7、真っ昼間の林の中で
魔王の森とは反対方向の林を抜けたそこで、薫さまと理沙ちゃんを見送った。
二人の姿が見えなくなっても、そこを立ち去る気にはなれなかった。
何事もなく、無事たどり着いて、ちゃんと生活出来る事を願う。
「ダメだと思ったらすぐ戻っておいで」と言えば、涙を浮かべて抱きついて来た理沙ちゃん。
親になった心境だ。
兄弟が多かったから、ここ数か月の暮らしですっかり大人数でご飯を食べる居心地の良さを思い出してしまった。
鼻の奥がツンと痛む。
「さみしくなるねぇ」
そろそろ村に戻らなきゃ、今日も仕事が入ってるし。
分かってるけど、なかなか足が動かない。自分を奮い立たせようとしたところで、肘を引っ張られ、そのまま手を取られた。
「帰るか」
そう言った真尾田は、まるで顔を見せたくないとでも言うかのように先を歩く。
どうして理沙ちゃん断っちゃったんだろうねぇ、こいつは。
真尾田の背中を見ながら、内心ため息をついた。
まぁ、私が聞くべき事じゃないし、聞いたら怒るだろうから聞かないけどさ。
ピーター君はだいぶ前に『用事があるから僕、先に帰りますー』と走り去っている。
あのヤロウ。なんてあからさまな。
つながれたまま引かれる手を取り戻せない。
離そうとこっそり引っ張ってみたけど、余計に強く握られてしまった。
相変わらずこちらを見る事もなく先を行く真尾田はこちらでは一般的な、ノースリーブ状態の夏服姿。
認めよう。
腕の筋肉だけは完全にどストライクですわ。
二の腕から、手先へと視線を巡らせた先には血管の浮いた筋張った大きな手と、それに握られた自分の手。ささくれだった手はお互い様だ。
手をつないでちょっと緊張するとか。中学生なんてでもあるまいに。
ぼんやり考えて思わずふと笑ってしまう。
「メンズと手をつないで歩くとか、久し振りだよ」
真尾田は足を止めた。
見上げて、見なきゃよかったと後悔した。
真っ直ぐに見詰めてくる瞳が、怖いくらい真剣だったもんで。
伸びて来た手は頬の輪郭を撫で、こめかみから髪を梳くように動いて行く。
何度も何度も、髪を梳かれるように撫でられた。
それはまるで確かめるみたいで、実際、私が拒絶するんじゃないかと反応を確かめてるんだと思う。
丁寧で優しいその仕草は━━まさに愛撫という言葉がぴったりで、かっと胸の奥が熱くなった。
ああ、心臓がめちゃくちゃ大きく活動してる。
そんな1回1回大量に血液を送り出さなくても、口から心臓が出そう、っていうくらい鼓動が激しい。
「二人が行ってすぐに、は節操がない。堪える事を覚えたんじゃないんですか」
苦し紛れに抗議した。
それに実際、二人が行ってすぐなんて、まるで邪魔者だったみたいでいい気はしない。
「俺だってこのタイミングで手ぇ出すつもりなかったわ。お前がそんな事言うからだろ」
どうして手を出した方が怒るんだ。理不尽過ぎないか。
でも考えてる事は一緒だったようで少し安心した。
じゃあこの状態は不可抗力とか、事故って事か。
「好きな女と朝から晩まで顔つきあわせてんのに手も出せないって。お前考えてみろ」
━━おい。
撫でるように首筋に手を添えられる。
おい、ちょっと待て。
それは初耳というやつで。
「嫌ならまたアイアンクローするなり、殴れ。でもまた手痛めるとアレだから、気をつけろ」
馬鹿じゃないの。
意味わかんない。
さすがは魔王と呼ばれた男だ。
ずるい。
予めそんな宣言されたら、嫌だったら即言葉で拒否出来るじゃないの。
だから、それをせずにこうして受け入れるって事は、流されちゃったって意味で。
