1.『銀嶺』の末路
天頂に満月が昇り、東の彼方から大狼の遠吠えが一つ轟く。そうすると右からも左からも遠吠えが湧き上がり、ざくざくと草の根を掻き分ける足音があっという間に迫ってきた。いくつもの村を食い尽くした大狼の群れである。物見台に立った少年が、それを見て甲高く叫んだ。
「狼嵐だ!」
襲撃に備えて村には松明が林のように並べ焚かれていたが、大狼はそんなものお構いなしに突っ込んでくる。家畜も人間も皆殺しにして進軍し、もはや何をも恐るるに足らずと言わんばかりの攻勢だ。
しかし人間にも意地がある。湿地を耕し、森を切り拓きながら、何千年も妖魔の類と戦いを繰り広げてきたのだ。知恵をつけて多少群れたところで、人間が後れを取るわけにはいかない。
「俺が先陣を切るよ。ラディスは牽制を頼む」
クラモールはすらりと伸びた長剣を抜き放つと、迫る狼の眉間に向かってピタリと刃の切っ先を向ける。月の光を呑み込んで、彼の蒼い瞳は猫の目のように輝いている。
「雄弁なる神エルメスよ、天空を駆ける流星の脚を私に授けたまえ」
彼は何百回繰り返したか知れない勧請の詞を朗々と唱える。私はその台詞を隣で同じだけ聞いてきたが、戦いを乗り越える度にその声は重みを増している。親友は今なお技能を高め続けているのだ。
「行くぞ大狼! 『翆風』の刃の切れ味、その身でとくと味わえ!」
刹那、親友は長剣を脇に構えて飛び出した。その身に風を纏った親友は、金色の髪を靡かせながら跳び上がり、先頭を走る大狼の頭上を取った。その狼は咄嗟に足を止め、牙を剥いてクラモールと対峙する。傷つき盲いた左目が見開かれ、醜い肉芽を晒した。
私も眺めてばかりはいられない。弓を取って矢を番えると、目一杯に弦を引き絞る。同時にクラモールと大狼がぶつかり合った。狼の牙と彼の切っ先がぶつかり合って火花が散る。そばにいた欠け耳の大狼が唸りを上げて、加勢へ入ろうとしている。
そうはさせるものか。私は欠け耳の眼に狙いを定めて矢を放った。欠け耳は咄嗟に足を止めると、首を捻って矢を躱す。それはそのまま唸りを上げて、私へ狙いを定めてきた。
「来るか」
大狼など何度相手にしてきたか知れない。その脚運びを見れば、噛みつこうとしているのか、引っ掻こうとしているのか手に取るようにわかる。目の前に立つ欠け耳は、頭を下げながら走り込んでいる。真正面から私を噛み千切ろうという算段だ。私は腰に差した短剣を抜き放つと、腰を落として欠け耳に対峙する。目をかっと見開いた狼は、およそ五ヤードの距離まで迫ったところで、ぽんと跳ねた。
狙い通りだ。息を詰めて、私は横っ飛びにそれを躱す。そのまま短剣の腹を指先で撫でて、私はその刃に念を込めていく。
「偉大なる戦神マレウスよ、その力を我が手に授けたまえ。立ちはだかる妖魔をこの手で屠らん」
私は神に請い、祈りを捧げる。私が『狩人』として生きる道を選んでから、数え切れないほど繰り返してきた誓言だ。マレウスの加護を得て全身の膂力を高め、立ちはだかる妖魔を一撃の下に叩き伏せる。それが私が十年間研ぎ澄ませてきた戦い方だった。数多の妖魔を葬り、私は『銀嶺』の二つ名を与えられるまでに至ったのである。
だが、戦神マレウスが私の誓言を聞き入れるからこそ、その戦いは成り立つのだ。『マレウスの火』が私の肉体に加護を与えなければ、私は凡百の民に過ぎない。
「ダメだラディス! 無理せず下がれ!」
クラモールの声が響く。わかっている。妖魔に不覚を取り、生死の境を彷徨ったあの日から、神も精霊も私に力を貸さなくなった。私は戦場にて身一つになってしまったのだ。
しかし、意地を張って戦場に立ったからには、妖魔を討ち果たすというその役目は果たさねばなるまい。でなくば、私はもう狩人ではない。
方向を切り替え、再び欠け耳が突っ込んでくる。動きは見えている。スキルは失ったとしても、戦いの記憶までは失っていない。後は、持って生まれたこの肉体だけでどう戦い抜くか、それだけを考えればいい。そうだろう、銀嶺のラディス。峻厳なるエヴリカ山脈のように、妖魔の前に立ちはだかれ。
