第十九話:湖畔のパッキング、束の間のピクニック
激動の夜を越え、馬車が辿り着いたのは、鏡のように静かな湖畔でした。
追っ手の影に怯えるのではなく、今はただ、この瞬間の「鮮度」を保ちたい。
タムは梱包師としてのスキルを、今日は誰かを守るためではなく、仲間たちと囲む食卓を彩るために振るいます。
漂うスープの匂い、カイトとエドワードの賑やかな喧嘩、そして箱の中から聞こえるセレスの鈴を転がすような笑い声。
それは、目的地のない旅路で見つけた、名前のない宝物。
終着点を知らぬまま、一行は束の間の「完璧な休日」をパッキングします。
その行く手に、銀色に輝く宿命の塔が姿を現すとも知らずに。
王都を包んでいた重苦しい魔力の残滓も、追っ手の殺気も、もはやここまでは届かない。
辿り着いたのは、鏡のような湖面が朝日にきらめく、名もなき湖のほとりだった。周囲を古い針葉樹林に囲まれたその場所は、まるで世界から切り離されたパッキング空間のように静まり返っている。
「よし、今日はここで一日、しっかり『メンテナンス』と行きましょう!」
カイトが馬車から飛び降り、大きく背伸びをしながら宣言した。
「師匠、魔導馬たちが限界です。銀の蹄が熱を持ってますし、何より……僕らのお腹が、さっきから空を飛ぶ魔物の鳴き声みたいに鳴ってるんですよ!」
その言葉を合図に、一行の「完璧な休息」が始まった。
タムはまず、一番大切な「荷物」であるセレスの箱を、直射日光を避け、かつ心地よい湖風が通り抜ける一等地の木陰へと運んだ。その足取りは、まるで壊れやすい硝子細工を運ぶかのように慎重で、かつ淀みがない。
「お嬢様、今日はここで少し時間を取ります。……リナさん、悪いですが彼女の『環境パッキング』をお願いできますか?」
「ええ、任せて。最高の空気をお届けするわ」
リナが軽やかに箒を振り、優しく柔らかな微風を操る。彼女は第十話で見せたあの鋭い風の使い方とは一転し、まるで羽毛で撫でるような穏やかな空気の層を作り出した。
風は湖の冷気を運び、箱の通気口へと吸い込まれていく。
『ふふ……リナ様の風は、春の草原の匂いがしますのね。……気持ちいいですわ』
箱の中から聞こえる鈴を転がすような念話に、場がふわりと和らいだ。
タムはそれを見届けた後、自らの「在庫」から、この世界に来て以来、暇を見つけては「最高の状態」でパッキングし続けてきた調理器具と食材を取り出した。
「さて……。今日は少し、いえ、かなり丁寧に作りましょうか」
タムが取り出したのは、第一話で彼が転生する直前に手にしていた「おにぎり」の概念を、この世界の最高級食材で再現するための素材だった。
彼にとって、食事とは単なる栄養補給ではない。それは、旅という不安定な空間において、唯一提供できる「確かな安心」のパッキングなのだ。
「カイト君、魔導コンロの火力を三・二ミリ単位で調整してください。エドワードさん、その間にこの穀物を、粒の形を壊さないように一定の速度で研いでください」
「えっ、三・二ミリ……!? 師匠、それ火力のツマミを指先で震わせろってことですか?」
「……粒の形を壊さない研ぎ方……。魔力制御より難しい注文ですね……」
タムの「丁寧すぎる」家事の監修が始まった。
カイトは文句を言いながらも、自前の工具を駆使して魔導コンロに精密な出力安定装置を取り付け始める。その顔は、伯爵邸で爆弾を作っていた時と同じくらい真剣だ。
「ったく、師匠のこだわりは、時々お父様の設計図より厳しいんだから……」
一方のエドワードは、湖畔でボウルを抱え、冷汗を流しながら穀物を研いでいる。
「ああっ、また一粒欠けてしまった! 師匠、申し訳ありません!」
「エドワードさん、謝る必要はありません。欠けた一粒を『不備』として取り除き、残りを完璧に揃えれば良いのです。それが検品というものです」
タム本人はといえば、保存していた燻製肉をミリ単位の厚さで切り揃え、スープに入れる野菜の面取りを、まるで宝石を磨くかのような手つきで行っていた。
