第88話:氷の冠、あるいはゼロの凍てついた境界線
人は誰しも泣きながら産まれる。
感情を持って産まれた少女がなぜ感情を忌避するに至ったのか。
ネオ・ロジスティクス本部の最深部、第零実験室。
そこには、王都の喧騒も、ラストマイル王都店に漂うパンの焼けるような温かな匂いも、一切届かない。ただ、冷却用の魔導回路が発する低い唸りと、青白い蓄光石の無機質な輝きだけが、冷たく支配していた。
ゼロは、鏡の前に立っていた。
タイトな執務服を脱ぎ捨て、薄い機能性下着のみを纏ったその身体は、計算し尽くされた設計図のように白く、しなやかだ。しかし、彼女はその鏡に映る自分自身を、ひどく冷めた、あるいは憎しみを込めた眼差しで検品していた。
特に、下着の生地を内側から強く押し上げ、暴力的なまでの存在感を主張する豊かな胸の膨らみ。世の男たちが賞賛し、女たちが羨むであろうその「雌」としての記号を、彼女は「非効率の極み」と断じていた。
「……質量、重心の偏り、エネルギー消費の増大。……無駄だわ」
自らの肉体すら、彼女にとってはパッキングを乱すノイズに過ぎない。彼女は、自身という個体から徹底的に「人間」を削ぎ落とそうとしていた。
彼女がなぜ、ここまで「鋼の合理」に固執するのか。
その答えは、彼女の記憶の深層、白銀の闇の中にパッキングされている。
十数年前。東の果て、空を衝くようにそびえ立つ霊峰アイギス。
そこは、一年を通じて猛吹雪が吹き荒れ、精霊ですら凍死すると言われる死の山だ。当時のゼロは、まだ「ゼロ」ではなく、感情豊かに笑い、泣く、一人の幼い少女だった。
あの日、彼女の家族を乗せた馬車は、アイギスの麓で未曾有の魔力嵐に巻き込まれた。
馬は絶命し、父親は瓦礫の下敷きになり、母親は高熱で意識を失った。幼い彼女は、必死で山を下り、近くの配送ギルドの出張所に駆け込んだ。
『……お願い! 助けて! お父さんとお母さんが死んじゃうの!』
彼女は泣き叫び、配送員たちの足にしがみついた。
だが、返ってきたのは、彼女が今でも最も忌み嫌う「感情」という名の言い訳だった。
『……お嬢ちゃん、可哀想に。……俺たちも、……本当に心苦しいんだ』
『……だが、……見てくれ。……この猛吹雪だ。……今行けば、……二次災害が起きる。……家族も同然の仲間を、……死なせるわけにはいかないんだ』
『……気持ちは痛いほど分かる。……神に祈るんだな』
彼らは優しかった。同情的だった。そして、涙さえ流していた。
だが、彼らは動かなかった。
「心が痛む」という理由が、彼らの足を止める免罪符になっていた。
「想い」があるからこそ、彼らは自分たちの命を惜しみ、リスクを恐れ、救えるはずの命を雪の下に見捨てたのだ。
救出活動が始まったのは、嵐が去った三日後だった。
霊峰アイギスの頂から吹き下ろす冷気は、すべてを静止させていた。
瓦礫の下で、父親は自分の防寒着を母親に被せたまま、凍りついていた。母親もまた、再会を果たすことなく、静かに絶命していた。
その光景を見た瞬間、少女の中で何かが壊れ、そして生まれた。
悲しみでも、怒りでもない。
それは、絶対的な「拒絶」だった。
(……想いなんて、……何の役にも立たない)
(……心が痛むから助けない? ……気持ちが分かるから動けない?)
(……そんな不純物は、……物流の停滞でしかないわ)
彼女はその日から、自分の名前を捨てた。
「ゼロ」。
感情をゼロにし、誤差をゼロにし、そして二度と、あの日自分が見たような「届かなかった絶望」を世界からゼロにする。
彼女が自らの配送システムに「アイギス」の名を冠したのは、自らを絶望させたあの山への復讐であり、同時に、あの冷酷な山ですら一秒の狂いもなく踏破できる「絶対的な正解」を構築するという、彼女なりの歪んだ祈りだった。
「……タム。……あなたは、……あの日私を見捨てた配送員たちと同じ目をしている」
ゼロは、再びタイトなドレスに身を包み、眼鏡をかけた。
ラストマイル王都店で見た、あの賑わい。
アルウェンという少女が放っていた、ひだまりのような精霊の光。
タムが客の荷物を、まるで宝物のように扱う手つき。
それらすべてが、ゼロにとっては、あの日彼女を裏切った「届かない善意」の再放送に見えていた。
「……想いだけで荷物が届くなら、……私の両親は死んでいなかった。……世界に必要なのは、……あなたのパッキング(優しさ)じゃない。……私のアルゴリズム(確実性)よ」
彼女は、机の上に広げられた三日後のレースのシミュレーションデータを眺めた。
東の絶壁、昇り龍の路。
そこは、霊峰アイギスと同じ魔力特性を持つ難所だ。
アイギス・ポーターたちの稼働率は、すでに九十九・九パーセント。
対して、ラストマイルという「人間」の集団は、疲労、迷い、恐怖という名の不確定要素に満ちている。
計算上、敗北の確率はゼロだった。
しかし、彼女の左胸の奥、自分でも制御しきれない心臓の鼓動が、微かに乱れている。
アルウェンが言った言葉。
