第三話『赤々と』
私はメルクリウスが入っていった学院長室の扉を穴が開くほど見つめる。軍属魔術師である私ですら気圧される程の目に見えない圧力が、その扉の向こうから漂ってきて、いよいよどうにかしなければとそう思い、扉を手の甲で叩こうとした私は狙いを外した。
それもその筈で、今はもう内開きの扉が開かれているのに、閉まっていた時の扉の位置に合わせて、私はノックをしようとしていたのだ。
開かれた部屋の扉の奥からメルクリウスが顔を出した。
「ルミア、入れ」
手招きしながらとはいえ、有無を言わせぬ強い口調に私は体の芯が真っ直ぐに伸びるのを感じた。
キビキビとぎこちない歩みで学院長室へと入れば、そこで魔力の高まりが起こったことの証左たる、魔力残滓が影のようにして中空に浮かんでいるのを見る。
何が起こったのかを想像する間もなく、ソファに座った純白のブローチを首に掛けた男の人が私へとその切れ長な黒瞳を私に向けた。
それが名乗りの合図であると察し、私は敬礼の姿勢をとる。
「特別高度技術枠魔術師育成学科生一年、ルミア・ラルカです。《黒葬》レイデン・ガルロニア学院長はどちらにいらっしゃいますでしょうか……?」
私は高らかに名乗りあげ、ソファに座った男性に学院長の所在を問うた。
学院長本人であらずとも、ここにいる以上は秘書か何かだろう事は分かる。であらば、敬意を払うべき相手なのは自明の理だろう。
しかし、私のその問いに対して、黒髪を長く伸ばしたその男性は片眉を上げるだけ。
その反応を不思議に思い、訝しんでいると呆れがちにメルクリウスが私に近寄ってきて耳打ちした。
「ルミア、馬鹿な事をする余裕があるならしっかりと事のあらましを説明してくれ」
「えっ……でもレイデン学院長がいないのに始めてもいいの?」
囁き返した私に、メルクリウスは今度こそため息を付いた。おい、感情なんてないんじゃなかったのか。それとも、あれか。私を苛立たせる為にわざとやっているのか。
メルクリウスが感情を表に出すのは相手に意図を伝えたい時だ。それを考えれば自ずと答えは出る。
つまり、メルクリウスは今私の苛立ちを煽っているのだ。
私が何かメルクリウスに言い返す前に言葉が投げ掛けられた。
「俺様がレイデン・ガルロニアだが?」
「えっ……?」
肩まで伸ばした長い黒髪に紅い瞳をした男性が、ソファに座ったままの体勢で重く低い声を発した。あまりの驚きに私はついつい、声を洩らしてしまう。
レイデン学院長はドラゴンではなかっただろうか。
《黒葬》並びに《白憐》の称号授与式は百五十年以上も前に行われたもので、生憎と軍部の所蔵資料にも残されていなかったから、当時の事は分からない。しかし、それはそれとして、レイデン学院長とルメーニア副学院長が『魔憑き』であるのは有名な話だ。
魔憑き――即ち、後天的にその姿を魔物にも似た怪物へと変貌させた人々のことだ。この魔憑きだが、今生存しているのはこのお二方以外にはいない。高名な魔術師として名を馳せた二人は百五十年前、突然にこの奇病を患い、体を龍と化させた……とそう言われている。
ここで間違いのないように言っておくが、魔憑きは人間が理性を残したまま身体を変形させたものであって、魔物の定義にある『意思疎通不可能かつ人類種に対し、脅威足り得る存在であること』というものに当てはまっていないことが重要だ。つまり、魔憑きはあくまでも、この狭い世界の中では奇病に罹ってしまった人間である、とそういう事である。
何はともあれ、魔憑きといえど治療不可能な病気とされていることに変わりはなく、外観が人間に戻るようなことはない。
だからこそ、この現状に疑問を抱かずにはいられない。
「どういうことでしょうか……?」
私如きが知識外の事を考えても碌な事が浮かばないのは目に見えている。ならば、その疑問を直接にぶつけてしまった方が迅速に事を運べるだろう。
「ふむ。なる程な。この人族の娘は俺様が魔憑きである、とそう信じている類のものか」
顎に手を置いて、一つ唸ったレイデン学院長はまぁ、よかろうとそんな言葉を漏らして、私にとんでもないことを語り出した。
「俺様達は魔憑き、などという真っ赤な嘘で塗り固められた存在ではない。
