ただひとりの。
ケルビムとは、熾天使に次ぐ上級天使。異形の姿で描かれる、四翼の天使。炎の剣を持ち、エデンの東の門を守る天使。叡智があり、天使を監視する天使。
いつしか、ケルビムは姿を消した。その叡智ゆえ、天に疑問を抱き、堕天していったとされる。
現在、天にケルビムは唯一人。
元人間で、黒髪、黒眼の中性の天使。
温和そうな外見で、仕草は地上で王族だった頃のままに優美。その容姿も元男とは思えぬ、清楚な花のよう。とても、四大天使に劣らぬ強さの持ち主とは思えない。
性格は、容姿のままかと思えば、なかなかの曲者で、わがまま。さらに、折紙つきの頑固者。
彼は何を考え、何を想う天使なのだろうか。
側に仕える天使、ルーは、思いを廻らせる。
ここ、天において日曜日は一週間の始まりである。その日は、まず会議がある。
「そんな明るい色はヤダ」
朝、ルーが用意した服に、ケルビムは文句を言った。
「……支給されるものは明るい色ばかりですので、我慢して下さい……」
「ヤダ。この間着た、紺色の、アレでいい」
そう言って、ケルビムは自らクローゼットへとりに行く。
目当てのものを取り出して「これこれ」と満足気にうなずいている。
世話役のルーはため息をもらした。
ケルビムは、明るい色が嫌いだ。特に、白や、ピンク、水色は一切着ない。中性の天使が着る服は、上級天使になればなるほど華美になる。ゆったりとふくらむハイウエストのドレスにローブの組み合わせが一般的だ。多くの中性の天使は、逆に、明るい色を好む。変わり者は、このケルビムだけなのだ。もっとも、元男性とあっては、それも仕方ないのかもしれない。だが、元男性とは思えないほど、ドレスを着た姿は似合っていた。
ケルビムは自分でちゃっちゃと着ると、そのまま部屋から出ようとするので、ルーは慌てて止める。
「ちょ、髪がまだです!」
ケルビムの黒髪は腰に届く長さだ。艶やかな黒髪だが、はっきり言ってなんの飾りもなければ暗い印象になる。
だが、ケルビムは宝飾類にまったく興味がない。
「いいよ、そんなの」
「ダメです! せめて、これだけでも!」
ルーは髪飾りを差し出す。
「えー…それ、重いんだよ?」
「髪を結ってもそう言うくせに……」
ルーは急いで、大きな宝石のついたヘッドドレスをケルビムの頭にのせる。ついでに、両サイドの髪を束ねて広がらないようにした。
じゃ、と言って出て行こうとするケルビムを、ルーはまた呼び止める。
「ちゃんとローブを着て下さい!」
「ローブ、重いんだよ」
「これ、これなら軽いですから!」
ルーはせめてと白いストールを用意する。
なんでもかんでも、重い重いとケルビムは言う。大天使や、アカデミーの中性の天使はこの重そうな服に憧れるというのに、ケルビムはいつでも軽装でいたがる。流石に、全階級の長官、副官が集まる会議に、肩が露出したままでは恥ずかしいにも程がある。ケルビムはそういうことにまったく頓着がないので、ルーはほとほと困ってしまう。
これでも、マシになったのだ。ケルビム就任式典の時なんかは、説得するのに苦労した。それ以降も、人間の時に着ていた服を着ようとするので、ルーはこっそりその服を洗濯と称して処分したのだ。しぶしぶドレスを着るようになって、少しは慣れてきたところだ。
ルーは、ケルビムのいなくなった部屋で仕事を始める。
二重扉の間にある書類棚から、届いたばかりのものをすべて引き取って、自分の机で軽く目を通し、仕分けをする。今日中に処理をするものは、ケルビムの机へ置く。明日以降で大丈夫なものは、また二重扉の間の棚へ分けて戻す。
分けると、ケルビムの机には、書類の山が一つできる。会議は午前中いっぱいかかるので、この山は午後にすべて片付けなくてはならない。
ルーは、時間をみて、ケルビムを会議室まで迎えに行く。
とにかくいいかげんな人なので、放っておくと、延々と主天使のカウンターでおしゃべりをしていたこともあった。ルーがついていても、ケルビムは必ず休憩と称して、主天使のカウンターや、カフェに寄る。
今日も、当然のようにゆるく流れ落ちる階段を降りて、主天使のカウンターへ向かった。
何の話をするのかと思えば、苦情を言うのである。
「あんな案件、会議に回さないでよ」
