9. 美琴の面影
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日が落ちた空の下、陀鬼署から二人の若い男性が出てきた。
一人は時雨。もう一人は灰色のスーツを着た男性。胸には弁護士バッジをつけている。
「晴夏、急に呼び出してすまなかったな」
時雨の言葉に、晴夏と呼ばれた男性が目礼を返す。
「いいんですよ、これが僕の仕事ですから。時雨さん、このままお帰りでいいですか? それとも、どこかで軽くお食事をとっていかれます?」
晴夏は長い時間警察に付き合っていた時雨を気遣う。同行は任意だったので帰ろうと思えばいつでも帰ることは出来たのだが、時雨は帰ろうとせず、あの日のことを何度も何度も説明し、質問にも答えていたのだ。
東京の刑事だと名乗った向嶋が終わりだと言わなければ、時雨は今もまだ取調室にいたことだろう。
その気遣いをわかっている時雨は「私なら大丈夫だ」と答えた。
「このまま屋敷へ戻ろう。だがもう少し待って――」
時雨は車のドアを開けた晴夏に、まだ用事があると言いかけたのだが、その言葉を遮る女性の声を耳にする。
「待って~。時雨さ~ん、待ってくださ~いっ!」
その声に振り向く二人。
晴夏が目を凝らす。
「あれは……いや、違うか。誰ですかね、あの女性は……」
知っている人物かと思ったのだが、すぐに別人であることに気付く。
離れた所から手を振りながら走ってくる人影。電灯の少ない暗がりではあるが、シルエットで女性ということだけはわかった。
「ん? 彼女は……ふっ、見た目がずいぶん変わったものだ」
晴夏には面識がないが、時雨は誰なのかわかったようだ。
「お知り合いですか?」
「知り合いというほどではないが……。しかし、彼女を頼りにしなければならんのだろうな」
「ということは、彼女が鮎川さんという探偵ですか?」
警察署を出る前、晴夏は時雨から探偵が来ているということは聞いていた。
話で聞いていたもののその若さに驚く。近づいて来るのは、まだ少女ともいえるほどの女性だったのだ。
◇
「よかった、間に合った……」
時雨たち前で舞花は息を切らし、膝に手をあてている。
「時雨さん、今からお帰りですよね。私も乗せてってもらえませんか?」
顔を上げた舞花。よほど急いだのか、額にはうっすらと汗をかいている。
そんな舞花の様子にも時雨は無表情。目だけを見れば睨んでいるように見えなくもない。
「嫌だと言ったら? キミはどうやって我が家まで来る?」
「え? え~と……それは……」
てっきり向嶋から話は通っているのもと思っていた舞花が口ごもる。
その様子に、時雨は口もとを弛ませた。
「冗談だ。真に受けなくてもいい」
「え? あ、あはは……」
時雨の目つきは鋭い。それは生来持っているものなのだろうが、表情からは冗談なのか本気なのかを見極めるのは難しく、舞花は笑って誤魔化すしかなかった。
「東京から来た向嶋という刑事に、キミも一緒に我が家までと頼まれている。さ、車に乗るがいい」
後部座席へと促す時雨に舞花は頭を下げた。
「すみません、よろしくお願いします――あ」
乗り込もうとした直前に何かに気付いた舞花。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は探偵の鮎川舞花です。本当は父が陀鬼まで来るはずだったんですけど、都合により私が久恵さんの依頼を受ける事になりました。よろしくお願いします」
再度お辞儀をする舞花に時雨は目礼を返す。
「そうだったな。屋敷ではすれ違っただけだった。私は三栗谷時雨――いや、もうすぐ『三栗谷』ではなくなるのだが……」
「時雨さん、そんなこと……」
苦笑いする時雨に、晴夏が心配そうな目を向けた。
時雨はそれを受け流すように表情を弛ませた。
「この真面目を絵にかいたような男は晴夏大樹という。二代に渡って三栗谷家の弁護士をしてくれている。若いが有能だ。なにか訊きたいことがあれば彼にも訊ねればいい」
紹介された晴夏が人懐っこい笑顔をうかべる。
「こんばんは。僕は晴夏大樹です。時雨さんは有能と言ってくれましたけど、弁護士としてはまだまだ駆け出しの新米です。僕にわかる事なら何でも答えますよ。どうか時雨さんの無実を証明してください」
頭を下げる晴夏に会釈を返した舞花。
