第31話 それぞれの吉原(一)
愛を確かめあった一郎と胡蝶の新たな人生の旅路が始まろうとしている。しかし、そこに立ちはだかるのはやはりこの男、板倉重常だった。
◇寛文十年(1670年)江戸 旧暦七月 お盆の月
新月の吉原の夜は、悪所の闇を一層黒くする。
妓楼「茗荷屋」二階の一室に、板倉重常の重い息遣いが響く。この夜、板倉は胡蝶に上に乗るよう命じた。一郎と愛を確かめあった体位が、板倉の歪んだ欲望のために使われている。胡蝶もまたそれを利用する。
「あっあっ。気持ちいいです。あっあっ」と、天井の一点を見つめながら、絶頂を迎えるフリをする。
下から板倉が聞いてくる。
「ワシのことが好きか?」
胡蝶は喘ぎ声を交えながら「胡蝶は、あっあっ、殿を、お慕い、あっあっ、しております」と答える。この一年間、常に想定問答を繰り返してきた問いが、ようやくきた。
板倉は満足げに笑うと、腰を下から突き上げてくる。行為が続く。胡蝶はただ、時間が過ぎるのを腰と喉を動かして待つ。
胡蝶の中で果てた後、板倉は胡蝶の頭に腕を回すと、腕枕をしてきた。腕枕も今夜が初めてだが、それも想定内として考えてきた胡蝶は板倉の胸にそっと頭を預け、「殿、温かいですわ」と、寒寒しさに震えそうな身体を抑えながら言う。
再び、同じ問いがされる。
「ワシを好きか?」
胡蝶は答える。「殿をお慕いしております」
板倉は格子窓の方に顔を向け、突然優しい声色で「お盆だな。ワシは若くして父を亡くした。九年前のことじゃ。精一杯の親孝行をしたのだが、あの世に伝わっておるじゃろうか」としみじみと語る。
板倉が自慢以外で自分語りをするのも初めてだ。胸に顔を埋めた胡蝶は、少し困惑する。
板倉は顔を背けたまま、優しい口調で聞く。
「ところで、そなたの親御どのは息災か?」
胡蝶の身体が、ビクリと跳ねる。あの日の光景が、鮮やかに脳裏に蘇る。目の前で、板倉が母を殺した、あの地獄のような光景。怒りが込み上げ、板倉の襟を掴む拳を握りしめる。しかし、板倉の言葉の裏にある可能性に、一瞬、希望を見出す。
「もしかして、記憶を失っている?」
胡蝶が板倉の顔を見上げた、その瞬間。くるっと振り向いた板倉は、冷たい蛇のような表情で顔を歪ませる。
「冗談じゃ、冗談じゃ。息災なわけなかろう。なにしろワシが殺したんじゃ」とクククっと笑いをこらえながら言う。
胡蝶の全身に、稲妻のような殺意が走る。今夜は髪を簪で留めている。胡蝶の頭が高速で計算を始める。
ーー右手で簪をとってこいつの首を二回刺す。すぐに首の反対側に噛みつく。騒ぎで人が来ても、男衆が私の首を刀で斬って胴体から切り離しても、私は絶対に板倉の首を噛みちぎる。
胡蝶の目の瞳孔が獲物を狙う猫のように鋭く細くなる。その刹那。視界の端に、板倉に破られて継ぎはぎとなった掛け軸が映る。多賀朝湖の銘の入った、なんでもない風景画。
一郎の、あの晩の声が聞こえる。「どうでもいい」。胡蝶の身体も、過去も、すべてを包み込んだ、あの優しい声。
簪に伸ばしかけた手が止まる。殺意が、潮が引くように消えていく。いま私は死にたくない。あの絵を、あの人を見失うわけにはいかない。
沈黙を楽しむように板倉は「だから、冗談じゃと。もっとも、信長の妹も、徳川秀忠様の娘も、敵に嫁いで、それはそれは幸せになったがな」と煽る。
胡蝶は深く息を吸い込み、感情を鎮める。「まだ、幕は引けない」。
板倉は胡蝶の様子を観察するように、さらに問いを投げかける。
「お前、満月の前夜、狩野派の会に行っておらんよな?」
