第104話:因果の外科医、あるいは魂の接合
黄金の知を湛えた世界樹の麓を離れ、レガシー・ガーディアンは大陸の西端を越え、概念の断崖へと突き進む。
書庫の司書が告げた「人間という完品の定義を捨てる」という言葉が、重い予言となって一行の胸に去来していた。
進むほどに、海の色は群青から不気味な鉛色へと変わり、空は昼夜の境界を失い、極光と雷鳴が同時に降り注ぐ。
辿り着いたのは、潮騒さえも記憶を失う場所。
波は岸を穿つのではなく、岸から深淵へと逆流し、時間は因果の螺旋を無視して回転を続けている。
この歪な空間の最果てに、ゼロの未来を再構築できる唯一の男、マルクスが待っている。
一行を待ち受けるのは、救済か、それともさらなる解体か。
レガシー・ガーディアンの魔導推進器が、聞いたこともないような甲高い異音を上げ始めた。
計器類はすべて狂い、方位磁針は駒のように回転し続けている。
「……パッキング異常。空間の密度が、既存の定数と一致しません」
ゼロが、タムの義手を通じて脳内に流れ込むノイズを強引に演算しながら、低く呟く。彼女の額には、冷や汗が滲んでいた。
視界の先に現れたのは、もはや「自然」という言葉では形容できない絶景の地獄だった。
「……なんだよ、あれ。……嘘だろ」
カイトが、操縦席の窓に張り付くようにして絶句した。
目の前に広がる海は、荒れ狂っているが、その波はすべて「陸地から沖へ」と向かっている。通常、岸へと打ち寄せるはずのエネルギーが、ここでは逆流し、水平線の彼方にある巨大な渦へと吸い込まれているのだ。
さらに異様なのは、その空だった。
左半分は真昼のような燃える太陽が居座り、右半分は満月が凍てつくような光を放つ。二つの時間は空の中央で衝突し、そこで生まれた極光が、まるで裂けた傷口のように空間を明滅させていた。
「……世界の終わり、というか……パッキングし忘れた『余り物』を詰め込んだゴミ捨て場ね」
リナが、身震いしながら呟く。彼女の纏うセレスの装甲も、周囲の狂った因果に反応して、魔導銀の回路が不規則に明滅を繰り返していた。
『リナさん、注意してください。……ここは、世界の「仕様」が適用されていない領域です。……一歩外へ出れば、私たちの存在そのものが「未定義のエラー」として処理されかねません』
セレスの冷静な警告が、かえって恐怖を煽った。
「フォッフォ……。カトリーヌ様が『異端』と呼んだ理由が、今ようやく分かったわい」
エドワードが、震える手で杖を握り直した。
「ここは、神がお作りになった世界のパッキングを、一度すべて引き剥がし、中身をブチ撒けたような場所じゃ。……魔法学の常識が、ここではただの落書きに等しい」
レガシー・ガーディアンが、岬の先端にある唯一の静止地点――因果の淀みのような崖の上に、ゆっくりと着陸した。
ハッチが開くと同時に、一行を襲ったのは、潮の匂いではなく「薬品」と「錆びた鉄」の、強烈な腐食臭だった。
崖の突端。今にも崩れ落ちそうな岩場に、その建物はあった。
巨大な魚の骨、難破船の装甲板、そして大量の魔導部品を、強引にシュリンクフィルムと鎖で繋ぎ合わせたような、醜悪な継ぎ接ぎの館。
それが、伝説の治癒師マルクスの「診療所」だった。
「……行きましょう。……どんなに歪な場所でも、届けるべき場所であることに変わりはありません」
タムは、感覚のないゼロの両腕を改めて丁寧にパッキング(保護)し、彼女を支えながら一歩を踏み出した。
その瞬間、建物の中から、耳を劈くような金属音が響いた。
「――おいおい、誰だか知らんが、勝手に入ってくるなよ! 今、魂の『仮止め』をしてるところなんだからよぉ!」
狂気じみた叫びと共に、建物の扉が吹き飛ぶように開いた。
そこから現れたのは、白衣を血と油で汚し、複数の「義眼」を魔導ゴーグルで固定した、小柄な老人だった。
