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井伊の赤鬼と土佐の出来人

作者: サツキヒスイ
掲載日:2022/09/24

 歴史に『もしも』はないが、我々はそれでも語ってしまう。この話もそんな『もしも』の話。


 徳川家重鎮、井伊直政が自室で寛いでいると、ある家臣が静かにふすまを開け、慇懃いんぎんに頭を下げる。

「直政様、土佐より文が届きました」

「うむ、御苦労」

 現在、土佐は長宗我部元親が治めている。

 直政は家臣から文を受け取ると、早速広げて読んでみた。

「ほう、これはこれは……」

 内容を読んで、思わずにやりと笑ってしまう。

「文には何と?」

「おもしろいぞ。奥方と一緒に馬で遠乗りしたこと。二人で市に出向き、かつおを自ら買いつけたこと。童のように野原で追いかけっこをしたこと。惚気がつらつらと書かれておる。老いて益々盛んとは、見習いたいものだ」

「左様で御座いますか」

 家臣にはなぜ直政がそんな文をもらって笑っているのか、正直わからなかった。なので、思い切って聞いてみることにする。

「直政様、失礼かと思いますがそれがしに教えて頂きたく」

「何じゃ? 遠慮なく申してみよ」

「直政様が元親様と聚楽第行幸じゅらくだいぎょうこうの折、共に供奉ぐぶされた時から懇意にされているのは伺っております。ですが、そのような他愛のない内容の文を寄こすなど……我々にも相手にも利があるのでしょうか?」

「わからぬか?」

「はい、某には全く」

「そうか……」

 直政は筆とすずりを用意し、書き物の準備をする。家臣の方には一切目を向けなかった。

「今から話すことは独り言じゃ。この部屋から出たら話した内容は忘れろ。よいな?」

「はっ」

「今は太閤殿下の元、安寧の世が訪れた。思えば、井伊家も苦労した。それはよい。が、太閤殿下も人の子。もし、亡くなられたら——」

「亡くなられたら?」

「恐らく、天下を二分する大戦おおいくさが起こるだろう。一方は豊臣恩顧の大名が集い、もう一方は——」

「もう一方は?」

「……」

 直政は答えず、すらすらと筆を進める。

「もしもの備えじゃ。元親殿は太閤殿下に大恩を受けた。斯様な事態となればどちらにつくか大層迷うであろう。しかし、この文のやり取りで井伊と繋がっていれば、どちらに転んでも土佐にとって悪い結果にならん」

「……」

 さすがの家臣もここまで言われれば、『もう一方』がどの勢力か理解し、ゴクリと唾を飲んだ。

「井伊にも利はあるぞ。もし、四国に何らかしらの動きがあれば、元親殿はいつも通り儂に知らせてくれるだろう。誰から見ても怪しまれることなく、な。まあ、惚気を書いて寄こすなら、四国は平穏ということじゃ」

「直政様のご彗眼けいがん、見事で御座います。某にはそこまで考えが至らず……」

「よい。こんな予想、外れてくれた方が儂も助かる」

 最悪の事態を予測し、事前に備えるのも為政者の務め。

 直政は筆を置き、紙を畳んで家臣に渡した。

「これを元親殿に届けてくれ」

「畏まりました」

 キリッとした顔の直政であるが、書かれた内容はいかに自分の妻の手料理が美味いか、共に中庭を散策した際に繋いだ手の繊細さなど、こちらも散々惚気を書いたもの。負けず嫌いも甚だしい。

 家臣が部屋を離れるのを確認し、直政は想いに耽る。

(太閤殿下が亡くなれば、きっと家康様は天下獲りに動く。その時、儂は再び『鬼』となろう)



 慶長3年(1598年)に豊臣秀吉は亡くなる。

 その後を追うように、翌、慶長4年(1599年)に長宗我部元親も死去。

 直政の予想通り、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が勃発。

 この合戦で受けた傷が災いして、慶長7年(1602年)に井伊直政はこの世を去った。


 元親の四男、長宗我部盛親は関ヶ原の合戦で西軍に参加。それが原因で土佐を没収、改易となる。命まで取られなかったのは、直政が家康に何らかしら取り計らったと推察される。

 その後、盛親は豊臣方の招集に応じ、真田信繁(幸村)らと共に大坂冬の陣、夏の陣を戦うこととなる。

 相手の徳川方には、井伊直政の次男、井伊直孝もいた。


 史実はこの通りであるが、冒頭で書いた通り——

 『もしも』元親が関ヶ原の合戦より前に死去しなければ。

 『もしも』直政がもっと長生きしていたら。

 ——日本の歴史はどうなっていただろうか。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 秋の公式企画から拝読させていただきました。 歴史にIFはないとは言いますが、元親が生きていたらと考えるのは面白いですね。
[良い点] 何気ない手紙のほのぼのと、その後の史実の対比が鮮やかでしみじみしてしまいました。 [一言] もう少し長生きしていたら、戦の時期がもう少しずれていたら、と、ほんの少しのことで変わっただろうと…
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