第76話:海の境界線、沈まない火
「水鏡の館」での難事件を解決し、エリュシオン王宮に帰還したタムたち。束の間の休息も束の間、エレナ王女から直々の要請が届きます。託されたのは、決して濡らしてはならない「炎」を海の上で運ぶという、極限の配送任務。エドワードの魔導工学とタムの梱包術が、荒れ狂う大海原を舞台に真価を発揮します
エリュシオン王宮「白亜の調べ」に、冬の訪れを告げる冷たい雨が降り注いでいた。「水鏡の館」での奇妙な密室劇を解決したタムたち「ラストマイル」一行に与えられたのは、王宮の最上階、本来ならば国賓のみが立ち入りを許される貴賓室での休息であった。
しかし、その安らぎは一通の蜜蝋封印された書簡によって破られる。
「……タム殿、エレナ王女殿下より直々の要請でございます」
エドワードが、銀のトレイに載せられた書簡を恭しく差し出した。彼は元宮廷魔術師としての礼節を片時も忘れない。その立ち振る舞いは、どんな時でも揺るぎない「静」を保っていた。
謁見の間で待っていたエレナ王女は、いつになく険しい表情を浮かべていた。彼女の視線の先、円卓の中央には、鈍い光を放つ多面体のクリスタルが、特殊な魔導抑制フィールドの中に安置されている。
「……来てくれましたわね、ラストマイルの皆さん。急な呼び立てを許してください。ですが、事態は一刻を争うのです」
王女が語ったのは、この国の最南端、絶海に浮かぶ海上都市「アクア・リブラ」の危機だった。
海底遺跡の調査と資源採掘を目的として建設されたその都市は、今、未曾有のエネルギー危機に瀕しているという。海底火山の活発化に伴う地殻変動により、都市の心臓部である大型魔導炉が沈黙。予備電力も底をつき、都市を海上に繋ぎ止める浮力維持装置が停止し始めているのだ。
「放っておけば、都市は数千人の住人ごと海底へ没します。……この『古代の炎の種』が、唯一の希望なのです」
王女が指し示したクリスタル。それは海底遺跡の最深部から発掘された、原初の熱量を秘めた超高純度魔力結晶だった。
「……ほう。……これは、失われた古代熱力学の産物ですな」
エドワードが眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、結晶の構造を凝視した。
「……王女殿下。この結晶、極めて不安定です。内包された熱エネルギーが『湿気』という不純物に対して過剰な拒絶反応を示す設計になっております。海風に含まれる微かな塩分や水分に触れた瞬間、……それはもはや燃料ではなく、この国を地図から消し去るほどの業火の塊と化しましょう」
「その通りです、エドワード。だからこそ、船での輸送は不可能です。今の海域は、地殻変動の影響で十メートルを超える三角波が絶え間なく押し寄せる地獄と化しています。どんなに強固な輸送船であっても、海水からこの『種』を完全に遮断し続けることはできません。……空路も、乱気流と落雷のために封鎖されました」
王女の言葉に、広間に重苦しい沈黙が流れた。
リナが大剣の柄を叩き、苛立ちを隠さずに呟く。
「……船も駄目、空も駄目。……泳いで行けって言うわけじゃないわよね? タム、あんたのパッキングでどうにかなるの?」
タムは、白銀の瞳で結晶の位相を見つめていた。
「……梱包そのものは可能です。……でも、……運ぶ手段がありません。……物理的に海を渡るには、……波の衝撃を完全に無効化するほどの速度と安定性が必要です」
その時、静かに控えていたエドワードが、サッとセレスの前に膝をつき、許可を求めるように頭を下げた。
「……お嬢様。……わたくしに、一時の猶予をいただけますかな。……宮廷魔術師として培った英知の断片……今こそ、タム殿の『梱包』を支える『礎』として捧げる時かと存じます」
『……ええ。……あなたの考える通りになさい、エドワード。……あなたの誇りは、わたくしの誇りでもありますもの』
セレスが優雅に頷くと、エドワードは立ち上がり、タムの方を向いて穏やかに微笑んだ。
「……タム殿。……レガシー・ガーディアンを『水の上』で踊らせる準備、……今から始めましょうか」
そこからの三日間、エドワードは王宮の魔導工房に籠りきりとなった。
彼はセレスの護衛という本分を果たしつつも、夜を徹してガーディアンの脚部ユニットの再設計に没頭した。元宮廷魔術師としての膨大な知識が、緻密な計算式となって羊皮紙を埋め尽くしていく。
「……ふむ、慣性モーメントの相殺には、この術式を応用すべきですな。……お嬢様、少々大きな音を立てますが、ご容赦を」
エドワードの魔法は、攻撃のためではなく「守るための創造」に向けられていた。彼はガーディアンの足裏に、四つの巨大な「魔導反発円盤」を装着した。それは、海面との間に極薄の空気の層を作り出し、摩擦をゼロにするという、失われた水上歩行術の拡大解釈であった。
一方、タムは『炎の種』の梱包に心血を注いでいた。