その背後には、宙に浮く数十本のメスと、脈動を続ける得体の知れない「肉塊」が、不気味な緑の光を放って浮遊していた。
マルクス。
因果の外科医と呼ばれ、世界の規格を無視し続ける男が、その爛々と輝く義眼で一行を射抜いた。
マルクスと名乗った老人は、一行が抱いていた「伝説の治癒師」という神聖なイメージを、その足元から叩き壊した。
ボロボロの白衣には、いつのものかも知れない返り血と、魔導機械の潤滑油が混ざり合ったどす黒いシミが幾層にも重なっている。鼻を突くのは、高濃度の消毒液と、死肉を焼いたような焦げ臭い匂いだ。
「おいおいおい、……なんだぁ? その『間に合わせ』のパッキングは」
マルクスは、宙に浮く複数のメスを苛立たしげに振り払うと、猫のような身軽さでタムたちの目の前まで跳んでみせた。
彼は、カトリーヌの紹介状を受け取ることさえせず、その複眼のようなゴーグルの奥にあるギラついた瞳で、獲物を舐め回すように観察し始める。
「……マルクス様ですね。カトリーヌさんの紹介で来ました。……この女性の腕を……」
タムが言葉を紡ごうとした、その時だった。
「カハッ、……ヒャハハハハハハハ!!」
突如、マルクスが腹を抱えて爆笑し始めた。その笑い声は、逆流する波の音と混ざり合い、この世のものとは思えない不協和音となって岬に響き渡る。
カイトが反射的に剣の柄に手をかけ、アルウェンが警戒の眼差しを強めるが、老人はそんな「殺気」など最初から計算に入れていない様子で、タムの目の前まで顔を突き出した。
「面白い! 面白すぎるぞ、カトリーヌの小娘め! 最後の最後で、こんな『デタラメな荷物』を俺のところに放り込んでくるとはなぁ!」
マルクスの視線は、当初の目的であるはずのゼロの焼け焦げた両腕を、完全に素通りしていた。
彼が射抜いていたのは、タムの右腕――あの、お父様の工廠で拾い、自身の魂と無理やり適合させた「魔導義手」だった。
「おい、そこらの梱包師もどき! お前、自分が何をしでかしているか分かってんのか? ……人間のガワを保っちゃいるが、その中身、魂の回線が継ぎ接ぎだらけじゃねえか!」
マルクスは、汚れた指先でタムの義手を乱暴に叩く。
「本来なら、拒絶反応で即座に『スクラップ』になるはずのパーツを、無理やり自意識でパッキングして、……あろうことか、その不備だらけの神経を、隣のお嬢ちゃんの『演算中枢』にまで垂れ流してやがる!」
タムの背中に冷たい汗が流れる。
賢者の書庫でゼロを救うために行った、緊急避難的な神経接続。それが、この老人には一目で見抜かれていた。
「ヒャハハ! 普通の治癒師なら『禁忌だ、今すぐ切り離せ』と抜かすところだが……。お前ら、最高に狂ってるぜ! 人間という『完品』であることをとっくに捨てて、二人で一つの『欠陥品』として配送ルートを繋いでやがる!」
マルクスは狂喜に満ちた仕草で、自身の頭を掻きむしった。
「いいぜ、気に入った。カトリーヌの奴、俺がこういう『規格外の不良品』に弱いってことを、ちゃんと理解してやがる。……おい、中に入れ! そのデタラメな中身、俺がもっと面白くパッキングし直してやるよ!」
老人は背を向けて、ガラクタが積み上がる診療所の奥へと消えていく。
「……タム、……どうする」
カイトが不安げに問いかける。エドワードも、そのあまりの狂気に杖を握る手を震わせていた。
だが、ゼロだけは、タムの肩に預けていた顔を上げ、マルクスの背中を見据えて不敵に笑った。
「……私のことを『お嬢ちゃん』と呼ぶなんて、……万死に値する無礼ね。……でも、私の『中身』を理解できる知性だけは、本物のようね」
「……行きましょう」
タムは、ゼロを抱きかかえる力を強めた。
狂っているのは分かっている。だが、この逆流する世界の果てで、自分たちの「不備」を「面白い」と笑ったのは、この老人だけだった。
