彼の書斎の鍵だけは
カーフ・リントヴルム公爵と結婚して得たものは三つ。
一つ、公爵夫人という、我が辺境伯家には分不相応な地位。
一つ、一生遊んで暮らせるであろう、潤沢な資産の管理権。
そして最後の一つ、この屋敷のありとあらゆる部屋の鍵を束ねた、重たい鍵束。
「家のことは、君にすべて任せる」
夫となった男──カーフ様は、結婚初日にそう言って、この重たい鉄の塊を私に押し付けた。
いや、お渡しになった。
彼は「鉄血公爵」の異名を持つ、極めて有能で、冷静沈着で、そして驚くほど整った顔立ちの人物である。そんな彼から発せられる言葉は、常に簡潔で、無駄がない。まるで、感情というフィルターをすべて取り払ったかのような、純度百パーセントの事実だけがそこにある。
そんな彼が、私と結婚した理由もまた、極めて合理的だ。
隣国との緊張緩和のため、国境を接する我がリントヴルム公爵家と、国境近くに領地を持つ我がペンドルトン辺境伯家が縁戚関係を結ぶ。
ただ、それだけ。
そこに愛だの恋だのといった、甘ったるい感情が入り込む隙間は、砂一粒すら存在しない。
まあ、それはいい。私も、この結婚におとぎ話のような展開は期待していない。
父からは「公爵家の恥とならぬよう、置物として完璧に振る舞え」とだけ言われている。私もそのつもりだった。
だから、私は完璧な公爵夫人を演じるべく、まずはこの鍵束の把握から始めたのだ。一つ一つの鍵がどの部屋に繋がるのか、侍女に案内させながら確認していく。
大食堂、客室、資料室、食糧庫……。
さすがは公爵家。部屋の数が多すぎる。
そうして私は一つの事実に気が付いた。
「……あの、アンナ」
「はい、奥様」
「この鍵束に、旦那様の書斎の鍵は……」
「まあ……」
初老の侍女長であるアンナは、私の言葉に、あからさまに同情的な表情を浮かべた。
その顔が、雄弁にすべての答えを物語っている。
この屋敷で唯一、私に立ち入りが許されていない場所。それが、夫であるカーフ様の書斎なのである。
その日の夜、侍女たちの囁き声が、私の耳に届いてしまった。
「やっぱり奥様には書斎の鍵はお渡しにならなかったのね」
「仕方ないわ。あそこは亡くなられた前妻様との思い出が詰まった場所なのだから」
「カーフ様は今でも前妻様のことを深く愛しておいでなのよ。あの方の肖像画を今も書斎に飾って毎晩眺めていらっしゃるそうよ」
――なるほど。そういうことか。
私は、彼の聖域を侵す権利のない、ただの同居人。いや、新しい調度品といったところか。
夫は亡き妻を今も想い続け、私はそのおこぼれで公爵夫人という椅子に座らせてもらっているに過ぎない。
実に分かりやすい構図である。
私は、広すぎる寝室の天蓋付きベッドに一人で横たわりながら、静かに息を吐いた。
別に、悲しいわけじゃない。初めから期待などしていなかったのだから。
ただ、ずっしりと重い鍵束が、なぜだか急に、ひどく虚しいものに思えた。
◇ ◇ ◇ ◇
そうして、夫を置物として愛で、私も置物として過ごす日々が始まった。
いや、訂正しよう。
彼は置物ではない。
朝早くから夜遅くまで、領地の経営と王宮での執務に明け暮れる、超のつく仕事人間だ。
私と顔を合わせるのは、一日のうち、朝食と夕食の時間だけ。
その食卓に、会話というものは存在しない。
聞こえるのは、カトラリーが皿に当たる、上品で、冷たい音だけ。
たまに彼が何かを話すかと思えば、それは天気の話か、庭の薔薇の開花状況について。
……おじいちゃんか、この人は。
まあ、完璧な美貌を持つおじいちゃんなら、それはそれで需要があるのかもしれないが。
そんな生活が三ヶ月ほど続いたある日、私は意を決して、妻としての役目を果たそうと試みた。
「あの、カーフ様」
「……なんだろうか」
スープを口に運ぶ手を止め、彼が不思議そうな顔で私を見る。
その、感情の読めない瑠璃色の瞳に見つめられると、少しだけ心臓が跳ねる。
……いやいや、これは吊り橋効果的なものに違いない。美形を前にして緊張しているだけだ。
「何か、お好きな食べ物などはございますか? 料理長に伝えようかと」
「……君の好きなものでいい」
「では、何かご趣味などは……」
「特にない」
……ちーん。
会話、終了のお知らせである。
私のささやかな努力は、鉄壁の守備を誇るゴールキーパーに阻まれ、あっさりと弾き返された。
だが、鉄血公爵はそこで終わらなかった。
彼はまるで義務のように、今度は私に質問を投げかけてくる。
「君の故郷では、春にはどんな花が咲く?」
