第13話 京の雁金屋、尾形の燕子花
吉原で「古調」との一時を楽しむ一郎。その頃、吉原の太夫「胡蝶」は、自ら手紙を送って誘った相手と暗黒の夜を過ごそうとしていた。
「分かってはいたことだけど」ーー胡蝶は新月と満月の日に合わせて自分から手紙を出して「主」の板倉重常に吉原に来てもらうという命を淡々とこなしてる。
一年前に切見世女郎から始まり、とんとんと局女郎、格子女郎と格が上がり、最上級の太夫になった。
板倉の態度がそれに応じて良くなるーーなんてことは胡蝶は期待していなかったが、全くその通りだった。
太夫になって値段は上がっても、どうせ金沢屋に付け回すものなのだから、板倉の懐は痛まず、練り歩きで晒しものにされた後の凌辱は、むしろ板倉の欲情を掻き立てる始末だ。
この日の板倉は、妓楼の太夫の部屋にズカズカと踏み込むと、何も言わずしゃがみ込み、メリメリと畳を持ち上げては、壁にバンと立て掛けていく。
妓楼の畳は、能を舞えるように、もともと簡単に上げられ、きちんとした木の床が張られている。
だからといって、普段生活している部屋の畳の上には、様々なものが置いてある。
板倉は、文机の乗る畳にも手をかけて、ぐいっと持ち上げると、文机がひっくり返る。その上にあった「多賀朝湖」の掛け軸が引っ掛かり、ビリビリと音を立てて破れる。
「あっ」。泣くことは板倉を喜ばせるだけと理解しているが、ぽろりと一筋の涙が自然と流れ出る。
「ククク」と板倉はそれを見てようやく満足したように板の間となった床に座ると、胡蝶にも座るように促す。
板倉は「さて、この十四日間に仕入れた情報を聞こうか」と言って、ゴソゴソと懐から能の「般若」の能面を取り出すと、自分の顔にバカっと着ける。
胡蝶は何を意味するのか分からなかったが、すぐに怖がらせようという意図だと悟り、一瞬の間を置いて、「あれー」と声を上げる。
板倉の表情は能面を着けているので分からず無言のため、胡蝶は「きゃーっ」だったかなと考えるが、板倉がまたバカっと面を外して、ニヤニヤと満足気な顔をしているのを見て、ほっとする。
しばらく、板倉の興味のありそうな尾張徳川家や藤堂家にまつわることから、興味のなさそうな俳諧師や絵師界隈の話しまで、淡々と報告する。
情報が多ければ多いほど、行為の始まりは遅くなる。行為自体の長さは変わらないものの、胡蝶は始まりを少しでも遅くすることが、今の自分に出来ることすべてだと思っている。
「狩野派の多賀チョウ…」とまで言ってハッとして口を閉じる。
板倉は眉をひそめて「なんじゃ?」と聞くが、胡蝶は「そろそろ、殿のお情けをいただきたく…」とこの一年で身につけたどうでもいい会話術を使う。
板倉は「今夜の責めはキツいぞ、覚悟しろ」と言うと、持ってきた風呂敷を解いて麻縄を目の前に垂らして見せつける。
だが胡蝶は「あの風呂敷の柄、京の雁金屋、尾形の燕子花」と縄ではなく風呂敷の意匠にうつろな焦点を当てる。
胡蝶は、板倉重常の歪んだ欲望に応えながら、彼に情報を流す日々を送っていた。板倉の狂気と、胡蝶の冷めた視線が交錯する。その中で、板倉が持参した風呂敷の柄に、胡蝶の意識は引きつけられる。それは、京の雁金屋、尾形がデザインした燕子花の柄だった。
次回:第14話 薩摩の白焼き
雁金屋 江戸大奥や東福門院(徳川和子)の御用を勤めた京都の富裕な呉服商。この時の当主は尾形宗謙。その息子に尾形光琳(13歳、1658〜)、尾形幹山(8歳、1663〜)兄弟がいる。光琳兄弟の曾祖父道柏の妻は本阿弥光悦の姉。祖父宗柏は鷹ヶ峯の光悦村に居を構えていた。雁金屋の意匠には本阿弥光悦の影響も大きい。




