或る釣りの夜
父の葬儀も終わり、ひと息ついた時、私の中で何かが変わった。
「釣りに行こう」と急に思い立った。
釣りの経験は全く無いのに、ただ無性に釣りがしたくなった。
自分でも不思議でしょうがない。
私は自宅で釣り場や釣り方をネットで調べ始めた。
初めて知る世界は、忘れていた感情を思い出させてくれた。
休日にはリサイクルショップで中古の竿やリールを購入し、着々と準備を進めた。
家族も親類も友人たちも、無趣味だった私の突然の行動に驚いているようだったが、私が父を亡くした後ということもあり、特に口を挟むようなことはなかった。
それからは、毎日釣りの事を考えると胸がざわめき、次第に魚を釣る妄想が日常も支配してきた。
ある日、私は父の四十九日も待たずに、自家用車に買い揃えた釣り道具を積み込んだ。
さすがに家族も私をたしなめた。
四十九日の間、奥の部屋には仮の祭壇が設けられており、私は中央に飾られた父の遺影を眺めた。
写真の父は、やさしい笑顔でほほ笑んでいる。
高齢の父は肺炎にかかると、苦しみながら息を引き取った。
もともと肺が悪かったこともあり、咳き込むと痰が絡んで、息が苦しそうでとても可哀そうだった。
必死に呼吸をしているのを見ていると、いっそ早く楽になって欲しかった。
父の四十九日までは喪に服すのが当たり前なのだと分かっているが、
きっと自分が釣りに行くことも分かっていた。
翌日、私は仕事を早く切り上げ自宅へ戻ると、驚く家族に「すぐ帰る」と告げ、
焦る気持ちを抑えながら港へと車をスタートさせた。1時間程度で着くはずだ。
魚は朝方と夕方によく釣れるという。暗くなる前に着きたかった。
港に着くともう日暮れが迫り、夕焼けが紫色になろうとしていた。
防波堤には既に釣り人が3人いた。私は防波堤の空いている場所に荷物を下ろした。
潮の香りと波の音で海に来た実感を得た。海の懐かしい感覚に興奮し、「まるで子供だな」自分自身に苦笑いした。
だが慣れないこともあり、私が準備を終えた頃にはすっかり暗くなっていて、
真っ黒な海の音が不気味に響いていた。
私の心には次第に恐怖心が広がり、好奇心と入り混じった奇妙な興奮に包まれた。
私は頭にライトを付け、ロッドを構えると、海に向かって力一杯振った。
すると針先はあらぬ方向へと飛んだ。
私は恥ずかしさをこらえながら糸を巻き戻し、今度は慎重にロッドを振った。
今度は上手くいった。
大きくロッドを引き上げて、リールを巻く。これを繰り返す。
真っ暗な闇へと延びる釣り糸が、ライトの光にチラチラと映る。
その時は突然やってきた。
ロッドが急に引っ張られる。グッググッグッ
「わわわ・・・」
全く油断していた!魚がこんなに強く引くとは思ってもみなかった。
まるで暗闇から私を引っ張てくるようだ。何度も引くその力に得体の知れない恐怖を感じた。私は負けないように必死にリールを巻いた。
重さを感じながらリールを巻いていくと、黒い海面に影が浮きあがってきた。
海面に浮かぶ魚を見て、私は安堵した。
30センチくらいの魚だが、魚の名前は分からなかった。
釣りあげると、魚はコンクリートの上ををバタバタと暴れた。私はその様子を凝視した。
魚は口をパクパクと動かし、エラやヒレに力を入れ、生への執着を見せた。
やがて大人しくなった魚は、私が触れるとまた激しく暴れた。
何度も何度も暴れた後、とうとう動かなくなった。
私は恐る恐る魚の口から針を外そうとするが、うまく外れない。
気が付くと手が震えている。なんとか針を外すが、魚の口が血だらけだった。
私は魚を蓋つきバケツに放り込んだ。
当初の興奮はすっかり消し飛び、何とも言えない気分になった。
私は道具を片付け始めた。
急にバケツが音を立てた。
私はひどく驚き、暗い防波堤を早足で戻ると急いで道具を車に積み込み、逃げるように自宅へと車を走らせた。
蓋つきバケツを防波堤に残したままで。
<了>




