上禊
あたり前のように毎日を生きることの難しさを現代の人間は知らない。
それは無知なわけではなく「そういう」時代なのだからしょうがない。
時代の流れ。
言葉にすればわずか五文字で表現しうることすら簡単に出来る。ニュアンスだけでとるのなら流行・変化などと更に短く簡潔に纏めることもできてしまう。
しかし、この言葉は年単位、それ以上の時間の経過でしか使わないモノである、と上禊十三は考える。
長期を語る言葉。世紀に纏わるもの。
この言葉を使う人間はゴマンといるがこの言葉で表現していい人間はいない。
個人では。
血脈、血筋、一族。
そういう見方をすれば多少は増えるだろうが、人一人の一生を表すにはとてもつりあわないレベルの言葉。
「どうかしたか?」
声を下からかけられ、十三は思考するのをやめる。
否、止める。
先ほどまで隣を歩いていた10歳になるかという年頃の吸い込まれそうなと表現するに相応しい大きな瞳と巫女服が特徴的な少女が十三の眼前に立ち、下から顔を覗き込んでいる。
少女の名は上禊 九。
九の名を冠するこの少女は現在九十三名いる〈上禊〉の人間の中でも現役に限れば十指に入る実力を持つ。
実際の年齢は知らない。小学校にも通っていない、たおやかな見た目の少女。
僕のどこか優れない表情に気がついたのだろう。心配という感情を上手く言葉にできないのか、彼女の瞳はただ不安気に揺れるばかりだ。
どこにでもいそうで――ここにしかいない少女
僕にとって唯一無二の存在。
これはきっと「神眼」の力だけじゃないだろう。
彼女独特の――
と、思いつつも目線をわずかに逸らす。
彼女が自分にその能力を奮わないことは知っていてもやはりどこか目はあわせづらい。
「なんでもない、大丈夫ですよ」
視線を外しながら、笑顔を作ってそういうと九はそうか、と小さくつぶやいた。そして、十三の左側を歩いていた彼女は僕の右横へと移動した。
「九、車道側は危ないと何度言えばわかるんですか」
「だから、万回説いてもわからんといっておろう」
今日五度目となるやり取りをする。
彼女は僕が油断するとすぐ車道側を歩こうとする。 どうやら、そこが九にとってのベストポジションのようだ。
彼女は車を見る機会がほとんどない。
仕事で何度か乗ったことがあるだけで、その時だって御付きのものが彼女を囲んでいるので車内に入るまでいま自分が車から何メートルのところにいるかさえもわからない、と九は不満を漏らしていたことを思い出す。
九は車だけでなくおおよそ普通の少女なら知っているような常識もほとんど知らない。〈上禊〉として必要なこと以外、ほとんど何も知らされていないのだ。それが世の中の常識を知り、外の世界へと旅立っていった先代一のような裏切り者を出さないように上禊が行った予防策。
その純粋培養である彼女がこうして外の世界に興味津津なのを考えると、この苦肉の策もあまり効果は得られそうにない。
それがいいことなのか悪いことなのか。測りかねている十三はとりあえずその考えを追いやりたくて、彼女の護衛としての現状把握を開始した。
現在の時刻は午後の10時。最近では小学生でもおきている時間で、一地方都市の中では割と都会的なこの街の車通りはまだまだ多い。
もし車が突っ込んできたら、と考えると背筋が凍る。
歩きで依頼人の家まで向かうという行為がもうすでに例外なのだ。九のたっての希望でこうして叶いはしたが、彼女にもしものことがあったら、僕は当主になんと言えばいいのだろう。いや、彼女に何かあったその時点で、もう自分は口の聞けない状態になっているだろう。
僕自身が処罰されることは別に良しとしても、彼女の万が一など考えたくもない。
