ミセス・クレセントムーンの休日
店休日は毎週木曜日+不定休、給与は現金払い。未経験歓迎だけど、オカルト知識か巫女の修行経験があるとなおよい。シフト希望は聞けない。社会保険なし。そんな怪しい店でバイトすることになったのは、ひとえに私がどうしようもなく愚かだったから。
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ううっ、ほんとにここで大丈夫かな。めっちゃ廃墟だけど。
広がる不安に圧し潰されながらおそるおそるドアを押し開けば、ベル音がカランと控えめに鳴った。
――その音を合図に、まるでどこでもドアでも開けたかのように、景色は一変する。壁が落ちて柱が見えていたあのボロ具合はどこへやら、内側はまるで綺麗だった。大理石の床や壁中の本棚は古びてはいても豪奢の一言で、中目黒か代官山の小さなギャラリーに入り込んでしまったかのようだ。さっそく狐に騙されたのではないかと思うほど、奇妙な体験だった。
「おじゃま、しまーす……?」
店主の姿は、正面にあった。
まるで劇場を彩るようなビロードのカーテンに両端を囲まれて、白銀の長髪が揺れていた。店主の男の前には丸机があり、その上にはRPGの中でしか見たことがなかった水晶の球が乗っている。
店主の口が、しなやかな三日月を形作った。
「おや――木曜日は店休日なのだが」
心の中に広がる不安を消すために、私はあえて少し大きな声で言った。
「あの、バイトの応募に来たんですけれど」
「だろうね。私はミセス・クレセントムーンだ。見ての通り、占い師だよ」
「見ての通り……まあ、たしかに」
なぜか白銀色に輝く長髪、実用性が完全に無視された裾の長いローブ。こんなに怪しい恰好、占い師か詐欺師のどちらかでないと許されない。
ミセス・クレセントムーンと名乗った彼は立ち上がり、私に座るよう椅子を示してみせた。立っていたのは一瞬だったけれど、ずいぶん背が高い。
「勤務については店の前に張り紙してあった通りだ」
「仕事内容をお聞きしても?」
「事務一般かな。請求書を作ったり、送ったり、物を整理してもらったり。ちょっとした雑用を頼むこともあるだろう」
事務……か。得意ではないが、そんなに難しくはなさそうだ。しかし、業務内容があまりに多岐に渡っていて、なんでも色々頼まれちゃいそうなのが気にかかる。
「あと、給与は現金か現物払いだ。依頼料だってそうしているからね」
「うっ…………」
給与が現物払いって、なんだろう。
私の顔がどんどん曇っていくのに気が付いたのか、ミセス・クレセントムーンは大袈裟に溜息を吐いた。
「やれやれ。そんな顔をするぐらいなら、ちょっとは面接らしいことも聞いてみようか。どうしてこの店で働こうと思ったんだい?」
「そ、それは……」
嫌な記憶が蘇る。なにを言っているのかよく分からない客、難しすぎるマニュアル、集中力を損なわせる騒音――。
「他のとこでは、接客が苦手でうまくいかなかったんですっ!」
「ふむ。またか」
またか――ということは、この店に来る他のアルバイト志望者も、同じようなものなのだろうか。バイト先を追い出され続けた人間が最終的に行きつく先がこの店なのかもしれないと思うと、さすがに気が滅入った。
「まあいいさ。今日から働けるかい?」
「採用ですか?」
「まあ、そういうことにしよう」
チラリ、と何故かミセス・クレセントムーンは私のお腹の辺りを見た。実はさっき、空腹でお腹が鳴ったばかりだったのだ。ひょっとすると、私が飢えているのが可哀そうだと思われたのかもしれない。
腹の虫の音を誤魔化すために、私はコホンと咳払いをする。
「そういえば……なんて呼べばいいですか?」
「うん? 名前が聞こえなかったのかい。クレセントか、クラセントか、クレッシェンドか、どれなのか分からないとか?」
「いえ、クレセントなのは分かるんですけど……ミセス・クレセントムーンって毎回呼ばなきゃいけないのかな? って思ったもので……」
「なんだそのことか」
緩まった表情に、一瞬だけ私は安心した。『所長でも店長でもなんでもいいさ』と、そう言ってくれるかと思ったのだ。
「当然、ミセス・クレセントムーンと呼んでもらうよ。屋号だからね」
ミセス・クレセントムーンは、その薄い唇でほれぼれするほど綺麗な三日月型を作って言った。
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仕事内容は事務。請求書作ったりとか。
ミセス・クレセントムーンのその言葉に、嘘はなかった。
ここ数日、私が毎日やっていたことといえば、請求書の大量生産だけだった。
「も、もう限界です……」
「音を上げるのが早いな」
店の隅っこ、ビロードの布の裏側に、私だけの机と椅子を用意してもらった。はじめの頃は分かりやすいシンプルな仕事ばかり担当していたのだが、ここ数日は現物払いのお客様が多く、いろんな書類がもうめちゃくちゃなのだ。
こんな店を頼ってくるようなお客様って、どんな人たちなんだろう、と働き始めた当初は不思議に思っていた。しかし、その謎はすぐに解けた。そもそもこの店にやってくるのは、人間以外の者のほうが多かったのだ。
「ていうか――くるみ割り人形に銀行口座なんてあるわけないじゃないですか!」
「くるみに代えて送ってやればいいんじゃないか?」