「簡単に、この私を喰えると思うか!」
自らにも言い聞かせるように叫んで、私は跳ねる。紙一重で欠け耳の牙を躱して、首筋の毛皮にしがみつく。そのまま大狼の背中にしがみついて、短剣の切っ先を狼の瞼目掛けて振り下ろそうとした。マレウスの加護が無くとも、肉の薄い瞼なら、柔らかい目の玉なら、貫ける。
ねばついた感触と共に、短剣が欠け耳の眼に突き刺さる。狼はまるで野良犬のように喚く。手応えはあった。このまま眼球を掘り返して、その眼窩から脳を貫けば、仕留められるはずだ。
そう思った矢先、もがき苦しんだ大狼が跳ねた。片手でようやく首筋にしがみついていた私にはとても耐えられず、私の身体はあっという間に宙を舞った。片眼から脈々と血を垂れ流しながら、狼は恨みに満ちた牙をがっと開く。最早私には何の手も残されていなかった。腰から噛みつかれて真っ二つにされるだけである。
虚しいが、引き際を見失った兵士の末路はこんなものなのだろう。一度は死にかけたのだし、今更恐ろしいとも思わない。私は目を閉じ、その瞬間を待った。
「この役立たずが!」
しかし、私に襲い掛かったのは牙ではなく、若い狩人の罵倒であった。炎に包まれた矢が飛んで、欠け耳の頭を撃ち抜く。口蓋から脳髄をぐっさりと貫かれた上に、矢を包む炎がその脳みそを焼き尽くしてしまった。欠け耳は泡を吹き、そのままひっくり返って事切れた。
私は生臭さを放つその毛皮の上にどさりと落ちる。見れば、大狼退治に選抜された新進気鋭の狩人達が、松明に照らされた牧場の中を所狭しと駆け回っていた。高位の加護や術式を使いこなし、五体いたはずの大狼の群れを、あっという間に蹴散らしていた。目の前に立つ射手の青年も、その矢じりに炎を纏わせて、逃げ腰になっている大狼へと狙いを定めている。
「これで分かったかよ。場数なんかに何の意味もないんだってな」
私の方を見もせずに、青年はあっさりと私を断じた。
「俺達狩人はスキルこそが全てなんだ。『銀嶺』だか何だか知らねえけど、もうスキルの使えないお前は足手まといなんだ」
そんな事は無い。そう言ってやりたかったが、今まさに無力を晒した私が反駁に使える言葉など、もはや一つもない。出来るのは、ただぶつけられる言葉を従容として受け止める事だけだ。
「いい加減認めろよ。お前はもう『落伍者』だ。お前の無能が俺達に迷惑かける前に、さっさといなくなってくれよ。嫌でも俺達が追い出してやるだけだけどな」
青年が放った矢は、銀の毛並みを持つ大狼に突き刺さった。蒼く燃え上がった炎は大狼の銀の毛皮の上をあっという間に走り抜け、火だるまにしてしまう。悲鳴を上げながら辺りを転げ回った大狼だったが、大狼の身体に纏わりついた火は、それを焼き尽くすまで消えなかった。
私は苦しみながら死に果てるその姿から目を離すことが出来なかった。その妖魔は、必死に生き延びようとしていた。
まるで今の私のようだった。
「みっともねえよな。とっとと死ねっての」
弓を背負った青年は、ぽつりと呟く。きっと私に言ったのかもしれない。そう言われても仕方がなかった。認めるしかない。私は終わったのだ。
任務を終えて帰還した私は、早速審問に掛けられることになった。今やラディスという男は狩人に相応しくないと、告発されたのである。
登場人物名鑑
『銀嶺』ラディス①
15歳にして既にアレフ級スキルを使いこなし、鬼童子とも謳われた凄腕の狩人。5年前の戦いで単身妖魔の群れの中へと飛び込み、その全てを屠りつくした事から、あらゆる兵を拒むエヴリカ山脈になぞらえ『銀嶺』の二つ名を与えられた。
しかしある出来事をきっかけに、彼は全てのスキルを使用することが出来なくなってしまった。片手間に覚えたスキルから、長年頼りにしてきたフェイバリットまで。
かくして彼は狩人の象徴から一転、無用の長物として冷遇されるようになったのである。