「え? リントベルという白い花が……」
「リントベル。ほう。それで君が幼い頃に好きだった物語は?」
「『星巡りの騎士』ですが……」
「なるほど。苦手な食べ物は?」
「セロリが少し……」
何だ、この尋問は。
私の個人情報を根掘り葉掘り聞き出して、一体どうするつもりなのだろう。新しい領主として、私の実家である辺境伯家の内情を探っているのだろうか。
だとしたら、あまりに不器用すぎる。スパイや諜報員には絶対に向いていないタイプだ。
そんな、ちぐはぐなやり取りを繰り返すうち、私の心はすっかりささくれ立ってしまった。
ああ、もういい。もう何もしない。
私は完璧な置物になるのだ。息をするだけの、美しい装飾品に。
けれど、この広すぎる屋敷で、完璧な置物でいるというのは、想像以上に孤独なものだった。
大勢の侍女たちが周りにいても、彼女たちの視線は私を通り抜けていく。
まるで、私が本当にただの調度品になったかのように。
誰とも心を通わせることのない日々は、静かで、そしてひどく空虚だった。
ある夜、喉が渇いて水を飲みに階下へ降りた私は、見てはいけないものを見てしまった。
書斎の扉の隙間から、ランプの灯りが漏れている。
そして、その扉の前に、夫であるカーフ様が立っていた。
彼は、まるで祈るかのように、しばらく扉をじっと見つめた後、静かに中へと入っていく。
その背中が、ひどく寂しそうに見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
今も、前妻様の肖像画を……
胸が、ちくりと痛んだ。
これは嫉妬ではない。断じて。
ただ、夫婦という形式だけの関係が、これほどまでに空虚なものだと思い知らされただけだ。
夫が不在のある日、私は時間を持て余していた。
あまりの静けさに耐えかねて、広すぎる屋敷を幽霊のようにさまよう。
そうして、足を踏み入れたことのなかった図書室にたどり着いた。
そこは、革と古い紙の匂いが満ちた、静寂の空間だった。
壁一面の書棚に圧倒されながら奥へ進むと、大きな窓際に、一脚だけ立派な二人掛けのソファが置かれているのが目に入った。
陽だまりの中に置かれたその場所だけが、まるで誰かと寄り添って本を読むためだけに作られたかのように、親密な空気を漂わせている。
きっと、カーフ様と前妻様が、ここで肩を寄せ合っていたのだろう。
私は、吸い寄せられるようにソファに近づき、そっと指先でそのビロードの生地に触れた。
陽を吸って、じんわりと温かい。
けれど、その温もりは、私の指先の冷たさを際立たせるだけだった。
この温かさは、私のものではない。
この場所は、私のためのものではない。
この広い屋敷のどこを探しても、私が誰かと並んで座れる場所など、どこにもないのだ。
どうしようもなく、寂しい。
私は、自分の腕をぎゅっと抱きしめた。
そうでもしないと、この身がばらばらになって、消えてしまいそうで。
誰でもいい。誰か、私を見て。
公爵夫人ではない、ただのエリアーナとして、ここにいていいのだと、微笑みかけてほしかった。
◇ ◇ ◇ ◇
そんな日々がさらに数ヶ月続いた頃、カーフ様が長期の領地視察へ発つことになった。期間は、およそ一ヶ月。
「家のことを頼む」
出発の朝、彼は玄関ホールで、またしても業務連絡のようにそう告げた。
そして、ほんの一瞬だけ、私の肩にそっと触れた。
その手のひらが、意外なほど温かかったことだけが、妙に記憶に残っている。
夫が去った屋敷は、驚くほど静かだった。
これで、あの気詰まりな食事の時間からも解放される。せいせいするはずだ。
そう思うのに、なぜだろう。
がらんとした食堂で一人、豪華な食事を口に運んでいると、ふと、あの瑠璃色の瞳を思い出してしまう。
そして、気づけば私の足は、あの閉ざされた書斎の前へと向かっていた。
夫の不在から、三週間が過ぎた。
その日の夜は、まるで世界が終わるかのような、激しい嵐だった。窓ガラスがガタガタと音を立て、風が屋敷の隙間を唸り声をあげて吹き抜けていく。
私は自室のソファで膝を抱えて読書をしていた。しかし、物語の内容はまったく頭に入ってこない。
私の意識は、階下の書斎にばかり向いていた。
今なら、誰も見ていない……
悪魔が、心の中で囁く。
夫はいない。侍女たちも、こんな嵐の夜は早々に自室に引き上げているだろう。
あの扉の向こうに何があるのか。彼の聖域とは、一体どんな場所なのか。
見てはいけない。そう思うのに、好奇心が黒いインクのように心を染めていく。
その時だった。
ガシャァァァンッ!
