第1話 リオさんの異世界恋人講座
レオンさんに想いを伝えた、あの夜から一夜明けて——。
午後の公爵邸。日の傾き始めた廊下には、淡い光が差し込み、床の大理石がほんのりと金色を帯びていた。
クラウス先生の授業も無事に終わり、私は軽く伸びをしながら、少し浮ついた足取りで廊下を歩いていたのだが。
バァン——
「ひっ!?」
驚きに小さく声を上げた瞬間、室内から飛び出してきたのは、金の髪をきらきらと揺らした王子、リオさんだった。
「来た来たっ! ちょうどよかった〜!」
リオさんは満面の笑みでそう言うと、がっしりと私の手を掴んで、ずるずると引きずるように、私を応接室の中へ引っ張って行った。
「え、ちょっとリオさん!? もうっ。いきなりなんなの!?」
けれどリオさんは、全く悪びれる様子もなく、むしろ目をきらきらと輝かせながらソファを指差す。
「まあまあ、そこ座って、座って!」
飛び切りの笑顔を振りまきながら、私をソファに座らせると、リオさんは急いで自分も向かいのソファに腰を下ろした。
テーブルの上には、すでにティーセットとお菓子が並べられている。淡い花模様のカップに注がれた紅茶からは、ふんわりと甘い香りと、やわらかな湯気が立ちのぼり、小皿には、一口サイズのベリータルトと、ハート形のクッキーまで……。
(……くっ。リオさん、用意周到すぎる!)
こうして私は、なぜか突然、リオさん主催のティータイムに、強制参加させられることになったのだった。
話題はもちろん、私とレオンさんのこと。
「で? で? みつきちゃんは今からどうするの? ラブラブ初デート?」
「は!?」
私は思わず身を乗り出して声をあげた。
そんな私の反応に、リオさんはソファに背を預けながら、いたずらっぽく目を細める。
「だって〜、伝わったってことは、想いが通じ合ったってことでしょ? つまり君たち今、付き合いたてほやほやみたいなものでしょ? まあ君たちの場合、すでに婚約までしてるんだけどね〜」
そう言って、肩をすくめながらケラケラと笑うリオさん。
「うっ……そ、そうなるのかな?」
レオンさんに想いが通じたことが嬉しくて、これからのことなんて何も考えてなかった私は、思わず言葉に詰まる。私は言い返す余裕もなく、手のひらをじっと見つめた。
「ね、ね、みつきちゃんってさ、前にいた世界で付き合ってた人はいるの?」
「えっ……あ、まあ……うん。過去に一人だけ……」
「えっいるんだ!? 意外〜」
「は!? 自分が聞いたくせに!」
私は顔を真っ赤にしながら、クッションをぎゅっと抱きしめた。リオさんはその様子を見て、ますます面白そうに身を乗り出してくる。
「でもさ、この世界の恋人同士がどんなことしてるのか、みつきちゃん知らないでしょ?」
(うっ……た、確かに! 私、この世界で恋人になったら何するのか、全然知らないかも!?)
