第十五話:知の死蔵(デッド・ストック)と賢者の残り香
王都での生活は、思いのほか穏やかに始まりました。
しかし、平穏な日常のすぐ隣には、常に「過去」が口を開けて待っています。
かつての大賢者が遺した、固く閉ざされたトランク。
その封印を解くことは、エドワードにとっては自身の矜持との決別であり、
タムにとっては、プロの運び屋としての技量を試される新たな「依頼」でした。
誰にも開けられなかった箱。
その中に眠っていたのは、知恵か、遺恨か、それとも――。
王都クレイエルの朝は、独特の重厚な鐘の音で始まる。
ラスト・マイル王都店のカウンターで、タムは一点の曇りもない手つきで伝票を整理していた。開店から数日。店には徐々に「腕利きの運び屋がいる」という噂が広まり、日常的な配送依頼が舞い込むようになっていた。
石造りの床を叩く、小気味よい箒の音が店内に響いていた。リナが鼻歌まじりに掃き出すのは、単なる埃ではない。王都という巨大な魔力の集積地では、路地裏にすら「魔力の澱」が塵となって溜まる。それを丁寧に掃き清めるのが、彼女の朝の日課だ。
「タム、こっちの隅も終わったわよ。……ねえ、本当に王都に来ちゃったのね、私たち」
リナが窓から差し込む陽光に目を細める。窓の外では、朝一番の乗り合い馬車が石畳を鳴らして通り過ぎ、パン屋の香ばしい匂いが流れてくる。
タムはカウンターの奥で、数種類の「梱包用刷毛」を吟味していた。特級配達員にとって、道具のメンテナンスは呼吸と同じだ。
「ええ。ですが、場所が変わってもやることは同じです。……カイト君、そこの梱包台の水平がコンマ二ミリ狂っています。修正を」
「はっ、失礼いたしました師匠! すぐに!」
カイトが慌てて水平器を手に取り、台の脚に薄い木片を噛ませる。かつての傲慢な若き聖騎士は、今やタムの「一ミリの妥協も許さない物流哲学」に心酔し、汚れ仕事も厭わない誠実な助手へと変貌していた。
「タムさん、この『荷札』のインクですが、王都の湿気だと少し滲みやすいようです。魔力定着剤を混ぜた方がよろしいでしょうか?」
「素晴らしい着眼点です、カイト君。配送物の『情報の保護』も梱包の一部ですからね。……リナさん、今日のお茶は?」
「はいはい、分かってるわよ。タムには少し濃いめのカモミール、カイトには筋力回復に効くハーブを混ぜてあげたわ」
リナが淹れた三つの湯飲みから、柔らかな湯気が立ち上る。
つい数ヶ月前までは、森の中で死を覚悟し、裏切りに震えていた者たち。それが今、こうして朝日を浴びながら、一杯のお茶を分かち合っている。
タムは、湯飲みの温かさを掌で感じながら、ふと店の中央に鎮座する「セレスの箱」を見やった。
セレスはまだ、深い「梱包」の眠りの中にいる。
彼女にとっても、この賑やかな朝の音は、心地よい子守歌のように届いているのだろうか。タムは、透明な箱の表面に付着した微細な魔力残滓を、特製の刷毛で静かに、慈しむように撫で落とした。
***
「タム殿、少々、個人的な相談に乗っていただけますかな」
奥の居住スペースから、エドワードがいつになく神妙な面持ちで現れた。その手には、古びた、しかし異様な魔力のプレッシャーを放つ黒い革張りのトランクが握られている。
「エドワードさん。……その荷物、ただの遺品ではありませんね」
タムが手を止め、トランクを見つめる。梱包師としての直感が、その箱の周囲で空間がわずかに歪んでいることを察知していた。
「流石ですな。これは、わしの師――かつてこの国で『理の極致』と謳われた大賢者が遺したものです。……わしはこのトランクを、師が亡くなってから三十年、一度も開けることができませんでした」
エドワードの言葉に、掃除をしていたリナと、看板を磨いていたカイトも足を止めた。エドワードによれば、そのトランクには『事象崩壊』の呪縛がかかっているという。正しい手順で解錠しなければ、中身は瞬時に分子レベルで分解され、永遠に失われるのだ。
「師は最期に仰いました。『これを開ける器なき者は、その知に触れるべからず』と。……当時のわしには、その言葉の重みが分からなかった。だが、タム殿。君の『梱包』を見た時、わしは確信したのです。君の技術こそが、師の求めた『究極の保存』であると」
エドワードは、震える手でトランクをカウンターに置いた。かつての宮廷魔導師が、一人の運び屋に対し、自らの限界を認めて「救い」を求めている。タムは、その重みを無言で受け取った。
***
エドワードの視線は、自分の手にあるトランクを通り越し、遠い過去の情景を彷徨っていた。
「……三十年です。わしはこの箱を見るたび、あの日の工房の熱を思い出し、指先が凍りつくような感覚に襲われてきました」