階下の方から、ガラスが派手に割れる、凄まじい音が響き渡った。
私はびくりと肩を震わせ、思わず本を取り落とす。音の方向は、間違いない。書斎だ。
(嵐で、窓が……!)
そうだ、きっとそうだ。あの轟音は、強風で窓ガラスが割れた音に違いない。
大変だ。公爵夫人として、屋敷の損害を放置するわけにはいかない。すぐに行かなければ。
――けれど、それ以上に。
固く閉ざされたあの部屋の中を、今なら確かめることができる。
これは、天が私に与えてくれた口実なのだ。
私の心臓が高鳴るのが分かった。
これは義務だ。屋敷の管理責任者としての、当然の務めだ。
そう、自分に何度も何度も言い聞かせながら、私は燭台を手に取り、廊下へと飛び出した。
案の定、書斎の扉は固く施錠されたままだ。
しかし、このままでは雨風が吹き込んで、中の貴重な蔵書や調度品が駄目になってしまう。
一刻の猶予もない。
私は意を決し、近くの暖炉のそばに立てかけてあった、鉄製の火かき棒を手に取った。ずしりと重い。
ごめんなさい、カーフ様!
心の中で、いるはずのない夫に言い訳をしながら、私はその先端を、重厚な木製の扉と枠の隙間にねじ込んだ。渾身の力を込めて、火かき棒をぐっと押し込む。
バキッ! と、木が裂ける鈍い音がした。
もう一度、力を込める。
メキメキ、と嫌な音を立てて、錠前周りの木材が悲鳴を上げた。
そして、三度目。
ゴッ、という鈍い衝撃と共に、錠前が完全に破壊された。
ぜえ、ぜえ、と肩で息をしながら、私はゆっくりと扉を押す。
燭台の灯りが、閉ざされていた空間を恐る恐る照らし出していく。
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
そこに広がる光景を、私はきっと、一生忘れないだろう。
息を切らしながら扉を開けた私が目にしたのは、想像していた光景とは、全く、これっぽっちも、似ても似つかないものだった。
そこに、前妻様の肖像画など、影も形もなかった。
代わりにあったのは。
壁という壁を埋め尽くす、本棚。そして、そこにぎっしりと並べられた、私の故郷であるペンドルトン辺境伯領に関する、地理や歴史、民俗学の専門書。
窓際には、私が好きだと漏らしたリントベルの花が、これでもかと活けられている。
そして、部屋の中央にある大きな執務机の上には、山と積まれた、私の好物の焼き菓子。その隣には、無造作に広げられた一枚の羊皮紙が……。
私は、まるで夢でも見ているかのように、ふらふらと机に近づいた。
羊皮紙に書かれた文字が、燭台の揺れる光に照らされて、目に飛び込んでくる。
そこには、あまりにも不器用で、几帳面なタイトルが記されていた。
『エリアーナを喜ばせる方法に関する考察』
……は?
考察?
