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第82話:最初の受領印、あるいは埃まみれの約束

「世界一の配送会社」という壮大な看板を掲げた翌朝、ラストマイル王都店を訪れたのは、着飾った貴族でも、莫大な報酬を約束する大商人でもありませんでした。現れたのは、ギルドに門前払いされ、絶望の淵にいた一人の老人。預けられた荷物は、金銭的な価値など皆無に等しい、壊れかけた「古いランプ」。信用も実績もない新生ラストマイルの、地道で、けれど一切の妥協を許さない初仕事が始まります。

 看板を掲げた翌朝の王都店は、清々しい朝日ではなく、湿った霧に包まれていた。

 タムは開店の数時間前からカウンターに座り、真っ白な配送日誌を前に万年筆を弄んでいた。昨日書いた『001:世界一の証明』という文字が、少しだけ誇らしく、そして今の静寂の中では、どこか身の程知らずな叫びのようにも見えた。

「……タム、そんなに気負わなくても、すぐに依頼なんて来ないわよ。……ここは裏通りの、さらに外れなんだから」

 白銀の鎧を脱ぎ、動きやすい革の装束に身を包んだリナが、セレスの分まで淹れた二人分のコーヒーを持って現れた。彼女の肩には、セレスの意識が宿る魔導銀が、朝日を反射して穏やかに光っている。

『……ふふ。……でも、タムさんの「やる気」が、……お店の空気を温めていますわ。……わたくしも、……早く最初の受領印を押す瞬間が見たいです』

 その時だった。

 ガタ、と店の古びた扉が、力なく揺れた。

 カイトが鋭い視線を向け、エドワードが隠し持った鑑定道具を構える。アルウェンもまた、カウンターの陰から様子を伺った。

 扉を開けたのは、腰の曲がった一人の老人だった。

 身なりは貧しく、その手には、布に包まれた「何か」を大切そうに抱えている。老人は、ピカピカに磨き上げられた店内と、そこに佇む異様なまでの威圧感(リナやカイトの発する気配)に圧倒され、一度は引き返そうとした。

「……あの、……ここは、配送屋、さんかな?」

 消え入りそうな声に、タムは迷わずカウンターから歩み出た。

「はい。ラストマイル配送です。お預かりできる荷物はありますか?」

 老人は震える手で、抱えていた包みを解いた。

 現れたのは、ガラスがひび割れ、真鍮の枠が歪みきった、今にも崩れそうな古い魔導ランプだった。

「……これを、……隣町の教会まで、……届けてほしいんだ。……物流ギルドの窓口へ行ったら、……『ゴミを運ぶ暇はない』と追い出されてしまってね。……中身も、……もう魔力が尽きかけていて、……少しの衝撃で、……壊れてしまう……」