「防衛関係だ。回さないわけにはいかないだろう。お前に回してもこれだ」
同じ会議に出席していて、戻ってきたばかりの主天使長官は、ケルビムに書類を見せる。そこには「却下」の文字と、ケルビムのサインのみ。
「これでは仕方ないだろう」
「そもそも、書類が多すぎるよ。仕方ないでしょ」
「……木金は何してるんだ」
「木金もちゃんと仕事してるよ!」
「ほう…」
主天使長はケルビムの秘密を知っている。
ケルビムは、木金はほとんど仕事をしないで、地上に降りているのだ。しかも、無許可で。
当たり前だが、天使のほとんどが勤勉であり、勤労だ。なので、ケルビムもつっこまれると、何も言えなくなってしまう。
このことが公になっていないのは、主天使長官の裁量のおかげだ。流石に、公になってしまえば、ケルビムとて立場が危うい。
なぜ、主天使長が公にしないかと言えば、端的に言えば業務が差し支えることになるからだ。
ケルビムには天の堕天使・悪魔討伐機関「死神」に恋人がいる。ケルビムは、この恋人との仲を引き裂かれるような形でのケルビム就任だった。天に来た当初、ケルビムは泣き暮らし、就任式まで三ヶ月を要した。またそんなことになっては、天が困るのである。
そのことを含めても、主天使長はケルビムの良き理解者だった。ケルビムが文句を言ったりするのも、心を許しているからに他ならない。
ばつが悪くなったのか、ケルビムは口を子供のようにとがらせながら、部屋に戻った。
部屋に入るなり、服を脱ぎ始め、奥の部屋に入ると、より軽い服に着替えて戻ってくる。
二重扉の理由のひとつは、こんなところにある。
いきなり扉を開けられては、ケルビムのあられもない姿がさらされることになるからだ。
ケルビムは机に座るなり、ペンを握り、無言で書類を片付け始める。調査データやら、問題点などが延々と書き綴られた資料を読み、コメントと署名を書き込む。コメントと言っても、簡単なものか「却下」の文字である。
ルーはこれを見ると、苦い顔になってしまう。これを提出したところで、数日後にはどういった理由なのかと担当者が聞いてくるからだ。
まあ、そうしなければ、とてもその書類の山を片付けることなど出来ないのだが。
ルーは、とりあえず、返却するために書類を封筒に入れ、宛名を書いていく。ある程度溜まったら、大天使の発送センターまで持って行き、送付を依頼する。
ルーの仕事は他にも、来客対応なんかも含まれる。会議の後というのは、来客が多く、ドアがノックされると、ルーは、二重扉の間へ行き、誰かを確認し、ケルビムに伺いを立てて、都合が悪ければ、また今度と言い、面会するとなれば、ケルビムの衣服を整える。
最近は、面会する人物、しない人物というのが分かってきた。
ケルビムは、とりわけ、中性の天使となると面会をし、お茶をしたりする。
しかし、今日訪ねてきたのは、能天使の長官の男性の天使だった。面会するというので、部屋にある応接セットまで案内する。
「何用でしょう?」
おっとりした声でケルビムが訪ねる。
この普段とは違うケルビムの態度に、ルーは顔がゆがんでしまう。
流石ケルビムと言うべきか、いくつもの顔を持っている。
能天使の長官は、赤面し、どもりながら口を開いた。
「い、いえ、先ほどの会議で、その、こちらの出した案になぜ、その、ご反対なのかと、思いまして……」
「能天使長、私は大々的な悪魔討伐には反対なのです。今、事を起こせば、第二次天国戦争が始まってしまうかもしれません」
「戦争が始まっても、我々は必ず勝つのです!」
「第一次で悪魔が滅びたわけではないでしょう。三分の一の天使が悪魔になってしまった。また同じようなことになっては、今度こそ我々の手には負えなくなってしまう」
「滅ぼすための、討伐です!」
「長官、今私は一人なのですよ。いかに私といえど、一人で天を守ることはとても難しい。まだ、その時機ではないのです」
「我々がおります! けして一人などでは!」
「能天使は、天使全体の一割にも足りません。神の加護があるとはいえ、その全体が戦闘可能の悪魔に対抗するには、いささか不利に過ぎましょう。神が、悪魔を裁くその時まで、待つのが宜しいかと」
