4話 : 入学、歴史と
「………ちゃんとした建物も、残ってるんスね」
煙草と皮の臭いがあちこちに染み付いた車の中で、デンスケは安堵の息を吐いていた。同乗者兼監視役である男達は、何言ってんだコイツという考えを視線で表現していた。
デンスケは奇異の目で見られていることに気づかず、ただ目の前の風景に感動していた。一軒家が見当たらず、高層マンションかアパートといった集合住宅が多いことに気づいたが、建物としての形を保っている家はこんなに安心感を与えるんだと、新しい発見をしたかのように興奮していた。
「何を当たり前のことを。もっとも、居住区を出るとそうでもないんだけどね?」
デンスケの横に座る副長の男はそろそろだと言った。間もなくして車の前方に門のようなものが現れた。何かと問われれば色々な解答が思い浮かぶが、自分は門と答えるだろうな、というオブジェだった。鋼材で組まれたそれはところどころ錆びついて居るが、廃墟とはまるで違う頼もしさがあることを、デンスケは感じ取っていた。
(いや、心石が組み込まれてるせいかな? 自立型だな。付加されてる機能は……防壁、ああ結界の代わりか!)
外敵の侵入阻止を主な目的として編まれている。デンスケは、居住区という言葉の意味を何となくだが理解した。質問はしなかった。聞いた所で、副長を含む全員が答えてくれるとは思わなかったからだ。理由はデンスケにも分かった。副長もそうだが、今の周囲にいる者達は自分に興味を抱いていないのだ。
子供でも分かるであろう一般常識を都度教えるという、時間と労力と頭を使う行為をするほどの価値を見出していない。そう考えたデンスケは、まあこっちも別に期待していないし、と思いながら黙って観察を続けることにした。
(……昨日の車は窓が封鎖されていたから分からなかったけど、移動中に度々止まってたのはこれが原因か。検問か何かなんだろうな)
デンスケの考えを他所に、1分ほど後に車は再度走り始めた。そこには、市外で見たものと同じような、廃墟で満ちた町並みがあった。異なっているのは、その中に人の姿を見かけられるということ。居住区の外とはいえ町中なのに武器を持ち、頑丈そうな服や皮で出来た防具を身に纏う彼らは何をしているのだろうか。デンスケが考察を始めた所で、その答えはすぐに得られた。
車窓から見える路地の向こうに、大きな獣の姿があったからだ。推測・敵であるその獣に対峙し、斬りかかっていく者達の背中も。デンスケは同乗者の全員が気づきつつも驚いていない様子を見て、これは日常の風景なのだと察した。同時に、彼ら狩人が何を生業にしているのかも察した。
「……さっきの獣、あれ、初めて見る種類なんスけど」
「は? ああ、害獣のことか? 言葉は正しく使えや」
先程の害獣もどこにでも居る雑魚だろうが、どこの箱入りだと呆れる男を他所に、デンスケはニヤリと笑っていた。副長なる男はデンスケの意図に気づいていたが、実害は無いため何も言わなかった。
その間も車は舗装された道を進む。空は相変わらずの曇りで、太陽が全く見えない。同乗者の男も同じように空を見上げて、ため息をついていた。
「やっぱり、1年に4回ってのはなぁ……」
「ははっ、それだけじゃねーだろ。第5支部とのオイチョカブ勝負で盛大にスったの、噂になってんぞ」
「っせーよ、ただの貯金だ貯金。あの一戦で相手の癖は分かったからな。来季にはオレがぜってーに勝つ、利子込みで頂戴してやらぁよ」
その後もガラが悪い談笑が続き、デンスケは会話の中から情報を拾っていた。
分かったことは3つ。
―――狩人組合が害獣なる獣のような敵性生物を狩る組織であるということ。
―――害獣は主に居住区域外に発生するが、居住区域の中に脅威度が低い害獣が発生する事もあるということ。
―――日本円の価値は大体、自分が居た頃と同じということ。
(つまり、オレは帰ってきて早々に一軒家ぐらいの借金を背負わされた訳か………洒落になってねえんですが)
目標の1つである、懐かしき我が家へ―――祖父の墓へ参るためには車で5、6時間の距離を徒歩で踏破しなければならない。それでも、害獣が居る危険な道を。だというのに、大きすぎる借金を背負わされたとはこれ如何にと、デンスケは少し目眩を覚えていた。
(車を利用すれば一気に楽になるんだろうけどなぁ。さっきからこの車が全然襲われてないことを見ると、害獣避けの仕組みか術法が施されてる可能性が高いし)
『いずれにしても金が居る訳だ』
(起きていきなり急所をつくなよジャッカス)
金が無ければ浮世の倅、明日も暮らせぬろくでなし。世知辛い、世知辛い世の中だとデンスケは嘆いた。
『に、してもだ。いかにもな廃墟の群れだが、微妙に違和感を覚えるな』
(その心は?)
