第3話 リオさん、なにを吹き込んだんですか!?
朝の爽やかな陽の光が差し込む執務室にて。
レオンはモーニングティーを飲みながら、静かに書類に目を通していた。
少し濃いめの紅茶のほろ苦さが、日常から仕事へと思考を切り替えるのに丁度良い。そんなゆったりとした時間を、彼は密かに気に入っていた。
——にも関わらず、その静けさは、今日も容赦なく破られる。
バァン
「やあ、おっはよ〜〜レオンくん。今日は良い天気だよ〜」
無駄に爽やかな笑顔を振りまきながら、リオが流れるように入ってきて、ソファに腰を下ろす。
「……帰れ」
レオンは、それをちらりと一瞥すると、またすぐに視線を書類へ落とした。
「えっ、ひどっ。今日くらいちょっと優しくしてくれても良くない? 初デートの日なんだからさ〜?」
ソファの背もたれに、パフっともたれかかりながら、リオが拗ねたように言う。
「……」
レオンの返事はない。
あくまでも無視を決め込むレオンを見て、リオは、にやりと笑うと、
「結局、使うことにしたんだって? チケット。ふ〜ん、ふ〜ん。よかったじゃん」
わざと煽るような言い方で話しかける。。
「せっかくのデートなんだからさ、2人に何か進展があること、期待してるよ〜」
「……」
レオンは黙ったまま、さらりと視線だけを向ける。
それを受けて、リオはわざとらしく指を折りながら数え始めた。
「進展って言ってもさ、いきなりキスは無理だと思うから——」
チラッと視線を向けたレオンの目が、鋭く細められる。
「じゃあ、せめて手を繋ぐとか? みつきちゃんの手を優しくとって、こう……って、馬車のステップでさ、エスコートの流れでそのままギュッと握って手を離さないとか? うん、自然なスキンシップ。王族もびっくりのスマートな導入!」
身振り手振りで大袈裟に表現しながら、好き勝手にしゃべり続けるリオを、レオンはじっと無言で見ていた。
「……それ、全部お前の妄想だろ」
「失礼な! ちゃんと恋の先輩としてのアドバイスだよ!」
「……」
レオンは書類に目を戻そうとしたが、手元のペンが、紙の上でほんのわずかに止まる。ごまかすようにすぐ書き始めたけれど、ペンの動きが、心なしかぎこちない。
「……エスコートで手を取るのは、マナーだ。別に……それ以上の意味はない」
ぶっきらぼうに言い放ったが、レオンの耳が少し赤くなっていた。
リオはその様子を見て、楽しげににっこり笑った。
「がんばってね、レオンくん♡」
ひらひらと手を振って立ち上がる。
「また後で、報告楽しみにしてるから〜?」
「……出て行け」
「やっぱりそれ言うと思った〜!」
ぱたんと扉が閉まったあと、執務室には再び静かな空気が戻っていた。
* *
その日の夕方、公爵邸の正門にて。
夕暮れに染まりかけた石畳の前で、磨かれた馬車が静かに待っていた。
そのステップの前で、レオンさんがそっと手を差し出してくれる。
(レオンさん……前髪あげてる!! やばっ! かあっこいいぃぃ!!!)
いつもより少しシックで大人っぽいレオンさんの姿に、キュンとして叫びたくなる気持ちを、私は令嬢モードの完璧な作り笑顔で、ぐっと押し殺す。
最初はエスコートのたびにドキドキしていたけど、最近はかなり自然に振る舞えるようになってきたと思う。
(こういう時のレオンさんって、スマートでほんとかっこいいんだよね〜)
そんなことを考えながら、レオンさんの手に自分の手をそっと重ねた。
その瞬間——
ほんの僅かにだけど、レオンさんの手が、驚いたようにぴくりと震えた。
(えっ? 私なんかしちゃった!?)
焦って思わずレオンさんの顔を見ると……
(えっ? ええっ? レオンさん、なんでそんな赤くなってんの!? 今って、なんかそんな照れるとこあった!?)
いつもの完璧貴公子モードのレオンさんとは違い、今日はなぜか目を逸らして少しよそよそしい。
私は訳もわからず、エスコートされるがままに馬車に乗り込んだ。
私の後に続いて馬車に乗り込んできたレオンさんは、やっぱり少し顔が赤く、そしてなぜか不機嫌そうで……。
「レオンさん……なんか怒ってる?」
不安になって、思わず小さな声で聞いてしまった。
「……いや、今朝のバカ王太子を思い出してただけだ。気にするな」
「えっ、リオさん? なんで?」
「気にするな」
そう言いつつも、レオンさんは
「……クソッ、リオのやつ……」
と小さく呟いて、不貞腐れていた。
それきり、レオンさんはそれ以上何も言わなかったけれど——
(え、なに、どういうこと? さっきの赤くなったの、絶対関係あるでしょ!?)
(……リオさん、いったい何を吹き込んだのぉぉぉ!?)
