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4.『四つ牙』の化け熊

 私はサリッサに続いて森の伐採所を飛び出し、村へと向かう。熊の唸り声がいよいよ大きくなっている。すでに化け物は村の中へ飛び込んでいるに違いなかった。振り返ったサリッサの顔は、緊張で強張っていた。


「ラディス! ラディスは急いで村の子どもやおじいさん達を纏めて森の中に隠して! 私が何とか牧場の方に四つ牙を誘い込むから!」

「わかってる。任せておけ」


 そう応えはするが、歯痒くて仕方がない。これはかつて私達が逆の立場で何度も繰り返したやり取りだった。クラモールが派手に飛び回って敵の眼を引き付けている間に、私が強打を浴びせて敵を身構えさせる。その隙に、影へ潜んだサリッサが市民達を避難させる。私達のこの作戦は、苦戦こそすれ失敗したことは一度たりともなかった。

 だが、今この村でまともに戦えるのは『皆朱槍』だけだ。彼女が最前線に立つしかない。


「……無理はするなよ。三十分もすれば、街の方から増援の狩人も駆けつけてくるはずだ。それまで耐える事を考えるんだ」

「持久戦も得意じゃないけどね!」


 サリッサは顔をしかめて叫ぶと、腰の革帯に留めたポーチから小さな癇癪玉を取り出す。そのまま近くの木にぶつけると、雷のように眩い閃光が辺りを満たした。咄嗟に私が目を庇う間に、彼女の姿は煙のように掻き消えてしまう。隠密技能を発動したのだ。こうなったら私もサリッサの姿を探し当てることは出来ない。彼女を信じて、やれることをやるしかなかった。

 走っている間に森が切れ、村の畑が見えてくる。視界の彼方では、自警団に所属する青年達が、屋根の上に立って炎のシンボルが描かれたブローチを掲げていた。ブローチから小さな火の玉が次々に放たれ、畑のど真ん中に立っている巨大な黒い影に襲い掛かる。紅月の明かりに照らされた影は、ほんの僅かに怯む素振りを見せた。強大な魔力によって超常的な能力を発揮する妖魔も、本質は獣。本能的に火を恐れる個体は多い。多少の足止めにはなっているようだ。

 動くなら今しかない。私は畑に飛び降りると、畦道の陰に身を隠しながら一気に村の中心、村長の住む大きな丸太組みの家まで駆けていく。村を妖魔や盗賊の類が襲ったときは、ひとまず村長の家に逃げこむのが決まりなのだ。


「この化け物熊! これでもあげる!」


 どこからともなくサリッサの声がこだまする。影はのっそりと後足で立ち上がる。見た目はヒグマに等しいが、その鋭く巨大な牙は口からはみ出し、その表面からは瘴気に満ちた涎が溢れている。噛みつかれたらひとたまりもない。筋肉の発達もまた著しく、皮がその発達に追いつかなくて所々が裂けている。その腕で殴られれば、無事では済まない。

 そんな四つ牙は、牧場の方から投げつけられた小さなイノシシの死体を拾い上げた。行きがけにサリッサが狩ってきたのだろう。妖魔は大口開くと、そんなイノシシの骨も臓腑も纏めて噛み潰してしまった。


「こっちよ!」


 再びサリッサの声が響く。それは己の食欲に身を任せ、ずんずんと牧場の方角へと駆けていく。ここまでは計画通りだ。私は一気に畦道まで駆けのぼり、村長の家まで駆ける。


「みんな、無事か」


 家に飛び込むと、老若男女が一斉に私へ向き直った。白髭が口元を覆っている村長は、あわただしく立ち上がってその髭をもそもそと動かした。


「おお、ラディス。待っておったぞ」

「今の私には村のみんなを避難させることしか出来ませんがね」

「では……今四つ牙に対峙しているのはサリッサだけか」


 私が頷くと、村人達にさっと恐れが走った。幼馴染の女が、弾かれたように立ち上がる。


「そんな。いくらサリッサでも、一人で四つ牙を相手するなんて」


 その声色には、明らかに非難の色が混じっていた。当たり前だ。愛する女を矢面に立たせて、裏でこそこそしているような男がどこにいるものか。

 だが、そんなのはサリッサも承知の上だ。今出来る事をやるしかない。


「お前達を森に逃がしたら助太刀に行く。だから、とにかく俺についてこい」

「その通り。ここでラディスを責めても始まらんだろう。わしらはさっさと逃げて、ラディスやサリッサが集中して戦えるようにしてやろう」

「……ええ」


 村の仲間達はおもむろに立ち上がり、親は子どもを背負い、あるいは脇に抱える。私は外の様子を窺うと、そんな彼らを手招きし、一直線に森へと走るのだった。 




 サリッサが四つ牙を牧場の方へ上手く引き付けたおかげで、私は素早く村人を森へと逃れさせることが出来た。しかしここからが本番だ。どうにかしてあの化け物に手傷を負わせなければ、彼女の言う通り、増援が来るまで耐え抜くのは厳しいだろう。そのためには、私がどうにかしてアレを引きつけなくてはならない。薄氷を踏むような展開だ。

