第51話 新しい仲間(ニ)
あの日、一郎と胡蝶が再会できた事情が初めて明かされる
◇
夜の仲之町に、素足の音が響いていた。
畳を蹴り、土間を飛び、暖簾を払って、胡蝶は走った。
白い綿の下着に何も羽織らず、解いた黒髪が背中で跳ねる。
「太夫どこへ!」
背後で女将の声が弾けた瞬間だった。
――どん。
夜の暗がりから、大きな影がぬっと現れ、女将の進路を塞ぐ。
丸木五郎の腹にぶつかり、女将は「ぽよん」と音を立てて尻もちをついた。
「ど~も~、金沢屋で~す」
女将は立ち上がり、顔を歪めて唾を飛ばす。
「てめぇ、金沢屋!総揚げでうちだけ外して、そのうえ横紙破り!
今夜の揚げ代は二倍、いや三倍だよ!」
丸木は懐に手を突っ込み、ためらいなく腕を振り抜いた。
――じゃらり。
行灯の灯に、黄金色が弾ける。
小判が畳を跳ね、土間を転がり、金属音が夜気を裂いた。
「三十倍払いましょう!」
女将の目が光る。
「……今日の分はそれでいいよ。でもね、胡蝶太夫は稼ぎ頭だ。
このまま帰らないなんて、そんな都合のいい話――」
その時だった。
階段を下りる足音。
軽く、しかし迷いのない音。
「女将」
初音だった。
湯上がりのままの髪を結い直し、まっすぐ女将を見据えている。
「あたい、格子女郎になるよ。
……なんなら、太夫を目指してもいい」
女将の目が細くなる。
「それって……」
「勘違いしないで。今決めたんじゃないよ」
初音は少し首を傾げ、白々しいほど明るく笑った。
「今朝、決めたんだ。たまたま今伝えただけ」
女将は鼻で笑う。
「私だってね、あんたらのこと考えてるんだよ。ちゃんと稼ぐなら、文句はないさ」
丸木はすかさず頭を下げた。
「女将、それでよろしいですね。今夜は店じまいを」
「分かったよ!」
女将は吐き捨てるように言う。
「初音、約束守りなさいよ。
金沢屋、さっさと出ておくれ。戸を閉めるよ」
戸が引かれる。
――ぎぃ。
丸木が振り返った、その瞬間。
戸の内側で、初音が床に両手をついた。背筋を正し、太夫のように、深々と。
言葉はなかった。
だが、その姿は、丸木の目にははっきりと映った。
「大切な人を、お願いします」
戸が閉まる。
――がたん。
鍵が落ちる音。
夜が、静かに戻った。
◇
「……だいぶ端折りましたが、そういうことでした」
丸木は、あぐらのまま、静かに言った。
座敷に音はない。
胡蝶は言葉を失い、畳を見つめている。
「……初音」
かすれた声で名を呼ぶ。
「……あんた、私のために……」
「だから違うって言ってるでしょ」
初音はそっぽを向いた。
「姐さんは関係ない。あたいが決めたこと。四年前も、今日も」
胡蝶は俯く。そして、ゆっくりと姿勢を正すと、初音の前に手をついた。
深く、深く、頭を下げる。
「……初音。本当に、ありがとう」
「まぁ……」
初音は困ったように笑った。
「感謝されるのは、何度されても悪くないけどさ」
後ろで、芭蕉が一郎に小声で囁く。
「……知ってた?」
「いえ。初めて知りました」
二人は顔を見合わせると、何も言わずに黙り込んだ。
胡蝶は顔を上げる。
白粉の下の表情は、もう作りものではなかった。
「初音。私は怖いの。あなたを守れないことが」
初音は一瞬、目を見開き――またすぐにぷいと顔を背けた。眼から溢れそうな水滴が輝く。
「……あたいも廓の女よ。そんなこと分かってるって」
だが、その声は、少しだけ震えていた。
「……後悔しても、いや、しないわよね」
初音は顔を正面に戻して大きく頷く。
胡蝶はふわっと柔らかく微笑み、初音を温かく見つめた。
「明るい太陽のような初音が加わってくれるなら心強いわ」
「えーっ、嘘!本当に?」と初音のほうが驚いてみせる。
芭蕉は「よしっ!また面白くなってきたね!」と両手を天井に付きあげると、一郎と丸木は新しい二人を迎えるように大きく拍手した。
師宣が「うわーん。最高かよ」と大声をあげて泣き始める。
初音は「なんか、守ってあげないといけない人多くない?ちょっと後悔してるかも」と軽口ながら満面の笑みを見せる。
◇
「実は私も一人、仲間に推薦したい人がいるんだけど」
胡蝶が真剣な眼差しで切り出した。
「そいつは絵師ですかい?」と師宣が興味津々に問う。
「いえ、意匠家よ」
「意匠家って、誰なんだい?」と一郎に聞かれた胡蝶は、右手で風呂敷を持ち上げてみせる。
丸木は「それは、京都の呉服商、雁金屋の名物風呂敷『燕子花』…」とさすがの目利きをする。
「……初音、ちょっと別室から彼を呼んできてくれる?」
胡蝶の言葉に、初音はこくりと頷き、静かに部屋を出て行った。
その背中を見送りながら胡蝶は内心思う。
「私がキュンとしていたのは確かね。でも、それは“帰れる場所がない”ことを忘れていた時間ってだけ」胡蝶は白粉の下で頬が引きつっているのを覚え、自然な微笑みに戻し、一郎、芭蕉、師宣の顔を順番に見る。
「金沢屋まで目をキラキラとさせているわ」胡蝶はゆっくりと、そしてどこか冷めた視線で男たちの顔を見つめ続けた。
◇
第2章「日ノ本を変える芸術」終わり
第3章に続く
第2章「日ノ本を変える芸術」はこれで終わりです。第3章に続きます。