 老人の瞳には、諦めと、一縷の望みが混ざり合っていた。

「……これは、……亡くなった妻が、……最後に遺してくれた光なんだ。……教会の祭壇にある『聖なる火』で、……もう一度だけ、……灯してやりたくて……」

 カイトが後ろからランプを覗き込み、眉を潜めた。

「……これ、……かなり酷い状態だな。……配送なんて無理だ。……外を歩くだけの振動で、……中のフィラメントが粉々になるぞ」

 エドワードも、モノクルを光らせて検品に加わる。

「……左様ですな。……魔導回路の劣化が激しい。……精霊の加護も、……これでは受け付けません。……運ぶこと自体が、……物理法則への挑戦と言えます」

 老人は、やっぱりそうかと悲しげに微笑み、ランプを包み直そうとした。

「……すまないね。……無茶を言った。……お代も、……これだけしか払えないんだ……」

 老人が差し出したのは、数枚の薄汚れた銅貨だった。それは、世界一の会社を目指す者たちが手にするには、あまりにも「端金はしたがね」であった。

 だが、タムはその銅貨を、迷わず受け取った。

「……確かに、受領しました。……案件番号002、……『思い出の灯火』。……ラストマイルが、……責任を持ってお届けします」

 その言葉に、店内の全員が息を呑んだ。

「……タム!? ……正気かよ! ……ただでさえ悪路なのに、……そんな壊れ物をどうやって……」

「……カイト。……僕たちは、……世界一になると決めた。……世界一の配送会社は、……荷物の価値を、……値段で決めない」

 タムの白銀の瞳が、静かに燃えていた。

「……このランプに宿った『想い』は、……特級品だ。……なら、……僕たちは特級の仕事を届ける。……それだけのことだ」

 老人は、信じられないという顔でタムを見つめ、何度も何度も頭を下げて去っていった。

 残されたのは、今にも崩れそうなランプと、数枚の銅貨。

 ここから、ラストマイルの本当の「初仕事」が始まった。

「……アルウェン。……精霊の力を直接ランプに込めるのは無理だ。……でも、……周囲の空気を『パッキング』することはできるか?」

「……はい! ……ランプを包む空気の層を、……精霊さんたちに支えてもらって、……クッションにします!」

「……エドワードさん。……真鍮の枠が歪んでガラスを圧迫している。……これを、……一ミリの狂いもなく固定する治具を作れますか?」

「……フォッフォ。……梱包師殿にそう言われては、……腕が鳴りますな。……時計職人さえ嫉妬するような、……極小のギプスを用意しましょう」

 タムは、倉庫の奥から最高級の緩衝材を取り出した。

 それは、今回の報酬ではとても買えない、本来なら国宝級の荷物に使うための資材だった。

「……リナさん。……今回のルートは、……街道を避ける。……街道の石畳の振動すら、……このランプには致命的だ。……森の中の、……腐葉土の上を行く」

「……冗談でしょう? ……森の中には、……今の時期、……魔力の乱れを狙う野良のドロイドや、……飢えた魔獣がいるわよ」

「……だから、……君とカイトが必要なんだ。……荷物に伝わる振動を『ゼロ』にするために、……進路を塞ぐ全てを、……無音で片付けてほしい」

 リナとカイトは、顔を見合わせて苦笑した。

「……全く。……とんだブラック企業の社長ね。……分かったわよ。……世界一の会社の初仕事が、……『配送失敗』なんて、……私の誇りが許さないわ」

「……あーあ。……もっと派手な初陣を期待してたんだけどな。……まあ、……『無音の護衛』ってのも、……いい修行になりそうだ」

 翌朝。

 一行は、かつてないほど「地味で、慎重な」隊列を組んで王都を出た。

 中央には、アルウェンの精霊魔法とエドワードの治具、そしてタムの多重パッキングによって、宙に浮くように固定されたランプが、レガシー・ガーディアンの背にある特製ケースの中に収められている。

 道中、タムは一歩進むごとに、ケースの中の「音」を検品し続けた。

「……右前方に、……魔力の揺らぎを確認。……カイト、……お願いします」

「……チッ、……分かってるよ」

 カイトが影のように消え、数瞬後、草陰に潜んでいた魔獣が、悲鳴を上げることすら許されずに無力化される。

 リナは、白銀の光翼を最小限に展開し、空気の抵抗を計算してガーディアンの周囲の風を整えた。

「……セレス、……揺れはどう?」

『……ええ。……完璧ですわ、リナさん。……まるで、……ゆりかごの中にいるようです』

 だが、トラブルは思わぬところからやってきた。

 隣町へと続く唯一の橋が、前日の雨で崩落していたのだ。

「……これは……。……迂回すれば、……二日はかかるわね。……ランプの魔力が保たないわ」

 リナが眉を潜める。

 そこへ、偶然居合わせた物流ギルドの「正規配送隊」が、立派な馬車を連ねてやってきた。彼らは崩れた橋を見て、鼻で笑った。

「……おいおい、……あんなボロ屋の看板を背負って、……何を運んでるんだ? ……橋がなきゃ、……王都のギルドだって一週間は待つぜ。……そんなゴミ、……さっさと捨てて帰るんだな」

 ギルド員たちの嘲笑を、タムは無視した。

 彼はガーディアンから降り、崩れた橋の断崖に立った。

「……カイト、……アルウェン。……『即席のルート』をパッキングします。……五分だけ、……時間を止めてください」

 タムの右腕が白銀に輝く。

 彼は、空間そのものを「折りたたむ」のではなく、崩れた橋の間の「空気」を、一時的に強固な「資材」として定義し直した。

「――『空間仮留め(プロビジョナル・パッキング)』!!」

 アルウェンの精霊たちが空気を固め、エドワードが計算した力学に基づき、タムが空間を固定する。

 目に見えない「透明な道」が、絶壁の間に架かった。

 ギルド員たちが目を剥く中、ガーディアンは一切の揺れを見せず、空を歩くようにして対岸へと渡りきった。

「……な、……なんだ、……今の魔法は!? ……ありえん……ッ!」

 背後で叫ぶギルド員たちの声を、タムは聞き流した。

「……配送員に、……『ありえない』は、……不合格の言葉です」

 夕刻。

 一行は、隣町の古い教会に到着した。

 祭壇の前で待っていたのは、老人の妻の写真を抱えた、あの老人だった。

 タムは、一晩中神経を研ぎ澄ませたせいで、顔色は青白く、手は小刻みに震えていた。

 だが、彼はその手で、一ミリの狂いもなくランプを解封し、祭壇に置いた。

「……お届けに上がりました。……状態、……検品済み。……不備はありません」

 老人がランプの芯に火を灯すと、ひび割れたガラスの奥で、奇跡のように温かな光が灯った。

 それは、老人の妻が愛した、優しい「思い出の光」そのものだった。

「……ああ……。……ああ、……ありがとう。……本当に、……ありがとう……」

 老人はランプを抱きしめ、子供のように泣いた。

 教会の受領印が、タムの日誌の2ページ目に押された。

 それは、王都のギルドが認める華やかな勲章ではない。

 インクが少し滲んだ、どこにでもある小さな判子だった。

 王都への帰り道。

 一行は、疲れ果ててガーディアンの上で雑魚寝していた。

 カイトは口を開けて寝ており、アルウェンはリナの膝を枕にしている。

「……タム。……お疲れ様。……結局、……大赤字じゃない。……あんな高級資材を使って、……報酬は銅貨数枚なんて」

 リナが、月明かりに照らされたタムの横顔を見て、呆れたように笑った。

 タムは、懐にある数枚の銅貨を取り出し、それを握りしめた。

「……赤字じゃないよ。……世界一の会社に必要な、……最初の『実績』が買えたんだ」

 タムは日誌を開き、2ページ目の受領印を、誇らしげになぞった。

「……これで、……僕たちは、……この世界に、……銅貨数枚分だけ、……認められたんだ」

 裏通りの小さな店。

 まだ誰も、その存在を「世界一」だとは信じていない。

 けれど、夜の王都の霧の中、ラストマイルの看板だけは、あの老人のランプと同じように、消えることのない確かな光を放ち続けていた。

世界一を目指すラストマイルが最初に手にしたのは、名誉でも富でもなく、一人の老人の「感謝」という、最も重い受領印でした。圧倒的な力を持っていても、それを「荷物を守るためだけ」に使い、赤字を承知で完璧な仕事を完遂する。この泥臭い一歩が、いずれ世界の物流をひっくり返す大きなうねりへと変わっていきます。次回の第83話、この「初仕事」の噂が、意外な人物の耳に届くことに……。

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