8. アリバイはー―
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向嶋が壁にもたれたまま口を開く。
「当初警察は刺殺として捜査を始めたんだ。でもな、舞花の言う通り、胸を刺されたにしては出血が少なすぎたらしい。そこでもっと踏み込んで調べてみたら、トリカブトの毒が検出されたってわけ。わからないのは……」
「なぜ犯人はすでに亡くなっている美琴さんの胸にナイフを刺したのか。それと、なぜ苦悶の表情だったはずの顔を整えていったのか――ね?」
舞花の言葉に向嶋は頷き、お手上げというように肩をすくめる。
「憎しみと愛情が入り混じってるだろ? わけわかんねぇよ」
後悔――そんな言葉が舞花の頭をよぎった。
「時雨さんが犯人なら、亡くなっている美琴さんにナイフを突き立てる必要はないしね。ナイフさえなければ、美琴さんは病死って事になっていた可能性が高いし」
仮に時雨が犯人だったとして、毒殺した美琴の表情を整えていった理由なら推測できた。
いつ追い出されるのかわからない時雨にとって、三栗谷家の財産を手に入れるためには美琴は邪魔でしかない。しかし、義理とはいえ兄妹として共に育ってきた美琴への愛情もある。苦しんだままの表情にしておくのはしのびなかったのだろう。
だが、それではナイフを突き立てた理由まではわからない。
「果物ナイフに指紋は?」
「ない。拭き取られた跡はあったがな」
「なるほど。手袋をしていたわけじゃないのね……」
舞花は少し考え、再び向嶋へと向く。
「ねえ克己さん。あなたが時雨さんを犯人と見ていない理由ってなんなの?」
今のところ、時雨が犯人だとする証拠はないが、時雨が無実であるという証拠もない。だが、向嶋はまだ舞花の知らない情報を持っているのだろう。そうでなければ、わざわざ久恵に舞花のことを説明してこの屋敷に残ることなどしなかったはずである。
舞花の問いに、向嶋は「ああ、そのことな……」と先につぶやいた。
「あの時雨ってヤツな、たぶん血液恐怖症だ」
「血液恐怖症?」
「正式な言い方は知らないが、血を見るのが怖くてしかたないってやつだな。妹の遺体を見た時、家族はみんな悲鳴を上げたが、やつだけは卒倒したらしいし。それにな、ほれ――」
向嶋は左手を掲げる。その親指には絆創膏が貼ってあった。
「絆創膏? 怪我したの?」
たった一枚の絆創膏。心配する気にもならないが向嶋が言わんとしていることはわかった。
「時雨を同行させる時、あの久恵さんって母ちゃんが暴れてな、ガラスのコップを割ったんだ。その破片でちょいと切ったんだけど、その血を見ただけで倒れそうになったからな」
「演技じゃなくて?」
血を見て気分が悪くなる人というのは珍しくはない。それに、時雨がそう演じている可能性は大いにある。
「動きは演じられても、あの顔色は演技じゃ出来ないだろうな」
「ふ~ん。克己さんがそう言うのならそうなんだろうね――」
向嶋の観察力は探偵の修業をしていた時に身につけたものである。師匠である鮎川正彦も認めていただけに、彼がそう言うのであればそれは信用に値する。
「でも、ちゃんと裏付けはとってよね」
「当たり前だろ。もう時雨の過去について調べるようには言ってある。陀鬼の警察は無能ってわけじゃないし、三栗谷家に関しては俺が調べるより正確な情報を持っているだろうからな、そんなに時間はかからないはずだ」
細かな事でも気になったことは即調べる。向嶋が探偵の修業をしていた時に身につけたクセである。
報告内容によっては時雨の心理的アリバイになるかもしれない。
「ところで、美琴さんの死亡推定時刻は?」
「それはわかっている。夜中の2時から3時の間だ」
夜22時から明け方の5時まで、屋敷の扉には鍵がかけられていた。
なので犯行は夜中の可能性が高いことはわかっているが、舞花は22時より前、そして5時から朝食の間の犯行を潰しておきたかった。外からの侵入者があった可能性が否定されるわけではないが、容疑者の絞り込みが困難になってしまう。
美琴が殺害されたのが夜中の2時から3時ということは、やはり三栗谷家内部の者による犯行である可能性が高い。
「あら。私に教えちゃっていいの? さっきはわざわざ木島さんに言わせたのに」
「今さら言うか? ……まあ、今は二人だしな。俺が大きな声の独り言を言っていると思え」
舞花のからかいに、向嶋はしれっと答える。
警察としては安易に部外者への情報提供は慎むべきなのだが、ここは気心が知れた者同士。信頼の現れである。
「それなら、もう少し独り言をつぶやいてもらいましょうか――」
舞花は少し声を落とす。
「さっきは訊けなかったけど、警察が第一発見者の木島さんを疑わなかったのはなぜ?」