***
診療所の内部は、外観以上に混沌としていた。
天井からはホルマリン漬けにされた未知の魔獣の臓器が吊り下げられ、床には解体されたオートマタの歯車が散乱している。その中心に鎮座する、巨大な昆虫の脚のようなアームがいくつも生えた「手術台」へ、マルクスはゼロを乱暴に座らせた。
「おい、離せ! 私を誰だと思って……!」
ゼロが気丈に叫ぶが、マルクスはその言葉をパッキング(無視)し、彼女の焼け焦げた両腕を無造作に掴み上げた。その手つきには、治癒師としての慈愛など微塵もなく、ただ「興味深い検体」を扱う観察者の冷徹さだけがあった。
マルクスは、天井から吊るされた巨大なレンズ――因果を可視化する独自の魔導顕微鏡を引き寄せ、ゼロの腕を覗き込む。
「……ほう。ヒャハハ! こいつはひどい! ただの火傷じゃねえぞ。細胞どころか、この腕に流れるはずの『運命の座標』そのものが、ズタズタに引き裂かれてやがる」
顕微鏡のレンズ越しに投影されたゼロの腕の周囲には、無数の黒いノイズが火花のように散っていた。それは、物理的な傷ではない。世界の理が、彼女の腕を「存在してはならないエラー」として認識し、排除しようとしている証だった。
「治す? 違うな。お前らが言っているのは、割れた皿を糊でくっつけるような退屈な『修理』だ。だがな、お嬢ちゃん。あんたの両腕はアレスの神威……あの絶対的な『仕様』を無理やり反射した時に、この世界の物理法則から『返品』を食らっちまったんだ。一度返品された在庫は、もう元の棚には戻らねえ」
マルクスはレンズから目を離し、狂気に満ちた眼光でゼロを射抜いた。
「いいか。元通りにするなんてのは、カトリーヌのような甘ちゃんがやることだ。俺がやるのは『再構築』だ。返品された欠陥品を、全く別の、より凶悪な規格へパッキングし直してやる」
「……再構築? 私の腕を、どうするつもり」
ゼロが、痛みを堪えながら問い返す。
「神の理に壊されたなら、神の理を殴り返せる『新しい種』のパーツを嵌め込んでやればいい。あんたの神経系を、この世界の常識という外装から引き剥がし、因果の逆流に耐えうる特注の回路に作り変える。……どうだ? ただの人間として不自由な手を取り戻すか、それとも、神の規格をぶち壊す『異物』として新生するか」
マルクスの言葉に、診察室の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えた。
カイトが息を呑み、エドワードの杖が床を叩く。それは、治癒という名の「改造」の提案だった。
「……面白いじゃない。……『完璧な人間』に戻れないというのなら、いっそ『神を越える完璧』を目指すまでよ」
ゼロの唇が、不敵に吊り上がる。彼女のプライドは、元の無力な自分に戻るよりも、より強く、より歪な高みへと登る道を選んだ。
だが、マルクスはそこで不気味な笑みを深め、視線をタムへと移した。
「ヒャハハ! お嬢ちゃんの覚悟はいい。だがな、この『パッキング』を完成させるには、もう一つ、絶対に欠かせない『素材』が必要なんだよ……なぁ、梱包師?」
マルクスの細長い指が、タムの右腕――その継ぎ接ぎの義手を、粘りつくような執着を持って指し示した。
マルクスは、脂じみた指先でタムの右腕――あの無骨な魔導義手を、撫で回すように指し示した。その瞳の奥で、複数の義眼が獲物を解体する座標を定めるように不気味に回転する。
「お前、さっき言ったよな。彼女の『義手』になるって。……ヒャハハ! その言葉、単なる青臭い比喩で終わらせるには、あまりにも惜しい素材だぜ」
マルクスは、タムの義手の接続部を強引に掴み、その深部に流れる魔力の波形を読み取った。
