった。
そうして出来たのがレイセ教だった。
そんな成り立ちを持つ故に敬虔なレイセ教信者には聞かせられないような別称を使う、メルクリウスではあるが何もこの門を馬鹿にしているわけではない。寧ろ、背を預けられる仲間のようなものとして認識していた。作戦時には必ず、守護門へと退避するまでの撤退戦が含まれる。それ故に兵役につく兵士達にとって自分達を暖かく迎え入れる守護門は恋人にも勝るほどの安心感を与える存在なのだ。
ただ、メルクリウスにとってはその守護門でさえも信頼未満の何かを抱くに留まるというだけの事。それはひとえにメルクリウスの心がある一定以上に揺れ動くことが無い故であり、それはこの場では関係のない話だ。
閑話休題。
メルクリウスは最北の守護門の上でその、真っ黒なコートをはためかせ、魔界を見下ろす。かと思えば、おもむろに瞼を閉じた。
「《索敵:俯瞰》」
赤と青の瞳を閉じたメルクリウスはそう静かに口にする。ともすれば彼より前方へと広がる魔力の波動。その波動は決して目に見えるようなたぐいのものではない。しかし、それを受けたありとあらゆる生物は身震いする。自らの心臓を無遠慮に愛撫されるかのような悍ましさから恐怖に心が打ち震えるのだ。
多くの魔術師がこの初歩的な索敵式魔法を用いるがここまで濃密かつ、生理的嫌悪を抱かせる索敵式魔法を放つ使い手はメルクリウス以外にいないだろう。その魔力の波動を直に浴びた低位の魔物になど生理的硬直さえ生む、付随効果がある。それはもはや、索敵ではなく、恐怖の伝播に近かった。そして、その索敵式魔法によりメルクリウスは上空より魔力の目を通して、周囲一帯の状況を確認する。まだ、魔物の動きが鈍い早朝だが、されど早朝である。そこが魔界である以上、常にありとあらゆる人間は慎重に動かなければならない。それはいかに《最強》と呼ばれ、魔法の扱いに誰よりも長けていようと変わる事はない。
訪問者たる心意気を忘れないこと。
それが魔界において人間が最も長く生きられる術だ。
メルクリウスは周囲に大きな危険が潜んでいないことを確認すると守護門の上から飛び降りた。なんてことはない。只、数百メートル下の地面めがけ、頭から真っ逆さまに落ちていく。それだけの事だ。不意に自由落下するメルクリウスの軌道が逸れ、壁とは垂直方向に吹き飛ぶ。当然、それはメルクリウスの魔法によるものだが、そう言うに等しい速度で全く以てして重力を感じさせないメルクリウスのその動作は否応なく、世界の法則を嘲笑うかのようであった。
そして、数刻。
遂にその推進力を失ったメルクリウスが弧を描きながら緩やかに落下していく。ズドンと大質量の乗った轟音が響く。と同時にグシャリと肉の潰れる音。メルクリウスは緩衝材代わりに踏んづけた魔物が足元で絶命した事を確認し、魔物の遺骸から足を踏み出す。
「対特殊魔物部隊、殲滅任務を開始します」
メルクリウスは何もない虚空へと向かい、話しかける。当然、そこから何かが返ってくることはない。しかし、メルクリウスは何事も無かったかのように周囲にいる内、特に近い魔物の一匹へと魔法による狙撃を行いながら、尚も報告を続ける。
「ラルトニア種の変異個体の生命活動の停止を確認。引き続き、残数、十。変異種殲滅作業を続行します」
そう言うメルクリウスの表情は真剣そのもの。この任務が最後だと浮かれる事はない。メルクリウスにとっても聖域外部で任務を遂行し、生き残る事は簡単ではない。自らの最後の務めを果たそうと、そう意気込むように見える彼はその顔に一切の感情をのせずして、次の目標へと駆け出した。
この狭い聖域の中、人々は身を寄せ合い、ただ魔物に怯えるばかり。しかし、そんな人々の中にも、治安保全を主な業務とするイーラを始めとした軍部が五つも存在する。軍部が五つも出来た要因は様々であるが、大きな要因は二つ。
一つ、行動指針の対立。即ち最終目標地点が各軍部によって違うのだ。先に紹介したイーラは聖域内部の治安維持を目的とする以上、領土拡大を目的とするラオニアとは全く、反りが合わなかった。
二つ、権力の拡散。これは軍部より上位に位置する聖域内の行政を担う治世権総会の指示。先に提示した一つ目の要因よりも五つの軍部が出来た原因となっているのはむしろ、これだろう。
とまれ、理由は数あれど聖域内部には五つの軍部があり、それらがそれぞれ別々の仕事を担っている。そして、それらを統括し、聖域内を治めるのが治世権総会。この仕組みは魔物が世界を覆い尽くした、五百年前まであったとされる国家機構を模して作られた。即ち、この聖域は擬似的な国家であると言え、その結束力はいがみ合っていた当時の国々を遥かに凌駕していることだろう。まさにその歴史は魔物という人類の大敵が人類の数を遥かに上回った事で、人類滅亡の危機という抽象性のある言葉が具体的な形を伴った事こそが人類の団結を促した事を物語っている。しかしながら、現在に至るまで民衆の反乱がなかったかといえばそんな事はない。当然だ。聖域は確かに人々に檻の中にいるような閉塞感を持たせる事がない程に広い。しかし、それがなんだというのか。人が二人もいれば争いなど簡単に起きる。
