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東海遊侠伝

甲州大前田一家3000人の貸元の一人が殺されて、娘さゆりが仇討の旅に出る、その道中で清水一家や吉良の仁吉と知り合い、その仁吉が「荒神山の闘い」で喧嘩した相手側に、さゆりの親の仇が居て、討ち果たしして、兇状旅に出た。京都の合津の小鉄一家でやっかいになり、、新選組と知り合う。そして、土方歳三にと知り合い、、最後の武士を見る。武士道の義を知った。

清水一家の森の石松とは逗留した時に知り合い、、やくざ世界の「義」を知らされた、その石松の最後を聞いて、最後まで一人で戦った男の義理の世界、やくざ渡世にも「死の美学」を感じた。

土方歳三にではなく薬売りが武士道を貫き、武士らしく「死の美学」を貫いた男話見たのであった。」

短編小説「東海遊侠伝」原作者 献残屋藤吉郎


1)第一話 「女無宿人さゆり」


2)第二話 「森の石松」



1)第一話「女無宿人さゆり」


甲州無宿人「さゆり」の痛快股旅物、献残屋藤吉郎書房


上野国大前田村の大前田一家は、関東、東海、甲州一帯に224か所の渡世場を持ち、貸元は3000人で

(旅人を旅先の親分に紹介の出来る貸元が500人)大前田栄五郎は大親分であった。

さゆりの父親は大前田一家の貸元であり、甲州大月ので村の神龍寺一家の貸元。」である。

その貸元の神龍寺長治は、博打の喧嘩から、旅人の秋月玄葉に切られて殺された。

その仇を討とうと、秋月玄葉を探したが、すでに出奔していたので、、これから探して、仇討をしなければならなかった

そ準備をするために、さゆり代貸、大熊大二郎(通称熊殺しの大二郎)に任せて、仇討の旅に出ることにした。

さゆりはもともと「居合抜き」の、、、小太刀の免許皆伝なので、、、

さゆり三度笠の男姿に変えて、、旅に出ることにした。

「通称、甲州無宿人さゆり」と名乗った、、、仇討の旅に出た。


1)女無宿人「さゆり」は親の仇である、秋月玄葉を追って、、、その足取りを追うことにした。。。風の噂便りによると、秋月玄葉は都鳥一家に身を寄せているらしい。。。というのは、、清水一家の森の石松をだまし討ちにした、都鳥兄弟と秋月玄葉は親戚筋にあたり、、今回の清水一家との出入りに加勢するらしいとのうわさもあり、、女無宿人さゆりは清水港へ向かった。

清水一家の軒先を借り受けて、、、甲州無宿人さゆりが仁義を切り始めた。

その場に出てきた、、、法院大五郎が、、、「あれまあーー神龍寺の2代目ではないですか、、、仁義なんか切らずに、、、あがってください。。。今日は親分もいますので、、、どうぞどうぞ」

法院大五郎が、さゆりを親分のもとまで案内した。。。

「おおーーさゆりさんか、ご無沙汰でしたね、、、神隆寺先代の葬儀以来かな、、、よく来てくれた、、、さあさあ、、、石に線香をあげておくれな、、、あんたとは本当に仲が良かった、、、

誰の言うことも聞かない,あの石がお前さんの言うことはよく聞いたな、、、」

その言葉に、甲州無宿人さゆりは目頭が熱くなった。。。

さゆりは森の石松にお線、、、香をあげて手を合わせた。。。「石さん、、さぞ、、無念だったろうね、、、できれば、私も世話になった石松さんの無念をはらしたい気持ちでいっぱいだよ、、、」

「親分、、、私も親の仇を追いかける身ではあれど、、都鳥兄弟には親の仇の秋月玄葉がみかたしているような話も聞くので、、、是非、今回の出入りの末席に加えてくれませんか。。。」

その場に居合わせた大政が、、、「親分、、さゆりさんの話を聞いてもらえませんか。。。。」

更に神隆寺一家を知っている、、、法院大五郎や追分三五郎たちも口添えをした、、、、余計なため口を聞けば清水次郎長親分には叱られるが、、、そん覚悟で頭を下げた。

そんな話をしているところに、、、桶屋の鬼吉と小政が飛び込んできた。。

「やあーーー、懐かしいい、、逢いたかったぜよ」

と、、、清水一家のみんなから好かれていた、、、そんな甲州無宿人さゆりがいとおしくて仕方がなかった次郎長は最後は許していた。

みんながよかったよかったと、、、特に、石松とは仲が良かったので、、、草葉の陰で石松が一番よろこんでいたのでは、、、、

無宿人さゆりは旅中ではあったが、、、石松さんへの香典といって「金30両」を仏壇へ。。。



2)石松の仇討へ

森の石松をだまし討ちにした、、、都鳥一家の7人が追分宿の盛田屋に留まったことを、確認した清水次郎長一家はその晩のうちに

急襲して、都鳥一家7人を討ち果たした。

森の石松は元来剣術が優れていて、、、清水次郎長の用心棒として子分なったほどである。

そして石松が浜松の都鳥一家に騙されて殺されてしまったのである、、、さぞかし、、悔しかったことだろう、、、次郎長も子分たちもそう思っていた、、、ましてや、、、石松をよく知っていた、「甲州無宿人さゆり」は腹の底から、、、都鳥一家を憎んでいた。

仇討を済ませてから、、、次郎長一家はそれぞれ、、、2人から3人でその場から,凶状旅に出た、、、次郎長は子分たちに金30両を持たせての旅であった。。。。そして、、、2年から3年の旅で清水に戻るように指示して別れた。

女無宿人さゆりは親の仇の秋月玄葉が追いかけていたが、、、今回も逃げれた。

川繁蔵を頼った、、、、大前田一家に流からであった。

笹川繁蔵は東庄町の代々醤油醸造の跡取りであった、、、、それが,芝宿の文吉親分から縄張りを貰って、、、ヤクザ渡世になった。

そして、下総の国の「飯岡助五郎」と勢力争いが起きた、、、そして、、世に言う「天保水滸伝」である。

その勢力争いで、笹川繁蔵は38歳で亡くなった。

その仇討を計ったが、子分の「勢力富五郎」は500人の敵に囲まれ、討ち死にした。

そんな天保水滸伝の争いに巻きかまれた、、、甲州無宿人さゆりはまたしても、、、秋月玄葉を逃がした。

そして、女無宿人さゆりはまたしても、凶状旅に出た。。。。。



3)吉良の仁吉、、、、荒神山の決闘の前夜

飯岡の助五郎と笹川繁蔵のやくざ抗争に巻き込まれた、、、甲州無宿人さゆりは泥沼にかした、命のやり取りにの中で、、、笹川繁蔵の食客であった「平手造酒(実名は平田三亀)は千葉周作の門下生)」にやくざ抗争のさ中に助けられた。。。

「甲州無宿人さゆりさんとか言ったね、、、繁蔵親分から話は聞いていたよ。。。あんたはここでは死んではいけない、、、逃げ道を作るから、、俺についてくるといいよ。。」といって、走り出した。

そして、甲州無宿人さゆりを先導した。

さゆりは平手造酒の後についていき、、、活路を見出した。

「さゆりさん、、、この道をまっすぐ行ってください、、、水戸街道です、、、江戸に向かってまっしらぐに走ってください。。。」

甲州無宿人さゆりは平手造酒の言葉で送り出された。。。

「さゆりさん、、、どうか無事に三州吉良にたどり着いてください、、、

」と平手造酒は心で手を合わせ、、、やくざ抗争の中に戻っていった。

後から日」聞いた話だが、、、平手造酒は子の抗争で命を落としていた。

そして、さゆりは途中で身支度を整えて、、、三州路を急いだ。

甲州無宿人さゆりの心には、世話になった笹川繁蔵の死、、、助けられた平手造酒の命を思いながら、、、吉良の仁吉の家に着いた。

吉良の仁吉の家には清水一家の大政達が数人厄介になっていた。


(4)吉良の仁吉は男でござる

1866年(慶応2年4月8)伊勢の国(現在の鈴鹿市)荒神山で「荒神山の決闘」は起きた。

神戸の長吉と桑名の穴大徳次郎の博徒同士の死闘であり、、、神戸の長吉には吉良の仁吉ほか22名の助っ人が付き、、、穴大徳次郎には130130名の助っ人が付いての激突であった。。。

始めから、神戸の長吉側は負け戦と分かっていても、吉良の仁吉以下22名は戦いを挑んでいった、、、結果は吉良の仁吉は鉄砲で撃たれ、、、味方した清水次郎長一家もさんざんであった。。

戦いのさ中に、甲州無宿人さゆりは秋月玄葉に出会い、、戦いを挑んでいった。

秋月玄葉は槍の名手であったが、、、さゆりに味方した清水一家の法院大五郎が捨て身で、、、秋月玄葉の槍を受け止めた、、、そして、,

玄葉が槍を使えなくなったところを「さゆりさん、、、今だよ、、切り込んでください

、、、」と玄葉の付きだした槍を抑え込んでいた。

自分の体で、法院大五郎が秋月玄葉の槍を抑えていたのであった。

甲州無宿人さゆりは,槍が使えなくなった秋月玄葉に切り込んだ、、、手ごたえはあった、、、秋月玄葉の急所に一撃を打ち込んでいた。。

秋月玄葉は倒れた、、、そして、、用心棒仲間に救われたいった、、、さゆりは確かに致命傷を与えていた。。。

そして、、法院大五郎のそばに駆け寄った。。

「法院さん、、、しっかりして、、、」と、、

うめき声のような法院大五郎から、、「やったね、、、」と聞こえたような気

さゆりは法院大五郎の命の代償で、、仇を討ったようなものだった。

しかし、、法院大五郎の眼には大きな涙があふれていた。

後ろから大政さんが声をかけてくれた。。。

「大五郎も満足だよ、、、さあー引き上げるぞ」

と、吉良の仁吉を戸板に乗せて吉良へ引き上げた。


(5)吉良の仁吉の弔い合戦

荒神山の私闘は吉良の仁吉側は22人に対して、穴大徳次郎側は130人の助っ人が付いての激突であった。

しかし、神戸の長吉側は、誰が見ても、、、仁吉側の負けであったが、、、命がけの吉良の仁吉側の勝利となった。

人数が少ない神戸の長吉に味方して荒神山の決闘は仁吉側が勝ったのであった、、、

その代償は大きかった、、吉良の仁吉は鉄砲で撃たれ、、、後日死亡した。

応援した清水一家も法院大五郎をはじめ、数人を失った。

話を聞いた清水次郎長は兄弟分の寺津の間之助、西尾の治助の3人連名で、伊勢桑名の穴大徳次郎のもとに喧嘩場を送り付けた。

清水次郎長は東海道の博徒480名を報復に送り付ける準備をしていた。

その話を聞いた、穴大徳次郎に味方する伊勢古市の丹波屋伝兵たちは清水次郎長たちに和議を申し込み、、、あわやのところで和議が成立したのであった。、、、

この和議に反対したのが、、、ただ一人、、、黒駒の勝蔵だった。

余談になるが、、、この喧嘩場を持って行ったのが、、、清水一家の増川の仙衛門であった、、、彼剣の腕前は一流で、度胸もあり、、、弁の立つので、この大役に選ばれたのであった。

荒神山の決闘は、、、和議が成立して、、、私闘にはならなかった。

しかし、、命を懸けた「吉良の仁吉」は男になった、、、、神戸の長吉は返り血ひとたびていなかったので、、、寺津間之助親分より、追い出されていた、、、、

清水次郎長は大前田一家の神龍寺一家二代目である「さゆり貸元」に礼を尽くした、、、今回の荒神山の決闘には命がけの働きをしてくれたことを聞いて、、、感謝してくれた。

甲州無宿人さゆりは、、、清水次郎長に聞かれた。

「これからは、、、甲州大月村に戻るんですか、、、」と、、、

しかし、甲州無宿人さゆりは、後2年ぐらいは凶状旅を続けてから、戻ることを告げた。

「そうですか、、、それまでは道中、気を付けて、旅しいってください。。。それから、これは少ないですが、草鞋銭の足しにしてください、、、」と言って、50両の餞別を渡してくれた。

甲州無宿人さゆりは頭を下げて、礼を尽くした。。。旅先のことなので、、、次郎長の志が嬉しかった。

そして、、、嵐吹きまくる幕末の京都へ向かった。

風の噂に聞こえてくる京都の「会津の小鉄」に会ってみたくなったのであった。


(6)勤王佐幕と風吹く京都の


女無宿人さゆりは荒神山の決闘から、、、清水次郎長が出張ってきて、、和議が成立して一件落着した。

その様子を確認してから、、甲州無宿人さゆりは幕末動乱の渦巻く京都に足を運んだ。

京都は今までに見てきた街並みとは違っていた、、、人も多く何となく生きている街と思えた。

そして、現実に今の日本の歴史の動く待った陀中であった。

勤王を唱える侍、町人がうごめ得ていた、、、、一獲千金を夢見るやつ、、、何とかいい条件の餌に有りつきたいとか、、

がつがつした人間の匂いがしていた、、、

そんなんかで、会津藩中元部屋の部屋頭の「大垣屋清八」の片腕となり、、、会津の小鉄(本名、上坂仙吉)は、持ち前の度胸と腕を持っていた会津の小鉄は会津藩tっ中元部屋で頭角を現しはじめた、若いときは喧嘩に負けることが嫌いで、、、負けても勝っても後へは引かなかった、、、そのために顔から全身に掛けて70余か所に刀傷があり、、、右手は親指と人差し指しかなかった。

1867年喧嘩のもとで人を殺し、処刑されるところを徳川慶喜の上洛で恩赦となり、、命拾いをしたのであった。して、博徒上坂音吉の盃を貰い、白川村に一家を構えた。

その後、会津藩とのつながりから「池田屋事件」「禁門の変」に協力していたために、討幕派から命を狙われた。

そして、鳥羽伏見の戦に子分たちを連れて、軍夫として参戦したが、、、官軍に惨敗した。

大阪に四散したが、、、明治維新後は博徒として渡世を渡った。

会津藩中元部屋に在籍していたので、、、京都市中の見回の真似事のようなこともしていた、、、会津の小鉄一家であった。

「何を偉そうな御託を並べてるんだよ、、、、世直しとか、何とか言ってるが、、、あんたら侍は盗人強盗をしているのかよ、、、

やめときな、、、弱い者いじめはよーー」と威勢のいい啖呵を切っている三度笠がいた。

「おう、、、べらぼう、、侍だか何だか知らねえーが、、、その三度笠の兄さんの言うとおりだぜ、、、おれっちはあんたに加勢するぜ、、、」といっている意気な男が、、、その三度笠を見て、、、

