第十三話『ありきたりでいい』
2020.12/22 ルシェット邂逅における会話に加筆。
病院の中はそうあるべきところである事を鑑みても、音がなさ過ぎた。耳を澄ましても聞こえるのは自分が走る音ばかり。それは歩を止めてしまえば何も聞こえない事を意味している。
館内アナウンスでもなんでもいい。
――なにか。確証の持てる何かが欲しかった。それとももう既に避難し終わったのだろうか?
銃声が聞こえたのは半ば、諦めの気持ちが芽生えだした頃の事だった。
私は急ぎ、音の発生源へ向かう。音の反響から見当を付けたのは三階の一室。自らが入院していた部屋だ。
荷物を置きっぱなしにしていたのだから、盗みを疑ったがそうであるなら、銃なんて音の出るものを使うだろうか。
銃声が聞こえた以上、室内の人物が武装している事は確実だ。そして、今、探知魔法の使えない私に室内の様子を探る術は精々、聴覚に頼るぐらいのもので、室内の状況を探るには不十分だった。
こんな状況だ。中の人間は興奮状態にある可能性が高い。だとすれば、無闇に扉を開けることで、武装した人間の高ぶった神経を逆撫ですることは躊躇われる。そこで音を立てないよう扉横に素早く移動し、手の甲で扉を叩く。
ノックへの応答はない。物音もしない。完全な無音だ。
しかし、中に何らかの存在がいることを私の勘が告げている。勘とはいえ、それは私がイーラの兵士として培ってきた、『生き残る上で重要な役割を果たす勘』と言うもの。
ただ根拠もなく言っているわけではない。銃声からは遅くとも二分程度の時間しか空いていない。その間、銃声以外の音はせず、風の音がしない事実から窓は閉められている事がわかる。窓の脱出には飛空魔法ないし、身体能力に物を言わせて飛び降りるというものがあるが、いずれにせよ逃げるだけなら窓を閉めるメリットがない。追跡回避の為ならば、部屋を特定されている時点で閉める時間はロスだ。開け放たれたままである窓を閉めることは寧ろ、痕跡を残すことになりかねない。
銃声を立てた人物が窓から逃げていないとすれば、入り口からの脱出が考えられるが、それには私に勘づかれないように動く必要がある。そして、魔法を扱える人間であれば銃に頼るのは不自然だ。
魔法を使えない人間が銃を発泡後、病室内を音もなく、出ることは不可能。中にいるのは確実だろう。
もう一度、確認の為にノックする。
コンコンっと小気味のよいリズムで叩いた。
やはり、反応はない。
あまり乗り気ではないものの私はドアノブに手をかける。
いくら魔法の使えない状態の私でも一般人相手に白兵戦となれば、勝率は高い。不意打ちの銃撃にだけ気を付ければあとはどうとでもなる。
そう腹をくくり、開けた扉の先には男が一人。否、その歳を考えれば青年といった方が適切か。
「メルクリウス」
らしくもなく彼の名を呼ぶ。捜し人が見つかった瞬間だった。
まだ例の仮面を被ったままのメルクリウスはゆっくりとこちらを振り向いた。
「ルミア……?」
疑問ありげな彼の声音に頷くことで返す。訊きたいのは此方の方だ、という言葉は、しかし寸前の所で詰め寄ってきたメルクリウスによって、声にならなかった。
そのあまりの迫力に後退を余儀なくされ、私は遂に薄暗い廊下側の壁にまで追い詰められる。
「なに……?」
逃げられないことを悟り、私は多分に非難の色を込めた疑問をメルクリウスにぶつける。
突然何なんだ。今日だけでメルクリウスの態度はころころと変わって、まるで一貫性がない。
私を脅していたかと思えば、次には反対に助けてみせたり。
今度は行き先も告げず、走り出したメルクリウスを見つけたかと思った矢先にこれだ。
何故、私は同年代の男の子にこうして壁際に追い詰められ、仮面によって隔られているとはいえ、至近距離で見つめ合わなければならないのだ。
メルクリウスはその仮面によって隠した素顔にどんな表情を浮かべているのだろうか。想像することは難しい。
そもそも感情がないと自称する彼だ。仮面を被った今、取り繕う意味のなくなった表情をわざわざ変化させているのかすら怪しい。
色々な意味を込めてのものとはいえ、ジト目で彼を見てしまうことは仕方のない事だろう。
暫し、私達の間に沈黙が訪れる。一分か、二分か。もしくはそれよりも短かったかもしれない。
なんにせよ、色気のない時間であったことは確かだ。私達ぐらいの年代に特有の恋愛的な要素を含まない時間だったことは、火を見るより明らかだった。
