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第52話:深淵の重圧、独りきりのラストマイル

 仲間と共に歩んできた道が、いかに守られたものだったか。

 独りきりで潜る深海は、梱包師タムにその残酷な真実を突きつけます。

 肺を押し潰す水圧、感覚を奪う極低温、そして暗闇から襲い来る原生の牙。かつてなら仲間が「環境」を制御し、安全を確保してくれていた。しかし今、タムの目の前にあるのは、己の無力さと、未知の古代文明が遺した冷徹な番犬――「レガシー・ガーディアン」だけでした。

 酸素の在庫は残りわずか。検品スキャンすら通用しない古代の障壁を前に、タムは絶望の淵に立たされます。

 それでも、彼の手にはリンが遺した導きの短剣があり、胸には「恒星の脈動」を手に入れるという狂おしいほどの執念が燃えていました。

 梱包師としての誇りと、再会への願い。そのすべてを賭けた、孤独で泥臭い強行軍が始まります。

 静寂、という言葉では生ぬるい。

 それは、世界そのものから拒絶されているような、重苦しい「窒息した闇」だった。

「……ッ、が、……はぁ、……ッ」

 タムは、口の中に含んだ「空気のサイコロ」から漏れ出す酸素を、飢えた獣のように啜り上げた。

 呼吸は維持できている。だが、身体が悲鳴を上げていた。水深が百メートルを超えたあたりから、生身の左半身にかかる水圧は容赦なく彼の骨を軋ませ、肺を押し潰そうとする。耳の奥では鼓膜が破れんばかりの圧力がかかり、視界は自分の心音に合わせて赤く明滅していた。

 かつての「ラストマイル」の旅を思い出す。

 過酷な寒冷地、あるいは猛毒の噴煙地帯。どんな悪環境下であっても、タムは常に「梱包」という自分の職能だけに集中できていた。

 アルウェンの穏やかな加護が周囲の魔圧を和らげ、リナが展開する防御結界が物理的な衝撃を遮断し、そして何より、カイトという絶対的な剣が全ての脅威を退けていた。

 自分が「梱包師」として完成されていたのは、彼らが環境そのものをパッキングし、安全な作業場を提供してくれていたからだったのだ。

「……独り、では。……配送ルートを維持することすら、これほどに……」

 岩場に手をついた瞬間、鋭い痛みが走った。

 検品スキャンするまでもない。深海に潜む肉食性の原生魚が、タムの左腕の肉を掠めていったのだ。

 カイトがいれば、その魚は姿を見せる前に細切れになっていただろう。だが今のタムには、その素早い動きを追うことすらままならない。

 焦りが、梱包の精度を狂わせる。

 迫りくる二度目の襲撃に対し、タムは右手の義手を突き出した。

「……梱包パッキング……ッ!」

 目前の海水を部分的に圧縮し、水圧による「盾」を作ろうとした。だが、慣れない水中での出力調整に失敗し、圧縮された水の反動が逆にタムの身体を岩壁へと叩きつけた。

「が、はっ……!」

 肺から空気が漏れ、視界が激しく揺れる。

 右手の義手からは、神託の残滓が火花のように不気味な黒い光を放っている。動かないはずの指先が、タムの生命力を糧にするようにピクリと痙攣した。

 泥臭い。あまりに惨めなサバイバルだった。

 スマートな理論も、洗練された梱包技術も、この圧倒的な大自然の圧力の前では、子供の遊びにも等しい。

 