「あれー、、、二代目じゃあないか、、、さゆりさんか道理で威勢がいいはずだよ、、、」

「そういうあんたは、小政さんじゃないですか、、、」

と言いながら、、不逞な侍たちを蹴散らしていた。。

助けられたお店の店主は二人に感謝をして、、命拾いをしたことにお礼を言った。

このやり取りを見ていた、会津の小鉄は二人に近付いてきた。

「もしかしたら、、、清水次郎長一家の小政さんですか、、、ありがとうごいます、、、最近はああいう手合いが多くて、、、

遅れまして、わたくしは会津の小鉄と申します、、、、私たちは会津藩の中元もしてますので、、京都市内の見回りもしています。。

よかったら、私どものむさ苦しいところですが、、、草鞋を脱いでください、、、お連れの方もご一緒に」

と、言うことで、、小政とさゆり二代目は草鞋を脱ぐことにした。


(7)寺田屋事件(第1次)と池田屋事件

新選組が尊王攘夷派浪士に対して、襲撃して事件であった。また、池田屋事件(1864年6月5日)も新選組が襲撃をした、、、

そんな京都の尊王攘夷派が争いを起こしている、、洛中で女無宿人さゆりは京都の博徒「会津の小鉄」一家に草鞋を脱いで、京都の街中を少しだけ見物しようと思った。

同室になった清水一家の小政、関東綱五郎と京都の街を「会津の小鉄」に案内してもらうことになった。

「会津の小鉄」は過去ににおいて修行旅をしている時に、清水次郎長に世話になったことがあったので、その礼を尽くしてくれた。

その夜に歴史的な事件で「寺田屋事件」に遭遇した。

京都の街を勤王の志士を気取った浪士組の集まりがあることを察知した、、、

京都所司代預かりの「新選組」が活躍した夜だぁつた。

たまたま会津の小鉄も京都所司代の中元頭をしているので、街の警戒に子分たちを配置していた。

そんな時に新選組の切り込みが行われた現場、「寺田屋旅館」の前を通りかかった3人であった。

歴史的な事件に遭遇したのであった。


清水一家の関東綱五郎が、、、

「小政兄い、、、新選組の切り込みだって、ちょつと、見物していこうか、、、」

と,やじうま根性を出した。

小政も、神龍寺2代目さゆりも、会津の小鉄も見回りの都合もあって、見物することにした。

目の前で起きた寺田屋襲撃事件の新選組の切り込みは凄かった。

二手に別れた新選組は近藤勇局長を含めた数人で寺田屋に切り込んでいった。

そして、後から別の集合場所に行った、土方歳三副長たちが切り込み、浪士組は狙撃されたのであった。。その現場にいた女無宿人さゆりと小政たちは,凄い武士たちの切りあいを眼の前にして、、時代の動きを感じた。

会津の小鉄は京都見回り組とともに、周囲の警戒にあたった。

やくざも歴史の中で関りをもって動く時代、ヤクザ同士で抗争をしている時は終わったような気がした。

女無宿人さゆりは心の中で、兇状旅も終わりにして、甲州へ戻って何かをしないとと、、、心が動いた。

そんなことを思っているところへ、浪士組の武士が逃げ込んできた。

それを追いかけてきた新選組隊士が、切り込んできて、見事に倒していた。

その男が沖田総志であった。

会津の小鉄の話では、新選組一番隊隊長の沖田総志と知った。

そして、一番の剣客であると知った。

目の前で沖田総志と出会った最初であり、、、運命的な出会いであった。



(8)「新選組一番隊隊長沖田総志との因縁は」

1862年4月3日の寺田屋事件の死傷者は、、、

鎮撫使側、、死亡1負傷者4名。。志士側6名 負傷者2名

上意討ち、、、薩摩藩21名、久留米藩9名

       海上で殺害16名

以上が犠牲者であった。



甲州無宿人さゆりの前で、浪士隊員を切り倒したときに、沖田総志は喀血したのであった。

その時、甲州無宿人さゆりが持ち前の義侠心ら倒れた、沖田総志を助けたのであった。

喀血して倒れた沖田総志にその時ばかりと、、、切りかかってきた浪士の刃に、、、

「あ、、危ない、、」と、咄嗟にさゆりは刀を抜いて、その切りかかった浪士の刀を払いのけて、、、沖田総志の身を守った。

寺田屋襲撃は続いていたので、血を吐きながら、沖田総志は戦いに戻った。

その時にさゆりに一礼をして、沖田総志口から流れ出る血を払いのけながら、笑顔もせて戦の中に消えていった。

甲州無宿人さゆりはその沖田総志の姿が美しく見えた。

そして、、、襲撃事件を心配しながら様子を見ていた。

一時の襲撃事件が終わり、新選組が隊列を整えて、、引き揚げていった。

その中に戸板に載せられた沖田総志を見送ったさゆりであった。

時代の流れ、、幕末の人生幕を見たような気がした。

後日、会津の小鉄元締めより、甲州無宿人さゆりに話がでた。

「神龍寺一家2代目、、、先日のお礼がしたいのでと、、、新選組土方副長から連絡がありましたので、時間がありましたら取ってください」との連絡がありました。

ので、、、宜しくお願いします。

そして、、、甲州無宿人さゆりは、清水一家の小政と一緒に新選組屯所へ招かれた。

新選組屯所で飽津の小鉄貸元より、土方歳三と沖田総志に改めて紹介された。

「先日はありがとうございました、、、沖田です」

と、挨拶をすると、、、土方歳三からもお礼を言われた。

土方歳三副長から、

「お礼に何もできませんが、、、京都のめずらしいご膳をご馳走したいのですが、よろしいですか、、」

といわれ、、、無宿人さゆりと小政はご馳走によばれることになった。

その時に、沖田総志から

「神龍寺2代目さゆりさん、、、剣士としてあなたの小太刀とお手合わせをお願いしたいのですが、、、どうでしょう」

と言われ、、、

新選組切っての剣の使い手と手合わせをすることになった。

久しぶりの喧嘩ではなく、剣の立ち合いとなり、さゆりは緊張した。

二人の立ち合いは互角であり、、、近藤勇局長が出てきて、二人の立ち合いを引き分けとした。

「お見事です、、、素晴らしい太刀筋ですね、、、恐れ入りました」

「さゆりさん、、、立ち合いありがとうございました、、、ところで、、、その剣法はどこで習いましたか、、、」

近藤勇局長も土方歳三副長も二人の立ち合い褒めたそして、食事会では剣術の話に花が咲いた。

この時を機会に、無宿人さゆりと沖田総志の交友が始まった。


(9)新選組のうわさ


京都市街地においては新選組の浪士たちの取り締まりが厳しく、浪士たちの動きも少なくなってきた。

今では不浪士たち、多くの京都市内で、勤王佐幕と言っては、、、集団で会合をしたり、商家から天誅とかなんとかいって、

金品とかを揺すっていたが、、、新選組の働きでなくなっていった。

そんな中で、勤王思想が強くなり、、、天皇を巡って争いがおきた。

「蛤ご門の変」が起きて、、松平藩と薩摩藩の働きで,長州藩が京都から一掃されていた。

その中で、、、松平藩が権力を持っている間は、、、新選組も幕府軍について活躍していた。坂本龍馬も

しかし、、、時代は変わり、、、移って、、、長州藩が勢力を巻き返してきたのであった、、、不思議な事に、、、

敵味方が入れ替わったのであった、、、、長州藩と薩摩藩が手を組み、、、世の中が変わったのである。

その敵味方に分かれていた、長州藩が薩摩藩と、、、倒幕という目的のもとにつながったのである。。。

その歴史的な立役者が「土佐の坂本竜馬」であった。。。

そして、、日本の歴史に明治維新を起こした、、、「薩摩の西郷隆盛、、、大久保一蔵」などが活躍した。

しかし、、歴史の立役者は自然に、、,歴史の中で消えていった。

長州藩と薩摩藩を合体させた坂本龍馬も暗殺されてしまった。

歴史は流れ、、、後々になって、明治維新で活躍して偉人たちは全て、、、多かれ少なかれ消えていったような。。。。

明治維新が出来上がるまでの過程には、、、幕府軍と勤王政府での戦争が幾つかおきた。

薩摩藩と長州藩が「錦の御旗」を掲げて、、、官軍として日本を謁見したのであった。。。

まずは、、松平藩が京都から追われた、、、新選組も松平藩に従った。

そして、、長州藩と薩摩藩が手を結んで、、、鳥羽伏見の戦いが起きた。

会津の小鉄は松平藩について、子分たちを連れて戦いに参戦した。

甲州無宿人さゆりは幕軍に憑いて、、鳥羽伏見の戦いにいつの間にか参戦していき、、負け戦に巻き込まれていった。




(10)鳥羽伏見の戦に向かう


甲州無宿人さゆりは会津の小鉄と、その子分たちと土方歳三に従い、鳥羽伏見の戦いに向かった。

行く前に病で倒れた沖田総志と負傷した近藤勇局長は江戸に船で向かった、、、そのふたりを甲州無宿人さゆりは大阪まで見送った。

その見送りの際に、、、沖田総志は言った、、、

「さゆりさん、、、あなたは民間人なのだから、、今回の戦いに、幕軍に従い、付き合う義理は無いのだから、、、この辺で引き下がってください、、、

そして、、、自分自身の命を大事にしてください、、、」

その思いやりは嬉しかった、、、甲州無宿人さゆりであったが、、武士の最後の誇りを見届けたかったのである。

しかし、甲州無宿人さゆりは会津の小鉄たちと土方歳三に従い、戦に臨んだ。

その時も土方歳三も会津の小鉄も、、、、

「もう、、十分だよ、、、二代目さゆりさんはひいてください」と言われた。

甲州無宿人さゆりは鳥羽伏見の戦にに臨み、、、そして、負けて会津の小鉄たちと大阪に逃れた。

負傷した二代目さゆりは、そのあと、土方歳三たちに従い、、、関東に向かい、近藤勇の処刑にまで付き合った。

清水一家の小政はいったん清水へ戻った。

小政は関東綱五郎に言いつけた、、、、

「お前は、二代目さゆりさんに付いていき、甲州まで送って来い」と、、、

そんなこともあって、関東綱五郎は男気もあって、甲州無宿人さゆりに付いていき、、、清水一家の名のもとに甲州まで送り届ける決意をした。

土方歳三副長再び言った。。。

「二代目さゆりさん、、、ここまでで十分ですよ、、、沖田も言っている通り、、身を引いてくだい、、、民間人のあなたがこの先も付き合うことはないよ、、、」

甲州無宿人さゆりはどういうわけか、、、土方歳三という男に、、、侍に付いていく気なっていた。

そして、関東綱五郎も男一匹、付いていくことにした。

二人のやくざ渡世たちは負け戦の行く先をみとどけるまで、、、、土方歳三について、、、誠の旗印のもとの侍を見たかったのであった

関東での近藤勇の処刑。。。

1868年(慶応4年4月25日)関東の板橋で処刑された。

斬首刑で、、、処刑された後に、永倉新八や松本良順たちによって、近藤勇、土方歳三の石碑が建立された、

そして、毎年4月25日に供養が行われた。

関東板橋で処刑された近藤勇は武士ではなく、、、農民出身の侍が、幕軍について、負けて、潔く処刑されていく、本当の侍を幕末に見たような気がする、、、

そして、官軍に立ち向かっていく、土方歳三に死の美学を見たような気がする。

甲州無宿人さゆりは土方歳三に最後まで付いていくことにした。



(11)決戦会津若松の戦い

慶応4年明治元年(1867年)戊辰戦争の局面のひとつである「会津戦争」がはじまった。

会津藩の処遇を巡って、薩摩藩、土佐藩が中心にとなって、明治新政府軍と会津城籠城、西郷頼母、母成峠の戦い,白河口の戦いが行われた。

会津城籠城、その鶴ヶ城に新政府軍は城を包囲して、、、1か月も会津藩は戦い続けた。

新政府へ軍は城内に50発の砲弾を撃ち込んだが、、、

この戊辰戦争では会津藩士が約3000人亡くなった、、、然し、会津藩志は婦女子、少年兵までも戦った。

それが少年兵の「白虎隊」の意劇であった。婦女子のなかには「八重のさくら」と言われた新島八重のように会津藩志として戦った婦女子もいた。

また、会津藩が京都守護職時代に、ったその配下になり、京都の治安に当たった新選組も会津で戦った、、、土方歳三は宇都宮の戦いで負傷し、会津に入った。

新選組3番隊隊長、斎藤一も会津に入り、土方歳三とともに、明治新政府軍と戦った。

そして、土方歳三が函館に行った後は、会津藩に残った新選組隊士の指揮を執った。

斎藤一は戊辰戦争が終わった後は東京に戻り、、72歳で亡くなった、、、明治になってから

斎藤一は「藤田五郎」と改名している。

土方歳三たちは会津藩鶴ヶ城に入った。、、、幕軍は負け戦に続く負け戦であったが、会津藩の会津容保は徳川親藩として最後まで徳川幕府に殉じていたが、明治新政府軍の勢いで、責任をとって

新政府軍に下った。

しかし、会津藩志は城を枕に討ち死にする覚悟で戦っていた。

この戊辰戦争の歴史の中でいろいろな悲劇が生まれた、、、白虎隊が飯盛山で隊員全員が自忍したこであった、さらには婦女子まで自忍していったのであった。

会津藩は藩士が命を懸けて戦ったが、、、負けたのであった。

そして、甲州無宿人さゆりは負け戦の会津を後に、関東綱五郎とともに土方歳三に従い、函館に向かった。

いよいよ、、、最終決戦の北海道の地に向かったのであった。

甲州無宿人さゆりは会津藩において、命を懸けて戦う侍の姿を見た、、、

負け戦の中での「潔さ」を心で感じた。

東北での戦いで、徳川幕府のすべてが崩れれ行く、、、徳川の侍たちが滅びて散っていったような、、、

時代の移り変わりの中で、侍たちの滅亡を見ながら、、、北の天地に着いた。



(12)函館決戦(五稜郭の戦い)