そんな私にとって訳のわからない時間は密着していると言っても過言ではなかった姿勢からメルクリウスが離れた事で唐突に終わりを迎える。ふと、彼の衣服が既に血塗れではなくなっていることに気付き、着替えたのか、とどうでもいい事を知った。
困惑する私を置き去りにメルクリウスは視線を私とは別の場所に摸した。
その視線を辿った先には薄暗い廊下が続き、時折窓から入る月光が寧ろ、暗闇を際立たせ、妙な薄気味悪さを醸し出していた。
「厄介なのを連れてきたな」
ボソリと呟かれた言葉。それがメルクリウスの漏らしたものであることに気付くのにほんの少し、時間を要する。
原因はメルクリウスが見つめる、一点にある。
ここから薄暗闇の廊下が面する突き当たり。そこにはここからでは見えないものの、階段がある。
メルクリウスの聴力が如何に優れたものなのかは知らないが、私の耳にもはっきりと聞こえる靴音。それが階下から響き、段々とこちらへと近づいてくるのだ。自然、注意はそれに向けられ、メルクリウスの言葉を認識するのに若干のラグが生じる。
「厄介なの……?なんの事?」
心当たりが無いでもなかった。しかし、一度助けてもらった恩がある。いたずらに疑うことは躊躇われた。――それにメルクリウスの感想も確かめておきたいのだ。情報の少ない私とメルクリウスの間では対等な対話なんてものは出来ない。少しでも彼から情報を引き出しておく必要があった。
「知っているだろう?道化師姿の魔術師だ。監視か、はたまた別の目的かは分からないけど君に引っ付けていた虫の様子を見に来たらしい」
「どういう――」
――こと?と質問しようとして私は口を噤む。階段から音を立てながら上って来ていた人物がその姿を見せたからだ。
道化師と聞いて、まさかとは思った。しかし、事実は想定を上回る。
つい先程まで着ていたローブは何処かへ脱ぎ捨てでもしたのか、今や遠目にも目につく鮮やかな緑のタキシードを羽織り、戯けた化粧は仮面の下に。
その仮面は如何見ても日の下で生きるものではない。耳元まで吊り上がった笑みを浮かべる口の意匠は、笑顔を意味していながら人に抱かせるのは恐怖。手に持つのはステッキ。恐らくは彼の杖なのだろう。
そのステッキを腕にかけ、くるくると回しながら、やはり、この状況には似つかわしくないスキップでこちらへと駆け寄ってくる。
さながら、悪魔の道化師がそこにはいた。
――嗚呼、やっぱりこの人は苦手だ。
私はその様子に一種の嫌悪感を覚え、逃げ出したいという衝動に駆られる。しかし、隣で同じく奇怪な道化師の姿を見るメルクリウスは動かない。
寧ろ、道化師が私達の所に来る事を待っているようだった。
躊躇は一瞬。しかし、その時には既に選択する時間は残されていなかったようだ。
「やぁやぁ。捜し人は見つかったようだねぇ。僕も丁度、この辺りを探し終えた所だったんだよ。それにしてもまさか、ボーイフレンドを探していたとはねぇ。しかもしかも、彼、強いからねぇ」
明らかに先程の方が声質としては気分が高揚しているように思えたが、その実、今の抑えた声のほうがよっぽど興奮しているように思える。それがまた、どことなく不気味なのだ。
「あまり、彼女に話し掛けないであげてもらえますか?怖がってる」
「おやおや?私が怖いと?」
返答に窮する私の代わりにメルクリウスが私の前に立つ。
「当然でしょう。あなたが戦場で何と呼ばれていることか。そんなあなたを前にして、一介の魔術師が怯えないわけがない」
「あらら、そんなに僕って怖いかなぁ?僕からしたら、今外であばれてる連中よりも、上の御歴々よりも、君が一番、恐ろしいけれどねぇ?」
そのルシェットさんの言葉にメルクリウスが顔を顰めた気がした。それとも私の中の英雄像がそんな想像を掻き立てるのか。
「いやはや、それにしてもあの《最強》が学生というからどんなものかと思ったけど、存外に似合っているじゃないか。あの、ロード・オブ・マジシャンがねぇ。いやぁ、傑作だ」
「秘匿情報です。言葉を慎んで頂きたい」
「ダイジョーブ、ダイジョーブ。どうせ、その娘には言ってあるんだろう?それにこの病院一帯は完全に殲滅済み。人も魔物もいやしない」
「何が狙いですか」
メルクリウスは発言と同時、どこに隠し持っていたのか、目前の人物へ銃を突きつける。突き付けられた当人であるルシェットさんの方はどこ吹く風。手を上げることもなければ、戦闘態勢を取ることもない。
私はただ、二人の動向を窺うより他なく、会話に耳を傾ける。
「おやおや、そんな玩具なんか持ち出して如何するつも――」
―――パンッ!!!