『家屋の種類……バリエーションが多すぎやしないか? 例えば、右前方に見える赤色の屋根の建物だが』
デンスケはジャッカスが示す方を見た。そこにはいかにも洋風で洒落た、窓の数が多い一軒家があった。周囲から明らかに浮いているそれは、デンスケの目には、日本で建てられたものではないように見えていた。
『日本という口がどんな国であったか、私は知らんが……これだけ家が多く、文明が栄えていた国だ。人々をまとめるには法が必須。ならば建物の作りも、何らかの法によって定められていた筈だろう?』
(あー、言われてみればそうかもしれんな)
『ならばなおのこと。何より、町並みを見て汚いというより、変だという印象が勝っているのはどう考えてもおかしい』
言われてみれば、とデンスケは気づいた。あまりにも建物の特色がちぐはぐなのだ。まるで、何処かから紛れ込んだかのような。
ふと、デンスケは世界を越える前の風景を思い出したが、勘違いだと言い聞かせて黙り込んだ。雑談の中、車は静かな排気音を立ててアスファルトの上を進んでいった。
「………ナンバ、戦技使いスクール?」
「そういう事だね。じゃあ僕はこれで」
「ちょちょちょちょ!」
デンスケは手を上げたまま颯爽と去ろうとする副長の肩を掴んだ。
「いや、どこいくんすか。まだ取り調べっていうか試験の結果は」
「合格だよ、不合格ならキミ死んでるから」
「いやいやいやいや。つーかオレにここで何をしろと? あと、装備も何もないし―――」
「装備なら返したじゃないか。その服もプレゼントしよう。で、スクールでなにするかなんて1つだけでしょ」
「えええぇ……」
デンスケは副長より渡された自分の今の服を―――長袖のTシャツにチノパンという、動きやすい格好だが、どう考えても昼下がりのそこいらのアンチャンが着るような―――を見下ろし、伝えた。
「服とかも含めて、色々と助かるんスけど……話がいきなり過ぎるっつーか」
「おや、キミはこの世界について学びたかったんじゃないのかい? なら、学び舎を紹介するのが手っ取りばや………一番良いだろうと考えたんだけど、迷惑だったかな」
「え、いや、そんな事はないけど。でも、借金のこととかも」
「向こうさんも忙しいから、そうすぐには急かしてはこないよ。だけど、返済する必要はある。キミにその術を学んでもらわなきゃこちらも困るって話さ。渡りに船だろうが、これも迷惑だったかい?」
「……まさか。正直、すっげえ助かりますけど」
話がうますぎるというか、とデンスケが口ごもり、怯んだ隙を副長は見逃さなかった。そそくさと車への移動を終えると、お達者でという言葉だけを残し、来た道を去っていった。
一人取り残されたデンスケは車の排気ガスを見送りながらいつの間にか手渡されていた書類を片手に呆然と立ち尽くすも、ため息を1つ零すだけで気を取り直した。
「はぁ………行くかぁ。何だかよく分からんけど」
『吹っ切れたか?』
(いや、親切を受け取ったからな。期待もされてるかもしれん。それらを初っ端から裏切るのは、なんていうかオレが嫌だし)
デンスケは小さく笑いながら、案内の文字に従い歩きはじめた。ジャッカスは『キてるな』と呟きながら、デンスケに続く。
「しっかし、これがミナミかぁ」
『ん、それはどういう意味だ?』
(ここいら……“なんば”の周辺は、ミナミって呼ばれてるんだよ)
少し東西にずれるが、梅田がキタ、南下してミナミ、更に南下して天王寺こと阿倍野となる。デンスケは環状線を丸い顔に例えて、顎が天王寺、口あたりがなんばだと大雑把に説明した。
(にしても、ここの町並みはかなり整えられてるな……)
煉瓦で敷かれた地面に、手入れがされている公園のように樹木が規律正しく生い茂っていた。道すがら、デンスケは色々な者の姿を見た。そのほとんどが自分より年下か同い年の者で、緊張した面持ちをしながら背筋を伸ばし、大きな建物がある方角を見据えていた。
(あれ、戦闘服だな。頑丈そうだし。デザインも似てるってことはブランド品とか? ………オレと同じ新入生、かもな)
新入生が多いということはひょっとして今の季節は、とデンスケはキョロキョロと周辺を見回した。確認する暇もなかったけど、と言いながら期待するデンスケの足元に、1片の花びらが舞い降りた。
まさか、とデンスケは呟き、遠くに見える桃色へ吸い込まれるように駆け寄っていった。生い茂る緑の並木道が続き、途切れた先に見えたのは幻想のような光景が広がっていた。
―――空が曇っていてなお、輝いてみえるような艶やかな花をつける樹々の姿が。
「……桜、か。見るのは3年ぶりだけど」
もっと見ていなかったような気がする。呟くデンスケに、ジャッカスが答えた。