だって、好きとか、初めてこいつから言われたワケだから。
でもって、その単語に自分がこんなに動揺するとは思ってなかったもんで。
この卑怯もん。
嫌だったら何かされる前に殴ってるわ。
触れるだけの口付けを、どこまで許されるか探るように数回重ねる。
そんなやり方。
それがあまりにも慎重だったもんで、つい苦笑した。
「キス一つでそんなに怯えられても」
ああ。これ、まるで悪い男のセリフだわ。
大きなため息をついた真尾田に抱きしめられる。
「また拒否されたら、たぶん職場の人間関係が悪くなる」
天を仰ぐようにして言った不満げな声は、いつもの真尾田だったからだと思う。
しっかり囲い込まれているのになぜか気持ちが落ち着いて、吹き出した。
綺麗な筋肉のついた腕を叩いて顔を上げる。
「帰ろっか」
笑って促したら真尾田は驚いたように少し目を見張って━━固定するように後頭部と背中に手を回され、もう一度口づけられた。
おかしい。
どうやら、なんかのスイッチ押したらしい。
キスには、上手いヘタというものが存在するのは知ってるつもりだった。
経験によるものなのか、天性のものなのかは分からないが、それは確かに存在する。
「あー、キスしてるなぁ」ってだけのタイプと、もろに気持ちがいい、体の奥に直接的に響くようなクセになりそうなやつだ。
でもってさすが魔王と呼ばれた男である。
ちくしょう。
まさかコイツがこんなにテクニシャンだったとは。
応じる事も、拒否する事も選べずにされるがままになってしまった結果、最終的に好き放題状態のえらい事になった。
いつの間にか引きずられるように応えていて、そうなると一層激しくなっちゃって、呼吸のタイミングも与えられないほどのそれに、いい加減背中を叩いて抗議する。
真尾田はしばらく動きを止め、「はぁ」と脱力するように息を吐く。
耳元でそれはやめてくれ。
体内にこもった熱を吐き出すようなその仕草は妙に官能的で、耳元でそんな事をされたら非常にキツイ。
気持ちは分かるけど、落ち着いてほしい。
いや、落ち着こうとしてくれてるのも分かってるんだけどね。
なんか、必死で耐えてくれてる。
人肌の気持ちよさを思い出しちゃったら、そうなるよね。
それから両手で首筋からこめかみまでを包み込まれる。
額同士を合わせて、目を伏せた真尾田は深い息をついた。
「いくら触れても足りない気がする」
キュンを通り越して、ゾクリと来た。
あれほど暴れまわっていた心臓が、今度はキュッと握りしめられた感じだ。
ああ、もう、本当に。今日は心臓が散々な目に遭ってる。
これって絶対心臓に悪いわ。
気がつけばまた抱きこまれてるし。
「今日の業務覚えてる?」
真尾田はため息をついてから、少し笑う。
「俺は水車の修理。お前は川の近くのばあちゃんちの畑の手伝い」
そうそう、真尾田の仕事に対する姿勢は素晴らしい。
うん、そういう所は好きだわ。
だからこれまでもやって来れたんだし。
「行きますか」
私は笑って真尾田のごつごつとした男らしい手を取った。
あんな濃厚な時間を過ごしたわけだけどさ、感覚的に言うと午前9時くらいだからね。
林の中とは言え、真昼間の開放的な屋外。
いたたまれないったらありゃしないわけですよ。
「セイさん、すぐ手ぇ出すし、妙に手慣れてるけどやっぱチャラかったの?」
道すがら、やっぱり手を引いて前を歩く真尾田の背に問いかけると、それは嫌そうな顔で振り返られた。
「やっぱりってなんだよ。理系出身を舐めるな。過労死寸前まで残業してたのにそんな暇ないし、手慣れてるならこんなに苦労しなかった」
……なんか、妙に実感がこもっていた。