「時雨さんが無実なのかはまだわからないのでお約束はできません。ですが、今回起きてしまった事の真実は必ず見つけてみせます」
「無実なのかわからないって……」
疑われている本人を目の前にしての、舞花のはっきりとした口調に晴夏は面食らう。
依頼されたのは時雨の無実の証明ではないのか? 自分は時雨が無実であると信じているし、弁護士としても依頼人の言葉を信じているのだが、探偵はそうではないのだろうか? ――など、様々な思いが頭のなかを廻る。
いや、それよりも――
「な。やはりどことなく似ているだろう?」
時雨の手が肩に置かれると、晴夏は目を丸くしたまま頷く。
「ですね。驚きました……」
「?」
なにやら含み笑いをする時雨と晴夏に、舞花は首を傾げる。
その様子に気づいた時雨。
「気を悪くしたなら謝る。屋敷で見た時、キミがどことなく美琴に似ていると感じたのでな。晴夏にその話をしていたのだ」
「私が、美琴さんに?」
「容姿のことではないぞ。美琴はもっと美人だ。だが、瞳の奥から感じる意志の強さに美琴の面影を見た気がしたのだ」
それに晴夏も付け加える。
「ついでに、その素直というか、歯にもの着せない言い方もそっくりだったから。……あ、それと、時雨さんは鮎川さんを不美人だって言ったわけじゃないですよ。一般的に見れば鮎川さんだって相当な美人さんです。ただ、美琴ちゃんと比べるとっていう意味なだけですから」
「そ、そうですか……」
全然フォローになってない――。舞花はそう思いながらも納得できることがあった。
屋敷ですれ違った時に時雨が遠い目をしたのも、娘を亡くしたばかりの久恵が時々笑顔を見せたのも、舞花に美琴の面影を見ていたからだったようだ。
◇
「――ということは、晴夏さんは時雨さんや美琴さんの幼なじみなんですね」
三栗谷家に戻る車中。
後部座席からの舞花の言葉に、運転をする晴夏は「そうですよ」とバックミラー越しに微笑んだ。
「晴夏は私と同じ年でな、私が『三栗谷』になる前からの付き合いだ。『三栗谷』になったとたん私から離れて行く者も多いなか、晴夏だけは変わらずに接してくれた。美琴も晴夏には懐いてな、よく三人で遊んだものだ」
と舞花の隣、運転席の後ろに座っている時雨の頬が弛む。幼くも楽しく懐かしい時を思い出しているのだろう。
そんな時雨を晴夏がからかう。
「あれ、時雨さんから離れていった人ってそんなにいましたっけ? 友人なんて呼べるのは僕くらいだったでしょ。――鮎川さん、時雨さんってね、頭が良すぎて誰も近づけなかったんですよ。あ、目つきが悪いから誰も近づきたくなかったのかもしれませんけど」
爽やかに笑う晴夏に時雨はため息を一つ。
「この目は生まれつきだ。それに、頭が良い者に近づけないとは、その理屈がわからん」
「優秀すぎて別世界の人に見えるってことですよ。鮎川さんもわかってくれますよね?」
話を振られた舞花は愛想笑いを浮かべる。
「晴夏さんがおっしゃりたいことはわかる気がします。時雨さんの目が怖いっていうのも……」
ちらりと向けられた視線に時雨はふくれた。
「どうやら、私は女性からの受けが悪いようだ」
最初に受けた印象とはずいぶん違う。幼なじみの前だから素の自分が出ているのかもしれないと舞花は思った。
「あはは。普段も今みたいな感じでいいんじゃないんですか? 最初見た時は威圧感のある人だなと思いましたけど、今は話しやすいですよ」
舞花は素直な感想を述べたのだが、それに時雨の表情が少しだけ曇る。
「財閥をまとめるというのは、自分が思っていたよりも大変なのだということがわかってしまったからな……」
「普段は気を張っていないと、子会社の重役たちに舐められちゃいますもんね」
すかさず晴夏もフォローを入れる。
人間は皆平等であるとは言われているが、社会というのは間違いなく縦社会である。和気あいあいとした雰囲気も大切だが、それが行き過ぎると会社として成り立たない。系列会社を取り仕切っているとはいえ、時雨はまだ二十三歳。会社の重役たちから見れば若輩者であろう。そんな古狸たちをまとめるためには甘い顔は見せられないのだろう。
時雨の気苦労は絶えないようだ。
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