「しかし、そうこうしている間にも、たくさんの天使が犠牲になるのです!」
「そう、そうですね…それは、考えなくてはいけませんね。わかりました。ザフキエル殿に相談してみましょう」
ザフキエルという天使は、階級こそ座天使と智天使の下だが、座天使長官にして、その地位はケルビムの上に位置する。
ただ、彼はいつも部屋に閉じこもっていて、公の場に姿を現すことがない。会議にも出てはこない。
ケルビムは度々ザフキエルの元へ色々と訊きに行く。彼は、ケルビムよりも、多くの知識を有しているからだ。だが、ケルビムのように戦えはしない。知識を人に与えるのが、彼の仕事である。
そして、行ったきり、なかなか戻ってこないこともあって、ルーは度々やきもきするのだ。ケルビム曰く、なかなか素直に答えをくれないからだそうだ。ザフキエルも、相当の変わり者らしい。
能天使長官が帰ると、ルーはきいた。
「ザフキエル様のところへ行かれるのですか?」
「うーん、後でね。ザフキエルに相談するより、悪魔の方に話を通した方が早いかもしれないなー」
ルーは答えられない。
悪魔の方に話を通すというのは、悪魔に直接会って「天使をいたずらに狩るのはやめろ」と口頭で言うことだ。普通なら、そんなことは叶わないのだが、このケルビムはやってのけてしまう。
だから、堕天使なのではないかと、疑われてしまうのだ。
ケルビムには、悪魔が寄ってくる。
それは、ケルビムの就任式典の時からそうであった。
ケルビムの就任とあって、その日、その場所は多くの天使で埋まっていた。ケルビムが優雅な足取りで開場に現れると、多くの口からため息がもれ、熾天使が歓迎するように、彼の周りを飛び交った。華々しい式典に思われたのだが、式典の中盤に差し掛かった時、黒いものが、ケルビムの前に現れた。
周りがどよめく中、ケルビムだけは落ち着いていて、その者と対峙した。
能天使が、弓でその黒い者を狙い定めると、ケルビムは立ち上がり、それを制すると、手を差し出した。
「初めまして。万魔殿の主に仕えるものよ」
「我々は新たなケルビムを歓迎する」
黒い者は、ひざをつくと、恭しく礼をとり言った。
「ありがとう。私はいつでもお話をする用意がありますと、お伝え下さい。賢きものよ」
そうして、黒いものは去った。
それからというもの、ケルビムの堕天使説がまことしやかに流れたのである。
流石に、堂々と悪魔に会うわけにはいかず、悪魔はこの部屋に直接訪れるようになった。
もしくは、彼自らが万魔殿に赴く。無論、内密にだ。
「じゃあ、ちょっと行ってくるから」
「え、万魔殿にですか? 今から?」
「今からだよ」
ここはなんとしても引き止めたいルーだったが、引き止めて上手くいった例がない。もはや、その言葉さえ出なかった。
ケルビムはじゃあね、とまるで近所にでも行くかのように出て行く。
ルーはがっくりとうなだれるしかなかった。
(今日は、順調だと思ってたのに……)
こうなってしまっては、何も進まない。ルーも途端に暇になる。
***
月曜日のどちらかというと昼に近い朝にケルビムは帰ってきた。万魔殿に泊まったらしい。天使が万魔殿に入ることすらありえないことだというのに、このケルビムはそこですやすやと眠ってくるのだ。最初こそ、ルーは泣いて怒ったが、今となっては呆れてしまう。
「万魔殿にいる連中の配下じゃなさそうだったなー…単独で動いてるらしい。首謀者もそれとなく分かったけれど、今度現れたら、脅すくらいはしとこうかな」
ケルビムは着替えながら考えを口にする。
「脅すって、ケルビム自らですか?」
「能天使は優秀だけど、命令で動いてるせいか、こういう交渉ごとには弱いんだよね」
下手をしたら、取り込まれかねない。
能天使は堕天しやすい。それは、悪魔と直接関わるからだと云われている。だから「死神」なんていう機関があるのだ。
だが「死神」を動かすには時間がかかる。彼らは確かな情報がなければ動かない。調査依頼を出して、そのデータをもとに、ケルビムが承認し討伐命令書が作られる。承認されないことも、ままある。
なので、危険が伴う仕事は、このケルビムが直々にお出ましになって、悪魔に言うのである。
「これ以上天使を傷つけたら、僕の炎で消し去ってしまうよ」と。