リナがその様子を眺めながら、クスクスと笑う。
「タムって、戦っている時より料理している時の方が、ずっと恐ろしい顔をしているわね」
「リナさん、野菜の角が残っていると、煮崩れてスープの透明度が下がります。それは『汚い梱包』と同じです」
「はいはい、分かりました。じゃあ、私はその『完璧な野菜』を最高のタイミングで火にかける係ね」
リナはリナで、タムの異常なこだわりを楽しみ、それを完璧なチームワークで形にしていく。彼女の面倒見の良さが、タムの硬すぎる個性を柔らかく包み込んでいた。
そんな賑やかな光景を、セレスは箱の中から「音」と「気配」で感じ取っていた。
『皆様……本当に、楽しそうですわね。……カイト様、そのネジの音、さっきよりずっと軽快ですわ』
「へへ、分かりますかお嬢様! 師匠がうるさいから、サスペンションも最高級に仕上げてますよ!」
やがて、湖畔には香ばしい匂いが漂い始めた。
タムが炊き上げた、一粒一粒が真珠のように輝く穀物。それを彼は、熱が逃げないうちに「おむすび」の形へと整えていく。
手に伝わる熱を、彼は愛おしむように感じていた。かつて派遣社員として孤独に食べていたあのおにぎりとは違う。今は、この熱を分かち合う仲間がいる。
「お嬢様、お待たせしました。直接は召し上がれませんが……この匂いを、今のあなたの栄養にしてください」
タムが箱の小さな通気孔の側に、出来立ての温かいおむすびを供える。
そこから立ち上る湯気は、リナの操る風に乗って、箱の奥深くへと届けられた。
『……温かい。……タムさん、心の奥まで、パッキングされていくようですわ』
穏やかな湖畔の空気。
だが、この時、エドワードがふと北の空を見つめて、その顔を曇らせた。
賑やかな食事の時間の裏側で、彼らにはまだ解決しなければならない「荷物の行方」が残っている。
タムが炊き上げた穀物の、一粒一粒が真珠のように輝く「おむすび」が、清潔な竹の皮の上に整然と並んでいく。その傍らで、エドワードは未だに湖のほとりで、眉間に深い皺を刻んで苦戦を強いられていた。
「……ふむ。これは一筋縄ではいかんな。対象を傷つけず、水膜ごと優しく『梱包』して引き上げる……。重力魔法の極致というわけか」
エドワードは整えられた顎髭を指先で弄りながら、杖を構え直した。普段は数トンもの岩石を押し潰すほどの魔力を自在に操る彼だが、今は針の穴を通すような精密な制御に全神経を注いでいる。杖の先から放たれる淡い光が、湖の中を泳ぐ銀鱗の魚を捉える。
だが、魚が跳ねた瞬間、力の加減がわずかに狂った。
「おっと……。また鱗を散らせてしまったか。タム殿、申し訳ない。これでは貴殿の『検品』には到底合格できそうにないな」
水飛沫で上質な外套を濡らしながらも、エドワードは自嘲気味に、しかしどこか楽しげに目を細めた。
「おいおい、魔法使いの旦那! 王都の天才が、一匹の魚に完敗かよ」
カイトが御者台から飛び降り、ひょいと自作の魔導釣り糸を投げ入れる。
「カイト君、笑わんでくれ。タム殿の言う『丁寧な仕事』というのは、長年魔法を研究してきた私にとっても、未踏の領域なのだよ」
リナが二人のやり取りを見守りながら、そっとエドワードの背中を風で乾かし、カイトの糸に加護を添える。
「ふふ、エドワードさんは真面目すぎるのよ。カイト君の適当さと合わせれば、ちょうど良くなるんじゃない?」
その光景を、タムは少しだけ目を細めて眺めていた。
かつて孤独に荷物を包んでいた頃には考えられなかった、騒がしくも温かな「無駄」な時間。効率を最優先する派遣先の倉庫なら、真っ先に切り捨てられるはずのこの時間が、今のタムには何よりも「鮮度を保ちたい」宝物に思えた。
やがて、網の上で香ばしく焼かれた魚と、具沢山の温かなスープが食卓を彩った。
五人は、木陰に置かれたセレスの箱を囲むようにして座る。