甲州無宿人さゆりは土方歳三に本当の武士を見たような気がした。

そして、清水一家の関東綱五郎は小政の言いつけで、神龍寺2代目さゆり何としても甲州へ送り届けようとしていた、、、

清水一家の男として、関東綱五郎は古い世界の顔を見せたいた。

「2代目、、、覚悟は分かりました、、、俺も小政の兄いに約束したんだから、、、どこまでも、命の続く限り、、、ついていきますから、」

と関東綱五郎も男の意地を見せたいた、、、

「すまないね、、、綱五郎さん、、、本当に私の勝手で、、、京都から函館まで来てしまって、、、」

2代目さゆりに謝られた、、関東綱五郎は涙が出るほど嬉しかった。

関東綱五郎はどこまでも付いていくと心で決めた。

そして、、、新選組の鬼の副長と言われた土方歳三の最後の戦いの函館に着いた。

北の新地「五稜郭」だ、、、、

五稜郭は土方歳三ら新選組の最後の地となった、、、京都の地で産声を浴びた「京都治安の浪士組」は、幕府軍について、、日本各地を戦い続けてきたが

北海道の函館に終わりを告げた、、、

戊辰戦争の最後の戦いとなる函館戦鬼の争が始まるが、、開国派の新政府軍が勝ち、旧幕軍である土方歳三たちは破れ、、、戊辰戦争は終わった。

土方歳三は覚悟を決めたいた、、、近藤勇も処刑され、、、沖田総志も病で倒れ、、死の世界をさまよっていた。

そして、江戸時代からの盟友である「斎藤一」は会津に残り、幕軍と戦っていた。

そして、幕軍、榎本武明らとともに、五稜郭に立てこもり、、、新政府軍と決戦を挑むことにあった。

ここまできて、、土方歳三は生き延びようとは考えていなかった。

最後の決戦の場、、、死に場所を探していた。

土方歳三の最後の地は「一本木関門」とされている。。。。

鬼の副長として最後まで戦い続けてきた土方歳三が、、、旧幕府脱走軍の休憩所、屯所で最後の戦いに臨む前に

土方歳三は二代目神龍寺さゆりに、最後の託を告げた。

「2代目神龍寺さゆりさん、、、本当にここまで、来てくれてありがとう、、、いよいよ、お別れです、、」

と、、、そして、

「私の最後の頼みを聞いてください、、、」新選組の鬼の副長土方歳三は、、、

甲州無宿人さゆりに頼みごとをすると、、、馬上の人となり、、戦場へ消えていった。

甲州神龍寺2代目さゆりは本当に心から、移り行く時代の最後の武人を土方歳三に見たのであった。



(13)歴史の中の「誠の旗印」新選組


甲州神龍寺一家2代目さゆりとは縁あって、、、最後の戦いまでついてきてくれた二代目さゆりさんに土方歳三は、、、

「二代目さゆりさん、、、私は今度の戦いで敵陣に切り込む、、、生きては戻れないはず、、

それで二代目さゆりさんに頼みがある、、」

と言って、土方歳三は、、、、

自分の歴史の証である「新選組の旗印、、誠の旗を手渡し、、日野の実家に届けて欲しいと頼んだのであった。

そして、自分の写真と刀「和泉守兼定」の一振りを託した。

「是非、、、甲州へ帰る途中で自分の実家のある日野へ立ち寄って欲しいと、、、」

最後の土方歳三の頼みを聞いた、、、2代目さゆりは幕末最後の侍と認めた新選組鬼の副長、土方歳三の遺言とも取れる言葉を聞いた。

二代目さゆりは、、「土方副長、、、必ず届けます、、、今までありがとうございました」

日本の侍、最後の男、戦う土方歳三に別れを告げた。

土方歳三に一礼をして、、、甲州神龍寺一家2代目さゆりは土方歳三を見送った。。。

二代目さゆりの眼にはいっぱいの涙が溢れていた、、、鬼の副長土方歳三も馬上から振り返ることはなかった、、、、

「さようなら、、、土方さん」と。。。

「綱五郎さん、、、今しばらくつきあってください。」と言われ、、、

関東綱五郎は小政兄いから頼まれた時から、覚悟はできていた、、、そして、旅している間に

神龍寺一家2代目さゆりに命を懸けても悔いはないと思っていた。

その人柄、、、人間性に惚れていたのであった。

い残党狩りをしていたので、表通りは歩くことが難しかった。

函館からの帰る途中、会津に立ち寄ったください

会津藩志の戦いは壮烈だった、、、誰一人諦めることなく、最後の一人まで戦っていたようだった、、、その中に新選組三番隊隊長

「斎藤一」がいた、、、面識のあった甲州神龍寺2代目さゆりと斎藤一の二人は、その後の戦を語り始めていた

そして、斎藤一は土方歳三の最後を知ったのであった。

「そうですか、、、、土方さんも、 、ですか、、、」斎藤一は涙ぐんだ。

「わかりました、、、2代目達と一緒に江戸に戻りますよ、、、土方さんの遺品とあなたたちを守って、、、

道中は危険がいっぱい過ぎる、、、、いたるところに新政府軍が多すぎるので、、」

と、、、斎藤一が護衛をかっくれた。

道中は変装が必要だ。

斎藤一の江戸時代の知り合いに、、、荷役業者がいたので、会津から江戸までの新政府軍の荷駄を運ぶ、、人夫の中に紛れた、、、、

斎藤一の計らいで江戸まで何とかたどり着いた。

そして、、、板橋から日野までの道中は、斎藤一もつきそってきてくれた、、、長い、苦しい、変装の隠れ旅で

あった、、、、日野の土方の実家に着いたときは、ほっとした。

神龍寺二代目さゆりは、日野の土方歳三の実家に着いたときには、、斎藤一に礼を尽くした、、、

斎藤一がいなかったら、、、江戸にはたどりつけなかっただろう。




(14)甲州神龍寺二代目さゆりは、、新選組副長土方歳三との約束を守っ

神龍寺二代目さゆりは、、、斎藤一に助けられて江戸に入った。。。土方歳三の実家がある、日野へ向かう前に江戸にいる

沖田総志に会っていこうと思い、、、訪ねた。

そして、、「沖田さん、、、ご無沙汰していました。だ丈夫ですか、、」

然し訪ねた時には、沖田総志は病が進んでいて、意識が朦朧としていた、、、家主の植木屋に挨拶をして、、、沖田総志に別れを告げた、、、幕末最後の最強武士団「新選組」の最後の最強の美しい剣士であった。

一緒にいた斎藤一も涙して別れの一礼をした。

そして、二人は日野へ向わたしたかった。

甲州神龍寺二代目さゆりは、、、最強の武士団「新選組」の局長近藤勇、鬼の副長土方歳三、最強の美の剣士沖田総志に別れをつげた。。。

土方歳三の実家で、家族に会い、、、土方歳三の遺言を告げ、、、頼まれた刀一振りと新選組の誠の旗、、土方歳三の写真を渡した。

「土方さん、、、確かに渡しましたよ、、、今まで本当にありがとうございました」と、、、

さゆりは一礼を深々とした。

甲州神龍寺二代目さゆりは土方歳三の姉から聞かれたことを、、函館で戦死するまでのことを、知っている限りを話した。

そして、、、甲州へ帰ることを話した。

土方歳三の姉は、二代目さゆりにお礼を述べた、、、、


二代目さゆりに手を合わせて、頭を下げた。

甲州神龍寺二代目さゆりたちが甲州へ帰るといっても、、、日野の周辺には新政府軍が旧幕臣の残党狩りをしているので警戒が厳しい、、、

簡単には動きは取れないような状況ですといつて、、時間を空けて出発した方がいいといってくれた。

そこで日野家で準備をしてくれたのであった。

さゆりと関東綱五郎は日野家代々の薬売り行商に変装するすることにした。。。

斎藤一は世間が落ちつくまで日野家に留まることにした。

土方歳三の姉は、弟の歳三が世話になったということで、、、甲州神龍寺二代目さゆりたちにはいろいろと甲州までの道中の準備をしてくれた。

そして、、旅先の旅籠に薬を売る手配までしてくれて,、、いたるところの新政府軍の取り締まりを無事に通り抜ける「通行手形」まで用意してくれた。

さゆりと関東綱五郎は甲州大月村に着いた。

大月村に着いた神龍寺一家は無く、、、一家の後は「旅籠」になっていた、、、

その旅籠は「さゆり宿」となって、、、神龍寺一家代貸の大熊大二郎は旅館の番頭をしていたのであった。

時代が変わってやくざ渡世は取り締まりが厳しくなり、、、大前田一家も散り散りになったのであった。

そして、、、それぞれにやくざ渡世から道を見つけて生き延びている、、、

神龍寺一家も代貸の大熊大二郎が二代目さゆりが戻るまでと、、、看板を変えて守り続けてきたのであった、、、やっと、二代目さゆりもどり、、その喜び、嬉しさは、、言葉では言えなかった。

「さゆり宿」の入り口に、、、二代目さゆりを迎えた時の気持ちは、、、心からの涙が飛び散った。

「お帰りなさい、、、二代目、、よくぞ、ご無事で、、、もう、、、あれから15年が経ちました、、

待っていました、、、」と代貸大熊大二郎はひざまついて出迎えた。。

「熊さん、、本当にご苦労様でした、、、長い間、留守してごめんなさい、、」

二代目さゆりは代貸大熊大二郎に甘えを、無理を詫びた。



15)甲州大月村で、、神龍寺一家二代目さゆりは旅籠のおかみに、、、を


15年間に渡る兇状旅を終えて、、、甲州大月村に戻った神龍寺二代目さゆりは、代貸大熊大二郎の後を引き継ぎ、、、旅館業に励んだ、、、関東津五郎も新政府軍の取り締まりが厳しく動けず、、、旅館業を手伝ったていた。。。

時代は変わり、、明治となり国の政策もかわり、、、人々の生活も変わっていった。

二代目さゆりは、神龍寺一家の構えが街道筋にあり、、、旅館として繁盛していった。

親の仇を追って、甲州を出てから15年、、、二代目さゆりはやくざ世界を旅して、、、そして、、、

時代の流れを旅して、、、歴史上の人々と歴史を旅して、、、命を懸けた人世旅を無事、、乗り越えてきた。、、、

二代目さゆりの経営する旅館業はその後も繁盛していった。

その傍らで、、、「小太刀の町道場」開き、、、青少年の精神育成をしていった、、、、

そして、82歳で天寿を迎えるまで、小太刀を振っていた。



〇「女無宿人さゆり、、番外編


女無宿人さゆりは勤王佐幕の渦巻く京都にたどり着いて、、、京都博徒の「会津の小鉄」一家に草鞋を脱いで、、京都見物をしてから甲州へ帰ろうと想った居たのである。

一緒の清水一家の小政も関東綱五郎もそのつもりで付き合っての京見物であった。

伏見稲荷から、清水寺をお参りして、、、2,3日の京都見物をしていくつもり」が、、、京都の夜に新選組の「寺田屋襲撃事件」を目の前で見てしまい、、、幕末の動乱の凄さに驚き、、、さゆりは心を何故か引き寄せられたのである。。

サムライが命を掛けて、、、時代の中で、、思想というか信念を持ち、、戦う姿にさゆりは心が躍った。

新選組の集団で治安を守ろうとする意気込みが美しく見えたのだった。

そして、、、しばらく「新選組」を見ていきたいと思ったのである。

それがなぜなのか分からなかったけれど、、血を吐きながら戦う「沖田総志」にみたのであった。

あの時、、沖田総志が倒れ掛かって来たので、、、女無宿人さゆりは咄嗟に刀を抜いて、、沖田総志に降りかかったやいばを払っていたのであった。

女無宿人さゆりの「居合い技で」その刃を払っていなければ、、もしかしたら「沖田総志」は斬られていたかも知れなかったのである。。。

後日、其のお礼もあって「無宿人さゆり」は会津の小鉄を介して、食事に招かれた。

人の縁とは不思議なものであり、、、たまたま、「会津の小鉄」が新選組の支配藩である会津藩の中元頭をしていたこともあっての付き合いとなったのである。


新選組も京都所司代会津藩の預かりとなり、、新選組隊員にも手当てが出るようになって、京都市中の治安取り締まりがよくなったのである、、、当初は「芹沢鴨」が局長をしていた頃には、町中商人から天誅と称して「金を巻き上げて」いた、、、それを「近藤勇、土方歳三、沖田総志、山南啓介」たちが芹沢鴨たち一派を粛正して、、、清川八郎が設立した「浪士隊」を「新選組」に立て直し、、会津中将会津藩の支配下に置いたのである。

新しい「新選組」は「近藤勇」を局長として、、、「土方歳三」が副長を務めて、、、特に土方歳三副長が「新選組の鉄の掟」を作り上げて,規律正しい武士団になったのである。

日本で一番古い「機動隊組織」であった。

「新選組」が毎日、市中見回りをして、、、不逞な浪士たちを取り締まり、京都の治安を守る様になってから新選組の評判も良くなっていったのである。

新選組は隊士を一番たちから7番隊まで分けて、市中巡回をしていた。

そして、、、土方副長が力を入れていたのが「情報収集」である、、、その担当責任者が「山崎勉」であった、、、彼は商家の出身であるが「探索」にむいていたようだ。

「池田屋事件」の情報も彼が集め、、勤王方の商人を責めて、、場所を聞き出したのである。

京都市中警護には会津藩京都所司代管轄の「京都見回り組」があった。この組織も情報を集めるのが得意だったのである。。。

従って、新選組と京都見回り組は情報交換をしていたようだった。

こののちに「坂本龍馬暗殺事件」がおきたのである、、、其の暗殺集団は「京都見回り組」と言われている。。。。


2)新選組分裂か。。。


鉄の剣客集団新選組にも分裂の危機があった。新選組を当初から作った「伊東甲子太郎(茨城県常陸の国出身)」が

孝明天皇山御陵衛士と称する別組織をつくったのである。思想面での食い違いが生じた。

伊東甲子太郎は北辰一刀流の免許皆伝に腕前で、学問にも秀でたものがあったのである。

しかし、新選組という組織を運営するためには、考え方、行動が一本化していないと、行動が一つの命令の元には動かないことを知ったいた「副長土方歳三」」は鬼の心を持って、「鉄の掟」を作り上げたのである。

その中で初めから、いったん新選組に入ったものは「局を脱することを許さず」という厳しい「「掟」を課していたのであった。

そんな組織の中で別組織を作った「伊東甲子太郎」を、副長土方歳三は許すことができなかったのである。

そして、近藤勇と計って、伊藤甲子太郎を自分の京都の妾宅に、呼んで酒を飲ませて、、暗殺したのであった。

1869年(慶応3年11月18日)に油小路の本光寺門前で、大石鍬次郎たちに待ち伏せをさせて、伊藤甲子太郎に同調した

「試衛館」時代からの付き合いの藤堂平助(北辰一刀流の免許皆伝)や服部武雄、毛内有之助らを暗殺したのである。。。こうして分裂したかになった時に、「土方歳三」の才覚で未然に防ぐことn

新選組の組織はに一番隊組長に、試衛館時代の沖田総司、二番隊組長を長倉新八、三番隊組長を斎藤一,四番隊組長に松原忠司、五番隊組長を武田勘柳斎、六番隊組長に井上源三郎、七番隊組長に谷三十朗、八番隊組長に藤堂平助、九番隊組長に鈴木三喜三郎、十番組長に原田左之助を決めて京都市中見回りをしたのであった。「寺田屋

更に土方歳三は情報を集めるために「諸士取締役兼監察方浪士調役の仕事」を決めて力を入れた、そのために山崎丞を中心に20名の隊士を割り当てて、監察をしたおかげで「寺田屋事件」を知って襲撃ができたのである。。

新選組が名をあげた事件であった。

このう戦いで沖田総司はすでに血を吐いたのである、、、沖田総司が新選組で動けて、不逞浪士から恐れられていたのは、京都見回りまでであったのである。。。

戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いからは結核で臥せっていた。そして、、新選組が土方歳三が戊辰戦争で戦っていた間は「江戸の植木屋」で病に倒れていて、、、近藤勇が板橋で処刑されてから2か月後に亡くなったのである。。

華やかな京都時代の新選組一番隊組長沖田総司は京都で活躍した5年間だった。

更に新選組参謀であった「山南啓介」は勤王の思想もあって、新選組の土方歳三の市中治安のやり方の不満を持ち始めていたのである。

何か勤王の志士たちを追いかけ「斬りまくっている、、、人斬り集団」におもえたのである。

それで新選組を抜け出したが追いかけたきた沖田総司につかまり、新選組屯所で「局を脱することを許さず」の掟に従い、切腹をさせせられた。

寺田屋事件の後に、「女無宿人さゆり」が新選組に招かれ、食事をご馳走になって、沖田総司と剣客として試合をしたのは、新選組全盛になる少し前だった

  

3)二つの「寺田屋事件」。。。。


幕末に起きた京都伏見の「寺田屋事件」は正確に言うと、、「寺田屋事件」と「寺田屋騒動」とがある、、、

1862年に起きた「寺田屋騒動」は薩摩藩の内紛による騒動で、、藩士同士が「勤王攘夷派」と「佐幕派」の別れて、思想上の意見の食い違いで斬り合いの争いになった。上意討ちなどで処罰をされて、9名の藩士が死亡したのである、、、この時、藩主島津久光の命を受けて動いたのが「大久保一蔵」たちであり、罰せられたのが「西郷隆盛。村田新八」らであつた。

1866年の「寺田屋事件」は坂本龍馬が暗殺目的で、京都奉行所の幕府役人30人に取り囲まれたが、坂本龍馬の妻「楢崎龍」の機転で逃げることが出来た。

坂本龍馬は高杉晋作からもらった「拳銃」で防戦して、辛うじて逃げ延びたのである。

この事件が二つ目の「寺田屋事件」であった。


1864年が長州藩の尊王攘夷派の浪士が新選組に襲撃された事件が「池田屋事件」である、、、この襲撃では多数の尊王攘夷派の浪士たちが多数ころされた。負傷者もでたのである。

