第十話『心離れ』
人々の騒めきが聞こえる。大勢が逃げようと必死になっている様子がありありと思い浮かび、その事に幾らかの申し訳無さと無力感に襲われた。
警鐘の塔より嘆きの鐘が発せられて早、一時間弱。
一足先に避難する事を決めていた私とメルクリウスは学院街にある避難所に辿り着いていた。着いて早々に、メルクリウスは避難所で支給されている食料品を受け取りに行き、今は私一人だった。
メルクリウスに抱きかかえられ、身一つで逃げてきた為に靴すら履いておらず、裸足のままの私には避難所の硬質な石の床がひどく冷たく感じられた。対照的にメルクリウスが寒いだろう、と言って被せてきたジャケットだけが腹立たしい程の暖かさを帯びていた。
今頃、避難所のすぐ外、二つある入り口の前には我先にとここに入ってこようとする人々で溢れているだろう。治安維持を目的とする軍部の一つ、イーラが避難指示を行なっているとはいえ、それを受けるのは感情を持つ人間だ。また、ここが学生街であることが他の街よりもよっぽど混乱しているだろう現状に一役、買っていた。
魔術師を夢見る少年少女たちであるとはいえ、まだ、年端もいかない子供ばかりなのだ。
軍属魔術師である私は感情の制御こそ、戦闘技術の向上と言う目的の下に可能であるが、その私でもあるものをないように振る舞うのは知らず知らずのうちに負担がかかるものだ。
それを学生達に指導できる道理はなく、レニオレア学院においてもそれを行う事は禁止されている。
故に魔物という恐怖に対して学生の多いこの学生街で混乱が生じることは必然だった。
避難所の扉が大きな音を立てて開かれる。私は二つある扉のうち、街道に面している方である正面玄関にほど近い位置で、聞こえてくる怒号やら何やらに肩を抱き、身を震わせていた訳であるが、開かれたのはその正面玄関にあたる方の扉だった。
大扉からは、派手な音を立てて開かれた割に秩序正しく、列を成した数十人もの人々が入ってきた。
その列の先頭はどうやら学院の教師のようでその後ろに続くのはやはり学生が大半を占め、数人程度が一般市民のようだった。
先頭を歩いていた眼鏡をかけた女性教師の一人が膝を抱え、座り込んでいた私に近付いてきた。
「大丈夫?見た所、学院の生徒みたいだけど」
私にかけられたメルクリウスのジャケットを見て、そう判断したのだろう。学院の生徒である事が女性に私へと声を掛ける理由となったのか、無事を確認する訊ねが女性から発せられた。
私は顔を上げ、その女性の顔を見上げる。
女性は同年代の同性に比べ、平均身長を満たしていない私よりも少し背の高い程度であどけなさを残した顔とあいまって小動物のような印象を相手に抱かせることだろう。眼鏡の奥から覗く、翠色の大きく丸い目は愛らしく、下がった眉尻が私を心配しているという事を如実に表している。あとはそう、この辺りでは珍しい黒髪であることぐらいが目につく限りの彼女の特徴らしい特徴と言えた。
「大丈夫です……」
彼女の親切はありがたい。軍人としてこういう事態に慣れているつもりであってもたった数日の間に平和ボケしていた自分の心は、どうやら長年麻痺していた感覚を取り戻していたようだった。
だけど、それでも。私には魔術師としての意地がある。今この瞬間、例え身を震わせるほどの恐怖に襲われていたとしても。それでも尚、気丈に振る舞ってみせなければならない。
でも一体なんのために……?
