第二十一話:崩壊する言葉と、静寂の繭(まゆ)
北の凍土――そこは、この世界の「末端」であり、同時に世界という巨大な生き物の「感覚が麻痺した境界線」でもあります。
前話でお父様の遺したオートマタたちの「不備」を見つけ出したタムは、その答えを確信に変えるべく、極寒の聖域へと足を踏み入れました。
氷点下数十度の世界で、タムの「丁寧さ」はもはや生存本能に近いものへと変質していきます。
そして、猛吹雪の向こう側から現れるのは、かつて共にこの世界に降り立った、あの「勇者」の一人。
再会は、果たして福音か、それともさらなる絶望の始まりか。
梱包師としての真価が、今、壊れかけた魂の前で試されます。
北の凍土。そこは、生命が拒絶される「死のパッキング」が施された領域だった。
空気を吸い込めば、肺の奥が凍りつくような痛みが走り、吐き出した吐息は瞬時に白銀の結晶となって霧散する。
「……タム殿、無理はなさるな。この寒さは、通常の防寒魔法の範疇を超えている」
エドワードが重厚な外套を翻しながら、先行するタムに声をかけた。彼の周囲には重力魔法による歪みが展開され、吹き荒れる吹雪を物理的に弾いている。だが、その隣を歩くカイトとリナは、寒さに顔を青ざめさせ、吐息を白く凍らせていた。
しかし、一行の先頭を行くタムの関心は、自身の凍えそうな指先にはなかった。
「……いえ、私よりも、お嬢様の箱の温度勾配が問題です。外気温がこれほど急激に下がると、断熱材の隙間から『冷気の不備』が侵入します」
タムは歩みを止め、背負ったセレスの箱を下ろすと、震える手で懐から特殊な「魔法粘着テープ」を取り出した。
それは観測塔で手に入れた希少な魔導素材を、タムが独自の解釈で「パッキング用」に加工したものだ。
彼は膝をつき、氷点下の暴風の中で、ミリ単位の作業を開始した。
箱の角、わずかなシワが生じた断熱膜の上から、新しい魔法膜を重ねていく。ガムテープの端をいつものように綺麗に折り返し、粘着面が凍りつく前に、魂を込めるようにして指で圧着する。
「……よし。これで、内部温度の低下は時速〇・〇一度以内に抑えられるはずです」
タムは満足げに頷き、鼻先に垂れそうになった鼻水を手の甲で乱暴に拭った。その手の甲は、すでに感覚がないほど赤黒く変色している。
自分の命よりも、パッキングの精度を優先する。その狂気じみた丁寧さこそが、この死の世界で彼らを繋ぎ止めている唯一の「秩序」だった。
「タム、何か来るわ!」
リナが鋭い声を上げ、細身の剣を抜いた。
吹雪の向こう側。本来なら魔物さえも活動を停止するはずの極寒の奥から、何かがこちらへ向かって這いずってくる。
カイトが聖剣を構え、光を放つ。その光が照らし出したのは、異形でも魔族でもなかった。
「……あ、あ……あ、あ……」
それは、ぼろぼろになった法衣を纏った一人の少女だった。
かつてクレイエル王宮で、最強の「大魔導師」として、タムやカイトと共に召喚されたはずの勇者――リン。
「リン……!? なぜ、お前がこんな場所に!」
カイトが叫び、駆け寄ろうとする。だが、その足はリンの変貌ぶりを目の当たりにして凍りついた。
リンの瞳は、異常なほどに散大していた。
かつての理知的な光は消え失せ、その瞳孔には、この世界の物理法則や魔力の流れが「術式の羅列」として絶え間なく明滅し、映し出されている。
「……ち、ちがう。計算が、あわない。空気が、私の脳を叩いてる。だれ……? だれが、私の脊髄を……ペンペン、弾いてるの……?」
彼女は雪原に爪を立て、自分の腕を血が出るほどにかきむしっていた。
口の端からは唾液が垂れ、失禁した跡が足元で凍りついている。彼女はカイトの顔を見ても、それが仲間であることさえ認識できていないようだった。
「やめて、見ないで! 世界が、見てる! 穴があく、私に穴があくの! 神託が、あ、ああ、うるさい! 脳みそを、スプーンで、かき混ぜないで……!!」
リンは激しく頭を振り、雪の中に顔を埋めて絶叫した。
その声はもはや言葉の体をなしていない。世界の構成情報が直接脳に流れ込み、自分の存在という「個」の境界が溶けていく恐怖。世界という巨大な生物の、一つの神経細胞として無理やり使い潰されている末端の悲鳴だった。
「……ひどいな。これは、完全な『破損』です」
タムが静かに立ち上がり、眼鏡の位置を直した。
カイトはリンの惨状に涙を浮かべ、彼女の肩を掴んで揺さぶった。
「リン! しっかりしろ! 俺だ、カイトだ! 何があったんだ、王宮で……!」
「……だめだ、カイト殿。彼女に触れてはならない」
エドワードが重い口調で制した。
その目は、リンの背後に見える「世界の歪み」を見つめている。
「彼女は、世界の『意思』に触れすぎたのだ。……今の彼女にとって、外界の刺激はすべて、魂を削る劇薬に等しい。……かつての師の時代にも、こうなった魔導師を何人も見てきた」
リンはカイトの接触に、火傷でも負ったかのようにのたうち回った。
彼女は空に向かって、存在しない何かに許しを乞うように手を伸ばし、そしてまた雪原を這いずり始める。
タムは一歩、また一歩と、壊れた少女へ近づいていった。
彼の目には、彼女はもはやかつての同級生としては映っていない。
