サマータイムブルース
音がした。毎日、毎朝聞いた音にとても似ていた。それはつい半年前まで付き合っていた彼が腰につけていたキーチェーンの音だった。
思わず振り返って姿を探す。人が行きかう交差点で一瞬だけ聞こえた音を頼りに特定の人を見つけるのは不可能に近い。そう考えて彼女は自嘲する。いったい何をしているんだ、と。
「どうしたの?」
前を歩く同僚が心配そうに声をかける。彼女は首を振って「何でもない」と同僚に駆け寄った。
「あんまり交差点でぼーっとしてると危ないよ?」
「靴擦れがちょっと痛かったんだよ」
「今日も散々歩いたからね……大丈夫?」
同僚は彼女の足を気遣い、歩くスピードを落とした。こうしたさりげない優しさはこの同僚にとって当たり前の仕草だった。
「大丈夫、大丈夫。さぁ、早く行こう。お腹すいちゃった」
わざとらしくそう言って彼女は歩幅を大きくした。不意に思い出した懐かしさを振り払うように。
彼は自由奔放な性格だった。自分の気持ちに素直で、よく言えば真っ直ぐな人と言えなくもないが、彼を知る友人は口ぐちに彼を「子供だ」と言った。
半年前、突然思い立ったように「旅に出る」と言い出したのも、今にして思えば彼にとっては自然なことだったのかもしれない。
もともと出会った頃から写真が好きだった彼は、大学を出ると迷うことなく写真家への道へ進んだ。自由気ままな彼が誰かの下について腕を磨くなんて地道なことができるのかどうか彼女は心配だったが、好きなことに対してはストイックなほどに打ち込む性格の彼は意外と楽しんでいるようだった。
彼女はその姿に安心していた。その三年後に突然目の前から消えるなんて事はその当時思いもしなかったのだから、今の彼女が当時の自分を振り返って「何を安心してるんだ」と後悔しても、それは仕方がないのかもしれない。
「俺、そろそろ自分の写真を撮ろうかと思うんだ」
いつものデートの後、決まって訪れた彼のお気に入りのラーメン屋でいつもと同じメニューを食べた後に、彼はまるでちょっとそこまで、といった感じでそう言った。半年前の事だ。
「だから、ちょっと旅に出ようと思ってる」
「は?」
突然思いもよらぬ言葉が彼の口から飛び出したものだから彼女はまさしくハトが豆鉄砲をくらったような顔をしてしまった。
「自転車であちこち回りながら気に入ったものを片っ端から撮ろうと思ってるんだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんで急に……てか、仕事は?」
「うん、師匠にはOK貰った。『好きなようにやってみろ』ってさ」
心底嬉しそうに笑ったその顔が、彼女の記憶にある彼の最後の笑顔だった。その翌日、携帯に「じゃ、行ってくるよ」と連絡があり、それっきり彼からの連絡は途絶えた。
あまりの清々しさに、彼女ははじめ唖然とした。その後すぐに怒りがこみ上げたが、ケンカをしようにも彼はすでに1年分の家賃をまとめて払い、旅立った後だったのでどうすることもできなかった。
こっちからは絶対連絡するもんか。
彼女にも意地があった。まがりなりにも恋人である彼女に何の相談もなく自分勝手に決めて、彼女の了承を得ようともしなかった彼を、あっちから謝るまで絶対に許してやるもんかと、心に決めた。
それが仇となったのかもしれない。彼がいなくなって一ヶ月も過ぎた頃、とうとう我慢できずに彼女のほうから連絡を入れると、聞こえてきたのは無機質な音声だった。
『お客様がおかけになった電話はお客様の都合により通話ができなくなっております』
あれから半年が経ったが、彼からの連絡は一切なかった。これだけ時間が経つとさすがに諦めが顔をのぞかせる。
今となっては、あの時いっそはっきりと「別れよう」と言って欲しかった。突然目の前からいなくなってしまったものだから彼女としては宙ぶらりんのまま放置されたようなものだった。
「またぼーっとしてる」
同僚に言われて彼女はハッとした。
「あ、ゴメン」
「ここ、気に入らなかった?」
店内を見渡して同僚は少しだけ顔を曇らせた。
仕事終わり、偶然時間が重なった同僚に「食事でもどう?」と誘われて、彼女は「いいよ」と返事をした。
いい店があるんだ、と同僚が連れてきてくれたレストランは雰囲気が良く、かといって格調高いわけでもなく、値段も手ごろで、何より料理がおいしかった。気に入らないなんてことがあるわけがない。
「そんなことないよ」慌てて首を振る。
「いいお店だよね。こんなところを知ってるなんて、さすがだよ」
「あ、僕が何人もここに誘ってると思ったでしょ?」
まるで同い年には見えない可愛らしい笑顔を見せる。同僚はこの笑顔で社内の女子社員のハートを鷲掴みにしていた。
同期の中ではダントツに顔が良く、仕事ができて、なおかつ女性に対してさりげない気配りができるほど異性に慣れているこの同僚が、モテないはずがなかった。
彼女が知っているだけでも、この同僚になら抱かれてもいいと言っている女子社員は片手だけでは足りないほどだ。冗談か本気かは別としてだが。
「こう見えても僕は女性に対しては一途でね。信じないかもしれないけど、今までに付き合ったことのある人数なんてホント数えるくらいしかないんだ」
赤いワインが注がれたグラスを片手に、それこそまるで信じられないようなことを事もなげに言う。嘘だね、と言うと、ホントだよ、と白い歯を見せた。