『……あの子たちからは、……何も聞こえない。……でも、……私は知っています。……荷物を待っている人たちが、……どれだけ「人の温もり」を待っているか』
「……温もり? ……そんなもの、……ただの熱エネルギーの無駄よ」
ゼロは自分に言い聞かせるように、冷たく呟いた。
***
ゼロは、手元のホログラム・ディスプレイをスワイプし、大陸全土の物流網を映し出した。
血管のように張り巡らされたルート。その多くは、未だに旧態依然としたギルドや、タムのような「情緒」に頼った個人経営の配送員たちによって支えられている。それは彼女から見れば、今にも破綻しそうな、あまりにも危ういネットワークだった。
「……世界一。……その称号は、……私が手に入れなければならない」
彼女が呟いたその言葉には、野心よりも、もっと重苦しい「義務感」が宿っていた。
彼女が目指す「世界一の配送会社」とは、誰よりも多くの荷物を運ぶ会社ではない。
この大陸の隅々まで、一秒の遅滞もなく、一滴の涙も介さず、完璧な供給を保証する「絶対的なインフラ」となること。
人が人を運ぶから、道中で迷いが生じる。
人が人を救おうとするから、その「想い」の重さに耐えかねて、足が止まる。
ならば、世界そのものを機械の歯車で満たしてしまえばいい。
感情という潤滑油を捨て、冷徹な鋼の規律で世界を再パッキングする。それが、あの日白銀の闇に沈んだ両親への、そして置き去りにされた自分自身への、彼女なりの答えだった。
「……ラストマイル。……タム。……あなたは、……人々の『善意』に火を灯そうとしている。……けれど、……その火が消えた時、……人々は以前よりも深い絶望に陥るわ。……私は、……そんな不確かな温もりなんて、……初めから必要のない世界を作る」
彼女は、デスクの引き出しから、古びた、けれど丁寧にメンテナンスされた一つの魔導計器を取り出した。
それは、あの日アイギスの麓で父親が握りしめていた、壊れた高度計だ。
針は今も、あの絶望の瞬間の高度で止まっている。
「……私は、……この針を動かす。……世界一の頂に立ち、……すべての配送ルートから、……『不可能』という文字を削除するまで」
彼女は、鏡の中の自分を、これまで以上に強く見据えた。
眼鏡の奥の瞳には、かつての少女の涙はもうない。
あるのは、数百、数千のアイギス・ポーターを統べる、冷徹な女王の意志だけだ。
「……今回のレースは、……単なる小競り合いじゃない。……これは、……物流のパラダイム・シフト。……人が運ぶ時代の、……終焉の鐘よ」
彼女は、自身の豊満な身体を強く締め付ける、軍服のようなドレスの襟を正した。
この肉体が持つ「人間らしさ」が、彼女の計算を鈍らせることはない。
むしろ、この身体すらも、世界を統治するための、一つの効率的な「記号」として利用してやる。
そう決めた彼女の背筋は、どんな氷柱よりも真っ直ぐで、そして鋭かった。
「……ネオ・ロジスティクスが、……真の『世界一』になる。……そのためなら、……私は、……自分の心さえも、……永久にパッキング(封印)してみせるわ」
ゼロは、青い光の渦の中に、自らの魂を溶け込ませるようにして、次なる計算へと没頭していった。
東の絶壁で、彼女は「世界一」への最初で最後の、そして最も巨大な障害を、自らの手で解体することを誓った。
窓の外、王都の夜空には、冷たい月が浮かんでいた。
まるで、彼女の決意を祝福し、同時に冷笑しているかのように。
彼女が目指す頂。そこには、孤独という名の、絶対的な「静止」が待っているのかもしれない。
それでも、彼女は止まらない。
止まることは、あの日、アイギスで絶命した両親を、二度殺すことと同じだからだ。
「……三日後、……昇り龍の絶壁で、……答えを出すわ。……タム。……あなたの『心』が、……私の『鋼』を、……一ミクロンでも動かせるというのなら、……見せてみなさい」
闇の中で、彼女の青い眼鏡だけが、冷たく、美しく輝いていた。
彼女は鏡の中の自分を、もう一度だけ見た。
冷徹な眼鏡の奥、その瞳は確かに凍てついている。
だが、その氷の奥底には、あの日、白銀の世界でたった一人取り残された少女の、震える影がまだ残っているのかもしれない。
「………すべてを終わらせる。……想いという名の幻想を、……この世界から排除するために」
ゼロは、青い魔導光を放つモニターを消し、深い闇へと沈んでいった。
彼女が背負うのは、単なる新興企業の利益ではない。
「届かない」という悲劇への、数千年の人類の歴史に対する、たった一人の女性の絶望的な挑戦状だった。
ゼロの孤独と、彼女が背負う「世界一」という言葉の重み。それはタムたちが掲げる理想と同じくらい、切実で、痛切なものでした。彼女が信じるのは、誰もが平等に、そして確実に物資を受け取れる「無機質な幸福」。
次回、第89話。
東の果て、昇り龍の絶壁。
一秒を競うレースの裏で、二人の「世界一を目指す者」の、存在そのものを懸けた戦いが始まります。