私が何も言えずに口をぎゅっと結んでいると、リオさんはふいに手をパチンと鳴らした。
そしてにんまりと、まるで悪戯を思いついた子どものように笑って、言った。
「では始めましょう! リオさんの『初級・異世界恋人講座』〜〜!」
(ひえっ……な、なんか始まったぁ……)
ぱちぱちぱち、と自分で拍手しながら、リオさんは得意げに胸を張る。
「まずはですね、この世界で付き合ってるってことはですね、お互いに愛情を示し合う関係ってことなんですよ! だから……!」
リオさんは人差し指を立てて、やけに真面目な顔で続ける。
「恋人たちは毎朝、おはようのキスで一日を始めます!」
「……えっ?」
私は思わず固まった。
「で、夜は、おやすみのハグで一日を締めくくるんだよ? それが伝統!」
「……えええっ?」
段々と顔が熱くなっていく。あのレオンさんと……ハグ……? 想像しただけで、もう無理すぎる。
「ちなみにふたりきりのときは、『レオンさん』じゃなくて『れおんくん♡』って呼ばなきゃいけないの。恋人条例で定められてるからね」
「条例!? えっ!? えっ、ほんと!? まってむりむりむりむり……!」
私は両手で頬を覆いながら、ソファに崩れ落ちそうになった。その様子を見て、リオさんは満足そうに腕を組み、うんうんと大きく頷いている。
その後もリオさんの口から語られるのは衝撃的な内容ばかりで。私は想像もしていなかった異世界の恋人事情に、目を白黒させながら真剣に聞いていた。
「デートでは必ず手をつながなきゃいけないし、キスは三回目の——」
「ちょ、ちょっと待ってほんとに!? 私、今すぐ予習ノート作った方がいい!?」
「ふふ、でも大丈夫。愛があればどうにかなる。みつきちゃんなら、きっとすぐ『れおんくん♡』って呼べるようになるって!」
「よ、呼べないよぉぉぉおお……!」
「それにこの世界では、恋人たちはお互いの髪を——」
「……おい」
その低くて静かな声が割って入ったのは、ほんとうに突然だった。
ぴたり。
リオさんが笑ったまま動きを止める。
その背後には、さっきまで姿のなかったレオンさんが、いつのまにか立っていた。
「リオ」
(ひいぃっ! レオンさんの声が……氷点下!!)
「……や、やぁレオン。ちょっとした文化交流をですね——」
「帰れ」
「……はーい」
さっきまでの陽気さはどこへやら。
リオさんはものすごくスムーズに立ち上がり、両手を上げて降参ポーズをしている。
「じゃ、じゃあ、みつきちゃん、また明日〜! 『れおんくん♡』って呼ぶの、がんばってねっ!」
「言わないし!」
背中越しに叫んでも、リオさんは振り返らず、ケラケラ笑いながら手を振って、さっそうと去っていった。
そして残された私は、目の前にいるレオンさんとふたりきり。
(……え、うそ、え、やば、心の準備が……)
ついさっきまでの騒がしさが嘘のように、空気がしんと静まり返った。
そんな中、レオンさんはひとつ息を吐き、手で前髪をかき上げながら、ぽつりとこぼした。
「……まったく。リオは、いつも余計なことしかしない」
「えっ……てことは、今の話……」
私は思わず、さっきの『異世界恋人講座』を思い出しながら、言葉を詰まらせる。
「……嘘なの!? え、どこまで嘘!?」
レオンさんはぐっと口元を引き結び、数秒の沈黙のあと——
「全部だ!!」
と、めずらしく声を張り上げた。
「ぜ、全部!? へっ、ハンカチ交換で恋人確定とか、季節ごとのペア魔道具とか——」
「ない。全部、ない。そんな面倒な風習、あるわけない」
「じゃあ、じゃあ、『れおんくん♡』って呼ぶと——」
「やめろ。思い出すからやめろ」
ぶすっとした顔でレオンさんがそっぽを向く。
その耳がほんのり赤くて……
そっぽを向かれたのに、なぜか胸がキュンとして、顔がにやけてしまう。
「……でも」
ふいに、レオンさんがこちらに目を向けた。
「お前、ちょっとリオを頼りすぎだぞ」
「……!」
少しだけ唇を尖らせたような、不満げな表情に、ドキンと心臓が跳ねた。
「それに……騙されすぎだ」
そう言ってフッと笑った。
(……これは……ずるい)
レオンさんが少し微笑むだけで、胸の奥がきゅうっとなる。
「昨日からずっと……なんか顔が緩んでるぞ。お前」
「なっ……そ、それは、昨日が特別だったからでっ……!」
恥ずかしくなって視線を逸らしたその時——
「……今日もだろ?」
「……っ!」
その一言で、顔が熱くなった。
(レ、レオンさん、いつからそんな……天然たらし機能がついてたの!?)
(これ、やばい……昨日よりも、確実に照れてる……!)
手のひらでそっと頬を覆っても、火照りはまるでおさまらなかった。