口調こそ穏やかだが、その言葉は預言と同じだ。必ずその通りになることを、誰もが知っている。逆を言えば、口にできないことは叶わない。
だが、なかなか悪魔討伐の許可を出さないケルビムには、多くの不満が寄せられた。
「ケルビムはなぜ、堕天使や悪魔をお許しになるのです?」
ルーはきいた。
ケルビムはしばらく考えるような仕草をして口を開く。
「天国戦争が起こって、戦いに長けた天使ばかり、三分の一も欠けてしまった。これが、どういうことか、わかる?」
「いえ…」
ルーにはなぜ、この問いかけなのかすら分からない。
「天は一見、万全に機能しているように見えるけれど、今じゃ、地上に降りる天使はいない。降りたら、 堕天してしまう。地上には、呪いがかかっている。人には死が訪れ、天使は地上の美しさに魅了されてしまう。だから、天は天使の派遣を止めてしまった。それで、地上には悪魔や、犯罪がはびこるようになってしまった。天使は、神様から生まれるけれど、どうしてだろうね。なかなか、この数が増えない。天にいても、一定の割合で天使が堕天してしまっているからね」
そして、天使も悪魔を一定数滅ぼしている。その均衡は保たれたままだ。
ケルビムは続ける。
「こんな考えがある。神は天上を支配し、悪魔は地獄を支配する。そして、地上は神と悪魔で共同で支配すると、神はそう悪魔と取引をした。そして、協力して人間を創った。神様は、天国戦争で減った天使を補うために、人間を天上に引き上げ、天使の座に就かせることで、天を維持しようと考えてた。だけど、悪魔は裏切った。だけれども、皮肉だね。神様は、自分の言を曲げることはできなかった。そういう性質だから。神様は、ミカエルを地上へ送って、なんとか、天上へ引き上げることができる人間を育てようとした。だから、聖人は死後、天使になったんだよ」
それは、異端とされる考え方だ。神の神聖さが失われた、危険な思想だ。天で生まれた天使なら、まずそんなことは考えない。それは、知らなくても良いことだし、知ってはいけないことでもあるからだ。
「それで?」
ルーは先を促す。
「神様の、そんな意志を知って動いている悪魔もいるんじゃないかな、と思って」
「へ?」
先の話から結びつかなくはないが、悪魔は神を裏切ったのだ。神に協力する悪魔など、いようはずがない。
「神様は、その功績を認めて、度々悪魔を天に引き上げようとしている。まあ、断る悪魔ばっかりだけど。逆に、悪魔のようなことをしている天使もいるでしょう」
「ええ?」
「悪魔が滅ぼされないままでいるのは、まだ、神様が彼等に利用価値があると考えているからじゃないかな」
「利用、価値、ですか」
「それに…今の地上を見ていると、人が罪を犯すのは、悪魔のせいではないような気がする」
「どういう、ことです?」
人が罪を犯すのは、悪魔に唆されるからだと云われている。確かに最初は悪魔に唆されて犯した罪人ばかりだったが、現代ではその負の連鎖によって生まれた犯罪が多いのではないかと、ケルビムは感じていた。
「どろぼうの子供はどろぼうになる。それしか分からないんだ。頑張れない環境にある。ひどいところだと、身分制度があって、罪を犯したわけでもないのに忌み嫌われる。仕事がない。住む家がなくて、寒さをしのぐために薬に手を出す。辛くなって、自ら命を絶つ。悪魔がいなくても、人は罪を犯さずにはいられない状況にある場所が、確かにあるんだ。まあ、政府が悪魔の巣とも云われているけれどね」
ルーは少し驚いた。
地上に天使が降りなくなってからというもの、地上の情報はあまり入らなくなってきていた。そればかりか、誰も人のことなど気にかけなくなっているのではないだろうか。人間に干渉することはたまにあるが、それはもはや奇跡を起こす時だけである。良い行いをした人間にのみ、手を貸す。罪を犯す人間には、手を差し伸べたりなどしない。
「でもね、そういう人は、きっと救われるんだ。可愛そうな人はね」
これは実は、神が言ったことではない。神が人の下へ送った、天使が言ったことだ。だが、その言葉も神の言葉と同じように、絶対そうなるのだ。
「そして、悪魔は滅びる。これも絶対だ」
ケルビムはここで言葉を切ると、ルーを見てにっこりと笑う。