この同僚が自分に気があることを、彼女は知っていた。今日一緒にここに来るまでの間に幾度となく誘われたのだから、極度の鈍感だとしても気付くだろう。
彼女はその誘いを断り続けていた。他の女子社員からは反感と言ってもいいくらいの批判を受けたが、まだ彼に対する想いを断ち切れないでいた彼女はその誘いを受けるわけには行かなかった。
それでも今日ついに誘いを受けたのは、やはり諦めが大きかった。
「ここにはいつかキミを連れてきたかったんだ。いつもは一人で来てるんだけどね」
「そんなこと言って、簡単には信じないからね?」
「信用無いなぁ……」
困ったような顔をしながら、同僚はまんざらでもないようだった。もしかしたら今言った事は本当なのかもしれない。もしくはようやく彼女が誘いを受けたことで何かしらの手ごたえを感じたのか。いずれにしても今日をきっかけに同僚はさらにはっきりと行動を起こすだろうという事は彼女にもわかっていた。
レストランを出ると、同僚はさりげなく「送ろうか?」と尋ねたが、彼女のアパートは歩いてそれほど時間のかからない距離にあったために断った。
レストランの前で別れると、同僚は「また明日」と今日一番の可愛らしい笑顔を見せた。その笑顔には彼女の鼓動を少しだけ早くさせるだけの効果はあった。
恐らく告白されるだろう。それは今日ではなかったが、こうして誘いを受ければいずれ自然な流れでそうなるに違いない。
突然消えて以降、一度たりとも連絡をよこさないような男より、たとえすべての女性に対してだとしてもさりげない優しさを持つこの同僚のほうが、付き合えばきっと幸せになれるはずだ。
もし告白されたら、付き合ってもいいかな、と彼女は決めていた。
それは、彼を忘れるためのきっかけのようなものなのかもしれない。
もういい加減いいよね、と自分に問いかける。早く忘れちゃいなよ、と心の中の誰かが言ったような気がした。
アパートへの帰り道がほんの少し浮ついた足取りだったのは、料理酒として出された赤ワインが美味しかったせいだろうか、それとも久しぶりに訪れた異性とのひと時のせいだろうか。なんにせよ、彼女の心は少しだけ軽くなっていた。
アパートの玄関をくぐると正面に階段がある。彼女の部屋は2階だった。
パンプスが階段を踏みしめるたびにコツコツと小気味良い音を立てる。
階段を上りきると暗い通路の先、丁度彼女の部屋の前に座り込む人影が見えた。軽やかだった彼女の足が止まる。
彼女を見つけるなり人影が立ち上がった。すると懐かしい音がしてハッとする。聞きなれた、あのキーチェーンの音だった。
「愛美……?」
通路に懐かしい声が響いて彼女は自分の心臓が早鐘を打っていることに気付いた。
ゆっくりと人影が近づいてくる。歩くたびにチャリチャリと音がする。彼女は無意識に後ずさりしていた。
「だ、誰……?」
間違いない、彼だ。自分勝手に目の前からいなくなって、半年もの間音信不通だった、あの彼だ。頭では分かっているはずなのに自分の中の誰かが否定する。まさか、彼のはずがない、と。
「やっぱり愛美だ」
弾んだ声を出して走り寄ってくる人影は、近づくにつれてだんだんと輪郭がはっきりしてくるはずなのに、何故か近づいてくるにつれて滲んで見えた。
「久しぶり。元気だったか?」
少し見上げる位置にある見慣れた顔。最後に見た時より少しだけ痩せて、無精ひげが生えていたけど、それはやっぱり間違いなく、彼だった。
「今日帰ってきたんだ。真っ先に愛美に会いたくてすぐ来たんだけど居なかったからさ、帰ってくるまで待とうと思って」
「……なによそれ」
彼を目の前にして半年溜め込んだ怒りが急激に膨れ上がる。今にも爆発寸前だ。
言いたいことは山ほどある。何度も葛藤を繰り返し、今日ようやく踏ん切りをつけようと決めたところなのに、なんでこのタイミングで帰ってくるのか。
「あたしがどんだけ……」
「ごめんな?」
不意に謝られて言いたかった言葉が吹き飛んだ。代わりに一言だけ出てきた言葉を思い切り叫ぶ。それが精いっぱいだった。
彼女は無意識に彼を抱きしめていた。今更になってやはり自分が彼を待っていたのだと思い知る。
彼は上から覆いかぶさるようにして抱きしめ返した。それは力強くもあり、そして優しくもあった。懐かしい香りが記憶を刺激する。この瞬間に半年のブランクなどまるでなかったかのように彼との思い出のすべてが鮮明によみがえった。
「旅に出てすぐに俺携帯なくしちゃってさ、でも無理言って師匠からOK貰った手前やめるわけにもいかなくて……連絡しようにもできなくて。この半年何度もお前の声が聞きたくなって何度も挫折しそうになったんだ。いや、ホントは一年の予定だったのに半年で帰ってきちゃったわけだから挫折と言えば挫折なんだけど……でもこれ以上無理だったんだ。とにかく一刻も早くお前に会いたくて愛知から三日で帰ってきたよ」
「あたしが待ってるとでも思ったの? もう新しい彼氏がいたかもしれないのに」
「そんなわけないさ。俺はお前が好きだし、お前も俺の事好きだろ?」
耳元でささやかれて背筋に電気が走る。何故だか安心してしまっている自分が悔しかった。
「写真、見せなさいよ。あたしを置いて行ったんだからあたしを納得させるような写真撮ってきたんでしょうね?」
彼女が目いっぱい意地悪く行ってみせると、彼はその時だけは自信満々に頷いた。
「もちろんだ。絶対に感動させてみせるよ」
彼の腰でキーチェーンがチャリっと澄んだ音を立てた。