「それ、逆にくるみ割り人形のことをバカにしていませんか……?」
くるみ割り人間だって、くるみが好きだとは限らないだろう。でも、そんなふうにくるみ割り人形なんかの立場に立って擁護してやらなければいけない自分の現状のほうに嫌気がさす。
「この依頼は、どんなものだったんですか?」
「クリスマスに向けて帽子の色を塗り替えるらしいんだが、青がいいか赤がいいかと聞かれてね、占ってやったんだよ」
「そんなの、自分で決めればいいのに」
「そうかい? 誰だって賭け事は好きなものさ。自動販売機の前で購入するジュースを決められない時、ボタンを二つ同時押ししたことはないかい? 行くかどうか迷っているライブのチケットの抽選が厳しいと知った時、当たれば行こうと思い切って申し込んでみたことは?」
「ミセス・クレセントムーンって、なんていうか」
「うん?」
「意外と俗物的な例え使うんですね」
「…………」
ミセス・クレセントムーンはそれ以上何も言わず、右手で持っていたグラスをゆっくりと回してみせた。昼から飲酒とはよいご身分だ。
「ところで、ミセス・クレセントムーン。その後ろにあるのは? また次の依頼ですか?」
「ん?」
ミセス・クレセントムーンが振り向く動きに従って、白銀の髪がふんわりと揺れる。その揺れは、まるでスローモーションのように不自然にゆっくりだった。
「ああ、これね。今の君が知る必要はないものだよ」
ミセス・クレセントムーンは私に顔を向けずにそう言った。そのぼんやりと光を纏っている小さな瓢箪には、どうも見覚えがあるような気がした。
「それにしても美味いな」
「酒、お好きなんですか?」
「これはちょっと特別なんだよ。とある少女の後悔と鬱屈が凝縮されている。そういう感情が、世界で一番おいしいものだ」
「悪趣味ですね」
「これを飲んで、全てなかったことにするのが、彼女からの依頼なんだよ」
へえ、と私は頷いて、そしてすぐにそのことを忘れた。次の仕事があったのだ。
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やはり瓢箪のことが気にかかる。
仕事を始めてちょうど一週間が経過した日。もう一度巡ってきた店休日に、私はこっそり店へ忍び込んだ。だけど私は忘れていたのだ。ミセス・クレセントムーンは、店休日かどうかに関わらずいつだって水晶玉の前に座っている男だということを。
「やれやれ、好奇心は猫をも殺すというが。猫も少女も同じだね」
見つかってしまっても、不思議と気まずい感じはしなかった。まるで、もう何度も繰り返し怒られていることを、もう一度指摘させてしまったかのような、バツの悪い、でも少し面倒で、うっとうしく思うような不思議な気持ちが渦巻いている。そして全部消えた。
その時、視界が一回転するようにグワンと揺れた。
手持ちカメラを勝手に持っていかれたような強引さだった。わたしが床に落ちている。どうして、わたしの視界にわたしが映っているのだろう?
「覚えてないんだろう。どうして君はアルバイトを探し始めたのか、駅前のもっと時給が良いチェーン店ではなくて、怪しいと分かり切っている私の店を選んだのか。どうして現金払いじゃないと困るんだい? ああ、そうか、それは君が――」
人間ではないからだ。人間ではないものは、銀行口座を持つことはできない。人間の形をしていても、常識が違いすぎて接客業など出来るはずもない。
「やれやれ。また同じことを頼むのかい? しょうがないな。君のその無力感と後悔を、飲み干して、忘れさせてあげよう。依頼はしかと承る」
私はこっくりと頷いた。
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翌月の夜。
店の前には、一ヵ月前と全く同じ体勢で、少女が落ちていた。まるで海流が運んででもいるかのように、彼女は毎月帰ってくる。表面的な記憶の忘却には成功しているはずだが、無意識下で職場はここだと覚えてしまっているらしい。
「どうしたものか……」
とりあえずそう呟いてはみたものの、自分の店の前で少女の形をしたものを転がし続けておくわけにもいかない。やれやれ、と溜息を吐いた。
やはり、占い師に休日などないようだ。星に有給休暇など無いように、太陽は早退などしないように。
「まあでも、毎回君の愚痴の内容は変わってきているよ。多少は人間の世界にも慣れてきたんじゃないか?」
落ちた女は、瓢箪の姿をしている。これを救い上げ、中に出来ている酒をひと月かけて飲み干してやる。そうすることで彼女は人間世界での挫折を忘れ、屈折を忘れ、素直な少女の精神に戻って、次の月をやり過ごせる。彼女からの依頼料は現物払いで、その腹の中にある美味なる酒だった。
だが――何度やっても、結果は同じだろうとは思うのだが。それでも彼女は、賭けることをやめられない。
「――では、お嬢さん。もう一度、お伺いしましょうか」
人の姿を与えてやり、意識を取り戻させる。彼女が身体を起こす一瞬前に、自分は店の中へ舞い戻り、席につく。彼女は、すぐにこの店の戸を開ける。
今月も、彼女を雇い入れることになるだろう。まあ、月末の請求処理の時にだけ働いてくれる事務員の存在は、そう悪いものでもなかった。
ミセス・クレセントムーンの青い瞳が、三日月の形にどろりと溶けた。
〈了〉