襲襲撃事件で新選組は名を轟かせ、勤王志士の浪士隊を震え上がらせた。

この事件は「池田屋事件」であった。


そして、坂本龍馬が暗殺されたのは「近江屋事件」であった、、、この時に陸援隊の中岡慎太郎も殺されたのである、、、



4)明治維新前の幕末は暗殺もあり、、激動の時代だった。


幕末はめまぐるしかった、、、今日は勤王、明日は倒幕と、、

人の心は変わっていったのである。。

覇権も「長州」かと思えば「薩摩」だったり、、時には「会津」だったりしていた。

京都市中の見回りも新選組が行っていたが、、、それが無いころには、勤王の志士が、不逞浪士たちが闊歩していた時もあったのである。

京都市中の不安定な時には会津藩の中元頭の「会津の小鉄」のような博徒が治安をはのかっていたこともあった、、、

そんなおりに「女甲州人無宿さゆり」が会津の小鉄一家に草鞋を脱いだのである。rい

そこで、会津の小鉄の紹介で「新選組」と出会い、、、土方歳三を知って、

武士の生き様をみたのであった。

無宿人さゆりが感心したのは、、興味を持ったのは、、、武士でもない土方歳三が、どうしてそこまで「武士道」に染まったかということであり、、何故、滅びゆく徳川幕府に殉じたのかであった。

多摩の田舎の薬売りが、、、離れていく徳川幕府の為に、、、

どんな武士よりも「侍」であったかが知りたかったのである。

そして最後は、潔く、、、さくらが散る様に散っていったのか、、、

どうしてできたのかが、、、本当を「真実」を、、、なぜに「誠」の旗印のもとに、「鉄の掟」を作ってまでして、、、

「武士道」を貫け通したのかを知りたかったのである。




5)新選組一番隊組長の誕生。。


新選組が京都で活躍したのは1865年から1868年のわずか「4年間」であった。

そして、新選組一番隊組長助勤の「沖田総司」が強く元気だったのも、この4年間だったのである。。

剣士としても、斎藤一,永倉新八と並び称されたこともあった、、、

京都見回りでも一番強かったのが「一番隊」である。

そんな沖田総司も鳥羽伏見の戦いには参加できず、、、江戸へ引き上げる「徳川慶喜」と一緒に大阪から船で戻り、、、結核で療養することになった、、、近藤勇も伊藤甲子太郎の残党に銃で撃たれて負傷したので江戸へ帰ることになったのである。

京都に残った土方歳三副長は新選組の立て直しをはかった、、、

その時に甲州人無宿人さゆりから申し出があったのである。

土方歳三副長はびっくりしたのであった、、、男装をした美男剣士が座ったいたので、、、

甲州人無宿さゆりが、、、「私が沖田さんの代わりをしますから、、新選組に置いてください」と、、、なんと、やる気で、「覚悟はあるので、、やらせてください、、、」

その覚悟の姿勢を見たら、土方副長は断れなくなったのである。

神龍寺一家二代目の話を聞いたら、、、その覚悟を聴いたので認めたのであった。

「わかりました、、、途中でぬけられませんからね、、、沖田の代行と言えども、今日から

新選組の掟は守ってもらいますから、、、いいですか」

ということで新選組一番隊組長代行神龍仁(無宿人さゆり)としますから、よろしくお願いします。。」

と、、なったのである。。

剣を取らせれば新選組一番だと思うのだった。



6)戊辰戦争での局地戦争では全戦全勝の土方歳三。。。


新選組は京都市中の見回り警護をしていたが、勤王の志士地とを、特に池田屋襲撃事件の時には多数斬りころしていた。そして、「殺人集団」とか「剣客集団」と言われ、恐れられていたのである。。。特に新選組一番隊沖田総司組長は、、強く、取り締まった浪士たちをにがさなかった。。その二代目代行の「神龍仁」も強かったのである。

鳥羽伏見の戦いでも土方副長率いる新選組の中でも一番隊組長代行の神龍仁は引き下がるとなかく、、敵陣を突破して、明治政府軍を恐れさせていた。

しかし、「錦の御旗」を押し立てた明治政府軍は「官軍」となり、、、旧幕府軍は「賊軍」となり、、敗退したのである。

新選組も幕府軍と大阪まで退いた、、、また、近藤勇は伊藤甲子太郎の残党に銃で撃たれて重傷したのである。。

そして、大阪から江戸へ引き上げる「徳川慶喜」と一緒に。。。

また、結核で病んだいた、沖田総司も近藤勇とともに江戸に帰り、親戚筋の植木屋に隠れ済んだが、病で亡くなった。

江戸に戻った新選組は江戸幕府からは厄介者になったのである、、京都であまりにも勤王の志士を斬りすぎたので、当時は明治新政府の西郷隆盛らとの「江戸城無血開城」の交渉をしていた勝海舟にしてみれば、、新選組は邪魔になったのである。

いつの時代にも役人とは都合よく出来ているのだ、、、西郷隆盛らとの交渉には「新選組」はいらないのだ、、、いることがめざわりであり、、交渉の妨げになったのであった。

そこで、、、江戸から離れた甲府に追い払う作戦を立てたのである、、

勝海舟は、、、近藤勇と土方歳三に伝えてのであった。

「甲陽鎮撫隊」の任をを与えたのである、近藤勇を隊長に、土方歳三を副隊長に任じ、、、近藤勇を大名格で10万石、土方歳三を若年寄格で5万石、助勤たちまで3万石として、、会津藩から「1200両」江戸幕府から<3000両」を持たせて、甲府へ追いやった。

近藤勇側に珍事が起きたのであった。。。甲陽鎮撫隊の方が甲府城までは江戸から近かったのであるが、、途中道中で道草をしてしまい、、「明治新政府軍の板垣退助東道会総督」より、入城が遅れたのであった。

そのための敗因でもある、、、遅れた理由は近藤たちの故郷、日野などで歓迎をうけたり、、途中で豪遊したためでもあった。。。。

そのために「甲州勝沼の戦い」では布陣が遅れたり、、幕軍が少なかったために、土方歳三が援軍を求めて江戸に戻って、

為にたった2時間で敗北したのであった。

斎藤一と一番隊組長代行の神龍仁は奮戦していたが、、、隊長の近藤勇が新式銃などの戦に慣れていなかったので、局地戦には勝っていたが、、幕軍130人に対して、官軍1200人では太刀打ちできなかったのである。

そして、戦上手な土方が抜けていたことが大きな敗因であった。

土方は少人数でも「喧嘩戦」が得意だったのである。

また、明治新政府軍の総督が「板垣退助:であり、、甲州の地元農民などが官軍に好意的であり、味方をしていた。

板垣退助は武田方の武将「板垣信方」の子孫ということを宣伝していたのである。



7)新選組は「甲陽鎮撫隊」となって敗走、、、


近藤たちは立て直しを計って、、、下総の流山に陣をしいた。

そして、新選組隊士も新たに集めたが、、、京都時代のような剣客は少なく、「鉄の掟」に従ずるような隊士は集まらなくなったのである。

そして、、明治新政府軍に取り囲まれてしまい、、、近藤勇は新選組隊士たちを救おうと降伏したのであった。

「大久保大和」で降伏したのであるが、、、官軍側に近藤勇を知っているものが居たために「新選組局長近藤勇」と分かってしまい、、、処刑されたのである。

「武士よりも武士らしくあれ」と生きてきた近藤勇は「武士」として扱われずに、、

「斬首」の刑になった。

土方歳三は近藤を止めたのであったが、、、明治新政府軍に降伏してしまったんである。。。土方は後々まで「後悔」した。

「なぜ。近藤を止めなかったのかと。。。」

そのことがあって、、、最後まで官軍と闘い続けたのであった、、

そして、、一番隊組長代行になった「神龍仁」(無宿人さゆり)も土方につきあったのである。

そして、甲州勝沼の戦いのあと、、江戸に帰った永倉新八、原田左之助は靖兵隊を結成して新政府軍と戦った。

土方歳三たちは幕府軍の「大鳥啓介」と合流して宇都宮城を目指した。

宇都宮城は地元の農民集団「3万人」が「ええじゃないか」の「世直し」で動き、襲撃をされていたのである、、、その鎮圧のために明治新政府軍がある。。出動していた。。。

また、旧幕府軍も宇都宮城へ向かい、、、戦いがおきたのである。。

旧幕軍は、桑名藩200人、新選組30人、その他幕軍関係が860人に対して明治新政府軍が600人であったが新政府軍は増員された。

土方歳三は銃撃戦で足を撃たれたのである。

明治新政府軍の総督は「板垣退助」であった。



8)宇都宮の戦いで土方歳三、負傷する、、、会津若松へ向かう


宇都宮の戦いでも新選組は総勢30人足らずであったので、土方歳三を斬りこみ隊長にして新政府軍に突入していった、、、一番隊組長代行の神龍仁さゆりも先頭斬っていった。

新政府軍の軍隊は神龍組長代行の新選組の旗印を見ただけで逃げた。。。神龍組長代行は斬りまくた、、、そんな中で土方副長は足を銃で撃たれたのである、、。それを見た神龍組長代行はいつも自分の傍にいる「綱五郎」に、、、副長を担いで下がる様に指示をした。

清水一家の小政に言われている「関東綱五郎」は死んでも神龍寺二代目に付いていくと決めて離れなかったのでる。。。綱五郎は土方副長を担いで後ろへさがった、、、

新政府軍と一人奮戦しているところへ「斎藤一」が助太刀に駆け寄ってきたので、、、一番隊組長代行神龍仁は斬りぬけたのであった。

味方の陣に戻った土方副長は、一番隊組長代行神龍仁さゆりに礼を述べて、、、後方へ下がったのである。

土方歳三は斎藤一たちを先に先行して、「会津へ」行かせた。

そして、一番隊組長代行の神龍仁は負傷した土方と、綱五郎を連れて会津へむかったのである、、、

徳川幕府に従う会津藩へ向かう途中で「二本松城」がある、、、

東北は「奥羽越列藩同盟」を作って明治新政府に立ち向かうはずであったが、、同盟を離脱する藩が続出した。。会津藩と同じように最後まで戦った一つに「二本松藩」があった。

二本松藩は落城するまで、戦い続けたのである。

いつの時代にも悲劇はあるものだ、、、「二本松少年隊」があった、、、隊長木村銃太郎、副隊長二階堂衛守の他は12歳から17歳の25人の少年隊で、8名が戦死したのでる。。

これは会津若松の「白虎隊」のであった。

戊辰戦争による「二本松の戦い」での戦死者は337人であった。


「一藩こぞって身命を投げ打ち、倒れてのち己むまで戦い抜き、武士道の精髄を尽くしたのは


 二本松をもって最上とする」


これは板垣退助のことばである。


1868年7月29日に炎上して落城をする。

〇1615年(慶長20年)に大阪城の夏の陣以降、城を枕にして討ち死にした藩は


 日本64余州300余藩の中で二本松藩だけである。



9)会津若松の戦い、、、


宇都宮の戦いで負傷して土方歳三新選組副長に従うものは、新選組一番隊組長代行になった「神龍仁(無宿人さゆり)」と、、、清水一家の小政に厳命されている「関東綱五郎」の二人だけだった、

新選組一番隊組長代行「神龍仁さゆり」はどこまでも土方歳三が生きて、戦っているうちは就いていくと決めていたのである。

会津若松に向かう途中で「二本松城の落城」を目にしたのであった。

土方は二本松の戦いで、、一藩を挙げて、藩士全員が討ち死にしたことを知って、、、

一人涙したのである。

「奥羽越列藩同盟」は当初は6藩が、加盟していたが離脱藩が増えて、、、最終的には二本松藩、会津藩、長岡藩、となったが、、、「二本松藩」は最後まで討ち死にするまで城を枕にたたかったのである。

その様子を見た土方歳三は覚悟を新たに、、、会津藩にむかったのである、、

そして、さきに先発したいた「斎藤一」と合流した。。。

怪我していた土方は会津藩に残る新選組の指揮を「斎藤一」に託して函館へ向かった、、、

この時にも無宿人さゆりと関東綱五郎は土方歳三にしたがったのである。

斎藤一は近藤勇や土方歳三には忠義を通していた、、、明治になっ


ても「藤田五郎」と改名して、明治新政府で警察官をつとめた。





10)戊辰戦争で連戦連勝の負け知らずの幕府軍「庄内藩」


新選組の土方歳三も京都市中見回り取り締まりから函館戦争まで負け知らずの男でであった。

そんな土方歳三を見込んで、榎本武揚たちは彼を幕軍参謀提督に任命したのであった。

そして、その傍らにはいつも京都からの新選組一番隊組長の神龍仁組長(無宿人さゆり)がいたのである。

彼らが会津から函館戦争に向かう船の途中で噂を聞いていた。

荘内藩の東北各地での戊辰戦争の戦いぶりである。

戊辰戦争のきっかけは庄内藩が作ったようなものだった。江戸で薩摩藩の焼き討ち事件が起きた時に取り締まりに当たっていたのが庄内藩であった。

庄内藩は徳川幕府藩祖の家康の時に、徳川四天王ひとりだった、酒井忠次の子孫であり、、生粋の佐幕派であり、、明治新政府から「賊」「朝敵」とやばれていたのであった。

そんな庄内藩は薩摩藩が江戸で焼き討ち事件を起こしていた頃には「江戸市中取り締り役(現在の警察)」をしていたのである。

そして、薩摩藩の後ろ盾で焼き討ちや強盗をしていた浪士たちを取り締まり、、幕府軍(庄内藩、松山藩)それに新微組(幕府からの預かり組160名)の1000人が薩摩藩邸を取り囲み追い払ったのである。。

この薩摩藩の暴挙を怒った会津藩、桑名藩が一気に討伐に向かったのである。。

これが「戊辰戦争」の始まるきっかけとなったのだった。

このきっかけにより倒幕が薩長連合により武力討伐にむかわせたのである、、これは西郷隆盛たちの初めからの計画であり、、見事に幕府軍が計略にはまつたのあった。


そして、新明治政府軍の東北進行がはじまったのである。

庄内藩も最初から新明治政府軍とは戦う意思はなかったが、、藩民や藩士たちを守るために防備をしたのであったが、、、新明治政府軍は当初から庄内藩を「朝敵」と見なして攻め入ったのであった。

しかし、庄内藩は強かったのである。藩兵を一番大隊「松平甚三郎隊長」から四番大隊「松平新十郎隊長」が新明治政府軍に就いた「秋田藩」を追い詰めて、すべての戦いで連戦連勝だったのである。庄内藩は町民兵(310名)農民兵(約450名)での藩を挙げての戦いであった。