私は、自分の目を疑った。
羊皮紙には、箇条書きで、びっしりと文字が書き連ねられている。
・好物:王都『パティスリー・クレール』の木苺の焼き菓子。甘さ控えめを好む。
・好きな花:リントベル。花言葉は「秘めた想い」。
・好きな物語:『星巡りの騎士』。主人公の、不器用だが一途な点に惹かれるらしい。
・苦手なもの:セロリ。理由は不明。要調査。
・最近の悩み:夕食の時間が退屈そうに見える。何か、楽しい話題を提供できないか。
私がこれまで「尋問」だと思っていた、あのちぐはぐな質問への答えが、夫の、少し角ばったぎこちない筆跡で、几帳面にリスト化されている。
焼き菓子の山の隣には、「甘すぎないか要確認。次回は別の店のものを試すこと」というメモまで添えられていた。
ちなみに、窓が割れる音だと思ったのは、どうやらこの贈り物の山が、嵐の揺れで崩れた音だったらしい。
つまり、なんだ。これは。
この部屋は、前妻様との思い出が眠る聖域などでは、断じてなく。
不器用すぎる夫が、新しい妻をどうすれば喜ばせ、どうすれば笑わせるのかを、一人で必死に研究するための、「作戦司令室」だった。
私は、その場に、ただ、立ち尽くす。
全ての意味を理解した脳とは裏腹に、感情がまったく追いついてこない。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
顔が、燃えるように熱い。
その、時だった。
「……エリアーナ?」
背後から、信じられない声がした。
視察に行っているはずの、夫の声だ。
私は、ブリキの人形のように、ぎ、ぎ、ぎ、と音を立てながら振り返った。
そこには、嵐のせいでずぶ濡れになったカーフ様が、壊れた書斎の扉の前で、目を丸くして立ち尽くしていた。
彼は、呆然と立ち尽くす私と、私が手にする報告書に気づくと、その顔からサッと血の気が引いていくのが、遠目にも分かった。
そして、次の瞬間。
鉄血公爵とまで呼ばれた男の、冷静沈着なその顔が、カッと、茹でダコのように赤く染まった。
「なっ、何を……! な、なぜ君がここに……! そ、それを、今すぐ返せ!」
彼の、完璧なポーカーフェイスはどこへやら。
その冷静さは見る影もなく、彼は耳まで真っ赤にしながら、慌てふためいて報告書を奪い取ろうと手を伸ばしてくる。
その、あまりの狼狽えっぷりは、まるで秘密の日記帳でも見られた、十代の少年のようだった。
その、必死で、滑稽で、そして、あまりにも愛おしい姿が。
私の心の中で、張り詰めていた最後の糸を、ぷつりと断ち切った。
恐怖でも、罪悪感でもない。
私の胸にこみ上げてきたのは、途方もないほどの、安堵の気持ちだった。
「この、大馬鹿者っ!」
私の口から飛び出したのは、感謝の言葉ではなかった。
「この……超弩級の不器用者っ!」
私は、宝物のように報告書をぎゅっと胸に抱きしめたまま、叫んだ。
自分でも、何を言っているのか分からない。
けれど、もう、涙を堪えることはできなかった。
安堵と、喜びと、そして目の前の男へのどうしようもなさで、視界がぐにゃりと滲んでいく。
まさか怒鳴られるなど、夢にも思っていなかったのだろう。
カーフ様は、完全に度肝を抜かれて、その場でカチンと固まっている。
私の怒声と、けれど、どう見ても幸せそうに泣きじゃくるその顔を、ただ、呆然と見つめることしかできないでいた。
その日を境に、私たちの関係は劇的に変わった。
翌朝、カーフ様はひどく気まずそうに、一本の真新しい鍵を私に差し出した。もちろん、あの書斎の鍵だ。
「……もう、扉を壊す必要はない」
ぶっきらぼうにそう言ってそっぽを向く彼の耳が、またしても真っ赤に染まっているのを見て、私はたまらず笑ってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇
面白いことに、書斎はその後も彼の「作戦司令室」であり続けた。
彼が朝、王宮へ向かった後。私がそっと書斎を訪れると、大きな机の上にはいつも、ささやかな贈り物が置かれているのだ。
ある日は、庭で摘んだばかりの一輪のリントベル。
またある日は、街で評判の店の、小さなチョコレート。
そしてまたある日は、私が好きだと言った『星巡りの騎士』の、まだ誰も読んだことのない続編の原稿だったりもした。
彼は、今もまだ、私を喜ばせる方法を、毎日一生懸命に研究し続けているらしい。
その不器用で、あまりにも一途な愛情表現が、私の日常を、温かく、甘いもので満たしていく。
それ以降、この書斎の鍵だけは死ぬまで掛けられないままだった。