「そう。でも自分では分からなくても身体は悲鳴を上げてることだってあるんだから気を付けるのよ?」
それだけ言い残して自ら引き連れてきた生徒達に指示を出す為だろう、女性教師は私のもとを離れていった。
メルクリウスこそが私の恩人で、憧れの人だった。
あの日、地獄の中から私を救い出してくれたあの人だった。
それは紛れもない事実として目の前に突き付けられた。けれども。
感情を否定するような言葉を口にした彼は本当にその人間性を捨て、力を得たのだと語った。
私だって軍属魔術師の端くれで、多少の外道なら何度でも見てきた筈だった。
しかし、いざ身近な人物がそれに身を堕としたのだと直接に聞かされれば動く心が無い訳ではなかった。
しかも、だ。私が崇拝にも似た感情を捧げてきたあの人の口から語られたのだ。ショックを受けない訳がない。
必死で追いつこう、と。あの日のお礼をしよう、と。支えになりたい、と。そう願い続けてきた。
親の名を知らず、唯一、家と呼べた帰る場所もなくなり、共に育った義理兄弟姉妹も悪夢の中に消え、そうして残ったのは空っぽの私で。
その空っぽの私を助けてくれたあの人に、あの人の背中に光を見てしまった。その何処に咎められる理由があるのか。
ああ、そうだ。認めよう。私は今、癇癪を起こしているのだ。箱の中身が望むものではなかったから、と。だから私は今、こんなにも胸が苦しいのだ。
涙で視界が霞んでいた。されど、体中の熱は冷めていき、思考は鮮明になっていく。
私の全てはあの人の為にあった。そう言っても過言じゃない。それ程までに私はあの人に恋していた。たった一度、たった数時間。それだけの時間があれば、私があの人に心奪われるのには十分だったのだ。
メルクリウスは優しい。だけど、その優しさは感情的なものじゃない。もっと論理的な冷たさを持った優しさだ。決して、あの日の温もりとは違う。彼が彼自身について、感情の喪失を語ったのだ。それを真に受ければ、当然であると言えた。
「ルミア、夕食分だ」
延々と彼と彼について頭を悩ませていた私に頭上から声が掛かった。
食料支給の受取りから帰ったメルクリウスだ。
メルクリウスは私にパンを差し出し、笑みを作った。
自然な笑みだった。だけどどこか歪だ。自然な筈なのに見れば見るほどに本物の笑顔であるのに。
中々、それに手を伸ばそうとしない私にメルクリウスは困ったように眉尻を下げた。
「さっきはすまなかった。俺にも守るべき誓約というものがあるんだ。それを破れば今のままではいられなくなる。俺にとってそれは一大事だ。学院は楽しい。きっと。感情を失ったとはいえ、それは心と身体を切り離したという意味合いに近い。だから、感情が表に出ることもないし、恐怖で体が動かないといったように、体に支障を来すこともない。或いは俺自身ですらそれをうまく認知し得ないだけで感情そのものは発生しているのかもしれない。普段であれば思考の時々にそれが加味されている事もあるかもしれない。けどきっと、それは完全な偽物だ」
深々とため息を吐いてみせる、メルクリウスはどう見たってやっぱり心あるように見える。けどその行動の裏にある感情までは決して見えない。意図は透けているのにそれがどんな感情を起因としたものであるかが全く掴めないのだ。
それは確かにメルクリウスの言うように心と身体が切り離されてしまっていることの証左に思えた。
私はメルクリウスの手からパンを受け取り、それに対して満足気な笑みを浮かべたメルクリウスが私の隣に座る。
感情……か。
案外、感情というものは行動の理由になり得るだけでその感情自体に何ら意味のあるものではないのかもしれない。今のメルクリウスを見ているとそう思わずにはいられなかった。
ルミアは何やら悩んでいる様子だった。ずっと酷く眉間に皺を寄せ、悩ましげに時々、こちらを見遣る。
気付かれていないと思っているのか、そこには盗み見ることに対する羞恥の色は見えない。
ルミアは世間一般の価値観に照らし合わせて見るならば、可愛らしい女の子なのだと思う。実際に顔の比率は整っているし、西方領土の極一部でしか見られない銀色の髪は珍しさを発端として他者の興味を引くだろう。興味とはつまり、愛情の起点であり、好意の始まりだ。
だから、彼女は美しい女性なのだと思う。まだ子供であることを抜きにすれば紛れもなく美人である。
そんな見目麗しい女の子にそんなふうにして見られる事は男子である以上、本来ならば喜ぶべきことなのだと思う。しかしながら、生憎俺はそういった感情を最も理解する事ができていない。故に模倣出来ない。俺程度の歳であればそういったことに多感な時期である筈だ。俺が普通の人間として生活する上では欠かせない要素となる。