秋田責めでの最後の戦い「椿台の戦い」に、、九州からの薩摩藩の援軍が加わって、庄内藩は負け戦になり、、最終的には米沢藩の薦めで「降伏」をしたのであった。

「奥羽越列藩同盟」(24藩)途中で離藩した藩は(7藩)は、、会津藩と庄内藩の救済を目的で作られたが最終的にはバラバラになってしまった。

そんな「奥羽越列藩同盟」の中に会って「会津藩」「二本松藩」「仙台藩」「庄内藩」は新明治政府軍は奮戦をしたのであった。


そんな話を函館五稜郭で聞いた、土方歳三たちは嬉しかった。徳川の為に武士道をつら抜いた集団がいたことを、、、命がけで戦った男たちがいた。




11)北越戦争の長岡藩の河合継之助の手腕


幕末の最後のサムライと言われる長岡藩の河合継之助の采配で明治新政府軍は戊辰戦争での戦いで苦戦にしたのであった。

長岡藩は奥羽越列同盟には初めは参加していなかった。んがおか

北越戦争の途中から加わったのである。

長岡藩は7万5千石の小藩であったが、北越戦争では新政府軍2万の軍勢に対して、長岡藩を中心に奥羽越列同盟の5千人の軍勢で戦ったのである。

1868年5月10日の榎峠の戦いでは陣を張っていたが占領された。

そして、会津藩領や越後加茂へ脱出したのであるが、、、同年6月2日に長岡藩の山本帯刀たちが榎峠の陣地に攻め入り、

7月24日に河合継之助の本隊「700人」を引き連れて、占領された長岡城を奪還したのである。

しかし、7月29日に河合継之助が敵の銃弾を受けて負傷したので長岡藩の士気が下がり、敗走して会津へひきさがった。

1868年5月2日の「小千谷会議」で土佐藩の岩村精一郎と長岡藩の河合継之助は和議を進めていたが不調におわった。

土佐藩の岩村精一郎に断られたのである。

長岡藩の河合継之助に言ったのであった。

「俺の首(河合継之助)と3万両とを岩村に差し出せば戦わずに済むかも知れない」と、、言ってきたのである。

「ふざけるな、、、」となり、北越戦争は始まった。

河合継之助は「官は国の本,史は民の雇い」と言われように武士は民の為に働くという思想を持っていたのであった。

そして,義や正義といった「義」を貫く武士であったのである、

負傷した河合継之助は会津へ担架に乗って引き上げる途中で破傷風で亡くなった、、、43歳であった。

「八十里 腰抜け武士の超える峠」と言って、覚悟しての死であったのである。

明治新政府軍は東征軍と言って、東海道、東山道、北陸道に分かれて進軍した。。指揮官は「山縣有朋」「黒田清隆」であった。

河合継之助はこれからは「商人」の時代だと言っていた、、、その教えを継いだ「外山侑造」は明治になってから、、、

「アサヒビール」「阪神電鉄」の創始者となる。

 

1868年土方歳三は「陸軍奉行並」の要職について、榎本武揚らと函館で明治新政府軍と戦っていた、、、河合継之助らと同じ時期に奮戦していたのである。

新選組一番隊組長神龍仁(無宿人さゆり)も土方とともに負け知らずの戦いをしていたのであった。新選組の鬼の副長も最後の武士らしく〈義〉を貫いての戦いに挑んでいたのである。



12)戊辰戦争最後の激戦地「函館戦争」



幕末から明治にかけて、旧幕府軍と明治新政府軍との間に戊辰戦争が起きた。

戊辰戦争が起きたきっかけには「大政奉還」そして、1868年1月3日に薩摩藩の大久保利通、西郷隆盛と公家の岩倉具視らによるクーデーターの「王政復古」の大号令が、、更に、1868年1月いかつかのの庄内藩による「薩摩藩邸の焼き討ち事件」が起きた。

この薩摩藩邸の焼き討ち事件は西郷隆盛たちの陰謀であったが庄内藩や会津藩、桑名藩が薩摩藩討伐に乗り出したのである。

これらの原因が発端で「戊辰戦争」の一つである「鳥羽伏見の戦い」が始まった。

「戊辰戦争」で大きな出来事は「鳥羽伏見の戦い」「江戸城無血開城」「東北戦争」「会津戦争」「函館戦争」である

幕府の海軍副総裁の「榎本武揚」は勝海舟らが江戸無血開城をしたために旧幕臣んが職を失った。

その救済目的で蝦夷地に新しい政府を作ろうとして、、品川に停泊して幕軍の軍艦「開陽」4隻、「咸臨丸」4隻を強奪して、幕軍2000余名を乗せて仙台をめざしたにである。

途中でいくつかの港に立ち寄りながら最終目的の函館にむかった。仙台で新選組の「鬼の副長」と言われた土方歳三たちを乗せて、、函館の地に降り立ったのである。土方歳三の傍らには新選組一番隊組長の神龍仁がいた、、、神龍仁(二代目神龍寺さゆり」を死んでも守る様に、清水一家の小政に言われた関東綱五郎も必死についていたのである。


函館戦争は榎本武揚総裁、松平太郎副総裁、土方歳三総督、大鳥啓介参謀のもとに7か月間の戦いに耐えたのである。

戊辰戦争は「約2年間」」であるから、、、函館戦争は激戦地であった。

旧幕臣は陸上でも海鮮でも奮戦したのであるが、、、

函館戦争の幾つかの戦いは「松前の戦い」「木古内の戦い」「矢木来の戦い」「二股口の戦い」「函館総攻撃の戦い」「函館湾の戦い」

「四稜郭の戦い」と、連戦して勝った戦もあつた。

土方歳三総督が指揮した「二股口の戦い」は連戦連勝であったが、、、幕軍の助けに向かう途中で待ち伏せに会い、、五稜郭へ引き上げたの出る。激戦の中での斬り込み隊で、抜刀して戦闘で獅子奮迅の戦いをいていたのは新選組一番隊の神龍仁隊長であった。

いつも土方歳三がいっていた、、、「仁には戦の閻魔がついているようだな、、、」と、、驚いていたのである。


土方歳三は不思議がっていた、、、世の移り変わりとはいっても、、新選組は天皇を守るための警察のようなまおのであった。

然し、佐幕派だ、、討幕派だとかになって、、、いつの間にか「錦の御旗」に刃向かう「賊軍」な成ってしまっていた。

しかし、戊辰戦争では約2年間、徳川幕府に「武士道」をつらぬたのである。

新選組の「鬼の副長」と言われた土方歳三は函館戦争、最後の激戦地に向かい、馬上で銃で撃たれて戦死をしたのであった。

土方歳三は「一本木関門」の陣で,一番隊組長の神龍仁(神龍寺さゆり)に最後の言葉を託した二である。

「神龍寺二代目さゆり貸元、、今日まで本当にありがとう、、、この辺が別れ時かも知れない、、、それで、あなたに頼みがある、、、俺の辞世の句と愛刀である「和泉守兼定」をとどけて欲しい、、、日野の実家に。。。そして、仲間の思いがしみ込んでいる「誠の旗」を、、あなたにしか頼めない頼みだ。」と。。。

さゆりは土方歳三の頼みをしっかり引き受けた。

本当は告げたかった、、、さゆりは心の内を、、、秘めた女ごころを。。。。

土方歳三はさゆりに深々と頭を下げた。

そして、、何があっても生き延びてくれ、、と。

「綱五郎、、二代目を頼んだぞ、、、何があっても関東へ連れ帰ってくれ、、、いいな、、、男の約束だぞ。。。それから、会津へ寄って斎藤一と合流してくれ、、、連絡はしてあるので、、関東への帰り道を案内してくれるから、、、あいつは頼り成る」

そして、、、」翌朝、土方歳三は馬上の人となって敵陣に向かって進んだのである。

辞世の句を二代目さゆりに託して。。。

「たとひ身はえぞの島根に朽ちるとも、たましいは東の君やまもらえむ」と、、、

蝦夷の地、「一本木関門」に消えていった。



2)第二話「森の石松」


1)森の石松、、、大酒のみで喧嘩、、女に惚れっぽい。。


三州半原村(遠州森町村)出身と言われている。

石松は孤児で、侠客の森の五郎に育てられ、、、侠客同士の喧嘩で上州で人を斬り、清水次郎長に」かくまわれ、その子分になった。

1800年7月18日に清水次郎長の子分として幕末に活躍した侠客。

その上州にいたころに博打場で知り合った、意気のいい女、、、女渡世人「華さくら」だった。

女渡世人「華さくら」は中国生まれの、日本」人にはいない背の高いいい女だった、、、そんないい女に出会った森の石松は博打の打ち方も気持ちよく,掛けていたし、勝ちっぷりも負けぷりも、胸がスカッとするようないい女なのだ。

もともと、女には惚れっぽい石松なので、、、女渡世人「華さくら」には上せてしまった。

華さくらが「半」とかければ「半」と、、、「丁」とかければ、、その通りに、、

まったくでれでれに。鼻の下を伸ばしているのだった。

結果的には「華さくら」が勝負に勝ったから、石松も勝てたようなものだった。

博打を上がってから、、、石松は、、

「さくらねえさん、、、いっぱい、ご馳走させてくれないかな、、、あんたのお陰で勝てたのでよ、、、ありがとうさんだよ」

と言って、、博打場の近くの縄のれんに誘った。

上州大前田村の冬の空風は体にや、、、けに冷えた。

誘われた、女渡世人「華さくら」も肌身に応える寒さで、一杯飲んだ。

「さくらねんさん、、、強いね、、、恐れ入ったよ、、、ああ、、遅れたけど、おれっちは森の石松っていう、、、風来坊さ、、、一本獨古の無宿者だ。。。

宜しくな、、、」

酒を飲みながら横にらみされた、、、石松はぞくっとした、、、

まるっきり、、、森の石松は惚れたようだ。

「私は無宿人「華さくら」だ、、、宜しくな」

流暢な日本語で返ってきた。

その華さくらは言った、、、「私は中国人です、、、よかったら、宜しく」と、、、、

なんとなかく、石松とさくらは気が合って酒を飲んだ。。。

旅の空の無宿人同士だ、、、明日の行く先のあてのない二人だったが、、上州の夜空はきれいだった。


2)森の石松「無宿人で侠客といわれる男」を斬る


上州大前田一家の賭場で、、女渡世人華さくらと一緒に博打を打っていた、、、石松は博打でのいざこざから、、、

無宿人権蔵を斬ってしまった、、、大前田一家Toulの賭場での喧嘩なので、大前田一家が始末をつけてくれた。

誰が見ても聞いても、、無宿人権蔵が悪く、、、その時に「壺」を振っていた、女渡世人華さくらに文句をつけたので、たまらい、、、同じ博打場にいた、森の石松が、、、

「この野郎、、、表へ出ろ」とばかりに、、lてい

森の石松はケチをつけた「無宿人権蔵」を引っ張り出していた。

そして、誰の止める暇もなく、斬りあいが始まった。

喧嘩をしたら、森の石松は半端でなく、めちゃくちゃ強い。。。あっという間に無宿人権蔵を斬ってしまった。

後は大前田一家の賭場なので、、、

「石松さん、、、この場はひいてください」と言われて石松は引き下がった。清水

この賭場に偶然来ていた、、旅途中の「清水次郎長」が、、、

「役不足ではございますが、、、清水港の次郎長と申します、、、よかったら、この喧嘩を預からしていただけますか」と申し入れて、、、博打場の大前田一家の貸元に承諾を貰った。

「いいでしょう、、、清水の貸元に預けましょう」ということで、、落着したのだった。

森の石松は清水次郎長と一緒に清水港へ向かった。

そして、女渡世人華さくらもついていった。



3)森の石松、清水次郎長の子分になる

上州のちょうは喧嘩で、後始末をしてくれた清水次郎長に借りが出来た森の石松は、清水港までついてきたのだった。

喧嘩の元になった、女渡世人「華さくら」も一緒についてきた。

清水一家に着いた、、、森の石松は、、、

「清水の貸元、、、この度はありがとうございます、、、なんとお礼を言えばいいのか、、、」

と、、困っている石松に次郎長は言った。

「お前さん、、、行くところのない旅がらすだろう、、、俺んちに草鞋を脱いで、、、考えればいい、、」

と、、、謎を掛けてきた。。。

喧嘩は強いが、、、少々、頭が悪い石松は考えた。

石松は、、、「あっーはん、、、謎を掛けてきたな、、、」

「俺んちに子分になれとか花どうしようかな、、安売りはできねぞーー」

と、、、考えた。

石松は考えた振りをして、表へ出た、、、

「少し、外の風に吹かれてきますわ、清水港の海風を嗅ぎながら。。。」

と、言ってから女渡世人華さくらの宿泊している旅籠へ出かけていった。

そして、石松は女渡世人華さくらに相談したのだった。

清水次郎長の子分になるか、、、ならないかと、、、

女渡世人華さくらは、、、

「馬鹿だねー、、、あんたは人を見る目がないようだ、、、次郎長さんなら、、、いい親分だよ、、、」

と、、言ってくれた。



4)森の石松、「いい子分で売り込む」


森の石松が女渡世人華さくらのところから戻った。

「清水の貸元、、、俺な、、、あんたの子分になってやるわ」

この会話を聞いていた、大政と小政と桶屋のお仁吉が、、、、

「あの野郎、、、いい気になって、、、子分になってやるわだって、、、ふざけやがって。。。」

そしたら、、、大政が「親分、なんていうかな、、、ちょっと気になるな」

といった、、、小政も「そうだ、、、そうだよ、、、聞こうじゃないか、、、面白や」

などと、、ふすま越しに話していた。

清水次郎長は答えた、、、

「石松、、、おめえっちみたいな半端野郎は、、、、、、俺の子分が丁度いいんだよ、、、」と、

笑いとばした。

「石松、、、俺も半端者だ、、、だから、お前と俺は、親分子分で釣り合いが垂れるんだよ」

と、言われてみればな、それもそうだと納得した。、

森の石松も、、、理屈はどうでも、、いいや、、、えーい、、めんどうくさいや、、、、

兎に角、あんたの子分な成るわ、、、盃出してや、、」

ということで子分になった。

襖の陰の三人が顔を出した、、、、、、

「へえー、、、今度子分になった石松か、、、俺たちより後から子分に成ったから、弟分だな。。」

「おい。。。石松宜しくな、、、」

「俺が大政、、、俺が小政だ」

そして「俺が桶屋のお仁吉だ」と、、、、

清水一家はまだまだ、子分が少なかった。

三人の紹介があったら。。。「槍を持っら大政で、一番の兄貴分っだった」

「居合斬りの小政、、、山椒小粒はピリッと辛い」

「鬼より怖い桶屋のお仁吉だ」と、、、喧嘩の時には棺桶を担いでいくという覚悟での殴り込み。

そんな威勢のいい、仲間が出来た。

石松は「喧嘩は誰にも負けないぜ、、、ドスを持てば怖いものなしだよ、、、」

そこへ、女渡世人華さくらが入ってきて、、、

「大酒のみの、お人好し、、しかし、馬鹿は死んでも治らないほど、、、女に惚れっぽい喧嘩好きな男だよ、、」

と、、付け足した。



5)武井のども安「武井安五郎との因縁、、、清水次郎長」


武井安五郎は甲州一円から駿河に掛けての大親分であり、。その子分数も3000人をくだらなかった。子分のなかには弟分で「黒駒の勝蔵」がいた、、、武井安五郎の死後は、その縄針を継承している。また、武井安五郎と清水次郎長は富士川の水運利権でぶつかり、抗争を切り返している、、安五郎の死後も黒駒の勝蔵とぶつかっている。

「武井のども安、鬼より怖い.どどっとどもれば人を斬る」と、、、

「甲州は御坂のふもと、、右に大菩薩、左に登って一里二里、、、」と言われた武井安五郎であった。言葉にどもりがある、、、「武井のども安」とも言われている。

生まれは甲斐の国東八代群武井村で、、生家は名主の家柄であった。

その後、武井村で博徒一家阿賀を構えたが、、、津向文吉と抗争を繰りかえして、、捕縛になった。

そして、流刑になり、伊豆新島に流された

黒船来航のどさくさに紛れて,仲間7人で島抜けをする、、、、

その後、故郷に帰り博打として復帰するが、関東取り締まり出役や石和代官所に追われ捕縛される。そして、牢内で病死している、、、52歳であった。

武井の安五郎の死後は、その縄張りをそっくり、黒駒勝蔵が引き継いでいる、、、

黒駒の勝蔵が納めても、、、富士川の水利権利で清水次郎長と争いが続いていた。

武井の安五郎が甲州一円を縄張りとしていた頃に,、、その縄張りの内の「遠州秋葉の火祭り」が行われ、、、その時に勧進賭場が開かれるのであった。

その勧進賭場に増川仙右衛門の父の仇である、、伊豆の金平の子分である,竹之助、民五郎、力松ら17人に父が切り殺されたのであった、、、そのうちの竹之助、民五郎が武井の安五郎にまぬかれていたである。

