3.『皆朱槍』との日々
開け放った窓の隙間から、陽の光が差し込んでくる。閉じた瞼を貫いて私の視界を白く染め、朝だから目を覚ませと訴えてくる。まだ頭が重かったが、いつまでも惰眠を貪ってはいられない。私はこらえて目を開いた。
すると目に飛び込んでくるのは、薄いチュニック一枚だけを纏って寝息を立てるサリッサの姿だった。口元を緩めて、彼女は何かをもごもごと呟いている。すっかり夢の世界を楽しんでいるらしい。
すっかり油断しきったサリッサは、枕に顔を埋めて横顔を半分潰している。唇と眉がちょっと曲がった、変な顔。いつも通りだ。クラモールがサリッサ・コリーと呼んでそんな寝顔をからかい、真っ赤になったサリッサが槍の石突で彼を小突き回すのがお決まりだった。
こうしてじっくり眺めてみると、なるほど、厩舎で眠る牧羊犬にそっくりだ。美人にしては間抜けな顔だが、愛嬌に溢れている。夕べ妖艶な眼差しで私を見下ろしていた女と同じ人物に思えない。そっと頬を撫でてやると、彼女はのっそり寝返りを打って寝顔を隠す。しばらく起きるつもりは無いらしい。
「先に行くからな」
私は一人彼女に語り掛けると、ベッドを降りた。服を着ながら、ぐるりと家を見渡す。全てが丸太で出来た家。居間や調理場の他にも寝室が二つほどあって、二人で暮らすにはむしろ広すぎるくらいの家だ。これから家族も増えるのだから、最初から間取りは広く作れとサリッサが注文を付けたのである。昔からこの女は将来をこれと思い描いて、そこに向かって脇目も振らずに突っ走ってきた。私も彼女は昔馴染みのくっつき虫くらいにしか思っていなかったのに、押しに押されて、気付けば彼女が側にいなくては世界の彩りが褪せて見えるようになってしまった。
サリッサがいてくれたのは幸運だった。このような形で狩人としての人生を終えることになっても、それをすんなりと受け入れられたのは、私も将来をこれと思い描くことが出来たからだろう。サリッサと三人ほどの子持ちになり、彼らの成長を見守りながら故郷の村で木こりとして生きていく姿を。
神の差配だったのだろう。彼女は近頃ずっと子どもを欲しがっていたし、そろそろ彼女を幸せにしてやらなければならなかったのだ。戦いを離れて半年経って、私はそう思うようになっていた。
木こりとしての生活は至極単純だ。朝早くから起きてきて、まずは幹の太り方が悪い株を見定める。こうした株は放っておいてもろくに育たないし、陽の当たりを悪くして他の株の育ちまで悪くしてしまう。さっさと切り倒すに限る。切り倒した木は納屋に置いて乾燥させ、後で灰の中で燻して炭にする。鍛冶屋がいつも欲しがっているから、いい金になるのだ。
陽が昇り切ったら、切り倒した細株を担いで庭まで戻る。斧から鋸に持ち替えて、今し方切ってきたばかりの細株を手頃な長さにしていく。それが終わる頃に、たっぷり休んだサリッサがちょうど起き出すのがお決まりだった。
「おはよう、ラディス」
外に出てきたサリッサは、上等な木綿で作られた赤いワンピースを着こみ、使い古した革帯を巻いていた。一緒に戦っていた頃からの、彼女のお気に入りの格好である。彼女はふわりと湯気を立てる小さな鍋を手に、てくてくとこちらまでやってきた。
「今日も良く晴れていい朝ね。というわけで、朝ごはん出来たよ」
「ちょうどいい時間だな」
私とサリッサは庭のテーブルの前に腰を落ち着けると、彼女が作ったオートミールを木の椀に取り分け食べ始める。村の友人が分けてくれた鶏の卵を落とし、街の商人から手に入れた岩塩を削って軽く塩味を添える。誰でも作れるような料理だが、そしてそんな料理さえ私は上手く作れないのだが、サリッサの手にかかると目が覚めるような逸品になる。卵のまろやかさと岩塩のひりつく塩辛さが混ざり合う旨味に、思わず俺は嘆息してしまった。
「おいしい?」
「今日も最高だ」
「うふふ」