それは軍部が度重なる軍事実験の事実をひた隠すために作った偽りの伝承よ。
俺様はその実験――魔人化実験と呼ばれる悪魔の所業の被害者だ。本来は俺様も人の子よ。人族の娘。貴様と同じでな。生まれは人だろうと、永く龍の姿で過ごした俺様にとって、この身体は今では最早、本来の姿であるとは言い難いがな」
私はとんでもないことを聞いてしまったのではないか。そう思うと冷や汗が止まらなくなった。それを共感しようと、メルクリウスを探すも、彼は我関せず焉として、私の傍からいつの間にか離れ、レイデン学院長の対面に座っていた。
しかも、優雅に紅茶まで飲んでいるのだから大した胆力……いや、緊張という概念も理由も彼にはないのか。
メルクリウスのことはさておき、私はどう返したものかと考えあぐね、出てきた言葉はこんなものだった。
「それでは、私が軍属魔術師であるという事を知れば、今すぐにでも学院を追い出したいでありましょうか……?」
声が震える。もし、この場において魔術師ランク三十位に君臨する《黒葬》レイデン・ガルロニア学院長が私を消し炭に変えようと思えば、そうできるのだ。それだけの力量差があるのだ。それを理解しているがゆえ。
「ルミア・ラルカさんと申しましたか。幾らレイデンが、そして、私が…軍部を恨んでいようとそんなことは致しません。私はそれを許しませんし、それはレイデンが一番、嫌うことです。
その事は何より、貴女が心酔されている救世の英雄様がここにおられる事実が証明されているでしょう?」
部屋の一角から凛々しい声が聞こえた。
白の長髪に赤目。顔は美しく整っていて、女の私すら見惚れる程。レイデン・ガルロニア学院長が二十代前半程度のインテリ系の美青年にしか、見えない事実にも驚いたがその女性は透明感のある美少女というに相応しい。しかも、それは外見だけに留まらず、今の今まで、美しい外見を持っていながら存在感の一つも出さずにこの部屋にいた事こそが驚愕に値する。
そんな彼女の言葉より察するに。
「あっ、私の名はルメーニア・ガルロニア。
レイデン学院長以下、副学院長の地位につかせて頂いております」
慈悲深き白の竜、《白憐》ルメーニア・ガルロニア。
《黒葬》と対を為す魔術師であり、その伴侶。そんな《黒葬》に並ぶ魔術師がそこにはいた。
「メニア、小僧の話は極力しないようにしてほしいと言うのがギルドの馬鹿者の頼みだろう」
「はっ……!そ、それは大変な事を……。も、申し訳ありません、英雄殿」
呆れた様子の学院長に、慌てる副学院長。
その姿だけを見て、彼らが絶世の美男美女である事を除いてしまえば、どこにでもいる熟年夫婦のそれだ。決して、絶大な力を有する魔術師同士の掛け合いには見えない。
「いえ、ルミアには全部とはいきませんが、大方のことは話してあります。ルミアの人柄は信頼に足るものだという私の判断からそうしました。ですのでお二人方が気に揉む必要はありません」
「ふん。俺様は元よりそんな事は一寸たりとも気にかけていないが不和が起こるのは困る。ルミア・ラルカといったか、小娘。
俺様達のことを無闇に口外することは禁ずる。俺様は正当ではあっても優しさを持ち合わせているわけではないのでな。もし、これを破ればどうなる
かは分かっているだろうな」
「は、はい……」
そんな事を言われてしまえば、私には了解の返事を返すしか道はない。
しかし、そうして忠告するだけでも十分にレイデン学院長が良く出来た人物である事が分かる。優しさであるとか、そういうものでは測れない類のものだ。それを私のちっぽけな知識の中では正義という。
私如き魔術師を天上より見下ろせるだけの力を持った三人を前にして、私が語るべきこと。それはなんなのか…。答えはすぐに私の目前に突き付けられた。
「でしたら、早い話。彼が想像するに難しいアリシア・カルネシア嬢の事情をお聞きしたく、貴女をお呼びしましたの」
それは暗にメルクリウスに感情がないことを知っているという事だ。メルクリウスは誓約がどうといっていたがこの前のジェルジェンドさんもまた、知っていた事を考えるとある程度の地位にある人にとっては周知の事実なのかも知れない。