そこで計って、、清水次郎長が味方して、、、増川仙右衛門の父の仇を討つことにしたのであった。次郎長の計が旨くいって、仇を討てたのであった。

そのころに、甲州三井,祐天、国分の博徒連合と、、、甲斐駿河の博徒連合の抗争が起きて、、、

甲州の三井卯吉が甲州代官の十手持ちであったため、清水次郎長が捕縛の対象となり、、追われる身となった。

そこで次郎長はお蝶を連れて逃亡の旅に出た、、、付き添うものは「森の石松」ただ一人であった。



6)保下田久六への報復


清水次郎長がお蝶を連れて逃亡の旅に出ていた時に、、、一緒の森の石松が困った。

そんな旅で最初会ったのが、名古屋の勝五郎であった。

以前、旅中で清水港の次郎長一家に世話になったことがあったのである。

勝五郎は「正直は人の宝」とか、、、「人として生まれたからには,恩がある、、義理がある」と常日ごろから言っていた。

旅先で次郎長一家の貸元とお内儀、、、そして、子分の森の石松と出会い、、、知らんふりは出来なかった。今は貧乏していても、何とかしなくては思った。

勝五郎は貧乏長屋に連れて行っても、三度の飯ぐらいは何とかしなくてはと、、、働いた。

しかし、お内儀の具合はよくならなかった、、、

そこで勝五郎は、昔、世話をした「保下田の久六」を訪ねた、、、今は十手持ちとなり、、亀崎代官の舎弟分になり、、子分も300人ほどに増え

そんな保下田の久六は尋ねてきた、、、小川の勝五郎と森の石松に飛んでもない罵声をあびせて返したのである。

昔、散々次郎長親分に世話になっておきながら、、、たとえば、、、次郎長親分のお内儀からも「25両」という金子を出してもらい、助かったことも、、、浅見村長兵衛の賭場で負けが嵩み、、、いっちもはっちもいかなくなった時に、、、その博打場にいた次郎長親分に「300両」を助けてもらい、、その上に「100両」を出してもたった恩義を忘れて、、、

言ったことが凄い、、、

「あの恩義知らずの次郎長なんかにはびた一文だせねえーと」更には「あの兇状持ちが来たら、ふんじばってやるから、、、そういっとけ」ときたから、、、堪らない。

森の石松が頭に血が上り、、、今にも保下田久六に飛びかかろうとしたのであるが、、、

小川の勝五郎が止めた。

今はまずいと、、、次郎長のお内儀が患っている時だから、、、「石松さん、、、辛抱して欲しい

我慢して欲しいと、、」止めたのであった。

森の石松も耐えた、、、

そして、保下田久六の屋敷を出たのである。

「糞野郎、、、今に見ていろよ、、、久六のやつ、、」と半ば、怒鳴りながら、小川の勝五郎と帰り道を歩きながらボヤいていた。

そんな帰り道に「深見村の長兵衛」さんと会ったのだった。。」



7)深見村長兵衛の義理恩義


深見村の長兵衛と出会った小川の勝五郎が清水次郎長のお内儀が病で倒れて、自分のぼろ屋で面倒を見てる話しをすると、、、すぐに長兵衛が籠の手配からして、自分の家に連れていき、、、医者まで読んでくれた。

そのお陰で、次郎長はお蝶の看病が出来たのである。

しかし、長旅がたたり、お蝶の体はまいっていた、、、看病の甲斐もなく、世話になっている深見村長兵衛じっとの家で亡くなった。

一緒に旅してきた森の石松の見えぬ片目の涙が溢れ出たのである、、higataい、小川の勝五郎の目にも涙だった

次郎長はじっと我慢していたが、、、腹の中では手を合わせて泣いていただろう。

それから日が立ち、、、保下田久六の手下が代官所役人を連れてやってきて、、、次郎長が居ないとなったら、長兵衛とお内儀を捕獲して代官所に連れて行ったのである。

お内儀は帰されたが長兵衛は牢屋に入れられ、、拷問された。

しかし、長兵衛さんは次郎長が逃げたことを一言もしゃべらなかったのである。。そして、攻め殺されてしまった。

深見村長兵衛は男の義理を貫き死んでいった。

後で長兵衛のお内儀から話を聞き、次郎長は涙を流して、、、仇を討

つことを誓った。

そして、、、保下田久六を討つ機会を狙ったのである。

作戦を立てて、、次郎長は死んだふりの芝居までして、、保下田久六の隙を狙っていた。

次郎長は久六に報復をするために、、森の石松、八五郎、万平、喜三郎、万吉、平蔵の6人を呼びよせ、

途中で大政,相撲常、大野鶴吉,代吉を呼んで、、、保下田久六を討つための祈願を金毘羅権現に参拝をしたのである。

安政6月19日に半田市乙川吉野町で清水次郎長と保下田久六が喧嘩をしたが、、、次郎長が勝った。次郎長は大政、小政、森の石松、小川の勝五郎らが奇襲をした。(乙川の決闘)




8)保下田久六を亀崎の竹垣三郎兵衛代官を討つ、、、、


清水次郎長は深見村長兵衛の仇を討つために自分の偽の葬式を出して、保下田久六たちを欺き時を伺っていた。そして、代官竹垣三郎兵衛の下屋敷を襲った。

次郎長は、、「駿河の国 有渡郡 清水湊、山本長五郎推参,兄弟分、深見の長兵衛の仇だ、代官竹垣三郎兵衛並びに保下田の久六、地獄に送ったやるから、覚悟者しゃがれ」と、、、

清水次郎長は子分たち、、、大政、小政、増川の仙右衛門、森の石松、大瀬半五郎、奇妙院常五郎、法院大五郎、大野鶴吉の9人を連れて乗り込んだ。

代官を大野鶴吉が「地獄は落ちろ、、くされ外道があー」と言ってた竹垣三郎兵衛の首をはねた。

保下田の久六が奥川堤へ逃げたので、森の石松が追いかけて首をはねた。

二人の首は奥川堤の松原に並べて「さらし首」にしたのである。

そして、仇の二人を打ち取ったのである。

二人を打ち取った後で、、次郎長は子分たちに頭を下げた。

「仇を討てたのは、、お前らがいてできたの、あるがとうな」と、礼を述べた。

そして、東海生まれの大政と鶴吉が道案内で、街道道を外れて獣道を伝わりながら逃げたのである。

それから代官屋敷を襲ったのであるから逃げた、、、山中を5日間も食べるものも食べずに逃げた。

逃げる途中で「今川義元公」の墓に出たのであった。

次郎長はそこで腹を切って自決ると言い出したが、、子分たちに止められ、さらに山中を逃げて、

地蔵小屋にたどり着き、みんなで休んだ

疲れていたのでねこんでしまったのである。

そこへ地元の町役人が来た、、、通報されるかと思って話してみると、、、昔、次郎長が助けた者たちの仲間であるといい、、、次郎長さんには恩義があると言い出した。

昔、仲間の百姓が農地を取れ、娘が身売りするところを、、、次郎長親分が「100両」の金を渡してくれて助けてもらったと。。

「情けは人の為ならず」と言って、、其の恩義に報いて、難儀している次郎長親分に「200両」の路銀を渡して逃がしてくれたのである。

そして、、町役人の庄左エ門が牛窪から天竜え、、、え川の「本玉の為五郎」という貸元のところまで

逃がしてくれたのであった。

其のあとは小田原の相模屋政吉のところにやっかいになり、、、全国の親分衆に引き取られていった。

そのあとはそれぞれ大前田栄五郎,新門辰五郎、小金井小次郎の三、人に助けらて、清水次郎長と森の石松は小金井の貸元、大政と大野鶴吉は長岡の国定忠治、小政は新門辰五郎、大瀬半五郎岡安親分が預か妙院常五郎と法院大五郎は小田原に女がいたのでそこに行き、、、増川仙右衛門は商売込みで小田原に残った。

代官殺しの後始末は、兄弟分の寺津の間之助が身内から身代わりを立て、自訴させて、一見落着となった。

7年が過ぎて、清水次郎長は「東海道一の大親分」になったのである。

清水港へ戻った次郎長は森の石松を代参に立て金毘羅権現に行かせることにしたのである。



9)金毘羅権現代参への旅立ち




森の石松は次郎長親分に呼ばれた、、、そして、「石、、ちょっと、使いに行ってきてくれ。。。」言われ、「へえ、、、どこまですか」と、、聞いたら、、「讃岐の金毘羅権現までだと」と言われた。

「随分と、遠いですね、、」

「いやか、、、」と次郎長に言われたので,、、「いえ、、、行ってきますよ」と石松は答えた。

「この前の、保下田の久六と竹垣三郎兵衛を討取ったお礼参りだ、、行ってくれるか。。」

次郎長親分に言われて、嫌だとは子分なら言えなかったのである。

そして、石松は金毘羅権現の代参位に行くことになった。

しかし、次郎長親分から条件が出たのである、、、「いか、石、、、代参から帰るまでは、酒は一滴も飲むなよ、、それから喧嘩と博打も駄目だ、、、女買ってもいい、、出来るか、、」と言われ、

石松は答えた、、「出来ません、、、この使いは他の者にお願いします」

「酒も飲んじゃダメ、、、喧嘩も博打もするな。。」では出来ません。

「博打打から、酒も飲むな、博打もするな、、喧嘩もするなでは好き好んでなったやくざ稼業だ、、、

やってられねえ、、、よってな、、」

「親分、、この使い、、すっぱりいっあん断りますので、、内には酒も飲まずにこの使い出来るやつはいるじゃあないですか、、、」

「そうか、、嫌か、、、分かった、俺の頼みを聴けねえんだな。。」

と、次郎長が怒って言うと、、

石松も頑固者で、後へは引かなかったのである。

始まった口げんかが止まらなくなり、、、「石、覚悟しろ、、お前みたいな奴は切り捨ててやるから、前へ出ろ。。。」と、、次郎長が脇差に手をかけた。

すると石松も口減らずだった「とっくに、親分の前に出てますよ、、」と言ったから堪らない。

次郎長は持った脇差を抜いた、、、しかし、目に入れてもいたくない可愛い子分の石松だ、斬れない、、困った次郎長親分の間に大政が入ってきたのである。

「まあまあ、、、親分待って下さい、、」と止めて

「石松、ちょと来い」と呼び出した。



10)馬鹿は死んでも治らない、、、石松

、、

大政に呼ばれた石松は、、、「お前は馬鹿だな、、本当に馬鹿だよ」

と言われて、、、石松は、

「馬鹿だ、馬鹿だって言わないでくれや」と、少しむくれた。

「馬鹿野郎、、、今は飲まないと言うんだよ、、、旅に出てしまえば親分にはわからないだろう、、、なあ。。分かったっか」

そして、大政に言われた、、「絶対に飲みません」というんだ。

「嘘でもいいから、、、親分には安心させろ、、、いいか、分かったな」

と、、言い聞かされた。

そこへ、女渡世人華さくらが入ってきた。

「本当に馬鹿なんだから、、、大政さん、、今度の金毘羅権現の代参に、私もついて言ってはダメかな、、、」

大政は、、、「いや、、ダメじゃないと思うよ、、、親分も女は買ってもいいといってるから、、、そうだな、、、それはいいと思う、、俺からも頼んで見るよ」と、言ってくれた。

石松は「何だよ、、、さくら、お前が一緒かよ」と、、、

華さくらは「なんだよ、、こら、、石松、お前まさか女遊びにいくんじゃないよな、、」と、背中をつねられた。

大政が「よし、、決まった」

と、、次郎長親分の前に戻った。

そして、、、次郎長親分が言ったのである。

「石、、、分かったか、、、使いに行ってくれるな、、」

と、言うと石松は「わかりました、、言われた通りに行ってきます」ということになり、、、

大政が付け足した「親分、、、さくらさんが石松に付いていってくれると言いますので、、よろしいですよね」となって、、、二人は金毘羅権現へ行くことになったのである。

「さくらさん、、、石のことを宜しくお願いします」と、、讃岐までの路銀として30両を持たせてくれた。話が決まった翌朝,快晴の桜咲く街道を旅立った。

森の石松と清水次郎長の別れになろうとは誰一人知らずの旅たちであったのである。



11)石松とさくらの旅の空。。。


森の石松と女渡世人華さくらは讃岐の金毘羅権現への代参旅に出かけた。。。

石松も気を使った、一人旅なら野宿も出来るが、女連れであるから、、、夜は旅籠に泊まったのである。

最初(一日目)は尾張名古屋で泊まり、、、二日目には河内まで足を延ばす予定で歩いた。。。

旅籠では夫婦と思われて、一つ部屋で用意をされた。旅籠も混んでいたので別々は部屋はとれなかったのである。

石松とさくらは布団を2枚しいて貰い、真ん中を衝立でしきって寝た。

「こら、、石松、変なことをしたら、あそこをちょん切るぞ、、、いいか、分かったか」とさくらに念をおされたのである馬鹿野郎、、、俺はな、、女嫌いなんだよ、、、自慢じゃあないけどな。。」

と言って、背中を向けて寝てしまった、、、いびきをかいて、、

さくらは思った、、「参ったな、、、石松のいびきが煩くて、ねれねえーぞ」と、いいたかったのである。

さくらはこれからの道中が思いやられた。

そして、大阪からは讃岐まで船旅をして、、金毘羅権現に着いたのである。

無事、石松は金毘羅権現に次郎長親分の代参を済ませて、、讃岐の宿場町で少々遊んだのであった。

女渡世人さくらと讃岐見物をして、、、岐路についたのである。

女連れもあって、女遊びは出来なかったがさくらと旨いもの食べ歩きをした。、、、

「やい。。。石松、残念だったな、、、女郎遊びができなくて、、、

やっぱり、、、遊びたいか、、、」と、、さくらに冷やかされたのである。

讃岐からの帰りは大阪まで行き、、、そこから「30石船」で、京都見物をして行こうということになった。

「さくら、、、一緒に来てくれたので、、其のお礼と言っちゃあなんだけど、ここまで来たんだから、、京見物をして行こうか、、、」ということになり、、

石松とさくらは京都見物にむかったのである。



12)30石の船旅で、、、、


石松はどちらかという「お人好しで、、、おちょこいちょいである。。」と言われている。

さくらと一緒の船旅ということもあり、、安心もしており、、春風に吹かれて「うとうと」と寝てしまった。

気持ちよく、うたた寝をしていたら、、耳元に噂話が聞こえてきたのである。

それも「やくざ者がどうのこうのだったので。」石松は寝たふりをして聞き耳をたてていたが、、、途中でその話に入って行った。

全国のやくざの親分衆の話が出て、、、石松の親分、清水次郎長のはなしがでてきたのである。

そして、、、子分たちの話がでた「清水一家の28人衆だ」、、、其の中で誰が一番強いかという話になった。

それを聞いていた森の石松は、、その噂話の仲間にはってきたのである。。

そして、、、石松が、、「江戸っ子だってねえ、、」そしたら「神田の生まれよ。。」ときたから、、、

石松が買ってきた寿司を出して、、「食いねぇ、、食いねぇ、、寿司食いねぇ。。」が始まり。。。清水一家の28人衆の名前がでてきたのである。。

しかし、、石松がいくら聞いても、自分の名前が出てこないのだった。

そして、、、石松がしつこく聞くうちに、、寿司をご馳走になった「神田の生まれが」思い出したのであった。。。。

「一番強い男は森の石松」と、、、この話を聞いた石松は嬉しかったのであるが、、、

「しかし、あいつは馬鹿だから」さげられたにである。

これを聞いていたさくらが笑った。。。「そうたちだよな、、、あいつは馬鹿だから」と。。。。言いながら。



13)見受山の鎌太郎「28歳の貸元」この時、森の石松は「37歳」


東海道の宿場町である、草津宿を仕切っていた貸元が駆け出しであった山見受山の鎌太郎で、当時まだ28歳であった。

その時、森の石松は「37歳」である。

「酒を飲むなと睨んで叱る、次郎長親分怖い人、、、怖いその人た懐かしい、、代参すまして石松は死出の山路の近道を、夢にも知らず、さくらとともに。。。船は浮きもの、流れもの、神田の生まれどうこうと、飲みねえ、寿司食いねえ」

