第75話:鏡像の弔辞(後編)
密室となった書斎、主サリバンの遺体、そして鏡の中に生じた「数秒の遅れ」。あらゆる魔導が封じられた沈黙の館で、タムたちは建築家が遺した最大のトリックを暴こうとしていました。鏡の向こう側に隠された「もう一つの真実」とは何か。そして、依頼主であるサリバンが自らに宛てた遺言書に込められた、切実な願いとは。梱包師タムによる、魂の検品が始まります。
鏡だと思っていたものは、精巧に作られた巨大な「ガラス窓」だった。
カイトがその枠に指をかけ、力を込める。ギギィ、という重い音と共に、その境界線は静かに回転し、隣室へと繋がる道を開いた。
そこは、先ほどまでタムたちがいた部屋と全く同じ間取り、全く同じ家具、そして全く同じティーセットが置かれた「反転した書斎」だった。
「……信じられない。部屋そのものを、鏡合わせのように二つ作っていたなんて」
リナが部屋に足を踏み入れ、息を呑む。
こちらの部屋の家具は、すべてが「右利き用」に配置されていた。ペン立ての位置、ティーカップの向き、そしてデスクに置かれた書きかけの図面。こちら側こそが、世間に知られる「右利きの天才・サリバン」の本来の居室であることは明白だった。
タムは、二つの部屋を繋ぐ回転扉の傍らに立ち、死んでいる「左利きの男」をもう一度見つめた。
「……カイトが鏡の中に見た『動きの遅れ』の正体がわかりました。あれは反射じゃなかった。向こう側の部屋にいたこの人が、鏡に映るカイトの動きを、必死に『真似ていた』だけだったんです」
魔法が使えないこの館で、サリバンは物理的な手段で「自分を二人に見せる」必要があった。一人は表舞台に立つ天才。もう一人は、この隠し部屋に潜み、同じリズムで生活し、同じ思考を共有する影。
「執事さん……いえ、サリバンさん。もうお芝居は終わりにしましょう」
タムの声に、扉の傍らで沈黙を守っていた老執事が、ゆっくりと顔を上げた。
「……どうして、私がサリバンだと?」
「理由は三つあります。一つ目は、あなたが館を案内していた時の歩幅です。この館は完璧なシンメトリーで設計されている。その設計者であれば、廊下の中心線を無意識に歩くはずだ。あなたは一度も、その中心から外れなかった」
タムは一歩、サリバンへと歩み寄る。
「二つ目は、この遺言書です。……宛先は『自分自身』。でも、自分に届けるだけなら梱包師を呼ぶ必要はない。あなたが求めていたのは、配達員じゃなく『自分の不在を証明する第三者の目』だった。そして三つ目――」
タムはサリバンの右手を指差した。
「……万年筆のインク汚れです。執事という仕事は清潔さが命だ。でも、あなたの右手の中指には、ペンだこがあり、微かに青いインクが染み付いている。執事が巨匠の万年筆を使って図面を引くなんてことは、あり得ませんから」
静寂が、館を支配した。
老執事は、憑き物が落ちたようにふっと肩の力を抜いた。彼は震える手で執事の仮面(眼鏡とカツラ)を外し、デスクの傍らに置いた。
「……見事だ。……梱包師という仕事は、これほどまでに執拗に『荷物の細部』を見ているものなのか」
そこに立っていたのは、王宮でタムたちに依頼をしてきた、あの誇り高き建築家・サリバンその人だった。
「……なぜ、弟さんを殺したんですか?」
カイトが冷徹な声で問う。サリバンは首を振った。
「殺してはいない。……いや、殺したのは『我々』だ。……彼は、生まれつき左利きだった。この国の法では、双子の弟は『忌み子』として扱われ、戸籍すら与えられない。私は彼を愛していたが、同時に、彼の才能を外に出すわけにはいかなかった」
サリバンは、冷たくなった弟の遺体の髪を、慈しむように撫でた。
「彼は私の影として、数千枚の図面を引いた。世に名高い『サリバンの傑作』の半分は、彼の右手――いや、左手から生まれたものだ。だが、彼に病が見つかった。余命幾ばくもないと知った彼は、私にこう言ったのだ。……『兄さん、僕をこの館の一部にしてくれ』と」
サリバンの声が、嗚咽に震える。
「彼は、自分が死んだ後、私が『孤独な天才』として完成することを望んだ。自分が死んだ死体を『本物のサリバン』として発見させ、私は『執事』として姿を消す。そうすれば、建築家サリバンは死の間際まで完璧な密室の芸術を完成させた伝説として、永遠にパッキングされる。……それが、彼の願いだったのだ」