「こうするつもりです」
ルシェットさんが戯けた仕草でメルクリウスに両手を差し出した瞬間だった。ルシェットさんの右半身が後退し、緑のスーツ、その肩口に血が染みる。
見れば、メルクリウスの手に持つ片手銃の銃口から白煙が上っていた。驚きに目を見開く私を他所に、メルクリウスは冷静そのものだ。
一方、撃たれた方のルシェットさんはというと俯き、手で撃たれた肩口を抑えている。当然の反応だ。撃たれた人間のすることと言えば、止血無いし、痛みの到達を意味する悲鳴を上げることくらい。されども、この奇人はどうやら想像の範疇外にいるらしい。
痛みの呻き声であるかのように聞こえていた、小さな声は次第にそのボリュームを上げ、やがて哄笑へと変わった。
――怪人。その一言が脳裏を過る。それ程の奇異。魔術師という生き物が常人とはかけ離れた存在である事を抜きにしても銃撃を受けて、哄笑をあげるというのは全く持ってして奇怪だった。
そして、ひとしきりルシェトさんの笑い声がこの病院に響き渡り、
「いやぁ〜。本当に躊躇いがないねぇ、君は。いいよ。その判断の速さは実に素晴らしい。クリアーな思考で導き出した最善を即決できる思考回路、それら全てを実行に移せる能力。賞賛に値する」
そう口にしながら、パチパチと小さな拍手をする目前の人物を見て、改めて魔術師という生き物を再認識する。
異常なのだ。銃撃からの立ち直りの速さもそうだが、撃たれた際の反応から何まで。
「ジェルジェンド殿。悪ふざけはよして頂きたい。私の知り合いに無闇矢鱈とちょっかいをかけた上、貴方には私を恨む確たる理由がある。警戒するなというほどが無理な話なのだ。私はこの騒動さえがあなたの差し金だったとしてもなんら驚きはしない」
「いやはやぁ、それは早計というものではないかなぁー、メルクリウス君。そんなに疑い深いのは感心しないよぉ?ちっぽけな聖域の中にしか僕達の生存圏はないんだから。味方の中に敵を増やすような考えは改めたまえよぉ」
ジェルジェンド……?誰だそれは一体。そんな分かりきった言葉を呑み込み、事態を整理する。
《悲嘆者》とジェルジェンド。その双方の呼び名を持つ人間は二人といない。現魔術師ランク九位にして『混沌の信徒』や『涙星』など数々の異名を持つ魔術師をおいて他に居はしない。しかも現魔術師ランク一位の口から出た言葉である事を加味すれば間違いようもない事実であることがわかる。
整理だなんて事をしなくても分かる事だ。
この道化師の正体はルシェット・ジェスターなんていう人物ではないらしい。
「敵の敵は味方。その考えに則るならば、味方の味方は敵です。そして、少なくともあなたは私の直接の味方ではない。とはいえ、あなたが私を脅かす事は不可能です。あなたは九十九の魔術師にとっては蹴り落とすための入り口。私を狙おうにもまずは目先の障害を排除しなくては。恐るるに足らぬとはこの事です」
「君はいっそ清々しいくらいに僕を怖がらないねぇ。まぁ、それもそうか。僕より力ある君が相手じゃあね。
まぁ、いいや。今日の所は安心してもらってもいいよ。単なる興味本位だからね。それに――」
舌なめずりでもするかのような目線をその仮面の奥から向けられる。けれど、その視線はすぐに割って入ったメルクリウスによって遮られた。
「ジェルジェンド殿、寄り道も程々にして、ご自分の任務を遂行されてはどうですか?」
どうやら現魔術師ランク一位と九位の魔術師達の間には確執じみた何かがあるらしい。
いつになくメルクリウスの言葉に棘がある。いや、寧ろこれが魔術師ランク現一位としてのメルクリウスなのかもしれないが。
「君はホントに真面目だねぇ。でもいいじゃない。彼女を少し借りるぐらいさぁ」
「彼女の魔術師としての腕前は半人前もいいところです。おまけに今は魔力欠乏の後遺症が残る状態。確かに資質はありますが、今の段階で魔物の前に出してもお話にすらなりません。悪いお考えはおやめください」