中身が溢れ出し、周囲のノイズによって劣化が加速し、破棄されるのを待つだけの「特級の欠陥品」。
タムは、凍傷で黒ずんだ指で、新しいガムテープを手に取った。
「……カイトさん。彼女を、荷物として扱います。……いいですね?」
その声には、一切の迷いも、そして不必要な同情もなかった。
「荷物として扱うだと……!? タム、お前、何を言っているんだ!」
カイトの怒号が、凍てつく空気を震わせる。だが、タムは冷徹な作業員の眼差しを崩さない。
「カイトさん、今の彼女を『人間』として扱うのは、仕様外の負荷をかけ続けるのと同じです。彼女の脳には今、処理能力を超えた『世界の生データ』が流れ込み続けている。器が耐えきれず、中身が漏れ出しているんです。放置すれば、魂そのものが摩耗し、霧散します」
リンは雪原に額を擦り付け、ひび割れた声で数字の羅列を呟き続けている。それは世界の生存本能が発する、逃れられない絶対命令。
「……彼女を完全に『遮断』します。外部からの神託、内部からの情報の漏洩。そのすべてを止める。……お嬢様の箱と同じ、絶対静止のパッキングを施します」
タムは、凍傷で黒ずんだ指先に魔力を込めた。取り出したのは、観測塔の最深部で回収した「高密度の魔導銀」を練り込んだ、特級の梱包用緩衝材だ。
「エドワードさん、重力魔法で彼女の『存在の座標』を固定してください。一ミリの揺れも許しません。カイトさんは、彼女の叫び声を物理的に封じる真空の魔法膜を。……リナさんは、作業中に吹雪が入り込まないよう、風除けを」
タムの圧倒的な「現場指揮」に、三人は言葉を失いながらも、その手に宿る確信に突き動かされた。
「……始めます。これは、救済ではなく『保存』です」
タムはリンの足元から、その「梱包」を開始した。
それは精密機械を真空パックするような、迷いのない手際だった。銀の緩衝材が彼女の身体を包み込んでいく。リンは「やめて、閉じ込めないで、世界が怒る……!」と絶叫するが、タムはその声を無視し、シワ一つなく、内部の空気を丁寧に抜きながらパッキングを進めていく。
タムの【概念梱包】が極限まで発動する。
それは対象を「外部の理」から完全に切り離し、一つの独立した「完結した荷物」として定義する力だ。
リンの頭部までが銀の膜に覆われた瞬間。
彼女の瞳に映っていた世界の術式が、急速に色を失った。世界という巨大な生物の「視線」が、タムの張った梱包材によって完全に遮断されたのだ。
「……あ、あ……くらい。……なにも、聞こえない……」
リンの焦点の合わなかった瞳に、微かな安堵が宿った。
外から降り注いでいた脳を焼く雑音が消えた。タムの完璧なパッキングが、リンという存在を世界から「隠蔽」し、その内部の時間を事実上の静止状態へと追い込んだ。
タムは最後に、彼女の頭部を優しく、しかし強固に包み込んだ。
一切の干渉を許さない、絶対的な隔離空間。
銀の繭となったリン。そこにはもはや、精神の摩耗も、時間の経過による劣化も存在しない。
「……これで、よし。端の処理も完璧です」
タムは仕上げに、魔法テープの端をいつものように指先で綺麗に折り返した。
繭の中からは、もはや呼吸音さえも聞こえない。だがそれは死ではなく、究極の「保存」だ。中身が劣化することはない。
「……タム、彼女は……リンはどうなるんだ?」
カイトが恐る恐る銀の繭に触れる。タムは眼鏡を拭き直し、淡々と、しかし確かな自信を持って答えた。
「今の彼女は、時間の止まった『完璧な在庫』です。精神の壊死も、狂気も、このパッキングを解かない限りは一秒たりとも進行しません。……あとは、我々が彼女という荷物を、安全に『再起動』できる場所まで運ぶだけです」
セレスの箱に加え、もう一つ、守るべき重い「荷物」が増えた。
だが、タムの背筋は伸びていた。たとえ世界という巨大な生き物が彼女を飲み込もうとしても、自分の梱包がある限り、指一本触れさせはしない。
「エドワードさん。彼女の繭を、お嬢様の箱の横に連結します。重心のバランスが崩れますが、私のパッキングによる慣性制御で補います。……行きましょう」
「……ふむ。お主の『丁寧さ』は、時間の流れさえもパッキングしてしまうのか……」
エドワードは感嘆の溜息をつき、杖を振った。
一行は再び、白銀の地獄へと歩み出す。
セレスという「世界の楔」と、リンという「世界の不備」。
二つの巨大な謎を完全にパッキングし、赤石保は一歩一歩、誰よりも確かな足取りで凍てつく雪を踏みしめていった。
第二十一話をお読みいただき、ありがとうございます。
衝撃の再会となったリンですが、かつての「大魔導師」としての威厳は見る影もなく、変わり果てた姿となってしまいました。彼女を襲ったのは魔物ではなく、この世界そのものが発する「神託」という名の過剰な情報負荷……。
タムが彼女に対して下した「荷物として扱う」という決断。
一見冷酷に見えますが、時間さえもパッキングして止めてしまうタムの技術は、今の彼女にとって唯一の、そして究極の安息となりました。
リンを「再起動」させるためのパーツとは何なのか?
そして、北の凍土の神殿で待ち受けるものとは?
次回、第二十二話。
「荷物」が増えた一行の、新たなパッキング・ロードにご期待ください!