「ねえ、でも、もしかしたら…悪魔はみんな、引き上げられるんじゃないかな」
「ええ? まさか!」
「ねえ、だって…誰にも愛されないというのは、悲しいことだよ。全ての悪魔とは言わないけれど、愛してあげようと言われたら、嬉しくなって、天に昇ってきちゃうと、僕は思うな」
「でも、神を裏切った罪で、彼等は堕とされたのでしょう?」
「罪は、許してあげなくちゃ。だって、創ったのは、神様だよ? 悪を創ってしまった神様に罪はないの? だから、きっと、神様は彼等を許すよ。人もね。もちろん、反省しなくてはダメだろうけれど」
「あなたって人は……」
「天使でさえも、罪を犯すんだ……自分が罪を犯した時、謝っても許されなかったら、悲しいじゃない。そうやって、考えれば、ちょっとは楽しいでしょ?」
「そういう考えは、犯罪を増長させませんか?」
「あはは、それは、ごめんね?」
「まったく……」
結局は、自分の日々犯している小さな罪が許されるのではという、ちょっとふざけた考えだったのだ。ルーはがっかりする。
「でもさ、そうなら、きっと終末の後に来る楽園は素晴らしいものになると、僕は思うよ」
「楽園、ですか」
「いいひとばっかりで、毎日毎日、働かなくてもご飯が食べれて、平和だねぇ、なんて繰り返してたら、つまらないじゃない」
「楽園に来るような人は、勤勉で、働かなくても良いと分かっていても、働いてしまうような人ばかりですよ」
「そうか。それもそうかな? まあ、僕は平和だねぇって言って、毎日お茶会を開いていられるようなら、嬉しいけれどもね」
「そういうのを、堕落っていうんですよ……」
「え…楽園って、いっぱい頑張った人へのご褒美じゃないの?」
「いっぱい、頑張った人へのです」
「え、僕、頑張ってないかなぁ…」
頑張ってません。という言葉をルーはため息に変えて吐き出した。
「はい、ささっとこれを片付けて下さいね」
ルーは机の上に書類の山を作る。
「えっと……えっと……これ、全部今日中?」
「今日中ですよ。今日中っていうか、今日締め切りのものが半分、明日締め切りのものが半分です」
ケルビムは文句を言いながらも、書類に目を通し始める。
人間の時も天才魔法使いだったくらいなので、その集中力は邪魔さえ入らなければ、脅威的だ。ルーはそっと、ケルビムの側を離れる。
ケルビムは、水曜日にすべての書類を片付け、木曜日にはケルビムだけの休日を迎えた。
***
木曜日。
ケルビムの執務室にある寝室の扉の鍵穴に、執務室側から鍵を差し込む。鍵を回して、鍵を掛ける要領だ。だが、その扉に鍵は掛からない。開くのである。
ケルビムが扉を開ければ、そこには、そんなに広くはない部屋があった。寝室ではない。ベッドの替わりに、大きな机がある、正方形に近い部屋だった。
部屋に入って、鍵を抜き、扉を閉じれば、そこはもう地上だった。
その鍵は「死神」だけに持つことを許された「ゲートキー」だ。鍵穴のある、あらゆる扉と扉をつなぐ、貴重なアイテムなのだが、ケルビムは「死神」を辞めた、ある人物からこれをこっそりもらい受けていた。
ケルビムはその鍵をルーに預ける。
ルーはすぐに天に戻って、来客が来れば、またその鍵を使って地上のケルビムを呼ぶのだ。
だが、このケルビムは、地上でも自由奔放で、必ずしもその場所にいるとは限らない。いつぞやは、悪魔退治の依頼を受けて、遠くの国まで遠征していたこともあった。その間、およそ半月。仕事はてんこもりになり、書類の督促にルーはひたすら謝り通した。
「やっぱり、こっちは気持ちいいね。ルーもたまには、こっちにきなよね」
ケルビムはそう言うが、ルーはケルビムではない。そんなことをしたら、たちどころに天罰が下って、堕天してしまうかもしれない。この、地上の部屋に足を踏み入れることでさえ、恐ろしい。
「ちょっとでも、仕事片しておいてくださいよ」
ルーはそう言って、机にいくつか書類を置くと、天へ戻った。
木曜日と金曜日は、ルーはやはり暇になる。
図書施設へ行って、本を借りてきて勉強をする。色々と文句はあるが、やはりケルビムの近くにいると、勉強になる。それで興味がわく事柄があった。それを調べて、ケルビムへの理解を深めたかった。もっと近くに行きたいと、ルーは常々そう思う。