 タムは、岩場にうずくまりながら、重く沈む右腕を見つめた。

 『恒星の脈動』。

 あの観測所で手に入れるはずだった、セレスの心臓。

 それを失い、リンを失い、仲間を失った。今の自分に残っているのは、ポケットの中のわずかなサイコロと、腰に差した一振りの短剣だけだ。

「……まだ、終わらせるわけには、いかないのです」

 タムは震える手で、リンの短剣を抜き放った。

 透明な刃が海底の闇を切り裂き、微かな光を放つ。その光が照らし出したのは、海底の砂塵の向こう側にそびえ立つ、巨大な「門」の影だった。

 お父様の管理する工廠のデザインとは、根本から異なる。

 それは無機質な結晶体によって構成された、古代文明の遺構。

 そしてその門の前には、侵入者を決して許さぬ、蒼い眼光を放つ「番犬」が待ち構えていた。

 その「犬」が首をもたげた瞬間、海底の温度が一段階下がったかのような錯覚に陥った。

 結晶体で構成された四足獣――レガシー・ガーディアン。

 お父様の工廠が生み出す、蒸気と油にまみれた機械兵器とは対極にある存在だ。継ぎ目一つない半透明の装甲の下では、蒼い魔力が血管のように脈動し、その眼光は生命の熱を一切持たぬ冷徹な光を放っている。

「……検品スキャン

 タムが震える声を絞り出し、黒い義手をかざす。

 だが、網膜に返ってきたのは、エラーを示すノイズの嵐だった。

「……解析不能? お父様のデータベースにも、私の経験則にも……該当するアルゴリズムが存在しませんか。……これこそが、失われた時代の『番犬』というわけですね」

 ガーディアンが、静かに一歩を踏み出す。

 その瞬間、周囲の海水が爆鳴キャビテーションを起こした。

 重厚な水圧など存在しないかのような超高速の突進。タムは反射的にリンの短剣を突き出したが、ガーディアンの結晶の爪が彼の肩口を掠め、岩壁をバターのように切り裂いた。

「が、あぁッ……!!」

 衝撃波だけで全身の骨が悲鳴を上げる。

 今の自分には、カイトのような剛力も、リナのような広域魔法もない。あるのは、残り二個となった「空気のサイコロ」と、動かぬ右腕、そして持ち主の願いを指し示すだけの短剣。

 

 対比はあまりに酷だった。

 目の前にそびえ立つ巨大な遺跡の門は、今のタムにはあまりに高く、それを守る番犬はあまりに強大すぎる。

 一人では、この扉を開けるどころか、近づくことすら叶わない。その事実が、海底の冷たさと共にタムの心に突き刺さる。

「……セレス。……リン。……皆様……」

 肺に残るわずかな酸素が熱い。

 意識が混濁し、海底の砂に沈みそうになる中、タムの視界に『恒星の脈動』の幻影が浮かんだ。

 あの時、手に入れ損ねた、永遠の命の心臓。

 もしここで立ち止まれば、リンの犠牲も、仲間たちの想いも、すべては「未配の荷物」として闇に消える。

「……いいえ。……梱包師パッカーが、荷物を手放していいのは……目的地に届けた時だけです」

 タムは、泥を噛むようにして身を起こした。

 右手の義手に刻まれた黒い紋様が、タムの焦燥に応じるように、より深く、より禍々しく発光する。

 

 『恒星の脈動』を、必ずこの手に入れる。

 そのためには、こんな深海の底で、命という名の荷物を下ろすわけにはいかない。

「……配送を、強行します」

 タムは最後から二番目の「空気のサイコロ」を噛み潰し、肺に酸素を流し込んだ。

 右手の黒い澱みをリンの短剣に注ぎ込む。透明だった刃が、ドス黒い輝きを帯びて咆哮を上げた。

 

 勝算など、検品スキャンするまでもなく零だ。

 それでもタムは、震える手で短剣を正眼に構え、迫りくるレガシー・ガーディアンの蒼い瞳を見据えた。

 次の瞬間、梱包師は一筋の黒い影となって、深淵の絶望へとその身を投げ出した。

 第52話をお読みいただき、ありがとうございます。

 

 どれほど無力であっても、目的のために「強行軍」を選ぶタムの執念を描きました。仲間がいないからこそ、彼は自らの命を削ってでも前に進むしかありません。

 酸素は残り一個。目前には最強の番犬。

 タムがこの窮地を、梱包師ならではの「泥臭い機転」でどう切り抜けるのか。

 そして、この遺跡の奥で彼を待ち受ける「古代の遺物」とは何なのか。

 次回、第53話。

 深海の死闘、その結末をどうぞご期待ください!

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