第八話:氷の華を包み込め(後編)
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第八話、ついに氷晶花が眠る聖域へと足を踏み入れます。
ここから先は、音を立てれば花が砕け、魔法を使えば花が爆発する、文字通りの「静寂の地獄」。
そんな場所で待ち構えていたのは、自らの命さえも投げ打つ、伯爵家最精鋭の刺客たちでした。
喋ることさえ許されない極限状況。
リナの「音無しの剣」と、タムの「異常なまでの責任感」が交差する、沈黙の死闘をご覧ください。
標高四千メートルを超えたあたりから、大気は完全にその性質を変えた。
極限まで薄まった酸素と、肺の奥まで凍りつかせるような絶対零度の静寂。この「聖域」に咲く氷晶花は、外界からの音波や魔力波動に極めて敏感に反応し、わずかな振動でもその結晶構造を自壊させる。
タムは、自分の心臓の鼓動さえも、花にとっては致命的な「騒音」になりかねないという恐怖を感じていた。彼は、唇を強く結び、隣を歩くリナとエドワードに、一切の発声を禁じる視線を送った。
だが、その張り詰めた静寂を、殺気という「毒」が汚した。
雪原の起伏から、白い装束を纏った五人の人影が、音もなく立ち上がった。
伯爵家が放った暗殺者たちだ。彼らは言葉を交わさず、ただ手にした冷たい刃で、タムたちの命――そして、セレスティアの唯一の希望であるこの任務の失敗を狙っていた。
最初の刺客が、重力を無視したような跳躍でリナの懐へ飛び込む。
リナの動きは、刺客のそれよりもさらに一段階、速く、そして深かった。
彼女は腰を落とさず、膝のクッションだけで衝撃を吸収しながら、抜き放った剣を刺客の喉元へと滑り込ませた。鞘から引き抜かれる際の「シャッ」という金属音は、彼女が事前に鞘の内側に施した綿密な消音工作と、引き抜く瞬間の超人的な加減によって、完全な虚無へと変じている。
剣が触れ合えば、その共鳴音だけで山頂の花が散る。
リナはそれを熟知していた。彼女は相手の刃を「受ける」のではなく、自身の剣の側面で「受け流し」、刺客の力の方向を雪の深い、音の響かない方へと逸らす。
一瞬の交錯。リナの剣先が刺客の首筋を撫でたが、彼女はそのまま左手を伸ばし、刺客の口を覆いながらその崩れ落ちる体を支えた。
――ズブッ。
肉を断つ湿った音さえも、彼女の厚い手袋が吸い取った。
リナは、絶命した刺客を音もなく雪の上に横たえる。それは戦闘というよりも、極めて精密な、そして冷徹な「静音の暗殺」そのものだった。
残る四人が、リナの異常なまでの「無音の強さ」を察知し、同時に動いた。
二人が左右から挟撃し、一人が雪を舞い上げて目潰しを仕掛ける。
エドワードは杖を握りしめたが、魔法は使えない。彼は杖を雪の中に深く突き立て、自分たちから漏れ出るわずかな緊張の波動を、杖の石突きを通して地中へと逃がすことに集中した。
タムは、背中の箱を抱きしめたまま、リナの動きを凝視していた。
リナは、舞い上がる雪の粒一つ一つを回避するかのような滑らかな動きで、刺客たちの間を縫うように走った。
彼女の剣は、もはや武器というよりは、死を告げるための静かな指先だった。
左右から迫る刺客の膝裏を、ほぼ同時に、そして深く断ち切る。崩れ落ちそうになる彼らの背後に瞬時に回り込み、声が漏れる前に頸椎を粉砕した。
断末魔の叫びすら、この雪原には許されない。
リナの剣技は、規律を重んじる彼女の性格をそのまま体現したような、一点の狂いもない「静寂の処刑」だった。タムは、彼女をスカウトした自分の判断が、正解どころか唯一の生存戦略であったことを、震える体で実感していた。
だが、最後の一人、リーダー格の男が、絶望の中で懐から「魔導手榴弾」を取り出した。
最初から、生きて帰るつもりなどなかったのだ。
任務が失敗するならば、この山頂ごと、そして伝説の氷晶花ごと、すべてを爆散させて終わらせる。男の瞳には、狂信的なまでの殺意が宿っていた。
男がピンを抜き、手榴弾を地面に叩きつけようとした。
距離がある。リナの剣では間に合わない。エドワードが魔法で封じようとすれば、その魔力波動だけで花が自壊する。
タムは、迷わなかった。
彼は前世での、あの過酷な物流現場を思い出していた。
「荷物が壊れるくらいなら、自分の体を使え」――そう怒鳴られ、実際に体を張って荷物を守り続けてきた社畜としての、忌まわしくも強固な習慣が、彼の思考を追い越した。
タムは、自分の梱包スキルを「箱」としてではなく、自分の両手に纏わせる「真空の障壁」として展開した。