やたらとサリッサの料理が上手いのは、周囲が首を傾げるのも気にせず、彼女は学園で槍術を学ぶ傍ら、調理のスキルを磨き続けてきたからだ。サリッサが作る料理のお陰で、妖魔の死骸に噛り付かねばならないような時にも、私達は揚々としていることが出来た。
今も、毎日に明るい彩りを添えてくれる。クラモールには悪いことをした。少なくとも、戦場でサリッサの料理を食べる事はもう無いだろう。別れの席でも、彼はずっとそれを惜しんでいた。
「今日はどうするつもりだ」
「木炭はこの前売ってきたばかりだし。久しぶりに狩りでもしてこようかな。そろそろ燻製のお肉も無くなっちゃうところだったし」
「となると、今日は久方ぶりに新鮮な肉が食えるな」
「任せといてよ。一番いいのを狩ってくるから」
そう言って、彼女は得意げに笑った。陰に潜んで一突きを見舞う彼女は、狩りも得意なのだ。
朝食を取り終えた私達は、それぞれの仕事に取り掛かる。サリッサは宣言通りに鹿狩りへ向かい、私は丸太の製材を始める。
太い幹を担いで森を歩き回るのも中々に大仕事だが、それを手頃な板切れに作り変えるのも一苦労だ。木目を美しくしようとこだわればキリがないし、かといって手早く仕上げれば後から木工ギルドの連中に文句を言われる。狩人の時は気づきもしなかったが、こうして木こりになってみると、中々どうしてこの生業も奥が深い事がわかる。
こうして、私は今日も普段と変わらぬ満たされた日々を送っていた。
狂い月が空高く昇るまでは。
夜の空を見上げると、満月が赤く染まっていた。満月の夜は決まって子どもをせがんでくるサリッサも、今日は気分が悪いと言って先に寝ている。それでも上手く寝付けないのか、呻きながら何度も寝返りを打っていた。『皆朱槍』の名をあっさり投げ捨てた彼女だったが、それでも落ち着かないのだろう。
深紅の月は狂い月。赤い光の下で、妖魔は盛んに暴れるのだ。低部オルガノンに位置するこのヘレネス王国はともかく、東部オルガノンのポリタニア王国では波のように押し寄せる妖魔達を相手に狩人が戦っているところはずだ。親友のクラモールも。
「あの時も、これくらい真っ赤だったよね」
薄い布団を頭から被ったまま、サリッサはぽつりと呟く。私は相槌を打った。言われるまでもなく、五年前を思い出す。妖魔の類が勢揃いして東の彼方からオルガノン大陸へと攻め寄せた時のことを。あっという間にポリタニアの北部を席捲し、そのままヘレネスまで突っ込んできた。
「あの時は必死だった。生き延びられただけでも奇跡だ」
「うん。……クラモール、無事だといいけど」
「五年かけて要の城壁も完成している。あの時ほど苦しい戦いには――」
その時、森の木々を揺るがす、鋭い咆哮が森中に響き渡った。サリッサは布団を蹴飛ばし起き上がる。赤い月光に照らされてもなおわかるほど、その顔は蒼白だった。
「まさか。フォーファングがこんなところにいるわけないのに!」
|四つ牙≪フォーファング≫。異様に鋭い犬歯を持つ、呪われた大熊だ。力は強大、ガンマ級スキルの行使がせいぜいの駆け出し狩人には、対峙する事さえ許されない妖魔である。しかし人間の襲撃には積極的ではなく、勢力圏であるルージアン山脈に大抵引き籠っていることが常のはずだ。
「しかし近くにいるのは間違いない。このままでは村がまずいぞ」
「一体何があったのよ……!」
サリッサはベッドを飛び降りると、寝間着を脱ぎ捨て裸になり、寝室の脇に飾っていた戦装束に手を掛ける。私もぼんやりしてはいられない。寝室をさっさと飛び出し、倉庫に飛び込み弓や斧を担いで、それから深紅の槍を手に取る。そうこうしているうちに、村の方から警鐘がけたたましく打ち鳴らされ始めた。
「サリッサ!」
ワンピースの上から革鎧を身に付けたサリッサも外に飛び出してくる。私は彼女の愛槍を放ってやった。彼女は軽やかに受け取りながら、僅かに眉を顰める。
「ラディス。あなたも来る気?」
「当たり前だ。表立って戦えなくとも、他にもやることはいくらでもある」
少し不安げな顔をした彼女だったが、すぐにそれをかき消した。
「わかった。後ろの事は任せたからね」