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10. 時雨の想いと後悔

□◆□◆

10



「そうだ。晴夏さんはどうして時雨『さん』って呼ぶんですか? お二人は同じ年でお友達ですよね」


 車内の空気が暗くなりかけたことを察し、舞花は別の話題を振る。


「仕事から離れた所では時雨と呼んでくれても構わないのだが、晴夏はちと真面目過ぎてな。昔からの友人に『さん』付けされるのはなかなか慣れないのだが……」


 苦笑いする時雨に、晴夏もバックミラー越しに同じ笑いを返した。


「それを言うなら、時雨さんだって僕を『大樹』じゃなくて『晴夏』って呼ぶじゃないですか。知らない人に聞かれたら二度見されるから名前で呼んでほしいって言ってるのに……。名字だから仕方ない事なんですけどね、『晴夏』は女性だと思われやすいんですよ」


 バックミラー越しに目が合った舞花は「たしかに」とつぶやく。


「勘違いされやすいかもしれませんね。私も、時雨さんが警察へ同行する時に“晴夏には連絡してある”って言っていたんですけど、私は女性の方かと思ってましたもん」


 そうでしょ、と笑う晴夏。


「それに、僕はそんなに器用じゃないんです。普段から呼び捨てだと大事な時にもそうしちゃいそうで。時雨さんと同席する時の相手というのは一筋縄ではいかない厄介な方々が多いですし、そんな相手に時雨さんは甘いなんて思わせるわけにはいかないんですよ。三栗谷家の為にも、陀鬼の人たちの為にもね。それに、僕は雇われ弁護士ですから、ご主人様には媚を売っておかないと。時雨さんには結婚相手まで紹介してもらっちゃったし」


「ご結婚されるんですか? おめでとうございます。――そういえば、木島さんにも結婚の話が出ているって噂を聞いたんですけど……」


 舞花はふと、向嶋からの情報を思い出す。


「探偵というのは耳が速いのだな。その木島の相手というのがこの晴夏だ」


 そう答えたのは時雨。


「そうなんですか。あの……つかぬ事をお聞きしますが、このお洋服って木島さんが晴夏さんとのデート用にしていたものでは……」


 舞花は晴夏へと訊ねる。

 警察署前も、今もバックミラー越しに舞花を見る時は洋服にも視線が移っていたことに気付いていたのだ。


「あ、やっぱり陽子さんのでしたか。そのワンピースは、初デートの時陽子さんに選んでもらったものなんです。彼女、私服をあまり持っていないっていうので。だからさっきは驚きましたよ。顔がよく見えなかったので、一瞬陽子さんかと思っちゃいましたし」


 警察署前で舞花が走ってきたときのことを思い出し、晴夏は「半分は当たっていたのかな」と笑う。


「すみません。私の着物が汚れてしまったので、ちょっとだけお借りしているんです。私は古着でいいって言ったんですけど」


 木島は頂き物だと言っていた。婚約者からプレゼントされた大切な洋服を借りてしまったことに、なんだか申し訳ない気持ちになる。


「僕は気にしていませんよ。むしろ、陽子さんがそれを鮎川さんに貸そうと思ったのなら、僕はそれが嬉しいですね」


「嬉しい……ですか?」


 気にしないというのは言葉では言うことが出来ると思う。しかし、嬉しいとはどういう意味なのだろうか? 自分が送ったものを他の人が身につけていたら、それは喜ばしい事ではない気がする。と舞花は思う。


「陽子さんは、誰かが困っていたら自分が持っている一番良い物から差し出してしまう人なんです。自己犠牲をいとわないというか、とにかく優しい人なんですよ。鮎川さんにその洋服を貸したということは、陽子さんにとってそういうものであるという証ですからね」


 似た者同士――。舞花の木島と晴夏への率直な感想だ。

 人が良いのだろう。しかし、木島はともかく、弁護士をしている晴夏はこの人の良さを誰かに利用されないだろうかと少し心配になる。だがそこのも含めて有能なのだろうし、時雨が信頼する理由ともなっているのかもしれない。