「……この種は、外の世界を拒絶している。……なら、世界そのものを遮断するんじゃなくて、……この種にとっての『偽りの世界』を箱の中に作り出す」
タムは、エドワードが用意した真空状態の隔離容器の中に、自らの魔力を緩衝材として流し込んだ。それは、水分を吸着するのではなく、水分という概念そのものを「配送ルートから外す」という、特級梱包師にしか成し得ない空間定義だった。
出発の朝。海岸線には、巨大な壁のような波が打ち寄せていた。
換装を終えたレガシー・ガーディアンは、以前よりもどこか鋭利で、洗練された姿に見えた。
「……カイト殿、リナ殿。……揺れは以前の比ではありませんぞ。……舌を噛まぬよう、くれぐれもご注意を」
エドワードが操縦席に座り、古風なゴーグルを装着する。彼の指先が魔力回路に触れた瞬間、ガーディアンの全身に紫紺のラインが走り、駆動音が「海鳴り」のような低音へと変化した。
「……タム殿、……炎の種を」
タムは、自身の身体よりも慎重に、白銀の箱をガーディアンの中央部に固定した。
「……パッキング、異常なし。……位相固定、100%。……いつでも行けます」
「……よろしい。……では、参りましょうか」
エドワードが静かにレバーを引き上げた。
「……宮廷魔導流、……水上滑走の儀……。……『海神の轍』、起動!!」
ドォォォォォン!! という爆発的な推進音と共に、数トンの鋼鉄の巨体が、崖から海へとダイブした。
本来ならばそのまま沈むはずの質量。しかし、海面に激突する寸前、エドワードが展開した四つの円盤が眩い光を放ち、海水とガーディアンの間に「絶対的な反発力」を生み出した。
ガーディアンは沈まなかった。
それどころか、時速二百キロを超える猛烈なスピードで、海面を滑り始めたのだ。
「……う、……うわあああああああッ!! 浮いてる! 本当に浮いてるわよ!!」
リナが大剣を杖代わりに床に突き立て、必死に耐える。
カイトは、激しい横Gを受けながらも、その視線は常に前方の波を捉えていた。
「……エドワードさん、前方三十メートル。……右から巨大な三角波が来る。……合わせられるか?」
「……カイト殿、……愚問ですな。……私を誰だと思っておいでか」
エドワードの精密な魔力操作により、ガーディアンは波の傾斜を逆に「加速」へと利用した。波の斜面を駆け上がり、頂点で跳躍し、次の波の谷間へと着水する。その衝撃は、タムが展開する「衝撃吸収パッキング」によって、箱の中の炎の種には微塵も伝わらない。
外側はエドワードの、内側はタムの。
二人のプロフェッショナルが作り出す、完璧な「動的安息空間」。
しかし、海の試練はそれだけではなかった。
アクア・リブラ近海。そこは、人間が手を出してはならない「神域」でもあった。
荒れ狂う海中から、巨大な触手が何本も突き出し、滑走するガーディアンの進路を塞ごうとする。
「……海域の主、……クラーケンか。……不作法な出迎えですな」
エドワードが冷静に呟き、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……お嬢様、……少々行儀の悪い魔法を使いますぞ。……お許しください」
『……ええ。……道を開きなさい、エドワード。……私たちの『仕事』を邪魔する者には、相応の報いを与えなくてはね』
セレスの冷徹な許可が下りる。
エドワードは操縦レバーから片手を離し、空中に魔法陣を描いた。
「……爆ぜよ、……蒼氷の礫。……我が主の道、……汚すことなかれ」
元宮廷魔術師の放つ魔法は、破壊のためではなく、ガーディアンの「速度を維持するため」に最適化されていた。放たれた氷の弾丸が、触手の一本一本を凍結させ、砕いていく。
その隙間を、ガーディアンが光の矢となって突き抜ける。
「……タム殿! 次の衝撃は最大ですぞ! ……結晶を、魂ごと抱きかかえなさい!!」
「……了解!! ――『全概念パッキング』、……最大出力!!」
巨大な波の壁。その向こうに見えてきたのは、激しい嵐の中で明滅する、海上都市「アクア・リブラ」の灯火だった。
沈みゆく都市。凍える数千の命。
それらを救うための「火」を、一滴の水も許さずに届ける。
海と空の境界線。
ラストマイルの疾走は、もはや配送という枠を超え、神話の領域へと足を踏み入れていた。
エドワードの気高い誇りと、タムの若き情熱。
二つの才能が、荒波を「希望の道」へと変えていく。
アクア・リブラへの距離、あとわずか十マイル。
彼らの咆哮は、冬の海鳴りさえも圧倒し、絶望に沈む人々のもとへと響き渡るのだった。
エレナ王女からの極秘依頼、そしてエドワードが誇る魔導工学の真髄。荒れ狂う海を「道」に変えて突き進むラストマイル一行の前に、海の脅威が立ちはだかります。果たして「炎の種」を濡らさずに、沈みゆく都市へと届けることができるのか。エドワードの魔法とタムの梱包が、未知の海域で光り輝きます。