馬車は静かに揺れながら、王都の劇場通りへと向かっていた。
* *
「わあっ! なにここ……!?」
目の前にあるのは、白く輝く大理石の外壁に、優美なアーチと円柱がずらりと並ぶ壮麗な建物。
入り口まで続く石畳には魔石ランプが灯されていて、まだ夕方だというのに、まるで夢の中に迷い込んだみたいだった
「……すごい」
思わず漏れたその声に、隣を歩くレオンさんがふとこちらを見る。
「このセレナ劇場は、王都にある劇場の中でも最も古く、王族主催の式典や晩餐会にも使われる由緒ある場所だ」
「えっ、そんなすごいとこなの!?」
思わず声が裏返った私に、レオンさんは小さく頷いて、前を向いたまま続ける。
「……招待状がなければ、入ることも難しい。今日の演目は王都でも人気が高いらしいからな。リオのやつ、無理やりコネでも使ってチケットをとったんじゃないか?」
「そ、そんなレアなチケットだったんだ……」
驚いて振り返ると、レオンさんは前を向いたまま、わずかに肩をすくめた。
「……まったく、あいつのやることは時々読めん」
(リオさん……ありがたいけど……職権乱用じゃん……)
赤い絨毯と金の装飾が映えるメインホールは、その長い歴史を感じさせるような、威厳と優美が集結したような場所だった。
ドーム型の高い天井にはいくつもの魔光シャンデリアが連なり、オーケストラの生演奏が、ホール全体を包むように心地よく響いている。
うやうやしく私たちが案内されたのは、舞台正面のボックス席だった。
(えっ……、こ、ここ!? 映画館みたいなの想像してたのに……こんなのもう、部屋じゃん!?)
壁で仕切られたその場所に置かれているのは、二人掛けのソファと小さなテーブル。ちょこんと置かれた魔光ランプの淡い光が、少し特別な夜の雰囲気を醸し出している。
(レオンさんと、ここで……二人きり)
思わずニヤけてしまいそうな顔を、私は慌てて令嬢スマイルで引き締めた。
そんな私にお構いなしに、レオンさんは先にソファへ座ると、半分空いている自分の横をポンポンと叩き、私を促した。
(待って! レオンさんが……ポンポンしてる!! やばい! かっこいぃぃぃ)
胸のドキドキでふらつきながら、私はレオンさんの隣にそっと腰を下ろした。
(はぁ……私の心臓……ちゃんと最後まで持つかな……)
* *
カーテンコールの拍手が鳴り止んでも、私はしばらくその場から動けなかった。
胸の奥がじんわり温かくて、なんだか夢を見ていたみたいな気分だった。
(すごかった……ほんとに、感動しちゃった……)
ぼうっとしたまま顔を上げると、隣に座るレオンさんがふいにこちらを見た。
「……楽しかったか?」
そのひとことに、また胸がきゅっとなる。
「うんっ!」
心の底からそう思って私が返事をすると、レオンさんはふっと小さく笑った。
「そうか」
その声は優しくて、ちょっぴり甘くて……。
(……ああもう、尊い……やばい……)
どうにか理性を総動員して、私はまたニヤけそうになる顔を、何とか誤魔化したのだった。
* *
「あーーすっごく楽しかった!! レオンさん、ありがとう!」
気持ちが素直に口からこぼれた。
劇の余韻なのか、私はなんだか頭がふわふわしていて、足取りも自然に軽くなっていた。
「ああ」
レオンさんの返事はいつも通りそっけない。
でも私は楽しくて、嬉しくて、胸がいっぱいだった。
劇場の外に出ると、夜風がふわりと髪を揺らした。
石畳の向こうには、見慣れた紋章のついた馬車が、街灯の明かりに照らされて静かに私たちを待っていた。
(もう終わっちゃうんだ……)
さっきまでの夢みたいな時間が、急に遠くなった気がする。
そっと劇場の方を振り返ると、窓から漏れる灯りが、まだきらきらと揺れていて、ほんの少しだけ、名残惜しくなった。
馬車のステップの前で立ち止まると、レオンさんは、いつものように私に手を差し出した。
けれどその顔は、やっぱりどこか硬い。
真っ直ぐこちらを見ながらも、目元がぎこちなく、少しだけ怒ってるようにも見えた。
(もうっ。ほんとにリオさん、何吹きこんだのよ……! 絶対あとで問い詰めるから!)
そう心の中で文句を言って、私はその手に自分の手をそっと重ねた。
レオンさんはいつも通り優しく手を添え、私を馬車に乗せると——
そのまま、私の手をぎゅっと握って、無言で隣に座った。
(えっ?)
思わず隣を見る。
レオンさんは、顔を真っ赤にしながら、窓の外に視線を向けたまま、微動だにしない。
手は、まだ握られたまま。
(え……えっ、なにこれっ!? どっ、どっ……て、手がっ……えっ、ずっと!?)
繋がれた手の温もりが、私の胸の奥にまで染み込んでくる。
心臓が、一気に跳ね上がった。
(ちょっと、まって、これやばい、やばいやつ……!)
じっとしていられず、そっと手を引こうとしたけれど——
レオンさんは、無言のまま、ぎゅっと指を絡めるように握り直した。
(……もう、無理ぃ。何この状況……)
しばらくお互い真っ赤になって沈黙が続いていたが、
「……あの……レオンさん?」
呼吸の仕方すらわからなくなってきて、私はついに耐えきれず、震える声で言った。
でもレオンさんはそれには答えず、真っ赤な顔で、ずっと窓の外を見るだけだった。
「……くそっ、リオのやつ……」
(またリオさんーーー!?)
その後、屋敷に到着するまで、私たちはずっと無言だった。
——カタコト——カタコト
馬車の音がやけにうるさい。
その間、繋がれた手がどんどん熱くなっていく気がした。
(お願い! 誰かこの心拍数、止めてくださいっ……!)