彼は全力で雪を蹴り、男の手から離れた手榴弾に向かってダイブした。
――ボッ。
タムが手榴弾を両手で包み込んだ瞬間、内側で強烈な爆発が起きた。
梱包スキルの「空間遮断」によって、音と衝撃波の九割は真空の膜の中に閉じ込められたが、漏れ出た熱量と圧力の残滓が、容赦なくタムの両手を焼き、骨を軋ませた。
衝撃でタムの体が雪原を転がる。
声を出せば、衝撃波が空気を伝わり、花に届く。
タムは、奥歯が砕けるほどに顎を食いしばり、喉の奥からせり上がる悲鳴を、溢れ出す血と共に飲み込んだ。
手榴弾による自爆テロが、無音のまま、一人の運び屋の肉体によって封じられた。
驚愕に目を見開いた暗殺者の首を、リナの剣が一筋の光となって刈り取った。
***
再び、死のような静寂が戻ってきた。
タムは、赤黒く焼け焦げ、震えの止まらない両手を雪に突き、荒い呼吸を必死に殺していた。
エドワードが駆け寄り、無言でタムの腕に触れる。治癒魔法はまだ使えない。老魔導師は、悲痛な表情を浮かべながらも、清潔な布をタムの傷口に固く巻き付け、応急処置を施した。
リナは、剣の血を雪で拭い、二人に短く頷いた。
彼女の瞳には、かつての冷たさはなく、自らの肉体を盾にして荷物を守り抜いた「同僚」への、深い敬意が宿っていた。
三人は、ついにアイギスの最頂部、氷晶花の咲く広場へと到達した。
そこには、月の光を浴びて青白く輝く、透明な花があった。
氷でできた宝石のような、儚くも神々しい一輪の花。
「……(頼みます)」
タムは、感覚の消えかかった指先を動かし、エドワードと最後のアライメントを合わせる。
エドワードが杖を掲げ、タムの体内から漏れ出る魔力を強制的に「吸着」する。
世界からすべての魔力が消えた、真の静寂。
タムは、痛みを精神力でねじ伏せ、氷晶花の根元を掴んだ。
シュン。
空間が収束し、タムの手の中に透明な立方体の箱が完成した。
箱の中で、氷晶花は摘み取られた瞬間のまま、時を止めて静止している。
成功だ。
タムはそのまま、糸が切れた人形のように雪の上に崩れ落ちた。
***
帰り道は、文字通りの決死行だった。
両手の重傷と、極限の魔力疲労。タムの意識は何度も途切れそうになったが、背中の「二つの命」の重みだけが、彼を現世に繋ぎ止めていた。
リナは、追撃してくる暗殺者の第二陣を警戒し、一切の音を立てずに雪の中に伏せ、吹雪を隠れ蓑にして進むという、極限の隠密行を一行に強いた。
エドワードは、タムの体温が下がらないよう、魔法ではなく自らの体温を分け与えるようにして彼を支え、一歩一歩、下界へと導いた。
バラムの街の門が見えたのは、出発から数日が経過した朝だった。
朝日が白銀の峰を赤く染め、ようやく「音を出しても良い」エリアに辿り着いた瞬間。
「……た、タム殿! 起きなさい、タム殿!」
エドワードの声が、久しぶりに耳を打った。その声が、驚くほど大きく、そして安らぎに満ちて聞こえた。
「……あぁ……帰った、んですね……」
タムは、掠れた声でそう答え、背中の箱を確かめるように触れた。
中には、変わらぬ重み。
そして、その横には、傷一つない透明な箱に収められた、奇跡の花。
リナが、剣を鞘に納め、タムの前に立った。
「……あなたの執念、見事だったわ。……あなたの配送計画、最後まで私が守り抜いてみせる」
タムは、朝日の中で小さく、力なく笑った。
プロのプライドなんて大層なものじゃない。
ただ、この荷物を無事に届けたい。
その歪んだまでの「社畜の執念」だけで、彼は不可能な山を、無音のまま越えてみせたのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
凄まじい緊迫感の中、なんとか氷晶花を確保したタムたち。
無音を守るために手榴弾を素手で抑え込み、悲鳴すら飲み込んだタムの姿は、まさに「狂気」に近い運び屋の執念でした。
リナもまた、一切の音を出させずに刺客を始末するという、騎士団時代の異名を証明する大活躍を見せてくれましたね。
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皆様の一票が、両手に深い傷を負ったタムが王都まで歩き抜くための、何よりの支えになります!
次回、第九話。
無事に山を下りた一行ですが、王都への道はさらに険しさを増していきます。
タムの傷の具合、そして氷晶花を手に入れた彼らを待ち受ける「次なる刺客」とは……。
引き続き、よろしくお願いいたします!