「……馬鹿げてるわ」
リナが、怒りを押し殺したような声で吐き捨てた。
「……自分を消してまで完成させる伝説なんて、ただのガラクタよ。それを守るために、あなたは一生、名前を捨てて影として生きるつもりだったの?」
タムは、白銀の箱に収められた「遺言書」を、サリバンの前に置いた。
「……サリバンさん。僕は、この荷物の検品をやり直しました。……スキルは使えませんでしたが、代わりに、この部屋にある『生活の痕跡』をパッキング解除しました」
タムは、弟が座っていたデスクの引き出しを一つ開けた。そこには、大量の「右利き用の練習帳」が詰まっていた。
「弟さんは、左利きだったんじゃない。……あなたに万が一のことがあった時、自分が『右利きのサリバン』として表舞台に立てるように、血の滲むような努力をして、右手の訓練をしていたんです。……彼は、あなたが一人で重荷を背負わなくて済むように、代わりになる準備をしていた」
サリバンが目を見開く。タムは続けた。
「彼はあなたを完成させるために死んだんじゃない。あなたがこれから、一人の人間として自由に生きるために、重すぎる『サリバン』という看板を、自分の死体と一緒に梱包して葬ろうとしたんです。……この遺言書の中身は、あなたの罪の記録じゃない。彼からの、最後の中継依頼です」
サリバンは、弟が遺した練習帳を手に取り、その掠れた文字の山を見て、声を上げて泣き崩れた。
それは、天才建築家としての矜持でも、密室のトリックへの執着でもない、一人の兄としての、剥き出しの慟哭だった。
「……セレス、魔導中和剤の密度はどう?」
『……薄れてきていますわ。サリバンさんの心が折れたことで、館の「拒絶の意志」が解かれたのでしょう。……タムさん、今ならいけますわよ』
タムは右腕の義手をサリバンの肩に置いた。微かな光が戻り、空間の位相が安定していく。
「……サリバンさん。……この『サリバンという名の孤独』は、僕が責任を持ってパッキング解除します。……あなたは今日から、名前を取り戻してください。弟さんが愛した、あなた自身の名前を」
翌朝。
霧が完全に晴れた湖畔には、澄み渡るような青空が広がっていた。
サリバンは自ら警察へ連絡し、自首することを選んだ。弟の死を偽装しようとした罪、そして戸籍を隠蔽し続けた数十年間の歪みを、すべて白日の下に晒すために。
ガーディアンの元へ戻るタムたちを見送りながら、サリバンは穏やかな微笑みを浮かべた。
「……梱包師殿。……君に頼んで、本当によかった。……私は、生まれて初めて、自分自身という荷物を正しく届けられた気がするよ」
ガーディアンが駆動音を上げ、街道へと走り出す。
「……ふぅ。……今回は本当に疲れたわね。魔力も使えない、ただの推理合戦なんて」
リナが背もたれに深く腰掛け、大きく伸びをした。
「……でも、……あの人の泣き顔を見たら、……放っておけなかったわね」
カイトが静かに、しかしどこか満足そうに笑う。
タムは、右腕の義手の感触を確かめながら、遠ざかる「水鏡の館」を見つめていた。
どんなに精密な設計図でも、人の心の揺らぎまでは計算できない。
それを汲み取り、壊さないように包み、届ける。
「……次の配送先は、どこでしょうね」
タムの言葉に、エドワードが「どこへだって連れてってやるぜ!」と豪快に笑い、レバーを引き抜いた。
朝日の中を爆走するレガシー・ガーディアン。
ラストマイルの旅路は、また一つ、語り継がれるべき「名配送」の記憶を載せて、未知なる地平へと続いていく。
「建築家サリバン」という巨大な虚像。そのパッキングを、タムたちは知性と共感という二つの鍵で解除しました。二人の人間が一人を演じるという悲劇的なシンメトリーは崩れましたが、サリバンの手には「自分として生きる」という、重くも新しい人生の荷物が託されました。
ミステリーを越えた先にある、真実の救済。エリュシオンでの名を不動のものとしたラストマイルは、次なる地でどんな「運命」をパッキングすることになるのでしょうか。伝説の配達員たちの旅は、まだ始まったばかりです。