 しかし抗わなければ、私も彼女も村の連中も、誰一人生き残れない。




 私は再び森を駆け抜け、牧場へと辿り着いた。四つ牙は厩舎から放たれ逃げ惑う羊を追いかけ、その太い腕で押さえつけている。その牙で羊の頭を噛み潰し、脳髄を啜った。サリッサは坂道にぴったりと身を伏せて、敵の隙をじっと窺っていた。私も柵の陰に身を潜め、弓を取りながら彼女に目配せする。


(俺が一発仕掛けて気を引き付ける。その隙に一発お見舞いしてやれ)

(本当に大丈夫なの?)

(足の腱を一本持って行ってくれれば、何とか逃げられるはずだ。頼むぞ)


 視線で適当にやり取りしながら、私はそっと弓を引いた。最後の足をぼりぼりと齧っている四つ牙の股座に狙いを定め、一気に矢を解き放った。風鳴りの音と共に矢が飛んで、返しを付けた矢じりが足の付け根に突き刺さった。

 四つ牙は唸る。食事の時間を邪魔した不届き者は誰かと、顔を上げて周囲を窺う。今度は巨大な牙のせいで剥き出しになっている歯肉を狙い、もう一本矢を放った。今度はあれが首を振ったおかげで、矢はその巨大な牙に弾かれてしまった。甲高い音が響き、化け熊はぐるりと私の方へ向き直る。

 見つけた、とでも言わんばかりに舌なめずりし、四つん這いになって私を睨みつける。上等だ。私は手斧で柵の板を引っぺがし、突っ込んでくる化け熊目掛けて投げつけてやる。それは鼻先で板を弾き飛ばしたが、それでもその脚はほんのわずかに遅くなった。その隙に私は一気に奴の目の前を横切り、その目をこちらに引き寄せる。その目に向かって、私はさらに手斧を投げつけた。熊は足を止め、爪で手斧を叩き落とす。

 ちょこまかと動く私に苛立ち、熊は息巻いて吼えた。サリッサの姿は、熊の眼から完全に消えている。


「覚悟なさい!」


 熊の陰から闇の帳を引き裂き、サリッサが突如姿を現す。その身と朱塗りの槍の先に雷を纏わせ、神速の突きを化け熊の片足へ突き立てる。どす黒い血がぱっと舞った。狙い澄ました一撃は、確かにその向こう脛を断ち切っていた。

 しかし、腐っても敵は四つ牙だった。いきなり熊はその身を捻り、背後のサリッサ目掛けて突進した。咄嗟に身を捻る彼女だが、熊の方が早かった。


「しまっ――」


 刹那、化け熊の当て身を直接胸に浴びたサリッサの口から、呻き声が吐き出される。草原の坂道を、細身の彼女は鞠のように跳ねながら転げ下っていった。化け熊もその後を追いかける。足は引きずっていたが、サリッサは強烈な一撃を浴びて気を失っていた。


「サリッサ!」


 私はサリッサの下へと走る。しかし、神の加護も得ていない私の脚では、とても彼女へ届かない。間もなく四つ牙はサリッサに襲い掛かり、美しい彼女を二目と見られない姿に引き裂いてしまうだろう。


 認められるものか。そんな事が。神は本当に私から奪い去ったのか。あらゆる力を。私は狩人として、人間に牙を剥く妖魔の類をひたすらに討ち果たしてきたというのに。恋人を守る力さえも、私から奪ってしまったのか。

 ああ、ここにクラモールがいたら。その風の力を帯びて駆け抜け、窮地に陥った彼女を颯爽と救ってくれただろうに。


 私の脳裏に、その身を風に包んで戦場を駆け抜けるクラモールの姿がはっきりと現れた。むくれるサリッサのこめかみを小突いてからかいながら、快活に笑っている親友の姿が。


 せめて、その韋駄天の脚が私にあれば――




 響き渡った咆哮を耳にして、私ははっとなる。ほんの一瞬、意識が全く消え失せていたらしい。振り返ってみると、四つ牙は遥か彼方に立っている。足を引きずりながら、こちらへよろよろと迫っていた。

 私は牧場を端から端まで駆け抜けていた。腕の中に、気を失ったサリッサを抱きかかえながら。


 思い描いた願いが、現実のものになっていた。

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