と、、、伏見ついて京見物をして、、、草津追分宿へ。

「義には強いが情けに弱い男の中の男」とおだてられ、、、森の石松は見受山の鎌太郎に持ち上げられていた。

そして、清水次郎長のお内儀、「お蝶」さなった時に、自分は駆け出しで義理が出来なかったので後悔している、、、

自分の子分たち5人が清水湊の清水一家に世話に成ったので、、、今、その義理を返させてもらいます。と、、、

見受山の鎌太郎が石松に頭を下げたのである。

自分は当時まだ、駆け出しで義理も出来ませんでしたことを詫びた。

「お蝶」さんの葬儀は盛大で立派だったと聞きます、、、集まった香典が「3112両2分」とのこと。。

自分には真似事しかできませんが、、、、、

「石松さん、、受け取ってください、、」と言って差し出された。

「御仏前御稿料、金百両、、、石松さんの小遣いに金三十両」

これを見て石松はびっくりしたのである。

石松は断った「受け取るわけにはいきません、、どうか、次郎長親分に直接渡してください」と、、言い切った。

「この金子を俺がねこばばしたらどうする、、やらないとも限らない、、どうか、次郎長親分に送るなりしてください」と、、、

見受山の鎌太郎は、、、

「構いませんよ、、、石松さんが使ってしまっても文句を言いませんよ、、どうか、納めてください」と、、言われた石松は唸ったのである。。

石松は見受山の鎌太郎の腹を見たのであった、、、「凄い、、いい親分ななるなあー」とつくづく感心したのだった。




14)都鳥一家の悪だくみ



草津追分の見受山鎌太郎に世話に成った帰り道、遠州都田村の都鳥三兄弟と出会う。一緒に旅している女渡世人

華さくらは評判の悪い噂を聞いていたので、、都鳥一家に立ち寄ることを反対した。

後で考えると「女の勘」はあたっていたのである。

その時に都鳥三兄弟は博打の負けの借金で困っていた。都鳥三兄弟は石松が見受山鎌太郎から130両の金子を渡されていたのを知っていた。

そして、言い訳の嘘をついて、、、そのうちの百両を借りたのである。返す当てのない借金であった。

困った都鳥三兄弟は、、草鞋を脱いでいた「保六の子分3人」と相談して、、、石松を殺すことにしたのである。

百両の金を貸す時にも、、女渡世人華さくらは反対した、、、「絶対だめだよ、、、その金は預かりものだよ、、、次郎長親分に渡さないと、、止めなよ」と、、、

「こら、、石松、、絶対にやめろ。。。」と、、止めたが聞かなかった。

「人が困ってるんだ、助けてやらないと、、、男が廃るよ」と、、石松が啖呵を切ったのである。

「馬鹿野郎、、、相手を見て貸せよ、、唐変木野郎」と言ってさくらは怒った。

「石松、、、私は都鳥一家には厄介にはならないから、、、と、、、旅籠を探したのである。

そして、、、石松は百両の金を貸してしまった。

都鳥三兄弟からは約束の期日になっても金を返してもらえず、催促しても言い訳を聞かされて、無駄な日を過ごしていた。

旅籠に泊まっているさくらからも言われていた。

「石松、、、やっぱり、お前は馬鹿だなぁー、騙されているんだよ」と、、、

「うるさい、、返してもらうよ、、あの野郎、ふざけやがった」と、、石松は怒って都鳥三兄弟のところへ戻っていったのである。



15)都鳥三兄弟の騙し討ち


都鳥一家に草鞋を脱いでいる「保下田久六の子分たち3人」が、森の石松と同部屋では嫌だと言って都鳥一家から出た、、、都鳥三兄弟は保下田久六の子分が親分の仇を討ちたいことを知っていたので、石松を討つ打ち合わせをしたのである。三人に閻魔堂で待つようにと、自分たちが石松を誘い出すから、そこであんたら3人と俺んち7人でやれば、いくら石松が強いといってもやれるだろう、、、

そんな相談がしてあるとは知らない石松が都鳥三兄弟たちについて、閻魔堂の前まで来たのだった。

そこで打ち合わせ通りに閻魔堂の中から、、保下田久六の子分3人が出てきて、、、

「石松、、、保下田久六親分の仇だ覚悟しろ、、」と、、斬りかかってきた。

森の石松は強い、、、「なにお、、、仇だと、、しゃらくさいかかってきやがれ、、」と、、斬り合いが始まった。

すると、、都鳥三兄弟と子分の四天王が、、「石さん、、助太刀するぜぇー」と言いながら、後ろから石松に斬りかかってきたのである。

「助太刀はいらねぇー、、、」という石松を斬ってきたから、堪らない、、、後ろからでは石松も抑揚が無かったので、、数か所を斬られた。

10人相手の喧嘩では石松も叶わないので逃げたのである。。

昼間来た釣り堀で、間合いを知っていたから、石松は飛んだ、、、後から追いかけた都鳥三兄弟たち10人は堀に落ちた、、、

その間に小松村の兄弟分の七五郎の家に逃げたのである。

逃げて来た石松を見た七五郎と女房のお民は血だらけの石松を中に入れて匿った。。

石松を見た時には驚いたけど、、、「お民、、ぐずぐずはしていれねーぜ、、、畳の血を拭け、、」と、、七五郎は機敏に動いた。

そして、、、どンどんと戸を叩く音がしたのである。



16)小松村七五郎と女房お民の度胸


都鳥三兄弟の兄貴分である、、都鳥吉兵衛が、、、

「おい、、石松が来なかったか、、」と聞いて

「七五郎、、隠すなよ、、、ためにならねーぞ」と言ってきたから七五郎も怒った。。。

「都鳥、お前たちは知っているからいいけど、、、そこの3人は見たことがねぇー。。。挨拶なしで夜中に何だってんだよ、、、話によっては勘弁ならねぇー」

と、、七五郎に啖呵を切られて挨拶をしてきたのである。

都鳥吉兵衛に聞かれた七五郎は答えた。

「ああ、、来たよ、、、来るには来たけど昨日の昼頃だ、、、都鳥、お前の所へ行かなかったか、、ところで石松から百両借りたってな、、返したなかったら貰おうか、、、俺が返してやるから、、」と、、、

七五郎は借金の取り立てをしたのである。

「ところで石松は本当に来てねぇーな、、」と、、、都鳥吉兵衛が念を押して聞いてきた。

狭い部屋である、、聞くなと言っても聞こえる。

女房のお民が笑いを浮かべて、、、

「狭い部屋だ、、、探してください、、、隅から隅まで」と。。言ってのけた。

部屋に上がって都鳥吉兵衛たちは探そうとしたが、、お民が、、、

「うちには畳が敷いてるから、、草履を脱いでください」と注文を付けたのである。

都鳥吉兵衛は子分たちに言った。

「お民が笑いながら居ないと言っているんだからいないだろう、、、いくら度胸がいいといっても女だ、、いたら笑ってすましてはいられないだろう、、」と、、、

それで他を探すことになったのである。

都鳥一家が出ていき、、、押し入れに隠れていた石松が出てきた。

そして、七五郎とお民がとめたが石松は出て行った。

その時に「石松、、、お民が都合つけてくれた百両を持って、

清水へ帰れ、、、あの都鳥一家では相手がわるすぎる、、」

と、、言ったが石松はきかなかったのである。

石松が出て行った直後から、、女渡世人華さくらが飛び込んできた。。。

「夜分すいません、、、石松は来ませんでいたか、、」と、、、

お民が石松は今、出て行ったばかりですと、、教えてくれた。

「石松は大丈夫だったですか、、、ありがとうございます」

と、、頭を下げて石松を追いかけたのである。

「急げば、、、追いつくから、、、気を就て、、」と、お民が声をかけた。


17)閻魔堂決闘、、、


小松村七五郎の家を出て、、傷の痛み堪えながら、、浜松に向かって歩き出した、、

浜松には知り合いの黒龍屋の貸元がいるから、医者に診てもらい、傷が治ったら仕返しをしてやろうと思いながら、、のらりくらり傷を庇いながら歩いていたんである、、

「おーい、、石松待ちやがれ、、私が付いて行ってやるから」と、女渡世人華さくらが駆け寄ってきた。

「しかし、、随分斬られたな、、大丈夫か、、私が杖になったやるから、、掴まれ」と、、さくらが肩を差し出した。。。石松は嬉しかった、、見えぬ片目に涙が出たような気がした。

「石松、、、お前は本当に馬鹿だよ、、、でも,もう大丈夫だ、、私が入りからね」という言葉に励まされたのである。

「さくら、、、ちょっと疲れた、、、休んでいこうか」と、、、閻魔堂の前まで来て、閻魔堂の縁側のような台に石松は腰をおろした。

「さくら、、、本当にありがとう、、、帰るよ」と、、、話していたら、

人声が聞こえたので閻魔堂の裏手に身を隠した。

その声は都鳥吉兵衛と子分たちと保下田久六の3人の子分たちであった。

「石松は強いかもしれねえーが逃げ足も速いな、、、逃げるなんて卑怯だぜ」と、、話しながら閻魔堂の前まで来た時ニgららだった、、、さくらに止められるのも聞かずに飛び出してしまった。

「馬鹿だねぇ、、、石松は本当に馬鹿だよ。。」と言いながらさくらも一緒に飛び出していたのである。

石松は根っからの正直ものだった。

「なにー俺が卑怯だって、、、この野郎、、、どっちが卑怯だ」と、、、飛びかかっていったのである。

都鳥たちは驚いて逃げた、、、それを石松が追いかけたが石につまずいて転んだ。

そこへ寄ってたかって斬りこんできたから堪らない。

石松はズタズタに斬られたのである、、、それを見たさくらが石松を庇って、、上にかぶさる様にして

石松を自分の体で庇ったのである。

必死にさくらは自分の体で石松を守って斬られたのである。。。

次の朝、二人の遺体は見つかったが、、、男の上に女が庇うように亡くなっていたのであった。

小松村の七五郎とお民はその姿を見て泣いた、、、涙を流したのである。

二人の手はしっかり握られていた、、、

七五郎はせめてもの慰めがあった、、、石松を思うさくらがいたことが、、、

「石松よかったなーーさくらさんが一緒で」と、、、泣きながら二人に誓った。

「必ず、仇はとる、、、」と、、、そして、ことの仔細を七五郎は次郎」長親分異に伝えた。



18)森の石松の仇討前


追分の三五郎の知らせを聞いて、、、清水次郎長は子分を集めた。。

そして、都鳥一家と保下田久六の残党で十一人ならば、、こっちも十一人で斬りこむことにしたのである。

次郎長は都鳥一家がしかるべき人を立てて「詫び状」を差し出し、、、石松の供養をしてくれるなら「水に流すつもり」でいたが、、、清水一家が河豚に当たり死んだと聞いたら、清水一家に殴りこもうと相談している話を追分三五郎から聞いたから、堪らない、、、清水次郎長は怒った。

そして、、「逆縁ながら、我が子分、遠州森の石松の仇、お命頂戴せんがために、今晩、追分宿青木屋に推参仕り候」と書いた書状を小金井の小治郎親分に届けさせた。

文久3年12月21日であった。

そして、石松の仇討に行くものを決めた。

清水次郎長、清水の大政、清水の小政、追分三五郎、大瀬半五郎、奇妙院常五郎、

大野の鶴吉、小松の七五郎、鳥羽常、美保の松五郎、法院大五郎と決め、、、

清水湊の留守は増川の仙右衛門と問屋場の大熊に託した。

次郎長が「留守は頼んだ、、」と言って、出かけたのである。

そして,次郎長は言った、、、、

「苦労掛けるな、、、都鳥たち十一人を斬った後は、、長い草鞋を履くことになるが、、すまない」と、、、

すると大瀬の半五郎がみんなで罪を被ることはない、、あんな都鳥たちの為に、、

「俺が一人でやったことにして、、自訴をするからと」言ってくれたのである。

そして、追分宿についた、、、

次郎長が追分三五郎に言いつけて、、、宿屋青木屋の主人を呼んでもらった。




19)森の石松の仇討、、、青木屋へ清水一家十一人の曲斬り


追分の三五郎が青木屋の主人を呼んできたので、次郎長親分が話をしたのである。

今から石松を騙し討ちにした都鳥一家と保下田久六の残党十一人を襲って、石松の仇を討つので、旅籠をそっくり売ってくださいと、、、「百五十両で」、、、

旅籠の者を逃がし、隠れた。

確認をした次郎長一家の十一人がそれぞれの位置について、、都鳥一家の座敷に乗り込んだのである。

都鳥たちは慌てた、、、自分たちが清水一家に殴り込みをするつもりが、、逆に盛り込まれたのであるから、、右往左往するだけであった。

そして、都鳥吉兵衛は清水次郎長に斬られ、、二人の弟の常吉、梅吉は逃げ回った板が、小松の七五郎と小政に斬られた。

都鳥の四天王の伊賀蔵,半作,重太郎、音松は逃げようとして、奇妙院常五郎、法院大五郎、鳥羽常、美保の松五郎に追いかけられて斬られる。

保下田久六の子分の、布橋の鐘吉、小嶋の松五郎、鹿島の久松は大瀬の半五郎、大野の鶴吉に斬り殺された。

石松と女渡世人華さくらの仇討を済ませた清水一家は大瀬の半五郎が自訴をしたのである。

そして、次郎長ほかの9人は、小金井の小治郎親分のところに匿われた。

大瀬の半五郎は都鳥一家の襲われ、正当防衛で殺したといって、、、一年の受牢で釈放になったのである。

小金井の小治郎親分の助言があり、、代官所にも手をまわしてくれていたのであった。

そして、大瀬の半五郎が釈放になったとき、清水次郎長ほかの者も清水湊へ帰ってきたのである。。

次郎長親分は石松と華さくらを心から願った、、、成仏するようにと、、、




20)次郎長外伝。。。



その1.。。清水次郎長には4人の妻がいたのである。

 一代目の「お蝶」は旅先で亡くなり、、深見村長兵衛の世話に成って盛大な

 葬儀を出したのである。  

 戒名は「思量院信解妙講大姉」である。


 二代目の「お蝶」は、駿河国羽鳥村出身、芸妓上がりで見受をされる。

 二代目お蝶は投げ節のお仲ともいわれている。投げ節とは歌を流して、壺振   

 りをしていた、、、「いかさま賭博師」とも言われている。

 そして、江戸深川の芸者であり、、長岡に来たとに知り合い、お蝶となった   

 二代目お蝶は次郎長が小松村七五郎の一本立の祝いに出かけてる最中に斬ら        

 れて、  次郎長が急を聞いて戻ってから亡くなった。

 まだ、27歳であったのである。

 戒名は「真量院退栄妙講大姉」である。


 三代目は元西尾藩士、江崎丹治の娘で、本名はおりんである。

 次郎長が50歳で、三代目お蝶は33歳で、23年間連れ添った。

 三代目お蝶は武家の生まれなので、教養もあり、次郎長を助け、子分たちの面倒もよく見

 ていた。

 そして、次郎長が73歳まで尽くしたのである、お蝶は81歳まで生きて、辞世句をのこ 

 しているのであった。「頼み無き此の世を後に旅衣、あの世の人にあそぶ嬉しき」

 戒名は「参量院真相妙講大姉」である。


 そして、」81歳で亡くなった清水次郎長の戒名は「碩量軒維山義海居士」である。

 また、次郎長の墓石の筆は榎本武揚のものである。



その2


二代目お蝶は黒駒の勝蔵の食客の橘源兵衛が次郎長の留守に押しかけて、、文句を言ってっ来たお蝶を斬ったのであった。。

斬られて時に大野鶴吉がすぐに出てきて、機敏よく対処したので、次郎長が小松村の七五郎約阿賀から戻るまでいきていたのであるが、、戻ると間もなく亡くなった。

その前に大野鶴吉が段取りをして、大政、小政に連絡をとり、、斬った橘源兵衛を追いかけたのである。そして、長関寺へ逃げ込んだ橘源兵衛を見つけ,寺の和尚である,雲徳を問いただした。