彼が若き宮廷魔導師だった頃、師である大賢者カリンの工房は、常に「時間の止まった静寂」と「加速しすぎる魔力」が共存する異質な空間だったという。
「師は、偏屈な男でした。常に何かを『遺す』ことに執着しておられた。……ある日、わしは師がこのトランクに術式を刻むのを見ました。それは解呪を試みた瞬間に、中の時間を無限に加速させ、物質を原子の塵へと分解する、あまりに過激な拒絶の魔法。……わしが理由を問うと、師は笑ってこう言ったのです。『エドワード、真実は正しい配送先に届いてこそ価値がある。器なき者に中身を盗まれるくらいなら、無に還した方が慈悲深い』と」
エドワードの脳裏には、工房の煤けた匂いと、師が最期に自分に向けた「哀れみ」の混じった瞳が焼き付いている。
「わしは怖かった。師の言う『器』が自分ではないことを悟るのが。……そして何より、この箱を開けてしまったら、わしの知る『世界の理』が崩れてしまうのではないかという予感があった。……タム殿、わしは臆病者です。学術院を追われたのも、知を追求しきれず、立ち止まってしまったからですな」
エドワードの告白は、静かに作業室の壁に染み込んでいく。
彼はタムの横顔を見つめた。自分のような老賢者が一生をかけても到達できなかった「概念の固定」を、この青年は日々、パンを包むような軽やかさでやってのける。
「……ですが、今のわしには貴殿らがいる。リナ殿の強さ、カイト殿の忠誠。そして、タム殿のその、荷物を敬う手。……今なら、師の遺した『答え』を受け止められる気がするのです」
「……依頼、受理しました。中身の『意味』を損なうことなく、封印だけを切り離し、梱包・除去します」
タムは白い手袋をはめ、トランクに触れた。
***
解錠作業は、作業室の奥で、セレスの箱が見守る中で行われた。
『……不思議な感覚ですわ、タムさん』
作業を見守るセレスの念話が、いつになく穏やかに響く。
『その古いトランクから漏れる魔力……。どこか、懐かしくて。……ええ、とても温かい、日だまりのような匂いがいたします』
タムはセレスの言葉に微かな違和感を覚えながらも、意識を集中させた。スキル【梱包】を「逆方向」に展開する。通常、荷物を包むために使う光の帯を、トランクを縛り付けている「呪いの法則」そのものを包囲するために放つ。
「――概念置換、開始」
タムの指先から溢れる白銀の糸が、トランクの鍵穴から染み込み、内側に渦巻く「崩壊の魔法」を物理的な質量として固定していく。
「……っ! 空間密度が、急上昇している……!?」
背後で見守るエドワードが息を呑む。タムが行っているのは、魔法の解除ではない。呪いという「現象」を一つの荷物としてパッキングし、トランクの中から『強制的に取り出す』という、常識外れの荒業だった。
「ふ、ふんぬっ……!」
タムの両手に力がこもる。パキィィィン、という、現実の壁が割れるような乾いた音が響いた。トランクから黒い煤のような魔力が吐き出され、それがタムの手の中で「透明な立方体」に閉じ込められた。
「……封印の回収、完了です」
タムが額の汗を拭うと、トランクの留め金が力なく外れた。中から現れたのは、数冊の黄ばんだ日誌と、一本の古びた万年筆。そして、セレスの箱に刻まれているものと酷似した、しかしより原始的な「紋章」が描かれた羊皮紙だった。
「これ、は……」
エドワードが、震える手で日誌をめくる。そこには、数千年前の魔導言語で、現在の理論では説明のつかない『保存魔法』の極意が記されていた。
「……やはりそうか。師の研究は、時間を止めることではなく、時間を『畳んで仕舞う』ことにあった。……タム殿、君のスキルは、やはりこの失われた魔法の直系……。いや、完成形ですよ」
エドワードは涙ぐみながら、日誌の一節を読み上げる。
だが、その時。羊皮紙に刻まれた紋章を見たセレスが、予期せぬ声を上げた。
『……あぁ、やはり。……お父様だわ』
その念話は、歓喜に満ちていた。
『タムさん、見て。その筆跡……私に読み書きを教えてくれた、お父様の癖そのものですわ。……懐かしい。あのお父様の、インクとタバコの匂いが思い出されます……』
室内に、凍りつくような沈黙が流れた。
「……セレス様。今、なんと仰いましたかな?」
エドワードが、日誌から顔を上げ、驚愕に目を見開く。
『お父様、ですわ。この日誌を書いた方は、私の父に違いありません』
「馬鹿な……。そんなことが……あってはならない……」
エドワードの顔から、一気に血の気が引いていく。