まずは第一発見者を疑えというのが捜査の基本である。犯罪行為を犯した者のなかには、第一発見者を装って警察の目から逃れようとする者も少なくない。
「彼女には動機が見当たらないらしいな。三栗谷家に雇われて五年、誰に訊いても働き者だと評判だし、家族との信頼関係もある。特に美琴さんとは仲が良かったそうでな。自分に良くしてくれた人間を殺すなんて考えないだろ?」
「そうね。美琴さんとの思い出を話す木島さんは嬉しそうだったし……」
姉妹のように接してくれたと話す木島は本当に嬉しそうな顔をしていた。そして犯人に対しては心の底から怒っているようでもあった。
「それに、縁談の話もあって彼女も乗り気らしい。これから家庭を持って幸せになろうって人だしな」
「え、木島さん結婚するの?」
「そうらしいぞ。誰とまでは知らないけど」
「そうなんだ。だったらこれは……」
舞花は自分が着ている、まだ新しい青いワンピースを見つめる。
木島は二度ほど着用したと言っていた。縁談相手とのデート用だったのかもしれない。
「どうした? なにか引っ掛かるのか?」
「ううん、なんでもないの。それじゃ、今持っている情報を整理すると――」
舞花は向嶋へと向き直る。
美琴の死因は毒殺。
死亡した後で胸に果物ナイフを刺された。
果物ナイフに指紋はない。
部屋の窓は全て鍵が掛かっていた。
三栗谷邸の外へ通じる扉は22時から5時まで施錠されているので屋敷への出入りは出来ない。
美琴の死亡推定時刻は夜中の2時から3時の間。
「というわけで、三栗谷邸を大きな密室と考えると、屋敷内にいた人間の犯行である可能性が高い。ってことか……。屋敷内にいた人たちのアリバイは?」
これには向嶋もあきれた顔をする。なぜなのかは舞花にも予測できている。
「夜中だぞ。みんな寝ていたってさ」
「ですよね~」
予測的中だった。屋敷内にいた全ての人間にアリバイはない。
「渋い顔だな。細かい疑問点は残るけど、やっぱり時雨が犯人か? 血が怖いってのは我慢できるかもしれないもんな」
「う~ん、まだなんとも……。そうだ、克己さん。陀鬼の町に連れて行ってよ」
「今からか? もう夕方だぞ。俺は宿に戻るが、舞花の分もとなると宿代が……」
懐の心配をする向嶋。
「お金持ってきてないの? 経費で落としちゃえば?」
「こらこら。国民の血税をなんだと思ってる」
軽いお叱りを受け、舞花はペロッと舌を出す。
互いに冗談だとわかっているやり取りだ。
「失礼しました~。心配しなくても、私は屋敷に戻るわよ」
「俺がまた一時間かけて送り届けるのか? やだぞ、そんな面倒な事」
本当に面倒だという顔をする向嶋。
「大丈夫。時雨さんは任意同行でしょ? 調べ物が済んだら時雨さんと一緒に帰るから」
「調べ物ってなんだ?」
ホッとした向嶋からの質問。
「ん……ちょっとね。もう一つの可能性も考えておかなきゃな~って……」
「もう一つの可能性?」
舞花はそれには答えず、何とも言えない苦笑いを返すだけ。これは、まだ初期段階の推理だから教えられないという舞花のサイン。
それを知っている向嶋は別の話題を振る。
「そういえば舞花。さっきからずっと気になってたんだけどな……」
「なに? 私何か見落としてる?」
事件の話かと、舞花は目を細める。
「いや、そうじゃなくて。お前いつも男の格好ばかりなのに、なんで今日は女の格好してるんだ?」
「はあ?」
予想外の言葉に舞花はあきれた声を出す。女である自分が女性らしい格好をしているのは不自然だと言われている気がしてこめかみがぴくぴくと動き出した。
「もしかして……時雨相手に玉の輿狙ってる?」
おまけに余計な言葉を付け足され、舞花はその背中を思い切り叩いていた。
「そんなわけないでしょ! あ、それで半笑いしてたのね!」
久恵の部屋で会った時、向嶋は半笑いの顔で舞花を見ていた。それは「こんなところで会うなんてな……」という意味ではなく、「舞花がワンピースなんて……女の格好をしている……うぷぷ」という馬鹿にした笑いだったらしい。
確かに普段男装をしているというのは舞花の意思ではある。今の時代、探偵を続けていくにはこの方が都合が良いと考えたからだ。
しかし、自分で決めたことだからといってそれを指摘されても構わないというわけでもない。
舞花も本当はおしゃれに興味のある女の子なのだ。
「なんで叩くんだよ。俺はそういう服装も似合ってるって言ったんだぞ」
「そんなこと一言も言ってないじゃないっ!」
笑い顔のまま抗議してくる向嶋に、舞花はもう一発背中にお見舞いした。
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