残念な事に人類は過去、三度に及んで聖域内で戦争を起こした。死者こそ、殆ど出なかったとはいえ、土地にこそ、戦争の爪痕は残る。最南の守護門《ロスマルク=レンギヌス》の有様はその代表例だ。余談だが、現在は最南の守護門は、南方領土の拡大に成功したその時よりその役割を半永久的に停止した為に改修作業は全く持って行われていない。
これにみるのが人類の過ちだ。
人類は確かに魔物に対して屈することなく、何度も立ち上がる。けれどもその後はどうか。作り上げた仕組みに満足し、守護門というただそこにあるだけの壁に人類の全てを預け、その守護門ですら南方領土の拡大成功と共に放棄する。人類は備える事を知らない。何か一つに預けてしまう事のその脆さを知らない。
彼の存在はそれを具現化したかのようでもあった。
《最強》と言えば確かに聞こえはいい。しかし、彼は文字通り一人だ。何もかもの頂点に立って、たった一人で見る景色とは一体どんなものなのだろうか。
彼が居るのは決して人々の上なんかじゃない。彼はただ一人で人類を支えているのだ。
英雄だ、救世主だ、と持て囃される彼にかくいう私もまた、助けてもらった事がある。一度だけ、命を救われたことがある。
当時の彼は私とほとんど歳の変わらないような少年だった。今にして思えば彼のあの仮面の下には途方もない疲れが刻まれていたように思う。でもその時の私はあまりに幼く、あまりに弱かった。結局、彼を頼らなければならなかった。
死を覚悟する間もなく、生まれ育った孤児院が魔物で埋め尽くされる。
まず最初に私達を守ろうとしたシスターが魔物に喰われた。次に孤児院の中で一番の年長者で姉代わりだったアルナが腕を食い千切られた。そして、痛みに叫ぶ間もなく、首を斬られたその次は妹みたいに私を慕ってくれていたマーナが丸ごと、飲み込まれた。次はタルク、シェット、ルーク、ノマ……。
私の頭は五感に関する機能を殆ど無意識に停止させていたのだと思う。聞こえるはずの叫び声は聞こえず、死臭もまたすることは無かった。耳鳴りがしていた。視界がぼやけていた。何故なのか。どうしてこんなことになっているのか。どうすればいいのか。八歳の私には何も分からなかった。
阿鼻叫喚の最中、私も魔物に食べられてしまうのだと幼いながらにそう思った矢先、閃光が走る。巨大な魔物が吹っ飛び、瞬く間に孤児院に大挙していた魔物が消し飛んでいく。気付けば眼前にいたのは黒い少年だった。黒服に身を包み、狐のような面をかぶった少年がそこにはいて、私はその少年の登場に呆気にとられていた。彼が口を開き、何かを言って。それから泣きじゃくる私を横抱きに、彼は比喩でも何でもなく、空を飛んだ。
それはまさしく、魔法で。当時の私は落ちない様に必死で彼に掴まっていた。
彼はその間、なにも話す事はなかった。彼が私を見ないのいいことに、私は彼が飛び続けている間、その仮面がつけられた横顔をぼぅと眺める。そして、軍の野営地に私と彼は降り立ち、彼が横抱きにした私を引き渡して、そうして最後に彼が狐の仮面を少し持ち上げ、口元を見せながら何かを言った。すると急激な眠気に襲われ、私は彼の凛々しいその口元を脳裏に焼き付け、意識を失う。
たったほんの少しの時間だった。絶望の中で彼に魔物から救われ、野営地まで連れて行かれる間。時間にしてみれば三時間程度のものなのに、その記憶は強烈に刻まれている。そして今や、その記憶は私が生きていく事を決意した日の記憶だ。
あの日保護された私は、兵士となった。
元々、孤児だった私にはそれ以外に道がなかったのもそうだが、一番の理由はあの日見た彼の姿に感化されたことだったのだろうと思う。それに加え、私には魔術師としての才能があった。それを告げられた幼い私にとって、まさに天啓だった。ただの女の子として暮らす事は出来なかった。あの恐怖は私の中に大きなしこりを残して、最早消えてくれることはないのだから。
すべてが私に兵士となれ、と言っているかのようだった。そして私もその運命を受け入れた。
たったそれだけの事だ。
ほんの少しだけ人よりも不幸だった私は、万人の幸せのために兵士になった。皮肉な話だけどそんな話は多分、何処にだって存在する。
ありふれた不幸で溢れているこの世界はされど不変のものとして存在し続ける。 その大きな流れを止める術を一介の魔術師でしかない私は持たない。
だから、この世の全ては必然だ。選択の余地すら与えられていない。与える慈悲を持ち合わせてはいない。
最北の地における魔物の活性化。それに伴った討伐遠征へ志願するもその願いは聞き入れられなかった。代わりに与えられたのは学院の一生徒を警護する長期間任務。何も不満がある訳ではない。これは我儘だという自覚もある。しかし、どうしても会いたかったのだ。件の討伐作戦に《最強》の称号を冠する彼が居ないはずがなかった。一度でいい。彼に会ってあの時のお礼がしたかった。
それだけを目的に今まで生きてきたと言っても過言ではない。だというのにそんな細やかな願いすら叶う事はない。分かってはいても苛立ちを覚える。そんなことが許される程に自分に自由がある訳ではないことも知っている。それでも尚、この燻った気持ちを抑えることが出来ずにいる。
それはきっと私が我儘だからなんだ。
第一章までは毎日12時と18時、2話ずつの連載になります。よろしくお願いします。