メルクリウスだって失礼な物言いである事は重々承知の上での発言だろう。私は彼を蹴ってもいいだろうか。
「ほぅ。まるで僕が彼女を魔物の餌にしようとしていることがバレているみたいじゃないか!」
愉快げにクツクツと笑う道化師の口調は軽いものであるのに、それがあながち冗談でもないように聞こえるのが恐ろしい。
「貴方はそれをしかねないから怖い。俺は全魔術師の中で貴方を一番、恐れていますよ」
「およ?おヨヨヨ?なんだい、照れるようなことを言ってくれるじゃないカ。そのお礼に僕の愉快な魔法を消してしまった事には目を瞑ってあげるよ。
それでは失礼するよ。孤独な王、また戦場で見えましょう」
そう言ってジェルジェンドさんは馬鹿丁寧な臣下の礼を執ったかと思えば、次には軽快なステップを踏みながら、来たときと同じようにして薄暗い廊下の奥へと消えていった。
「あの人は……」
「現魔術師ランク九位の男。《悲嘆者》の称号を持つジェルジェンド殿だ。自称人類の味方は伊達じゃない。それは積み上げられた功績の数々が物語っている。
そう悲惨な事にはならないだろう。人類にとっては、な」
そんなメルクリウスの不安を残すような言葉を最後に私達は向かい合った。
「古き魔術師達は体内の魔力量を高めるために満月の出る晩、こうして俺達が今そうしているように高い建物の屋上に出るか、或いは魔法による飛行によって自ら夜空に身を投じたという。それだけ、満月の出ている晩というのは魔術的な力が高まるんだ。おまけに今夜の夜空は格別だ」
夜空を仰ぎ見るメルクリウスの月光に濡れた金髪は女である私でも嫉妬するくらいの美しさを持っていた。
私は自分の銀髪に人知れずながら、ちょっとした誇りを持っていたのだけれど、それもなんだか自身を失くしてしまいそうだ。
遠くの方ではイーラに属する兵士達の掛け声が聞こえ、魔物の断末魔の叫びであったり、魔法の炸裂音が時折、響きはするが、悲鳴やそれに類する何かはもう聞こえなくなっていた。
どうやら、私が震えている間も、何かをしようと考えなしにメルクリウスを追い、駆けずり回っている間にも、着々と事態は終息を迎えて言っていたようだ。
今、こうしてメルクリウスと二人、病院の屋上に出たのもメルクリウスが「外の空気を吸おう」と私を誘ったからだ。
満点の星空を仰ぎ見ていたメルクリウスが私の方へと振り返る。
「ルミア、まずは今日のことを謝ろう。性急過ぎている事は分かっているつもりだったが、感情的な面での考慮が足りなかった。その点についてはあとで反省しようと考えている。改善しようとも。
それで、だ。君が軍属魔術師であることに加え、俺の友人兼護衛としてこれからも宜しくお願いしたい事とその第一歩として記憶操作の免除を約束する。俺は君の記憶に関して一切、触れるつもりはないし、それは君を信頼……と言うにはまだまだ関係の築けていない状態ではあるが、それに近いものを君には抱いているつもりだからだ」
一息にそこまで語ったメルクリウスの真意は何処にあるのだろうか。私が疑い深いだけなのだと言われてしまえばそれまでだが、私を子どもとして見るばかりの周囲はよく真実を有耶無耶にしたがる。
メルクリウスも同じ歳であるとはいえ、彼の地位的にも、思考的にも私よりも遥かに広い視野を持っているのは確実だ。そのメルクリウスが隠したいと思う真実なんて幾らでもあるに違いない。
だけれども。今はそんな背伸びしたがる子供のようなことばかり、言っていたって仕方がない。今メルクリウスの口から吐き出される言葉だけが真実なのだとそう受け止めておくしかない。
「メルクリウスが、そう言うなら……それを私は信じる」
用意された言葉しか言えない私の未熟さを呪うばかりだ。
嗚呼、そうだ。一つ、彼に言っておかなければ。
そうか、と私の言葉を受けたメルクリウスは屋上から病院内へと戻ろうと登ってきた階段へと歩き始めていた。そんな、彼の背に言葉を投げ掛ける。