「優しい木島さんに心の広い晴夏さん。お似合いのお二人ですね。いいな~」


 この二人なら、苦難だって笑い飛ばして幸せになれる――そんな想いに舞花の顔が弛む。


「ありがとうございます。それもこれも、陽子さんを紹介してくれた時雨さんのおかげなんですけどね」


 運転する晴夏に言われた時雨が微笑む。


「木島にはよく働いてもらったからな。三栗谷家を出てもらう前に、良縁の一つでも手向けようと思ったのだが、両人に喜んでもらえて良かったよ」


「え。木島さん……解雇なさるんですか?」


 隣から聞こえた言葉に反応した舞花。時雨は嬉しさと残念さが混ざったような顔をしている。


「三栗谷が財閥でなくなれば収入が無くなる。系列企業からは退職せねばならないし復職する事も出来なくなるからな。使用人を雇う余裕はなくなるのだ」


「財閥解体の余波ですね。それでお屋敷を売ろうとしているのですか?」


「祖父から聞いたのか? その通りだ――」


 そう答えた時雨の目は、財閥を仕切っている男のそれになっていた。


「現在持っている金など数年後にはなくなるだろう。三栗谷の人間は節約という考えを持ち合わせてはいないからな。これからの生活を思えば、贅沢な屋敷などない方がいい。それに、国からの代償と屋敷を売った金があれば、木島や権蔵たちに十分な退職金を出すことも出来る。三栗谷家がこれからの時代を生き抜くために始めるビジネスの資金にもなるはずだ」


「それは、GHQが指導した独占禁止法を逆手に取った発想ですか?」


「ほう、察しが良いな」


 感心したように目を細める時雨。舞花は言葉を続ける。


「独占禁止法は財閥の力を削ぐためのものです。今まで財閥は、資金や物資の面で軍部と密接な関係にありましたから、GHQは二度と戦争を起こせないように財閥と軍部の繋がりを絶とうとしている。その為の財閥解体でもあるわけですけど、見方を変えれば、それは市場を開放することにもなるってことですよね」


「その通りだ。今まで各財閥が独占してきた分野に、新たな企業が新規参入することが出来るようになる。それによって生まれる価格や品質の競争で、うまく行けばこれまでにないほどの市場の活性化が見込めるだろうな。各財閥が独占していた分野の上であぐらをかいていた、祖父のような財閥関係者にとっては財閥解体は四面楚歌なのだろう。しかし、今までとは違う繁栄を模索する者たちにとっては、この財閥解体というのは大きな好機とも言えるのだよ。三栗谷家の出直しにはちょうど良い」


 今の舞花や時雨は知る由もないが、この経済の自由化によってこの国は大きく発展する。戦後からの短い時間で経済は大きく成長し、世界中がそれに驚くことになる。

 後に高度経済成長期と呼ばれることになるきっかけの一つとなったのが、GHQの行った財閥解体であったのは間違いないだろう。


「時雨さんは、その波に乗ろうと昼夜問わず頑張っていらっしゃるんですね。しかも三栗谷が持っている、もうすぐ手離さなくてはならない系列企業をも守ろうとしながら……」


 時雨はうろたえている子会社の重役たちに、経営を存続させるための助言をしているのだという。財閥解体によって指導者を失う企業――。それは、急に脳が機能しなくなるような状態と似ているのかもしれない。


「陀鬼の人々には十分すぎるほど支えてもらった。企業とは縁が切れるとはいえ、関係なくなるから後は知らないというわけにはいかん――」


 背もたれに体重を預け、時雨は小さく息を吐く。


「これからは年齢も男女も関係なく、時代の波に適応できる者が生き残り繁栄する世の中になるはずだ。私が三栗谷家から出ていく前に、そのための礎だけでも美琴に残してやりたかったのだが……」


 時雨が目を細めた。無念さを我慢している拳が震えている。


「美琴さんは幸せでしたね。こんなにも想ってくれるお兄さんがいてくれて……」


「そう想ってくれていたのであれば良いのだが……。だが実際は、美琴が私を幸せにしてくれていたのだ」


「美琴さんが?」


「まだ私たちが子供だった頃。急に現れた私を、美琴は兄だと慕ってくれた。家族になろうとしてくれた。当時十五才の私は神童などともてはやされていたが、中身はどこにでもいる思春期の子供だ。わけもわからず財閥の養子になり環境ががらりと変わった。それまでとは比べ物にならないほど難解な知識や教養を叩き込まれ、私の心は崩壊しかけていた。それを、美琴がへらず口と笑顔で救ってくれた……。あいつがいなければ、私はとうの昔に逃げ出していたことだろう」