「タム殿……。この日誌を書いたわしの師は、今から八百年前に生きた男ですぞ。……セレス様の父親であるはずの現・伯爵は、まだ四十路……。わしよりも、遥かに年下のはずだ……!」
タムの背中に、冷たい悪寒が走った。
セレスが「お父様」と呼ぶ人物が、八百年前の賢者であるならば。
タムは、日誌の隅に描かれた「人型」の図面を、無意識に凝視していた。そこには、内側に複雑な術式が描き込まれた「中空の彫像」のような絵と、その周囲にびっしりと書かれた『積載重量』『経年耐性』といった、およそ人間に対して使われるはずのない言葉が並んでいた。
『……あぁ、そう。……この、インクの跳ね。お父様はいつも、興奮するとペン先を強く叩きつける癖がありましたの』
セレスの念話と共に、タムの脳裏に「記憶の残影」が流れ込んでくる。それは梱包スキルを通じて共鳴した、セレスの魂の風景だった。
――薄暗い書斎。積み上げられた古い書物。
そこには、一人の背の高い男の後ろ姿があった。彼は大きな机に向かい、狂ったように万年筆を走らせている。セレス――と呼ばれた小さな少女は、その足元で、彼が使い古した羊皮紙の裏側に、覚えたての文字を練習していた。
『お父様、見て。セレス、自分の名前が書けましたわ』
『……あぁ、そうか。良い子だ、セレス。……お前は、完璧な器にならなくてはいけないよ。誰にも汚されない、永遠に美しいままの……。それが、私がお前に与えられる唯一の愛なのだから』
男は一度も振り返らなかった。その言葉は慈愛に満ちているようでいて、どこか、工芸品を磨き上げる職人のような、冷徹な熱を帯びていた。
回想の中の男が使っている万年筆。その銀色の軸には、今、タムの目の前にある日誌と同じ「八百年前の意匠」が施されている。
タムは震える手で日誌のページをめくった。
そこには、少女の成長記録のような文言に混じって、目を疑うような単語が並んでいる。
『標本番号04:魂の定着率、良好。……肉体の経年劣化を抑制するための外装コーティングの再施工が必要。……次回の積載予定日は、星の巡りが重なる夜に……』
その文字の横には、少女の顔――今のセレスと全く同じ顔をした、しかし人形のように無機質な断面図が描かれていた。
セレスの念話は、今も無邪気な喜びを奏でている。
『……ねえ、タムさん。お父様、私を褒めてくださるかしら? こんなに長い間、お行儀よく待っていたのですもの』
タムは、それ以上日誌を読むことができなかった。
セレスが「お父様」と呼ぶ存在が、彼女を人間として愛していたのか。それとも、最高の「作品」として愛でていたのか。
日誌の紙面に落ちたタムの影が、不気味に長く伸びる。
タムは静かに、しかし拒絶するように重い表紙を閉じた。
パタン、と。
その音は、まるで誰かの棺に蓋をするような、救いのない響きを持っていた。
「……エドワードさん。師匠の遺品は、俺が責任を持って『ラスト・マイル』の奥庫で管理します。……この内容は、まだ誰にも」
「ええ……。分かっております、タム殿。……わしらが見たものは、あるいは見間違いであった方が幸せなのかもしれん」
賑やかな王都の日常の裏側で。タムたちは、ついに「梱包」という技術が隠し続けてきた、王国の、そしてセレスという少女の、底知れぬ深淵へと片足を踏み入れてしまった。
その夜。
タムは一人、作業室でセレスの箱を磨き続けた。
八百年。
それだけの長い間、彼女はこの閉ざされた透明な檻の中で、誰かが届けてくれるのを待ち続けていたというのか。
タムは、自分の手が届けているものが、もはや「荷物」などという単純な言葉では収まりきらない、あまりにも巨大な「宿命」であることを悟り始めていた。
「……お嬢様。……あなたは、ここで何を待っているんですか」
タムの問いに、箱の中の少女は答えない。
ただ、月明かりを反射する透明な壁が、冷たく、そしてどこまでも丁寧に、中身を閉じ込め続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
開かれてしまった、古い歴史の断片。
エドワードの驚愕、そして何より、セレスが漏らした懐かしさに満ちた「一言」。
読み進めるほどに、タムたちが信じてきた「今」という時間が、どこか足元から崩れていくような感覚に陥ります。
日誌の隅に描かれた、およそ人には似つかわしくない言葉の数々……。
読者の皆様は、セレスの無邪気な声に何を感じたでしょうか。
次回、第十六話。
王都の戸籍を司る『大書庫』へ。
重なり合う記録と、積み上げられた矛盾。
タムは「伯爵令嬢セレス」という名を持つ少女たちが辿った、奇妙な足跡を追うことになります。
次回も、どうぞお楽しみに。