―――魔術師の頂点たる男に心などないという事は。
それは……一体どれだけの不満や不安の種をその事実を知る人達の心に植え付けるだろうか。
力ある魔術師達に常に疑いの目と期待を向けられる中、過ごすメルクリウスは何を考えていたのだろうか。或いは今、この瞬間にも何を考えているのだろうか。
とはいえ。私からアリシアについて話せることなんて殆ど無い。寧ろ、少し前までアリシアが十五大貴族の家系であることすら知らなかったのだ。入学に際して、個人の情報提示を求めている学院側より尚、情報を持っているだなんてことが親しくもない私にあり得るだろうか。あるわけが無い。しかし、そんな私でも事実の中から推測し、アリシアの行動がどういったものであったのかを読み解く事はできる。
「これは、あくまでも私個人の意見ですがよろしいでしょうか」
「構わん。少なくとも俺様の目の前に座っている小僧の、ただ事実だけを陳列した報告を今求めているのではないのでな」
顎でメルクリウスを指し示し、レイデン学院長が吐き捨てるように言う。当の本人は申し訳なさそうに頭を垂れるが、それもまた、心から反省している訳じゃない。こう言ってはなんだが、彼に反省という言葉は似合わない。彼は自身を蔑ろにしている。そんな彼が出来るのは改善することだけだ。
ああ、なんでこうもメルクリウスの事ばかりが頭から離れないのか。今はそんな事を考えている時じゃない。
「アリシアは気分を害しているように見えました。私達を、正確にはメルクリウスを待ち構え、学院から出ていくように言い放っていたことから、恐らくはメルクリウスについて何らかの情報を得たのだと思われます。その情報がアリシアにとって都合の悪いものであったのかも知れません」
「ふむ、なるほど。軍属魔術師というだけはある。推測については些か情報が欠如し過ぎていて、なんとも言えんが報告は出来るようだな。少なくともそこの小僧よりは」
メルクリウスは何か、学院長に嫌われるような事をしたのだろうか。十中八九したのだろうが思いつく限り、私との模擬試合の際の事件、若しくは私が入室する前に何かが起こったと考えるのが妥当だろう。
メルクリウスはやはり、背筋をピンと伸ばし、美しい所作で紅茶を飲んでいるが、しかし。
「では、私達はこれで。授業に戻らなければなりませんので」
紅茶を飲み干し、コトリと机にカップを置いて立ち上がった。
確かに報告は終わったし、私達は被害者だが、揉め事を起こしたのだ。なんのお咎めもなしでいいのだろうか。
そう思ってルメーニア副学院長の方を見るもドキリとするような微笑みを浮かべられただけでそれ以上はなんの反応も示さず、メルクリウスはメルクリウスでさも当然とばかりに扉の前に立っていた副学院長の横を通って、部屋から出ていこうとする。
最後に私は学院長の方を見るが、学院長は私に目線の一つも寄越さず、何やら考え込んでいる様子だった。
これはいよいよ、私が空気を読めていないだけなのだと気付かされ、慌ててメルクリウスの背を追う。
メルクリウスの後を追って学院長室から出ると途端に身体の力が抜けるような気がして、身体がフラつく。とはいえ、今の私は魔力欠乏の影響もなく、万全の状態だ。そのまま倒れるようなことはない。
軍部の訓練で鍛えられた三半規管は未だ、健在だ。ここ数日が濃密すぎて忘れがちだが、私は本職たる聖域内の治安維持、主に魔術師同士の諍いであるとか魔法の悪用を取り締まっていた関係上、それなりに同じ人間相手であればそれなりに出来る方である筈なのだ。聖域外、魔界で活動する兵士の多くが功績を讃えられる前に死んでいく。それは世の不条理なんかではなく、摂理だ。
魔界で死んでいった魔術師の中にはきっと私なんかより力ある魔術師がいただろう。
だから、私の魔術師ランクが幾らそれなりに高いものであっても決してそれが全て実力だとは思っていない。だとしてもだ。それにしたって、最近の私は自分より強い人にばかり会っている気がする。
学院では安全に考慮しているとはいえ、対魔物の実践訓練を行っているという。故にそれらを経験した上級生、とりわけ一人前の魔術師に近づきつつある特高学科の五年生とは五分五分といった所かも知れないが、それ以外の学生(メルクリウスといった巫山戯た存在を抜けば)にならば、当然負ける筈がない。