 そう語る時雨の拳の震えは止まっており、辛いなかでの思い出にも心安らいでいるように見える。


「……美琴さんて、不思議な方ですね――」


 舞花はふうっと息を吐く。


「三栗谷家の方だけでなく、さっきまで町の人たちにも美琴さんの話を伺っていたのですが、みなさんが美琴さんのことを好きだったんだなと感じました。かと思えば、必ずと言っていいほど付け加えられるのが、気が強かったとかへらず口だったとか……。普通は財閥のお嬢様に対して、そんなことは思っていても口に出すことはしません。それなのに、誰もが笑顔で、美琴さんを偲びながらそれを口にしてしまう……」


「たしかに、美琴は他にはいない変わった気質を持っていたな……」


「人の心に溶け込むのが上手というか。誰もが魅了されてしまう人でしたね」


 時雨が嬉しそうにつぶやき、晴夏は鼻をすする。


 舞花は美琴と会った事はない。けれども、話を聞くだけでとても素敵な女性であったことはわかる。例えるならば、野花のなかに咲く一輪の高根の花といった感じであろうか。

 誰もがその花に魅了されながらも、高根の花は孤高ではなく、周りの花とも協調して自分以外をも輝かせていた。

 だからこそ皆に愛されていたのだろう。


「私も、美琴さんに会ってみたかったです」


 舞花のつぶやきに、時雨はフッと笑みをこぼした。


「そうだな。キミなら、きっと美琴の良い話し相手になったことだろう……」


 そう言ってスーツの胸ポケットからあるものを取り出した。


「あら、かわいいブローチですね」


 それは楕円形をした陶器のブローチ。こう言っては何だが、とても時雨の趣味には見えない。

 そう思われていると感じたのか、時雨はブローチを舞花にも見せる。


「これは、あの日に美琴がくれたものだ。男がブローチなどとは思うのだが、手もとに置いておきたくてな。肌身離さず持ち歩いている」


 それには小さな薄紫色の花が描かれていた。花の真ん中が黄色い目のように見えるのが特徴的な野花。


「あの日? もしかして、それを渡されたのは事件当日ですか?」


 少し身を乗り出す舞花。


「ああ。あの日も、美琴はいつものように私の部屋へ就寝前の挨拶に来たのだ。仕事に根を詰め過ぎだと、珍しく酒まで用意してな。たまには早く寝ろと言いたかったのかもしれん。そのついでにと、このブローチを私にくれたのだ。これを通して自分がいつも見張っているのだから、体が壊れるほど働くのはやめなさいと叱られてしまった」


 優しい顔で苦笑いする時雨。

 時雨の多忙は数々の人たちが心配していたが、同時に時雨は心配する声に耳を貸さないと嘆いていた。気が強くて兄想いの美琴のこと。かなりきつい言い方をしたのかもしれない。


「美琴さんは、働き過ぎの時雨さんが心配だったんですね」


「そうなのだろうな。……しかし、あの日に限っては寝ずに仕事をしておくべきだったと後悔している――」


 時雨の声が低くなる。その表情は自分自身に向けられた怒りの表情。


「あの日はよほど疲れていたのか、グラス一杯の酒で酔ってしまってな。気が付いた時には朝になっていた。もし私が寝ていなければ、真下にある美琴の部屋の異変にも気づいたかもしれん。美琴が殺されることもなかったかもしれん。いや、殺させなかった。犯人が誰なのかは知らぬが、この身を犠牲にしてでも美琴を……美琴を……」


「時雨さん……」


「頼む。美琴をあのような姿にした犯人を見つけ出してくれ。警察は私を犯人だと疑ってからというもの、私以外の人間を調べようともしないのだ。警察の動きが邪魔になるのなら、私は何度でも警察へと赴いて彼らを引きつけよう。だから頼む。美琴を殺した犯人を見つけ出し、相応の裁きを受けさせてくれ。この通りだ……」


 今にも泣き崩れそうな顔で、時雨は深々と土下座をするかのように頭を下げた。


 このために時雨はあっさりと警察へ同行する事にしたのだろう。警察が他の人間を調べようともしていないのであれば、屋敷に残っていても舞花の邪魔にしかならない。ともすれば舞花に難癖をつけて、現場である美琴の部屋へも立ち入らせない可能性もあった。時雨はそれを危惧したようだ。

 同行する前の時雨は舞花との面識はなく、同席していた向嶋から過去の実績を聞いただけ。そんな会ったことも探偵としての実力も見極められない舞花に望みを託さなければならないほど、時雨は追いつめられていた。

 時雨は自分の無実を証明してもらいたいわけではない。愛する妹の命を奪った真犯人を見つけてほしいだけである。

 それを感じた舞花は、


「必ず、真相をお伝えします」


と力強く頷いた。



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