本を読んでいると、来客があった。
その客は、ノックもせずに部屋に入ってきた。
そして、部屋を見渡して、ルーをみると言った。
「あ、今日木曜日?」
ルーはうなずく。
「なんだー、下行ってんのかよ」
入ってきた客は悪魔のディールだった。
彼は天使の姿をして、知恵の館に堂々と、しかも毎日のように入ってきて、好みの天使がいるとナンパして誘惑するという悪魔だった。今日のようにケルビムの執務室に来ることも度々ある。だがケルビムはこの悪魔に対して討伐命令を出すことはない。
ルーは、少し恐ろしいが、ほんのちょっとは、この悪魔に慣れてきた。
「あいつ、自分は勝手に下降りてるくせに、俺がそっち行くと怒るんだよなー」
まじですっげーつまんねーと彼は言って、部屋を出て行った。
行ったかと思ったら、すぐに引き返して、ルーに近づいてくる。
「ルーって言ったけ? なあ、ケルビムいなくて暇なんだろ? だったらさーいいことし」
「しません!」
「なんだよー。いいじゃん、そしたらあっという間に分化できるぜ?」
ルーは分化前の、まだ未熟な未分化体だった。天使は大人になると男性か中性に分化する。だが、ルーは不良品のようにいつまでたっても分化することがない。だが、そう、他人と交わることで、必ず分化する。同性愛という罪を避けるために、自動的に相手とは違う性別に分化するのである。
ただ、天使以外のものと交われば、
「同時に堕天です」
「別に、堕天したってえっちができなくなるわけじゃないんだぜ?」
「なんで重点がそこなんですか!」
「バカだなー、セックスは生きとし生けるものにおいてだな 」
延々とくだらない講釈を話しだしたディールを無視して、ルーは本に視線を落とすも、なかなか集中できない。なおも無視していると、ディールはべたべたと身体に触れてくるので、その手やらを振り払いながら言う。
「僕に手を出したら、ケルビムが怒りますからね!」
「ははは。合意だったら怒らないと思うぜ?」
「合意なんてありえません!」
「いいじゃんかー」
必死でディールの誘惑を凌いでいると、扉がノックされた。
「ちょっと、早くどっか行って下さい!」
悪魔がこの部屋にいることがバレては大変だ。
だが、ディールは「中入れなきゃいいじゃん」と言って、机に腰掛けたまま動かない。ケルビムの言うことはきいても、ルーの言うことはまったくきいてくれなかった。
客を待たせるわけにはいかないので、とりあえずルーは二重扉のうちのひとつを開けて、客を確認しに行った。
客は、ただの書類配達の天使だった。ルーは直接書類を受け取って、部屋へ戻る。
ディールはまだ部屋にいて、ルーの読んでいた本を手に取っていた。
もはや、そこに近寄りたくなかった。
近寄りたくないのだが、ケルビムに感化されているのか、ただの悪魔の性質のせいなのか、ルーは彼が嫌いではない。
ただ、これ以上近寄ったら火傷をすると、そう天使としての本能が叫んでいるのだ。
ディールは魅力的な悪魔だった。一見柔和な容姿をしている。だが、その黒っぽい瞳にはいたずらっこのような、常にわくわくしているような色がある。ルーとは正反対の、性格だった。
ルーは彼にとって好みでもなんでもないだろう。ただ、ケルビムの側付きだから、相手にしているに過ぎない。でも、それでもルーにとっては嬉しかった。上級天使であるケルビムの周りには当たり前だが、上級天使ばかりが集まる。たかだか大天使でしかない、しかも未分化体の半人前の自分が話せるような天使ではない。ただの錯覚だとは分かっているけれど、ほんの少し、自分もその仲間に入れたのではないかと思ってしまう。
じっと警戒して見ているルーに気がついて、ディールは微笑む。
その本の内容を見られては、ルーが何を考えているのかまる解かりだ。
「真面目だなー」
ディールはそう言うと、本を閉じて机に置くと、腰掛けていたその机から降りる。
「でも、あんましこういうことは頭に入れない方がいい。いや、言い方が違うか。ケルビムはさーなんだかんだ言って、むちゃくちゃしてるけど、確信があってやってるんだ。これ以上踏み込まなければ大丈夫ってさ。あんまし、知ると、俺みたいになっちゃうぜ」