其のあと大野鶴吉が橘源兵衛を追い立てて、表に待っていた相撲常と小政がおそったのである、、、相撲常の毒針で刺されてよろついたところを小政が居合斬りで、源兵衛の首を跳ねた。

後始末は大政がやって、二代目お蝶さんの仇は討ったのである。

今回の件で、次郎長は黒駒の勝蔵を恨んだ。


その3


三代目お蝶と暮らした23年間は充実していた。

次郎長は明治維新後には、、、清水湊も明治新政府が管轄して、新しい奉行が置かれたのである。奉行は元浜松藩の家老の伏谷如水というものが就任して、清水次郎長は「道中探索役、清水湊警備役」に任ぜられた。。。やくざが役人になったのである。

次郎長はなりたくてなった訳ではなかった。

清水湊警備役をしてた時に、旧幕府軍艦を榎本武揚が函館に引き連れていく途中で、そのうちの一隻が破損をして清水湊にいるときに、明治新政府軍が攻撃して死人が多数でたのである。誰も死人をホッテおいたので清水次郎長がかたずけ、供養をした。

それを見た幕府軍の山岡鉄舟が関心をして、、、次郎長に興味を持ち付き合い始めたのである。

山岡鉄舟は勝海舟、高橋泥舟とともに幕末の「三舟」と言われている。

その後、山岡鉄舟の付き合いから「富士の裾野開墾事業」をしたのであった。

しかし、過去のやくざ稼業の幾多の罪で逮捕されたのである。

そして「懲役7年」「過料400円(今に換算すると2000万円)であった。その後、嘆願書もあって2年で服役がおわった。

次郎長の晩年は船宿を経営していたのである。



その4  黒駒の勝蔵との因縁


二代目「お蝶」は黒駒の勝蔵の食客の橘源兵衛に斬り殺されたのであった。。次郎長はこの時ほど、勝蔵を恨んだことはない、、、

心から黒駒のか勝蔵を殺してやろうと思ったことは無かった。

黒駒の勝蔵は東海道を荒しまわったいたのである、、、攘夷論者を気取り、追剥、強盗を働いていた。

次郎長は殺し屋軍団を揃えて、それも6組の部隊を動かして探したが、、、黒駒の勝蔵は神出鬼没で捕まらなかったのである。

そんな中で、黒駒の勝蔵は甲州八代郡黒駒村に戻り、清水次郎長と決戦をするために助っ人集めた。

そして、慶応4年9月に天竜川で決闘をすることにした。

ところが、その時に「明治維新」を迎えて、明治新政府の厳しい取り締まりがあり、、次郎長も勝蔵も監視されていて、天竜川での決闘は出来なかったのである。

更に二度目の決戦も明治新政府の監視のもとに潰された。

このことで清水次郎長と黒駒勝蔵の決闘はなくなったのである。ので



その5 清水次郎長の人物像


清水の次郎長の本名は「山本長五郎」で1820年2月14日生まれ、、、

幕末明治の侠客で博徒、実業家。

戊辰戦争の際に、修理で立ち寄った志水港に、咸臨丸から新政府軍に殺された幕軍の兵士を、そのままにしておいたので悪臭が出たので近隣の漁民が困り、、次郎長が子分を使って、死体を埋葬したのであった。

その話を聞いた「山岡鉄舟」が次郎長の義侠心に感心して、、次郎長と山岡鉄舟の付き合いが始まり、、富士の裾野の開墾開発がおこなわれたのであった。

清水次郎長の子分には「清水二十八人衆」がいた、、大政、小政、森の石松たちの屈強な子分が支えたが、実際は全員が揃ってたわけだは無かった。

清水次郎長は舟持ち船頭の「高木三右エ門の次男」「として生まれたが、母方の米穀商「甲田屋の山本次郎八」の養子となり、、「山本長五郎」となる。

養子となっても喧嘩と博打が好きで、年中飽きずに喧嘩博打をしていたのである、、喧嘩から人を斬ってしまい、、一度は妻を娶ったが離別していたのであった、その後、「三人のお蝶と一緒になっているので」生涯4人の妻を娶っていたのである。

最初に離別した後に,甲田屋を姉夫婦に譲って、、弟分の江尻の大熊と一緒になって無宿人となり旅に出たのである。

諸国を旅して博徒としての修行を積んで清水港に戻り、江尻の大熊の妹「おちょう」と一緒成り清水港に一家を構えた。

次郎長は博打が強かったので、、清水港では「博徒一家」で家業を始めたのである。


晩年は清水港で船宿を始めたいた、、、その以前、幕末時代には静岡県令の命により、駿河町差配役「伏谷如水」から東海道、清水港の警護役を頼まれたが断り続けたいたが、最終的は世のためと言われて引くけたのである。

更に清水次郎長は清水港の発展のために、静岡県特産の「お茶」の販路拡大にも貢献したのであった。

そのお茶の販路を広げるために、「静隆社」を設立して、お茶運搬のための「蒸気船」まで購入して、「横浜と清水」の海運業も始めたのである。

また、1885年(明治19年)には東京大学医学部別課を卒業した「植木重敏」と知り合い、彼の友達を誘い、清水町に「済衆医院」を開設したのであった。

晩年の清水次郎長は地域社会に貢献したのであった。

しかし、、もともとが博徒だったので、「博徒の大刈込」で、明治7年(1884年)に「博徒犯処分規則」で静岡警察本庁に逮捕されて「懲役7年,過料400円(現在なら2000万円)」で井宮監獄に投獄された。

その後、静岡県令関口隆吉らの尽力により、18885年(明治18年)仮釈放となる。

また、清水次郎長はこれからは「英語」が必要と考えて「私学の英語塾」を開設もしていた。

清水次郎長のお墓は静岡市の「梅陰禅寺」にあり、三人の「おちょうさん」と、、「大政」「小政」「森の石松」と一緒に眠りについているのであつた。



その6 子分大政外伝


「清水二十八人衆」の一の子分は大政である、、、本名は「山本政五郎」であり、小政も「山本政五郎」であるため区別するために大政と呼ばれている。大政の本名は「原田熊蔵」であるが、、最初に小政が次郎長の養子になったので、二人とも「山本政五郎」となった。

原田家は廻船問屋であり、熊蔵はその廻船問屋の長男であった。

大政は18歳で清水次郎長の子分になる、、槍が得意なのは町道場で修行したのでった。

そして、大政は「6尺以上(186cm、体重112kg)」の大男であったが、温厚な性格でみんなから好かれていた。

清水次郎長には実子が居なかったために養子となる、、一番最初は小政が養子となった。尾正人

やくざ抗争の時はいつも先頭を切って戦っていたのである。。

ほとんど次郎長は出なくて、ほとんどの抗争では大政が指揮を執っていた。

大政は「酒」が好きで「大酒呑み」であり、、家にるといつも酒を呑んでいたのである。。

そして、大政は次郎長の家の近くに住んでいたので、、次郎長は尋ねる時は裏口から「大政いるか、、」と、声を掛けてからはいっていったのであった、、、大政に酒を呑んだ茶碗などを片付けさせてから、、気づかいをしてのことだった。

荒神山の闘いでは、「吉良の仁吉」と大政は指揮を執り、、22名で穴太徳一家130名に挑み、戦いは勝った。。しかし、吉良の仁吉は銃で撃たれ、清水一家では法院大五郎が死んだのであった。

大政は女房「おたね」との間に子供を3人もうけた、、そして、長男の「小沢惚太郎」が清水一家の二代目を継承したのである。

そして、1881年2月15日に50歳で病死して、静岡市「梅陰禅寺」に埋葬された、、のち次郎長も同じ寺に眠ったのである。



その7 子分小政外伝


小政は「本名、山本政五郎」で、大政と区別するために「小政」と呼ばれた。

浜松の魚屋の次男であり、「実際の本名は吉川冬吉」である、、、山本政五郎になったのは次郎長の最初の養子となったときであった。

小政は体が小さく「身長145cm」の低身長であった。小政は母親と二人暮らしで、、9歳の頃から行商をしてたのである。そして「11歳の時から次郎長に養われて、、成長して子分になり、、「清水二十八人衆の一人なる」

次郎長との出会いは、、次郎長が森の石松と讃岐の金毘羅大権現参りの帰り道に、、ある茶店の前で会い、、その時に小政が茣蓙を敷いて博打を始めて、地元の博打の客とトラブルを起こし、、喧嘩になったが、それを次郎長に言われた森の石松が止めたのであった、、

「おい、、小僧、そんな六尺棒で殴ったら死んじゃうぞ、、」と、、、

「うるせえ、、俺は子供じゃないよ、、引っ込んでろ、、」と、、石松に食ってかかってきたのである。

「おお、、威勢がいいな、、、だって、お前,ちびだろう、、」というと、、、

「馬鹿野郎、、、背が低いだけだ、、」と啖呵をきられた。

乞食みたいなボロを来てたけど、意気ごみだけは石松までも吞み込んでいたのである。

次郎長が訳を聞くと、、そのちびが金を稼がないと、、病気の母親の薬が買えないんだと、悔し涙を流した。

次郎長はそのちびに「2両」を渡して、薬を買うように話した、、傍の森の石松も財布ごと渡したのである、、中身は「3分」しかなかったけど、、それが森の石松のいいところであり、義侠心の強い侠客であったのであった。

そして、次郎長はそのちびの名前を聞いて、よかったら清水港へ来るように言った。

そのちびが「吉川冬吉」」であり、、のちに「小政」と呼ばれるようになったのである。。。

母思いの小政は母親が病死した後に清水港へやってきた。

その後,次郎長の子分になり、1865年掛川の「お加登」と結婚すらが、、まも害事件を起こして「6年間の逃亡生活」をする。

そして、1871年清水港に戻る。。。しかし「雑犯賭博条」により、逮捕されて、判決で「5年間入獄する」、そのあと1874年5月29日に「浜松監獄」で獄死する、、32歳であった。



その8 子分、増川仙右衛門外伝


梅陰寺の次郎長と墓が並んでいるのは「3人のお蝶さん」と、、大政、小政、増川仙衛門と森の石松だけである。

増川仙衛門は次郎長一家では「計数」に明るく、、「中盆」の達人と言われていた。駄目な「中盆」は「盆暗ぼんくら」と言わtㇾていたのである、、、仙衛門は「盆明」と言われ、、、博打場にはいなければならない男であった。

増川仙衛門は田畑持ちの博打打の貸元である「増川佐次郎」の長男で、、伊豆の安太郎一家に15歳から修行に行き、その時に「松下又右エ門」の道場で腕を磨き、一刀流の達人であった。

留守の間に「父、佐次郎親分」が、佐次郎の子分で隣村の「力蔵」に博打で借りができて、、その催促に来た力蔵が、その子分が居なかったので、親分佐次郎を殺したのである、、

力蔵は「子分の借りは親分の責任と、」一緒に行った用心棒の竹次郎らと、佐次郎を殺してしまったのであった。

それを聞いた、増川仙衛門は伊豆の安太郎の身内から嫁を貰っていたので「離別」して、、親の仇の力蔵らを討ったのである。

仇討の時に次郎長に助太刀をして貰ったので36歳の時に子分になった。

増川仙衛門の本名は「宮下仙衛門」で、、1867年から1892年8月6日の病死したのである、、56歳であった。

そして、父増川佐次郎は伊豆の金平一家の「竹の助、民五郎、力松、亀吉ら17人に殺されている」



その9 清水一家の二十八人衆、外伝


清水次郎長、大政、小政、増川仙衛門、大瀬半五郎、森の石松、法院大五郎、吉良仁吉、追分三五郎、桶屋鬼吉(吉五郎)

問屋場大熊、大野鶴吉、相撲常、美保松五郎、伊豆五郎、関東丑五郎、田中啓太郎、辻五郎、舞阪富五郎、国定金五郎、寺津の勘三郎

吉良勘吉、四日市勘太郎、鳥羽の鳥羽熊、清水岡吉、由比松五郎、興津勘之助、お蝶、

で、、「清水一家の二十八人衆」である。



その10 大瀬半五郎外伝


大瀬半五郎は「関東綱五郎」と同一人物である。

「本名」は鈴木綱五郎という、、、1822年八王子千人同心を務めた、鈴木惣七の息子として生まれる。鈴木家の6代目として、、、

19歳の時に出奔して、群馬を振りだしに全国を旅して歩いた。

次郎長の2番目の子分ななる。

荒神山の喧嘩では、、別動隊を引きいて、甲州の黒駒勝蔵を制圧して、吉良仁吉と合流して荒神山の闘いに臨んだ、、清水一家と吉良仁吉は22人で、黒駒勝蔵、穴太徳一家13人と闘い、かったのであるが、吉良仁吉と法院大五郎が亡くなったのである。

この荒神山の喧嘩の時に大瀬半五郎は49歳で。大瀬半五郎は次郎長とは2歳違いで、大政よりは10歳も年長であった。

大瀬半五郎は荒神山の闘いが終わってから、清水一家を離れて故郷へ帰った。

そして、資材を投げうって地域に貢献したのである。

また、地域にも乾分もいて、面倒をよくみていたようであり、、地域からは「任侠の士」と、慕われてい


その11 子分、法印大五郎外伝


1840年2月5日から1919年1月16日の侠客である。山伏から次郎長の子分になる。

甲斐の国二宮村の百姓角田久作の次男に生まれる。草相撲出身で人並み外れた巨漢であった。

寺小屋に学び、15歳で新鮮魚や乾物魚を運搬する仕事をしていたが、19歳で人足を辞めて、実家に戻り家業の農業に就いた。

1811年から竹井安五郎(ども安)の子分になるが、女癖が悪く、丸坊主にされて放り出された。

その後、山伏の格好をして托鉢をする。

そして、次郎長が旅先の越前で知り合い、子分になる。(この時法印大五郎は19歳)

その後、29歳の時に故郷(今の笛吹市)に帰り、百姓になり嫁をもらい、、角田甚左衛門と改名する。

そして、養子となり伊藤甚左衛門となり、、1919年1月16日、78歳で死去。



その12 子分、追分半五郎外伝


一匹狼の追分三五郎、、男も惚れるような無類の男振りで、女に不自由しないと言われたいた。

女のトラブルで喧嘩をしている時に「森の石松」に助けられ、その後、二人で旅にでる。

しかし、追分の三五郎は実存しない人物で、、清水二十八人衆は「二十四人衆」であると言われている。



その13 子分、桶屋鬼吉(吉五郎)外伝


鬼吉の本名は吉五郎、尾州尾張の桶屋の職人の息子に生まれるが桶屋を嫌い家を出る。

小川の達五郎の子分になったが、手の付けられない暴れん坊であったために、次郎長に預けられる。そして、子分になる。

宮島の重吉一家7人に暗殺される。





























  

女無宿人さゆりは、新選組の鬼の副長「土方歳三」に、武士道の最後の武士をみたのだぅた。

そして「死の美学」感じた。

また、同じ幕末に生きた博打打の「森の石松」にも義理人情の世界で、「義」を貫き、潔く散っていった男、、「死の美学」を覚えたのである。

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