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風を描く〜絵師・英一蝶異聞〜  作者: 紫波吉原 ※5000PV超え感謝
第二章 日ノ本を変える芸術
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第51話 新しい仲間(ニ)

あの日、一郎と胡蝶が再会できた事情が初めて明かされる


 夜の仲之町に、素足の音が響いていた。


 畳を蹴り、土間を飛び、暖簾を払って、胡蝶は走った。

 白い綿の下着に何も羽織らず、解いた黒髪が背中で跳ねる。


「太夫どこへ!」


 背後で女将の声が弾けた瞬間だった。


 ――どん。


 夜の暗がりから、大きな影がぬっと現れ、女将の進路を塞ぐ。

 丸木五郎の腹にぶつかり、女将は「ぽよん」と音を立てて尻もちをついた。


「ど~も~、金沢屋で~す」


 女将は立ち上がり、顔を歪めて唾を飛ばす。


「てめぇ、金沢屋!総揚げでうちだけ外して、そのうえ横紙破り!

 今夜の揚げ代は二倍、いや三倍だよ!」


 丸木は懐に手を突っ込み、ためらいなく腕を振り抜いた。


 ――じゃらり。


 行灯の灯に、黄金色が弾ける。

 小判が畳を跳ね、土間を転がり、金属音が夜気を裂いた。


「三十倍払いましょう!」


 女将の目が光る。


「……今日の分はそれでいいよ。でもね、胡蝶太夫は稼ぎ頭だ。

 このまま帰らないなんて、そんな都合のいい話――」


 その時だった。


 階段を下りる足音。

 軽く、しかし迷いのない音。


「女将」


 初音だった。


 湯上がりのままの髪を結い直し、まっすぐ女将を見据えている。


「あたい、格子女郎になるよ。

 ……なんなら、太夫を目指してもいい」


 女将の目が細くなる。


「それって……」


「勘違いしないで。今決めたんじゃないよ」


 初音は少し首を傾げ、白々しいほど明るく笑った。


「今朝、決めたんだ。たまたま今伝えただけ」


 女将は鼻で笑う。


「私だってね、あんたらのこと考えてるんだよ。ちゃんと稼ぐなら、文句はないさ」


 丸木はすかさず頭を下げた。


「女将、それでよろしいですね。今夜は店じまいを」


「分かったよ!」


 女将は吐き捨てるように言う。


「初音、約束守りなさいよ。

 金沢屋、さっさと出ておくれ。戸を閉めるよ」


 戸が引かれる。


 ――ぎぃ。


 丸木が振り返った、その瞬間。


 戸の内側で、初音が床に両手をついた。背筋を正し、太夫のように、深々と。


 言葉はなかった。


 だが、その姿は、丸木の目にははっきりと映った。


 「大切な人を、お願いします」


 戸が閉まる。


 ――がたん。


 鍵が落ちる音。


 夜が、静かに戻った。


 ◇


「……だいぶ端折りましたが、そういうことでした」


 丸木は、あぐらのまま、静かに言った。


 座敷に音はない。

 胡蝶は言葉を失い、畳を見つめている。


「……初音」


 かすれた声で名を呼ぶ。


「……あんた、私のために……」


「だから違うって言ってるでしょ」


 初音はそっぽを向いた。


「姐さんは関係ない。あたいが決めたこと。四年前も、今日も」


胡蝶は俯く。そして、ゆっくりと姿勢を正すと、初音の前に手をついた。

深く、深く、頭を下げる。


「……初音。本当に、ありがとう」


「まぁ……」


 初音は困ったように笑った。


「感謝されるのは、何度されても悪くないけどさ」


 後ろで、芭蕉が一郎に小声で囁く。


「……知ってた?」


「いえ。初めて知りました」

 二人は顔を見合わせると、何も言わずに黙り込んだ。


 胡蝶は顔を上げる。


 白粉の下の表情は、もう作りものではなかった。


「初音。私は怖いの。あなたを守れないことが」


 初音は一瞬、目を見開き――またすぐにぷいと顔を背けた。眼から溢れそうな水滴が輝く。


「……あたいも廓の女よ。そんなこと分かってるって」

だが、その声は、少しだけ震えていた。


「……後悔しても、いや、しないわよね」


初音は顔を正面に戻して大きく頷く。


胡蝶はふわっと柔らかく微笑み、初音を温かく見つめた。


「明るい太陽のような初音が加わってくれるなら心強いわ」


「えーっ、嘘!本当に?」と初音のほうが驚いてみせる。


芭蕉は「よしっ!また面白くなってきたね!」と両手を天井に付きあげると、一郎と丸木は新しい二人を迎えるように大きく拍手した。

師宣が「うわーん。最高かよ」と大声をあげて泣き始める。


初音は「なんか、守ってあげないといけない人多くない?ちょっと後悔してるかも」と軽口ながら満面の笑みを見せる。



「実は私も一人、仲間に推薦したい人がいるんだけど」

 胡蝶が真剣な眼差しで切り出した。


「そいつは絵師ですかい?」と師宣が興味津々に問う。


「いえ、意匠家(いしょうか)よ」


 「意匠家って、誰なんだい?」と一郎に聞かれた胡蝶は、右手で風呂敷を持ち上げてみせる。


 丸木は「それは、京都の呉服商、雁金屋の名物風呂敷『燕子花(カキツバタ)』…」とさすがの目利きをする。


「……初音、ちょっと別室から彼を呼んできてくれる?」


 胡蝶の言葉に、初音はこくりと頷き、静かに部屋を出て行った。

 その背中を見送りながら胡蝶は内心思う。


 「私がキュンとしていたのは確かね。でも、それは“帰れる場所がない”ことを忘れていた時間ってだけ」胡蝶は白粉の下で頬が引きつっているのを覚え、自然な微笑みに戻し、一郎、芭蕉、師宣の顔を順番に見る。


「金沢屋まで目をキラキラとさせているわ」胡蝶はゆっくりと、そしてどこか冷めた視線で男たちの顔を見つめ続けた。


第2章「日ノ本を変える芸術げいのわざ」終わり

第3章に続く

第2章「日ノ本を変える芸術げいのわざ」はこれで終わりです。第3章に続きます。

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