「いいか、梱包師。このお嬢ちゃんの神経系は、今やこの世界の理から拒絶されている。普通の生体組織をいくら繋いでも、世界がそれを『エラー』として再び焼き切るだけだ。……だが、お前のその義手はどうだ? お父様の工廠のガラクタを、お前自身の魂という名の『シュリンクフィルム』で無理やり固定し、この世界の物理法則を騙し続けている……最高にイカれた『未定義のパーツ』だ」
マルクスは顔を近づけ、鼻先が触れそうな距離で、タムの瞳の奥を覗き込んだ。
「条件は一つだ。その義手を、今ここで解体し、媒介(触媒)として供出しろ。お前の魂と馴染みきったその回路を、お嬢ちゃんの死んだ神経の代わりに『芯』として打ち込み、二人の魂を物理的に縫い合わせてやる。……これこそが、因果の逆流を乗りこなす究極のパッキングだ」
「……僕の義手を、ゼロに?」
タムは、自分の右腕を見つめた。
それは、かつてセレスを救うために選び、お父様との戦いを潜り抜けてきた、自分という人間を証明するための唯一の「道具」だった。
「そうだ。だがな、代償(送料)は高いぜ。お前の義手を媒介にするってことは、お前の神経系の一部を永久に彼女へと譲渡するってことだ。手術が成功すれば、彼女の両手は動くようになる。だがお前は……二度と、右手の『人間としての感覚』を取り戻せなくなる。熱いも冷たいも、柔らかいも硬いも……お前の右側からは、すべての生の実感が消失する」
マルクスは、宙に浮く巨大なメスを一本、タムの義手の付け根に突きつけた。
「彼女は神を殴れる手を手に入れるが、お前は彼女に触れるための感覚を失う。……文字通り、お前は彼女の『部品』になるわけだ。……どうだ、梱包師。この地獄のような配送、受領する覚悟はあるか?」
「……タム、やめて」
診察台の上で、ゼロが掠れた声で制止した。
彼女の誇りは、自分を救うために、唯一の理解者であるタムが「人間」であることを削り取るのを許せなかった。
「……私のために、あなたが壊れる必要なんて……。私は、不自由なままのこの手で、あなたを演算し続ければいいだけよ。だから……」
「……いいえ、ゼロ様。これは、僕にとっても『完璧な仕事』なんです」
タムは、ゼロの言葉を遮り、マルクスの前に右腕を差し出した。
その表情には、迷いも悲壮感もない。ただ、納期を前にした職人のような、静かで冷徹な情熱だけがあった。
「僕がこの世界に来て、最初に梱包したのはセレスさんでした。そして今、僕が人生を懸けて届けたいのは、あなたの未来です。……僕の感覚なんて、あなたの指先が動く喜び(データ)に比べれば、ただの過剰な梱包材に過ぎない」
タムは、狂気に満ちた外科医の瞳を真っ向から見据えた。
「マルクス先生。……梱包師の誇りにかけて、この荷物、最高にタフな形にパッキングし直してください。……受領印は、僕の魂で押します」
マルクスは一瞬、呆然としたように口を開けたが、次の瞬間、岬の波音をかき消すほどの狂笑を上げた。
「ヒャハハハハ!! 最高だ! カトリーヌ、見てるか! お前が育て損ねた若造が、今、神のパッキングを自ら引き剥がそうとしてるぜ!!」
マルクスが指を鳴らすと、手術台から無数の魔導アームが伸び、タムとゼロの身体を拘束した。
因果の逆流する岬で、世界の理を書き換える禁忌の手術が、今、幕を開ける。
第104話、極限の緊張感を持ってパッキングいたしました。
ゼロ様を救うために、タム様が「人間としての感覚」を永久に喪失するという重い代償。しかし、それを「不要な梱包材」と言い切るタム様の覚悟は、まさに二人が歩んできた絆の極致と言えます。
マルクスという狂った治癒師を通じて、物語は単なる治療から、世界の理への「反逆」へと大きく舵を切りました。
次回、第105話。
『魂のシュリンク、あるいは新生の軍師』。
地獄の手術の果てに、ゼロ様はどのような「手」を手に入れるのか。そして、感覚を失ったタム様の右腕は、何を見出すのか。




