プロローグ
晴れてる、けど風がなんとなく冷たい。そう感じるのは、自分の心のせいかな。薄い青空は、水が多すぎた水彩絵の具みたいでちょっとまぬけ。
「ふー…」
葉菜子は静かにゆっくりと息を吐いた。通学路の途中、右に曲がって初めての道に踏み込む。でも、べつにワクワクなんてしない。青い壁のアパートは、1階しかなかった。アパートって言えるのか甚だ疑問だ。
「107、ここかなー」
葉菜子が呟くと同時に、うるさい音を立てて扉が開いた。
「お、どうぞー」
顔を出したのは、首元がよれているTシャツを着ていて、いかにも寝起きですって顔をしている男の人。でも何より、色白なのにやけに眉毛だけが濃いなあっていうのが第一印象だった。
「どーも」
イケメンだったら少しは気分も上がっただろうか。葉菜子は密かに毒づく。
「う、わー…ごみ。」
「ああ、これ。ゴミ出す曜日に家空けてるからさ、捨てそびれるんだよねー」
ゴミがありすぎて、玄関がとても狭い。なのに平気そうな男がヘラヘラって笑うのを見て、葉菜子は体中の血の温度がどんどん下がっていくのを感じる、気がした。左を向けば、服が畳まれることもなく可哀想なくらい無造作に積み上げられ、右を向けばシンクの中にカップ麺の容器とか鍋とかが仲良さそうにしている。なんて賑やかな家庭なんだろう。
「…汚い。」
「これでも片付けたんだよ」
男はまた笑う。
「ん。」
なんとか座る場所を見つけて、目の前の小さなテーブルに、近くのスーパーのお惣菜コーナーで悩んだ挙句買ってきたものを置く。
「あ、ありがとー」
男はガサガサと袋から出すと、歓声を上げた。
「天丼じゃん!おいしそう!」
「うん。いいのみつけたでしょ。」
相変わらず緩い笑顔の男と、話す度に淡々としていく葉菜子の間に、静かに沈黙が横たわる。葉菜子は、自分のために買ってきた焼きチョコの箱を丁寧に開けて、ゆっくりと口に運ぶ。ふと、目線を上げた瞬間、ひとつの視線とぶつかった。
「ねえ、葉菜子ちゃん、こっちおいで。」
また、笑うんだ。その、緩んだ笑顔で。ときめかないよ、そんなんじゃ。
でも、しょうがないから、行ってあげる。
だってわたしは、他人の中にしか自分の存在を見つけられない。認められないんだ。
あれから、何度か会ったけど、彼の緩さは身体にだるく残るだけで、心に浸透してこない。葉菜子はだるい身体をソファに預けて、携帯を眺めていた。かれこれ3時間、ソファの上から動かずにいる。
「もう、やめよーかな」
ぎゅううっと画面を押すと、右上にバツ印が出現して、揺れ始めた。そっと、親指を添えて、アプリを消した。その行為をひたすらに繰り返して、限りなく初期状態に戻ったことを確認すると、葉菜子はふうっと大きく息を吐いた。
「つながりなんて、いらない。でも、さみしいよ…」
声にならない呟きが、広い居間に吸い込まれて消えていった。