今回、メルクリウスを庇ってアリシアの魔法の余波を受けた訳だが、それにしたってなまった体と臨戦状態になかったからで一対一での正当なものであれば、完膚なきまでに倒すことが出来るだろう。
ただ、こんなものは私のちっぽけな自尊心を満たすための言い訳だ。知っている。
私はまだまだ子供なのだ。それを痛感する。
教室に戻るまでの道すがら、メルクリウスが唐突に言葉を発した。
「俺にはアリシアの気持ちが分からない。ルミアの言う通りだとすれば、どんなことを知ればアリシアはあそこまでするんだ?俺はカルネシア家に被害を与えたことはないと記憶しているんだがな」
メルクリウスの視線が私を捉えていなかったから、問いかけなのか独り言なのか定かではないが、彼は確かに悩んでいる、と言っていい状態にあった。
たとえ、それが擬似的なものでも少し、嬉しい。彼が人間らしいところを見せてくれだけでも彼に助けられた人間として、私は心の底より喜びを見出すことが出来る。
「メルクリウス。これから確かめに行けばいい。勿論、しっかり授業は受けたあとで」
返事が返るとは思っていなかったとでも言いたげにメルクリウスが此方を見た。
「そうだな。同じ十五大貴族ならスーフィアもいたほうが都合も良さそうだ」
顎に手を充て、メルクリウスは思考に耽る。して、そのまま教室まで辿り着いた。
正面玄関だなんて人目の集まる場所でひと悶着あったばかりに散々、心配され、とりわけ、スーフィアは自分がいればもっと、早くに収まっていた筈だと謝罪してきた。
確かにスーフィアの社会的地位はアリシアのような人物には効果的だろうが……。
スーフィアには権力を振りかざすような人でいて欲しくない。
そう思ってもスーフィアの言い分は正しい所も多く、渋々と私は謝罪を受け入れてしまう。それで一区切りついたところで放課後、メルクリウスと共にアリシアの寮を訪れる予定である事を伝え、そこにスーフィアも付いてきて欲しい旨を話す。
「それはよろしいですが、ルミアちゃんはよいのですか?」
「何が……?」
「いえ、良いのであればいいのですが……その……ですね。
アリシアさんは学生街に別荘をお持ちでして、客人として訪ねても恐らく窮屈な思いをなされるかもしれないのです」
つまり、こういう事か。貴族である
カルネシア家の別荘に私達が赴けば、それなりの礼儀作法を要求される、と。
スーフィアは当然、どのような場合でも大抵の仕草が優美さにあふれている。意識せずともそれが出来てしまうのは持って生まれた気品の高さが故だろう。
もう一人の同行者であるメルクリウスの方もまた、レイシェントという名家の生まれであるからか、それとも魔術師的地位が高すぎる為に自然と政治的地位の高い人物との接触も多いからか、妙な所で礼儀を弁えていて普段も落ち着いた大人びた雰囲気を帯びているから大丈夫だろう。
そして、問題があるとすれば私だ。
軍部では本当に最低限の礼儀作法を押し込まれたが、それは軍属魔術師だからこそ、見逃される程度のもので単なる一般の学生が貴族の家に上がり込んでしていいようなものではない。
但し。それは以前までの私の話。
「大丈夫。アリシアにスーとの付き合い方を指摘されてから、私も直した」
「そうだったのですか!確かに言われてみれば、動きの端々にそれらしい動きをなさる事がありますが、友達に対してそういう目を向けてこなかったものでして、気付きませんでしたわ」
私だって動きを学べば、その模倣ぐらいは出来る。元が孤児院の娘で現軍人の私だろうとそれぐらいのことは出来るのだ。とはいえ、スーフィアやメルクリウスのように完璧なものを求められると困る。気品なんてものを私が持っているはずもないし、そればっかりはメッキが剥がれてしまっても仕方が無いだろう。
「それでは、何も心配はありませんね!では、放課後にアリシアさんのお家に向かいましょうか」
なんだか、声を弾ませた彼女の声は聞いている私まで嬉しくなるようであった。