「ダメです! 頼みますから左側を歩いてください」
「ぶぅ」
ぶぅたれながらも毎回彼女は一度の説教で元の位置に戻る。
これも五度目。
お願いしますよ、と漏らした息が白く色づく。
十月ともなるとさすがに寒い。
しかも仕事中なので礼装である。
せめて、上になにか羽織ってくればよかった……まぁ、九には厚めのコートを着せてやったのでいいが。
しかし、巫女装束の上にコートというのもなんだが変な感じだな。
と考えていると十三の右腕になにやら暖かいものが触れた。
それは九の腕だった。
うつむきながら呟くように言う。
「五度も言う事を聞いたのじゃ、これくらい良いであろう」
「…………」
全く、こんな小さい子にまで気を使わせるなんて……最低だな。
言葉とは裏腹に少女の優しさに十三の顔はいつのまにか笑顔になっていた。
閑散とした住宅街を歩いていると、しばらく鼻歌を歌っていた九がいきなり脈絡なく聞いてきた。
「しかし、わざわざ我が出向くほどのコトなのか?」
僕を見上げて九は問う。
「なにがです?」
話の流れが全くと言っていいほど見えなかったので聞き返すと、少し鼻白みながらもより具体的に説明してくれた。
「この案件じゃ。わざわざわらわが出向くこともなかろうて。資料を読んだ限りではわらわのところにまで上がってくる、はいれべるな悪霊とは思えんの。ただの矮小で雑多な霊にしか見えん」
ああ、と相槌をうつ。
なるほどこの仕事についてか。
「ちゃんと資料読みましたか?ウチの人間が二人ほどやられているんですよ」
「やられたのは“端数”じゃろ?わらわが出張らずとも“切番”か“重番”程度で十分対応出来ると思うがの。そうでなくとも、お主がいけばなんとかなるんじゃないかの?」
「ボクも“端数”ですよ」
形の上ではな、と彼女は鼻で笑う。
「現代において十三がなんの意味も持たないと? 謙遜はよせ。過ぎたる謙虚さは不快でしかない」
「気分を害されたのなら誤りますよ……本当に謙遜でもなんでもないんですけどね」
それに本当に謙遜したわけではない。十三など外国でこそ忌むべき数字だが、日本文化のなかではそれほど大きな意味を持っていない。彼女はああいうが、実際に僕はそれほど高く技術は持っていないのだ。能力だって感情に左右される不安定なモノだ。
「それに実際のところ、相手はお得意さまですからね。念には念を、と言った感じでしょう。あんまり失敗が多くて〈武武〉さん辺りに鞍替えされても困りますし」
「武武――ここ最近隆盛したとかいう民間軍事会社(PMC)紛いの派遣会社か……確かに『狂徒六家』でもない輩にお株を奪われたとなれば笑いものじゃのう」
「他の『狂徒』に奪われたほうが明らかにお笑い草ですけどね」
未だに車を見て目を輝かせるような子供のくせにPMCなどという単語を知っているのだから、その偏った知識の方向性がよくわかる。これが〈上禊〉の教育の賜物なのか弊害なのか……十三は後者だと思っているが口に出すことはない。僕以外に彼女の護衛が監視しているという可能性も零ではない。そいつにうっかり聞かれでもしたら、謹慎程度では済まないだろう。
そんな僕の心中を察したはずもないがだろうが、九は僕の顔を見てもう一度、少女らしからぬ重いため息をつく。
「ハァ……事情はわかった。まぁ、良しとしよう」
そして
「そのおかげでこうしてお主とでーとが出来るわけじゃしな」
今度は年相応の可愛らしい笑みを浮かべる。
なぜだかわからないが僕は彼女に気に入られているらしかった。
この仕事ももともとは彼女が別の家員と向かう予定だったが、彼女の我がままで僕にこの仕事がまわってきたというわけだが……
正直、めんどくさい。