どうにか会得したいものだが、そもそも理解し難いものを会得する事は不可能に近い。
感情を捨てた俺がこんな事を考えていると知れば、ルミアは今更何をと言いそうなものだが、俺だって何も力のために捨てたんじゃない。寧ろ、その逆だった。
感情は力を制御する上では邪魔なものだった。
感情の高まりは魔力の高まりを引き起こし、爆発的な戦闘力を魔術師に与えるが、過ぎた力は必ず身を滅ぼす。特に俺は魔力の多さが原因なのか、魔力暴走を起こしやすい体質であったようだ。
それを知った俺の養父、エルザック・レイシェントは考えた。幾多もの苦悩があった事は想像に難くない。養父は優しい人だ。しかし、同時に魔術師ギルドの長であり、この人類唯一の生存圏を守護する守りの要でもあった。
俺の保有する魔力量を鑑みれば甚大な被害が出ることは確実。となれば養父は俺の感情と(大袈裟かもしれないが)人類の命運を秤にかける事になる。
その秤がどちらに傾いたのかは、今の俺を知れば言わずもがなである。
感情の喪失からもう、六年が経つ。脳を弄ったことによる後遺症か、日常生活に何ら影響のない範囲での記憶の欠如は見られたものの、概ね感情の消失という目的は果たされ、魔力暴走の一番の引き金となり得る要素を潰すことに成功した。
それからの六年間は各地の戦場を渡り歩き、魔力の扱いが上手くなるにつれ、俺の魔術師としての実力も高まっていった。
そうして、出来上がったのが《最強》の称号を与えられた魔術師だ。
元々、余りある魔力を保有していた俺が感情の喪失によって思いのままに身体を動かせるようになれば、あとは技術を体得し、知識を増やし、ひたすらに身体の限界まで鍛錬しさえすれば、強くなれる事は分かりきっていた。
怠けようという感情さえ、沸かないのだ。体が動かなくなるまでそうし続けていることは苦ではなく、寧ろ、俺が生きている事を思い出させてくれる唯一の方法だった。
魔術師としての大成。確かにそうだろう。ただ、どうしようもなくそれが道を外れたものであることを頭では理解している。
それは人間の努力ではなく、機械の反復作業だ。
人間には葛藤がある。悩みや苦しみ、死への恐怖や生きようとする活力。ありとあらゆる感情の末に強くなるのが人間としての理想だ。
その理想の末に感情が擦り切れてしまうのは仕方がない。しかしながら、それは成長と呼ぶに値する変化であり、俺とは違う。俺はあったものをないものとして、そうして出来上がった機械なのだから、やっぱりそれを成長と呼ぶには余りにも不適切なのだろう。
六年も前の事ながら、俺は感情がどういったものであるかを思い出し、それを模倣する事を覚えた。身近にある大切なものほど、ある内は気が付かないもので、ともすれば感情の表出がその時々の合図になっていることに気が付いたことが始まりだが、今ではそれも癖になっている。体がそう覚えてしまったのだ。
その癖のおかげで俺はまだ、辛うじて人間であるかのように振る舞えるがそこに感情が伴っていることはない。あるのは見え隠れする意図だけだ。
そこが決定的に俺の人間性を否定している。
「ルミア、この辺もそろそろ埋まってきそうだ。もっと奥に行こう」
俺は無意味な思考を中断し、周囲を確認した。正面玄関からこの避難所へと入ってくる人は段々と多くなり、俺達の周りにも人だかりが既にでき始めていた。
そのため、俺は記憶を書き換えると脅され、状況が変われば、半ば強引に連れて来られた哀れな少女に声をかける。ルミアは顔を俯かせたまま、一つ頷くと俺のあとを付いてくる。
俺は迷子になる可能性を考え、ルミアの手を取ろうとしたが、そこではてと思い直した。
このまま、ルミアの手をとっても良いものだろうか。仮にルミアの手を取ったとして、ルミアはどう思うだろうか。同年代の異性に、しかも脅迫し、無理矢理に連れ回すような奴に手を取られてどう思うだろうか。少なくとも良い気持ちになるとは思えない。状況的にみて、今ここでルミアの手を取ることは良い判断であるようには考えられなかった。
そうして一瞬の躊躇の末、俺はルミアの手を取ることに決めた。
何故、正解だとした結論に対して、反対の行動を取ったのかは俺自身、説明することは難しい。論理的なものではないからだ。屁理屈とでも言うべき考えが頭を過ぎったからだった。
それは大まかに言ってしまえば、人間らしくあるためにしたことで、俺自身の為だった。