「―――と言う訳で今日の帰りのホームルームは終わり。明日は魔法実技があるから、しっかりと準備をして今日は早めに寝るように。では、さようなら」
「「ありがとうございました!」」
ニッコリと微笑みを浮かべたローニウスが教室の扉の向こうに消える。
早速、俺達は集まって今日の放課後の予定を実行に移すことにした。
要するにアリシアの別荘訪問だ。
俺とルミアとスーフィア。今日はこの三人でアリシアの家を訪問する予定なのだ。
いつもの残り二人――カルロとアルトも誘ったのだが貴族の別荘なんておそれ多いと断られてしまった。それで何か支障があるわけも無いので別に構わない。ただ、強いて言うならあるべき場所にあるものがない、とでも言うのだろうか。そんな認識をルミア達は共有しているようで、俺もそれに倣うことにした。
言い知れぬ疎外感のようなものをメルクリウスはその顔に浮かべる。
ルミアだけはそれに気付くも掛ける言葉が見つからない。
たったそれだけの事なのにメルクリウスがもしやと喜んでしまう心と、そうであるわけが無いという気持ちが同時に存在しているがために。それはルミアでさえ、気づかない奥底の感情だ。それを知るのは私だけだ。
俺達は大通り、学院正門から真っ直ぐに伸びたここ、学生街の最も栄えた場所を歩いていた。つい一昨日の事件にも関わらず、その痕跡は綺麗さっぱりと消え、行き交う人々の表情も明るかった。
もし、魔法という力が人々になければ、こうはならなかっただろう。魔物が歩くだけで街道が割れ、家屋への被害も出る。そうなれば当然、直すまでの間はそこに住んでいた人々は別の、自分たちが住み慣れた家以外の場所に行かなければならなくなる。それは多分、辛いことだ。もう、俺がそれを感じることはないけれども。
傷跡の有り無しはその後の痛みに多大な影響を与える。
痛みとはそもそも、肉体の損傷を脳へと伝える信号であり、警告である筈だ。その信号を傷跡を見るという行為によって増幅させる事はつまり、痛みを大きくする作用があるのではなかろうか。
そう考えてみると例の事件を思い出させるような跡が残っていないこの町並みはなるほど、確かに住民の不安を煽る一切のものがない。
学生街という少年少女が多く住まうここでこのような事件が起きたのだ。もっと暴動やらなんやらが起きてもいいような気がしていた。
少なくとも俺の経験上、初めて魔物を見た者は恐慌する。
魔物という圧倒的捕食者を前にして恐怖し、逃げ惑い、なす術なくして死ぬ。
俺の支持する魔物学論では『魔物は力の大小に関わらず、人類に対する天敵』という特性を持ち、遺伝子レベルで人類は魔物を恐れなければならないとそう定められているのだ、という。また、索敵魔法によって、魔物の咆哮や魔物の体自体から発せられる魔力波を検知した時からそれは確信へと変わった。その魔力波の波形こそ、人類が恐怖を感じ取った時の脳波に限りなく近く、それを聞き取った人間の脳波はその波形にチューニングされるようにして、合致させられ、結果として人は魔物の姿であるとか声だとかを恐怖の対象としているのだ。
ただ、これは大した問題ではない。力ある魔物ほど、この魔力波の濃度は高くなるものの、最高位の魔物であっても恐怖の原因が魔力波によるものとさえ知っていれば、精々が強い精神力さえあれば防げる程度のものだからだ。(これは恐らく、恐怖という感情が不可思議に対する得体の知れなさより来るものであるからと俺は推測している)
では、何が問題であるか。それは魔力波、仮に魔圧と呼ぶが、これが蓄積型の魔法毒に近いものである事だ。
ある事例によると魔界での長期任務を遂行中だったベテラン魔術師が突然発狂し、魔法を暴発させながら魔力枯渇を起こすまで暴れ回ったという。
その人物の性格に問題があったのかどうかは定かでないもののここで注目したいのは長期任務である事とその魔術師が熟達者であった事だ。
まず、魔術師がその魔法練度を上げるには魔法の習得は大前提として、あと二つほどの前提がある。
その一つこそ、感情の制御であり、抑制といった形で大抵の魔術師が何十年もかけてゆっくりと習得するものだ。これが過不足では駄目で、メルクリウスなんかは完全にアウトだろう。駄目、というのは人間としてということでもあるが一番の理由は魔に魅入られる事にある。これはひとまず、関係ないので置いておこう。