胡蝶は冷静に答える。「女将から説明があったように、私が行ったというのは体です。もしも、板倉様がお帰りになったあとに、太夫の格好をしたものが仲之町を歩けば、そんな噂はすぐに板倉様の耳にも届くでしょう」
板倉は「うむ、調べたが、そんな話は無かった」と満足げに頷く。
「そう言えば…伝えておくことがある」と板倉は続け、「参勤交代は一年ごと。ワシは来月、領地の伊勢亀山に帰らないといけないんじゃ」と言う。
胡蝶にとって、それこそ何度となく想定を繰り返してきた小さな希望の灯火だ。心から微笑みたいのを、ぐっと抑える。
胡蝶の表情が変わらないのを確かめた板倉は、「それがのぉ。将軍様たっての希望で、ワシを江戸城常勤の奏者番格に取り立てたいとのことなんじゃ。いやぁ、まいった、まいった。領地経営がおろそかになってしまうかのぉ。ガハハ」と高笑いする。
胡蝶は、正も負もいずれの感情も出せないほどに、全身から力が抜ける。
三度目の問い。「ワシを好きか?」
胡蝶の喉の奥が詰まる。板倉の目が、胡蝶の感情を探っている。かつて、芭蕉に言い放った、あの煮え滾るような憎悪の言葉が、心の底からせり上がってくる。「ずっとお恨み申し上げてます」。あの時の、偽りなき本心。しかし、今はそれを飲み込む。この男の前で、真実を口にしてはならない。心を無にする。感情を排し、胡蝶は答える。
「はい、ずっとお慕い申し上げてます」
板倉はようやく満足して、帰り支度を始める。
◇
玄関で板倉を見送った胡蝶は、糸が切れたようにふらつきながら階段を上り、廊下を進む。二階の突き当たりにある、春に新造になったばかりの初音の部屋へ向かう。
胡蝶の禿だった初音は実年齢十五歳だが、発育がよく、本人もあっけらかんと早く女郎になりたいというので、十七歳という体にして新造になった。なんと言っても、若く明るい華がある。いずれ格子女郎までは上がるだろうと、胡蝶も周りも考えている。だが、太夫はどうかなとも、胡蝶は思う。
初音は、三味線や琴もうまく、なにより化粧が抜群にうまい。しかし彼女は、本や和歌、絵には興味がない。幼さゆえか、本質なのか。
ともかく胡蝶は、万が一にも板倉の目に触れることがないよう、一郎から貰った赤い衣の少女の絵を、初音に預けていた。
部屋の襖を開けると、初音はいつものように無邪気に笑いかける。
「姐さん。絵、大丈夫だったよ。あたし、絵とかよく分かんないけどさ」
胡蝶は初音から絵の入った桐箱を受け取り、胸を撫で下ろす。
初音は「今日のことは姐さんに一つ貸しよ」と一丁前の口をきく。胡蝶は妹分に微笑み、「ありがとう、初音。なんでも頼んでくなんし」と女郎言葉で返す。
部屋に戻ると胡蝶は、破れた継ぎはぎの掛け軸の隣に、赤い衣の少女の絵を掛ける。丘の上に立つ、十一年前の自分。風に舞う白い晒し布。一郎が見つけ、永遠にしてくれた、私自身が放った「光」。
絵を見つめながら、胡蝶は全身を小刻みに震わせる。さっき板倉を殺さなかった。殺せたかもしれない。この絵を見るために、生きてしまった。
「でも、でも、一郎さん。私、辛いよ。あの時、すべてを終わらせることができたのに。もう私、一人では戦えないよ」。心の奥底から、抑えきれない嗚咽が込み上げてくる。
母殺しすらもてあそぶ板倉重常の狂気に耐えながら、胡蝶は、一郎の絵と彼の言葉「どうでもいい」を思い出し、殺意を押し殺す。しかし、胡蝶の心は希望と絶望の狭間で揺れ動く。
次回:第32話 それぞれの吉原 (ニ)
第1章はあと2話!(全33話)




