末期の水をくれる者
「え、そんなものでいいの?」
彼女はひどく不服そうな声を出した。
彼女――と迂闊にも見ための情報を書いてしまったが、本当のところ性別などわからない。何しろ相手は悪魔なのだから。
なぜ私が悪魔など呼び出してしまったのかを説明するには、まずはこの船がいかに危機的な状況にあるかを知ってもらわねばならないだろう。
この船で漁に出て1週間、もっとも港を出てすぐに落雷によってシステムの大半がやられてしまったのだから、正確には漂流を始めてから一週間ということになるか。食料はすでにそこをつき、水の備蓄もなくなった。
もともとこの船は私が一人で漁を行うための小さなものだ、こういう事態になってしまっては誰もわたしを助けてくれるものはなく、しばらくは釣り糸をたれて飢えをしのいでいたが、ここ何日かは不漁で小魚一匹とれやしない。
だから、すでに指先を動かすことすら億劫なほどの空腹と、喉を焼くような渇きの中で、私は死を予感した。
「ここで私にいっぱいの水をくれる者がいるなら、それが悪魔だってかまわない」
そんなつぶやきに応えたか、私の目前にとつぜん現れたのが彼女だったのである。
「もっと良く考えて見なさいよ、だれも見たこともないほどの金銀財宝でも、かっこいい高級外車でも、幻のナントカみたいなものだって、物質である限りは私の能力で出してあげられるんだから」
彼女が得意げに小鼻をぴくぴくさせるから、私は相手が悪魔だということも忘れて少し笑ってしまった。そのくらいに彼女の見た目はごく普通の少女だったのである。
もしかしたら、寄る辺ない海の真ん中で孤独のまま死んでゆくのだという恐怖から救われた気安さだろうか、私の声音は悪魔にかけるにはいささか不釣合いで、どちらかといえば知り合いの子供をからかうときのような気安いものでさえあった。
「悪魔っていうのは何でも願いをかなえてくれるモンだろう? どうかな、私を陸に帰してくれないだろうか」
「それは無理、悪魔が人間の命を救うなんて話は聞いたことないもの」
その後で少し申し訳なさそうに声音を和らげて、むしろこどもっぽい口調で言葉を添えてくれたのが悪魔なりの優しさなのか、それとも彼女の本来の性質なのかはわからない。私には精一杯の慰めにも聞こえた が、相手が悪魔だということを考えれば人間には理解できない皮肉のつもりだったのかもしれない。
「それに私の能力は単なる物質召喚で、あなたの人生に都合のいい奇跡を起こすためのものじゃないの。だからいまの欲求を満たしてあげることはできても、あなたを陸に帰してあげることはできない。ごめんね」
私は少し意地悪な気分になって、悪魔を験そうとする。
「もしも私が肉欲を満たしたいと言ったらどうするんだい? おっぱいぺったんこの子供なんかじゃなくて、グラマーでムッチムチのとびきりの美女がいいって言ったら?」
「私は悪魔だから姿も仮のもの、あなたが満足するような女性にかわることもできるけれど、本当にそれがあなたの望みなの?」
「いや、まってくれ。そういうことならばやっぱり、水を一杯だしてくれ」
悪魔が少しだけ微笑んだ。
「人間っておかしいわね。水なら船の周りにいくらでもあるのに、それでもたった一杯の水を望むのね」
「おいおい、あれは海水だから、とても飲めたもんじゃない。私が欲しいのは喉を潤すための清浄な真水だよ」
「大丈夫、悪魔だってそこまで馬鹿じゃない、万事心得ているわ。山奥の清流の源泉からくみ上げたような、何も混じりけのないおいしいお水を用意してあげる」
「そこに氷の2、3個も浮かんでいると、なおありがたい」
「そうね、そのくらいのサービスはしてあげる」
ふと、『末期の水』という言葉が思い浮かんで、私は身を折って笑い転げた。
別に普段ならこんな言葉に意味など感じることもなかっただろうに、今、悪魔を相手に自ら末期の水をねだる自分がひどく愚かしくて面白いもののように思えたのだ。
「その水を飲んだら、私は死んでしまうんだろう?」
「死ぬのとはちょっと違うわね。私に魂を奪われて、肉体が全ての生存反応を停止する、それだけのことよ」
「それを私たち人間は『死ぬ』と呼ぶのだよ」
「まあ、どっちでもいいわ。お水はいるの? いらないの?」
「いるいる、とびきりうまい水をきれいなグラスに一杯、氷も浮かべてくれ」
まるで手品のように、少女の手の中に私が望んだとおりの物が現れた。すなわち切り子の大きなグラス、なかには透き通った水が満たされており、外気の水気を吸ってびっしりと汗をかいている。
「ほう、おいしそうな水だ」
目を細めてグラスを受け取った私は、一瞬だけグラスに口をつけることを躊躇した。
これを飲み終えれば悪魔は私の魂を奪い、私は死ぬ。
「まさに末期の水か」
空を見上げれば太陽は無慈悲な顔をして、刺すような暑さとまぶしさを四方八方に投げ出しながらじりじりと燃えている。
――暑い。
最初の一口を丁寧に口に含めば、乾ききった唾でねっとりと臭かった口中が洗い清められる。頬の内側も、歯の裏も、音がするんじゃないかというほど急速に水分を吸い込み、わずか一口の水はあっという間に喉から滑り落ちていった。
「うまい」
例えばこれが泥水であったとしても、人間の体に必要な水分でさえあればためらいなく飲んだことだろう、それほどに私は乾ききっている。
そこへ手渡された清浄かつミネラルをたっぷりと含んだ水がおいしくないわけがない。
私はグラスを傾けて、氷のひとかけらを水のひとくちとともに歯の間に取り込んだ。
「これはうまい」
がりがりと噛み砕けば熱く火照っていた体が一気に冷やされてゆく。血管の中で滞っていた血液が急に流れ出すような強い生命感を指の先にまで感じて、私はひどく悲しくなったのだ。
――いまなら……
もう一度つりざおを手にして甲板の端に座ることもできそうだ。失われていた気力は回復したのだし、もしかして助けの船が来るまで待つこともできるかもしれない。
なのに、ああ、これは末期の水なのだ。
「もしかして泣いているの?」
悪魔が急に顔を覗き込むから、私は噛み砕いてすっかりぬるくなった氷をあわてて飲み下した。
「別に泣いてなんかいない。どうせこの水を飲み終わったらあんたの思い通りに死ぬんだから、しばらくほっといてくれないか」
悪魔が笑った。実に悪魔的な、底意地の悪い笑いだった。
「そうね、ゆっくりと味わうといいわ。人間風の陳腐な言い回しをするなら、『命の一杯』っていうものなんだから」
悪魔はクスクスと耳障りな忍び笑いをこぼしはしたが、それ以上は何も言わなかった。
だから私は透明な液体の色を楽しもうと、グラスを陽にかざした。
切り子の間を通った陽光はほどよく砕けて宝石のようにグラスを輝かせたけれど、その中に入っている液体はまったくの無色でそっけない。いくぶんはキラ、キラときらめいて見せるが、それはグラスの光を反射しただけであり、まったく揺らぎない無色こそがその液体の本来の色なのだ。
これをすべて体に流し込んだとき、私は死ぬ――。
それでも私はグラスを口元に引き寄せ、大きく傾けてもうひとくちを飲んだ。
なぜなら太陽はあまりにも暑く、まぶしく、私はあまりに乾いている。
悪魔は、そんな私を面白そうに笑いながら眺めているのだった。