そう言って、彼はやっとこの部屋から出て行こうとした。
「ま、ケルビムなら一度くらい堕天したって、戻せるんだろうけどな。でも、ほどほどにしとけよ」
最後にそう言って、扉から出て行った。
ルーはほっとする。
ルーの借りた本は、別に危険なものではない。
そう、深読みしなければ。
ソドムとゴモラが消えた日の記録と、大洪水の日の記録やバベルの塔破壊の時の記録。他にも天が地上に対して行った天罰の記録を記した本だ。
少し、がっかりする。
自分は、やはりケルビムにはなれないのだと。同じ考えを共有することはできないのだと。
ルーはふと思い立って、ゲートキーを手にする。
地上に繋がる扉に鍵をさして、回す。そして、扉を押し開いた。
そこには、言われた通り、真面目に書類に向かっているケルビムがいた。
「なあに。どうしたの? 何かあった?」
少し暗い面持ちで現れたルーに、ケルビムは心配そうに声をかける。
「いえ…その、先ほどディールが来て」
そこまで言ったところで、ケルビムは珍しく勢いよく椅子から立ち上がった。
「何かされたの!?」
「あの、いえ……えっと…その……」
なんて言ったら良いものか、思案していると、ケルビムは思い違いをしたようで、みるみる表情を険しくさせる。
「あの、いえ、違うんです! 別に何かされたわけではなくてですね、えっと、その、ちょっと、怖かったものですから……」
最後の方は消え入りそうな声になってしまう。
「また変なことを言ったのでしょう! もう、どうしてディールは下品なの! ルーも、僕がこっちにいる時は、こっちにいなさい」
「いえ、あの、でも、そうしたら、来客の対応が」
「そんなの、二の扉に鍵かけて、一の扉は開放しておいてさ、書類はここへ、とかなんとか書いといて、扉には現在ケルビム休養中につき、一切の面談をお断りしますとか書いておけばいいんだよ!」
「……毎週ですか……?」
いくらなんでも、無理がある。
まして、普段からも面談を断る時は仮病を使っているというのに。きっと何も知らないものは、ケルビムはなんて精神がもろいのだろうかと誤解しているに違いない。だというのに、会議ではでかい態度で「反対です」とか言っているのだ。そろそろ、仮病を使うのも限界というもの。
「じゃあ…ディールとか、悪魔がきたら、すぐにこっちに来なさい」
「はい。わかりました」
ケルビムは未熟なルーでも大事にしてくれる。どこにも行き場のなかったルーは、側付きになれたことだけでも嬉しかったものだ。
「それでさ、ルー」
急にご機嫌になったケルビムは甘い声でルーを呼ぶ。
「あのさ、ちょおおっと、お願いがあるんだけど」
「はい、なんですか?」
少し気分の良くなったルーは、いつもより数倍は優しくそのお願いをきこうと思った。
思ったのだが……
「僕、ちょっと出かけてくるからさ、えっとね、留守番をお願いしてもいい?」
「……ちょっと待って下さい。今度はどちらへ行かれるんですか? ちょっとって、どれくらいなんですか?」
「え? えっとね、ほら、みて。招待状が来たの」
ケルビムの手には地上の王国の紋章が入った封筒があった。
「うちの子たちの誕生日なの。お祝いするからって。だから、えーっと、また半月くらい?」
ルーは落胆の色を隠せない。
驚いたことに、ケルビムには、人間だった時のつき合いが、未だにあるのだ。ケルビムの年齢は四十七歳。うちの子というのは、彼自身の孫のことである。元男であるのを偽って、祖母だと言っているのである。まあ、容姿からすれば、その方が自然ではあるのだが、やけに若い祖母である。その子供は禁忌の子供でもある。
(本当に、よく堕ちないな……)
はーっと長いため息をつくと、ケルビムはルーのご機嫌を取る。
「ほら、だから頑張って、行くまでは書類片付けるから。ね?」
その言葉にルーの我慢の緒はあっけなく切れてしまう。
「そんなのはやって当たり前です!!」
ルーはそのまま天の執務室へ繋がる扉を開けると、そのまま戻る。そして、たくさんの書類束を持って、再び地上を訪れるのだった。
ルーは気がついていないが、彼こそケルビムをがみがみと怒れる、ただひとりの貴重な天使である。