「お嬢様。……今日のメインディッシュは、エドワードさんが外套を犠牲にして捕らえた魚です」
『ふふ……エドワード様、ありがとうございます。……お洋服、風邪を召しませんようお気をつけくださいね』
「ご心配なく、セレス様。……いやはや、魔法の修練より、今日の一匹の方がよほど学びが多かった。タム殿、このおむすび……心に沁みる味だ」
エドワードは落ち着いた仕草で、しかし一口ごとに深く味わうようにおむすびを頬張った。その所作には、酸いも甘いも噛み分けた大人の男の余裕と、タムへの確かな敬意が滲んでいた。
リナがスープを箱の傍らに置き、優しく微笑む。
「セレス様。いつか、この箱から完全に自由になったら、私が世界中の美味しいものを食べに連れて行ってあげるわ。タムの料理も、その時は口いっぱいに頬張ってね」
『リナ様……。はい、楽しみにしておりますわ。……皆様とこうしてお話ししているだけで、私の心はもう、八百年の孤独を忘れてしまいそうです』
セレスの念話は、どこまでも澄んでいた。
だが、タムは気づいている。セレスがこうして明るく振る舞えば振る舞うほど、彼女の「魂の摩耗」は確実に進んでいる。この穏やかな時間は、タムが身を削って維持している「二重梱包」という魔法の膜の上に成り立つ、危うい奇跡なのだ。
食後の静かな時間が訪れる。カイトが油のついた手を拭いながら、真剣な面持ちで口を開いた。
「……師匠。僕、決めたんです。お嬢様をただ運ぶだけの箱じゃなくて、お嬢様が『自分の足』で歩けるような、最高の義体……究極のオートマタを作ってみせます。師匠の梱包魔法を動力にすれば、きっと不可能じゃない」
「……若者の熱意というものは、実に素晴らしいな」
エドワードが杖を傍らに置き、穏やかに頷く。
「タム殿。貴殿が包み、この若者が組み立て、私が理を補完する。……それで救えぬ荷物など、この世にあってはならない。そうは思わんかね?」
仲間の真っ直ぐな瞳。タムは、かつての上司の「お前のこだわりなんて誰も見ていない」という言葉を思い出していた。
……そんなことはなかった。
自分の丁寧さを、こだわりを、これほどまでに信じ、頼りにしてくれる仲間たちがここにいる。
「……ええ。やりましょう、皆さん」
タムは、自分の掌を見つめた。そこには、セレスを抱き上げた時の微かな重みと、仲間たちと分かち合った熱が残っている。
日が完全に沈み、周囲が深い藍色に染まった頃。
エドワードが立ち上がり、北の夜空を指差した。その眼差しは、再び険しい魔術師のそれへと戻っている。
そこには、星々の光を吸い込むようにして、銀色に輝く一本の針のような塔が立っていた。
「……見えたな。あれが、かつてお父様がオートマタ研究の果てに放棄した場所……『星屑の観測塔』だ」
場が、しん、と静まり返る。
タムは立ち上がり、セレスの箱を再び背負った。ベルトを締め直す指先に、迷いはない。
「行きましょう。……お嬢様の、本当の『自由』を検品しに」
馬車は、再び走り出す。
夜の帳を切り裂き、銀色の塔を目指して。
それは、失いたくない日常を「永久保存」するための、決死の配送ルートの始まりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第十九話は、少し一休み。タムたちの日常を描くほのぼの回をお届けしました。
戦いの中では見られない、彼らの等身大の表情や、タムの「無駄に丁寧な料理シーン」を楽しんでいただけていれば幸いです。
しかし、旅の終わりにはついに「星屑の観測塔」が姿を現しました。
穏やかな時間の裏側で、着実に近づく世界の真実。
「タムの料理、食べてみたい!」「セレス様とのピクニックが尊い……」という方は、ぜひ【評価】や【ブックマーク】をお願いいたします!
次回、第二十話。
ついに塔の内部へ。
そこで待っていたのは、セレスの「お父様」が残した、あまりにも残酷な愛の記録でした。
次回も、丁寧にパッキングしてお届けします。