この前提より言いたいことはベテラン魔術師足れば、感情の制御も極まっていたのではなかろうか、と言うことだ。
して、長期任務が故に心が壊れた……とは考えづらい。
であらば、聖域と魔界の違い。そこに目をつけるよりほか無く、俺は軍部の技術担当班と共にこの解明に乗り出した訳だが、そこで判明したのが聖域に張られた結界の効能だ。
前々より、聖域内外を行き来する軍部にとっては既知の事実であったのが聖域全てを覆い尽くすほど、馬鹿げた大きさの結界だ。その結界は人類にとって最重要な聖域を覆う形で展開されていたが為、聖域内の平穏を思えばこそ、依然として研究が進まなかった。また、魔界がそれだけ危険であった事も理由に挙げられる。
それを俺達が成し遂げられたのは単に俺の存在があった。無論、俺一人の存在でどうこうなることではなかったが俺含め、魔術師ランク一位から十位の魔術師を招集され行われた超戦力の投入による今作戦が成果を挙げないわけがなかった。簡単に捉えれば、人類の最高戦力が一堂に会したと言っていい。
その結果として俺達は聖域を覆う結界にある一定の濃度の魔力を通さないという効果がある事を解明した。
これは魔物が人類より遥かに多くの魔力を保有する事実と聖域が人間にとって都合よく働いている事と合いまって、この結界が対魔物の結界である事がほぼ確定した。しかも例の魔圧すらこの結界は無効化しているようであり、これはいよいよ結界が対魔物専用に作られた事を示唆していた。
ただ、分かったのはそこまでだ。魔術師の頂点が集まって尚、それだけの情報しか得られなかった。それだけの大戦力を動かしたのは当然、それだけの為ではなく南方領土の拡大の為であり、拡大に当たって聖域の結界を広げる必要があったからこそのついでの結界解析だった。それ故、与えられた時間は少なく、知識的にもそれ以上の解析は不可能だった。
しかし、これではっきりした。
長い前置きだったが、俺が言いたいのは今回のアリシア・カルネシアの暴走の話だ。
スーフィアの話によれば、アリシアは確かに権力というものに敏感で貴族であることに誇りを持ってはいるが、それは自分自身に対する誇りと言うには些か違うらしい。
カルネシア家と言う家系に対する敬意とその長女という重圧の中で生きている不器用な少女なのだ、と。生真面目で何事にも一生懸命な健気な少女なのだと。
彼女の本質はどうやら、今朝の言動とは別のところにあるらしかった。
「アリシアさんにはしっかりとお話して、ルミアさんが退院したら謝るとそう仰っていたのですが……」
眉をひそめながら、スーフィアが言った。俺の知らない所で何かあったらしい。それは多分、俺には関係のないことだ。しかも、ルミアも気にしていないといった様子である事からも一段落ついた話なのだろう。俺が横槍を入れるようなことをする必要はない。
「だとしたら、今回のメルクリウスに対する言いがかり……あれは何なの……?」
ルミアはあくまで冷静ながら、口調はどこかぶっきらぼうな印象を受ける言葉で俺とスーフィアどちらにも対して問いを投げ掛けた。
俺としては結論は大方出ている。
あとはそのキッカケを見つけるだけでいい。
「ここです」
そう言って先頭を歩いていたスーフィアが立ち止まった。
商店や宿屋などの入り乱れる大通りより小道に入って、少し。目の前にあったのは滅多にお目にかかれない豪邸だ。
門にはなかなかの腕前の魔術師が描いた魔術紋の意匠が施され、屋敷の随所に魔法の罠が仕掛けられている。外敵に対する準備はバッチリのようだ。
しかしして、客人に対する配慮か、門より続く玄関までの道のりには一切の仕掛けらしきものは見られなかった。
なんとなく見覚えがある。具体的には二日前の記憶の中にある。その時は夜だった気がするが。
記憶の中では豪華で重厚な屋敷の一部分だけ、見事に倒壊していたはずだが、これも魔法により今は当然のように直っている。
ふむ。あったな切っ掛け。
これですべて、ヒントは出揃った。
つまりは……。