僕はそれほど仕事熱心なほうではないし、仕事の内容上、死のリスクは常についてまわる。なので負傷者が絶える事はなくいつも欠員状態だが、それを差し引いても人数の割りに仕事量は少なく、基本的に月に一度回ってくるかどうかというところだ。僕はつい一週間ほど前にドがつくような田舎への出張を終えて帰ってきたところだ。
しばらくは回ってこないだろうし温泉にでもいってこようかと思っていた矢先にコレである。まぁやるとなればコチラもプロ、手抜かりなくキチンと依頼をまっとうするつもりだが、気分がのらないものはのらない。
彼女のわがままでなければ断っていただろう。
彼女がいなければ僕は生きながら死んでいた。
僕を本当の意味で生かしてくれた。
僕に「心」をくれた
だから、彼女の命は絶対で――彼女の命も絶対だ。
彼女が死ねと言えば、嫌だが死ぬ。
彼女が指を切れと言えば、痛いけど切る。
彼女が眼を取り出せと言えば、血の涙を流しながらも抉り取る。
彼女の所為にしていると言われても仕方がない。
それが僕なりの忠誠心の表し方。
僕の心の現れ方。
「どうした?でーとじゃぞ、でーと。主は嬉しくないのか」
と頬をふくらませ問いかけてくる。
こんなとき僕は正直に答える。
従うのは体だけ心が正直であることが彼女に対する忠義。
それが、心をくれた彼女への礼儀。
「正直、あんまり嬉しくないですねぇ」
そういうと彼女は悲しそうな顔をする。
まるでこの世の終わりをみたような。
いや、それはいいすぎだけど。
期待したような反応は見られない、といった顔ではあった。
だから僕は正直な心のままこう続ける。
「仕事じゃなければ別なんですが」
仕事でなければこんなに楽しいことはない。
大事な人と楽しい時間を過ごせるのだから。
僕は彼女に嘘をついていないし、自分の心にも嘘をついていない。九には出来るだけ、僕が側にいる間は傷ついて欲しくない。
「そうか」
彼女の顔がパァと花が咲いたように明るくなる。
――あぁ、この笑顔。
あの時に僕に向けてくれたものと同じものを彼女はいつでも僕に向けてくれる。
僕と向かい合ってくれる。
だからこそ、守りたいと。
護るべきだと心はそう動くのだろう。
体はそう動くのだろう。
あの時、僕に心をくれた、太陽を教えてくれた、僕を虚無から救ってくれたこの子の笑顔は、きっとどんな金銀財宝なんかよりも人々に多くのものを与えてくれると思うから。
上禊が誇る一桁ナンバーとか、そんなことはどうでもよく、この子は人を笑わせることのできる娘だと思うから。
「ふむふむ、それもそうじゃな、せっかく十三とのでーとに仕事なんかがついてまわってはなんせんすじゃな」
九は跳ねるように歩く。僕の横から僕の前へと躍り出る。
「では、今日のところはさっさと終わらせてしまおうかの。でーとはこの次じゃ」
そう言って振り向いた彼女はとても可愛らしくとても愛しかった。
はいはい、と自分でも顔が綻ぶのがわかる。
小さいその身体で元気一杯に走る彼女の後を小走りで追う。
そして、彼女に追いつき。
――そうだな、この仕事が終わったら一緒にどこかへ行こう。件の温泉に行くのもいいかもしれない。
勿論、彼女を〈上禊〉という檻から出す気がさらさらない上の連中相手にどう云ったところで聞いてもらえるかはわからないが。謹慎どころもはやこの地上にすら居場所がなくなってしまう可能性もある。
しかし、それでも。
もし彼女が望むようならば、僕は全身全霊を持って彼女の期待にこたえるとしよう。
そう誓い、小さなその手を握りしめる。
いつか離さなければならないこの掌を。
いつか話さなければならないあの過去を。
いつか放さなければならないその存在を。
いまだけは忘れて十三は穏やかな笑みで少女の手を優しく包んだ。