言うなれば心を知りたくなったとでも言えばよいのだろうか。
俺のその非論理的な行動にルミアがハッとした顔を見せる。繋いだ手から僅かに彼女の身体の震えが伝わってきた。
そんなにも俺が怖いのだろうか。
新たな疑問の到来を無視して、俺はルミアの反応をそれ以上待たずして、歩き始めた。無論、手を引かれたルミアも強制的に一歩目を歩かされる形だ。
人垣の中を進み、避難所の奥へ。
非常に利得的な事に俺は、まだ成熟しきっていない身体でありながら体格は良い方で、それほど労せずして人の群れを掻き分ける事が出来た。
それが功を成し、あまり時間を費やすこともなく、避難所の奥、裏口に近い場所へと移動することが出来た。こちら側は街道に面した正面玄関と違い、外から入ることよりも中から出る事を主な目的として作られている。
最悪の場合への備えというものだ。道が開けている街道は人間にとってそうであるように、殆どが巨大な身体をしている魔物達にとっても進みやすい道になっている。その為、魔物の襲来があるとすれば正面玄関の方からである可能性が高く、それを見越して裏口の直ぐ外に幾つかの地下通路がある。
但し、こういう時ほど、想定内の事態というのは中々に起きないもので正面玄関より此方のほうが安全だなんて口が裂けても言えないのは事実だ。
可能性に賭けるより他ないのは感情があろうがなかろうが同じ事だ。
常に最悪を想定し、冷静であれ。生き残るための最善は冷徹である事だ。
それだけが唯一つの真理だなんて傲慢ことを言うつもりはない。しかし、それが真実であることは紛れもない事実だ。
その点、感情によって行動を制限されない俺はやはり、生き残ることに長けている。
俺より魔法を上手く扱える魔術師も多くはないが、いない事もない。
そんな中でも俺が《最強》の称号なんぞという大それたものを与えられたのは単に生存確率の高さと常に実力を発揮できる特殊性が故だった。
何度も言うが人間としては間違っている。心のない俺が人間の頂点を名乗っていいはずがない。そんなものは魔物と同じだ。強大な力を持つだけの存在に頼る人類は一人残らず、どうかしている。
「心ない化物……か」
今は亡き、ある上官に言われた言葉だ。立派な御仁だった。人間としては。
ただ、魔術師としては駄目だった。駄目だったというのは、つまりそういう事だ。
要するに、魔物を前にして生き残れるだけの力がある筈なのに、取り乱し、俺の目の前で俺を庇って死んだのだ。
当時の俺は未熟で、自分だけが生き残るには十分ながら他者を守るだけの力を持っていなかった。
それは今、こうして力を制限されている状況に似ている。あくまで感情ではなく、意志としての話ではあるが、俺はせめて手の届く範囲の人間だけは助けたい。どんなに人としての心を失くそうとそれを守るというのが俺が俺自身に誓った事の一つでもあった。だから、誓いに反したその時の事を俺は今もこうして思い出している。
俺に課せられた誓約は俺が《最強》であることを悟られないこととその力の矛先が人類に向けられることを未然に防ぐ事を目的としている。その誓約を破ることの代償は恐らく、人間としての権利の剥奪だ。そして、それは俺が俺自身に誓ったことに反する。
この誓いこそが感情のない俺を今も尚、俺を俺として生かそうとする意志であり、ギリギリのところで俺の人間性を保つものだ。抑制とも言えるだろう。
そういう意味では俺が《心誓》と呼ぶ誓いも誓約も同じもので、相反するそれらが今の俺をただの人間足らしめている。
ふと、見ればルミアが俺の顔を見て何やら驚いた顔をしている。
「どうした?」
無視しても良かった。しかし、無視する理由がなかった。たったそれだけだ。
「メルクリウスは本当に感情がないの……?」
当たり前だろう。今日だけで何度もこれについて考えているのだ。
「あなたは今、自嘲しているように見える」
「ああ、そうだな。俺は今、確かに自嘲しているんだろう。でもそれは本当にそう見えているだけだ」
冷たい言い方で有ることは理解している。だけどこれ以外に言いようが見つからなかった。
「貴方は、メルクリウスは感情に固執しているんじゃないの……?」
固執?俺が?何故?いや、そもそも固執するも何も、ないんだからないものに固執できるわけがないだろう。
それを俺が表情に浮かべるとルミアはそれに返そうとして―――。
『――――――――――ァァアアアアア!!!!』
ルミアの言葉すら遮り、死の呼び声が俺の耳元まで迫っていた。
18時にもう一話、挙がります。