「メルクリウス。七年前の事を覚えてる……?」
決して大きくはない声音だ。私にはあまり、大きな声で言葉を話すことは出来ない。それは単なる自信という面での事なのか、気分がそうさせるのか、はたまた別の理由か。自分の事なのによく分からない。
そして、私のそんな声にメルクリウスは歩を止めた。
「七年前か……そういえば、ルミアは西方領土の出身だったな。なら『魔流事件』の話をしているのか?」
そう問い返す彼に何を今更と思いながら、肯定の頷きを返す。
「確かにあの事件と今回の突発的な聖域内での魔物の発生は似ているな。半日も経たないうちにこうして、終息した事を考えるに、規模も発生した魔物の強さも比べるに値しないだろうが」
「それは確かにそう。けど私はそういう事を言いたいんじゃない。
七年前のあの日、私は貴方に命を救われた。何故、私を助けたの……?」
私の言葉に暫くの間、メルクリウスは黙り込んだ。
返すべき言葉を探しているのかもしれないし、特に理由なんてものもなかったからかも知れない。そう思っていた。だから、私は思ってもみなかったのだ。
「ルミア……君は俺が言ったことを信じるといったよな?それは今日一日は有効か?」
今日一日とは言わず、いつでもそうだとは言わないでおく。取り敢えず、今はそれでいいとばかりに私は頷く。
「そうか。じゃあ、はっきりと言わせてもらう。
俺は事実として、当時あの場所で殲滅作戦を行っていた。機密事項とはいえ、記録にも残っているだろう」
瞑目し、一度そこで言葉を切ったメルクリウスは深いため息と共に言葉を吐き出した。
「だけど、その時の事を俺は覚えていない。魔物を何体も倒したことや肉が焼け焦げる臭いだったり、むせ返るような死臭も覚えている。悲鳴や怒号、藻掻き苦しむ声、痛みに呻く声から殺してくれと懇願する声まで、ありとあらゆる嘆きの声は時折、夢に見る。
けど、どうしてもそれは記録のようなものでしかなくて、記憶としての実感はないし、視覚的なものは何一つとして覚えていないんだ」
覚悟はしていた。自分が如き人間、何人だって助けてきているのだから、顔を覚えられていないことぐらい。ましてや名前だって知らないだろうことは。
だけど、まさか私を助けたという事実さえ覚えていないとは想像だにしなかった。
私は足元が崩れるかのような衝撃に目の前が真っ暗になった。
フラリと体勢が崩れ、私はそのまま――
「大丈夫か?」
――地面に頭をぶつけるなんてことにはならなかった。
私を支えるメルクリウスの腕は男性特有の逞しさがあって、私を横抱きにしながら避難所まで逃げてきた時にも思ったことではあるが、やはりメルクリウスが過酷な訓練を行ってきただろうことは最早、隠しようもない事実だった。それが学院で噂にならないのはメルクリウスが着痩せするタイプだからだろう。私はそういった色恋沙汰に縁がなかったから思わなかったが、客観的に見ればメルクリウスは相当なイケメンだ。赤と青のオッドアイに金髪だなんていう神秘的な風貌はそれだけで人目を惹く。それに加えて、男性的魅力はしっかりとあるのだからモテないはずがない。
そんな彼に支えられ、至近距離で見つめ合う、この状況を誰かに見られでもしたらあらぬ噂を立てられそうだ。それは確実に面倒事であり、当初の計画は変更せざるを得ないことを悟る。
つまり、退院したら同棲は止めたほうがいいな、と。
いや、違うだろう。なんだ、覚えていないって。
もう、驚きを通り越して呆れさえ感じる。
なんだって私はこの人を馬鹿みたいに追いかけてきたと思っているんだ。
これでは本当に私が馬鹿みたいじゃないか。
「ほ、本当に覚えてないの……?」
「ああ、すまない」
嗚呼、なんてことだ。世界が残酷であることぐらい知っていた。けど、こんなにも冷たいとは。
胸がチクリ、と痛む。
私はこの日、この時、初めて失恋というものを経験したのかも知れない。