『見惚れるだけはある。美しい、というよりは儚いという印象が勝つものだな。……花、か。あちらの世界では話に聞いただけで、ついぞ見なかったものだが』
ジャッカスの言葉にデンスケは頷いた。その両目に涙を浮かべながら。そして、気づいた。今は終わりと始まりの季節なのだと。考えるデンスケだが、その頭の中は思案にふけるよりも感動に浸っていた。
『―――デンスケ。久方ぶりの故郷の花に、心響かせているようで悪いが』
来るぞ、とジャッカスげ告げた直後に影が現れた。その影は木より飛び降り、着地したその足で一直線にデンスケへと向かっていった。
デンスケは涙で滲んだ視界の中、先手必勝とばかりに振り下ろされた襲撃者の木剣を額で受けた。
(気配の消し方は見事、でも早いだけなら―――)
デンスケは心石による障壁を額の一点に展開、そこで剣を受け、インパクトの瞬間に膝の力を抜き、足底に衝撃を受け流すことで頭部に残留する衝突エネルギーを1/5までに抑えながら手を伸ばし、
「なっ」
驚き、硬直する様子を見たデンスケは相手を素人と判断し、広げていた掌を柔らかく握りしめると、敵の顎下で両手を高速で交差させた。打撲痕が残らないよう、僅かに触れる程度の接触に努めて。
顎先を盛大に左右へ揺らされた襲撃者は「くけっ」と間の抜けた鳥のような声と共に、膝から崩れ落ちた。襲撃者の掌から木剣が転がり落ちる音が、周囲に鳴り響いた。
デンスケは動けない敵を前に、「脳震盪が起こったのだろう可哀想に」と嘆きながら自らの心石を紐状に変えた。手早く襲撃者の両腕を背中に引っ張り回し、両手の親指を交差させて紐で結びつけると小さく笑った。
「さて戦利品は、と」
『は、剥ぐのか? というか、随分と手慣れとるようだが……』
動きを止めてから懐を弄ろうとするまでの流れに一切の停滞が無いことにジャッカスがツッこむも、デンスケは笑顔を浮かべるだけで、それを答えとした。
『ううむ……学び舎の入り口らしき場所で入学初日に盗賊行為、というのはちと拙くないか?』
「山賊行為への返礼だからセーフセーフ。どちらかというとイーブンだね」
あっちこっちでおっ始まってるし、とデンスケは指差した。傍目には集団の抗争にしか見えない光景を。
「入学式の前だってのに、なにをぉぉっっ!?」
「も、もしかしてこれが噂の最終試験か!」
「んだらこの、やったらぁぁぁ!」
「はっ、甘めーんだよクソガキィ!」
「雑魚はさっさと帰って寝るですわ!」
「弱い弱い弱すぎんぞイッたれやァッ!」
年の頃は中学生が多いだろうか、それぞれが木剣に盾にと、ちゃんちゃんばらばら喧々囂々している光景を見て、デンスケは微笑ましい表情を浮かべていた。あちらの世界で、大型のモンスターを狩った後に食肉を巡って始まった戦いと似た風景だったからだ。わざとらしく感動するその手には、襲撃者の財布より頂戴した少量の小銭があった。
『……それで良いのか?』
「“報酬は少なすぎてもいけないが、多すぎても面倒くさいことになる”。たまにしか出てこなかった師匠の良き教えは守らなきゃな。うん、適正価格、適正価格」
デンスケは笑いながら、喧騒の中を駆けていった。うつ伏せに倒れながら、襲撃者の女性が出す怨嗟の声に気づかないままに。
到着するなり出身地を聞かれたデンスケは、事実だけを答えた。第7地区の副長ことくたびれたおっさん殿に、今朝方放り込まれたこと。とにかく通えと言われたこと。
予想外の解答だったのだろう、引きつった顔をした教師にデンスケは書類を差し込むように手渡した。困惑した顔が渋面になったのが面白かったと、デンスケは笑う。
(でも、なあ。なんかオレ、昨日からため息吐かれてばっかりなんだが)
『あちらの世界の貴様も概ねそんな感じだっただろう』
デンスケは辛辣なジャッカスの意見を聞き流しながら、案内された教室らしき部屋の隅に座っていた。予備のものであろう、古びた木製の椅子を引っ張りだして、勝手に自分で席を作っていた。
待っていると、続々と新入生が入ってくる。比率的には14、5歳の高校に入学したてという年齢の男女が多いが、デンスケは自分と同じ年頃か、20を越えているだろう者の姿もちらほらと見かけると、安堵のため息をついた。
『ふむ、どうした?』
(いや、浮かなくて良かったなぁって)
15歳で入学可能な学び舎―――高等学校と同じ条件なら、18歳とはダブリというレベルにも収まらないからだ。恥ずかしい想いをせずに済んだと言うデンスケに、ジャッカスは疑問符を浮かべた。
『どういう意味だ? 私には貴様も15歳程度にしか見えんぞ』
(えっ、マジで?)
『というより、誰も気にせんだろう。目立つ容姿でもあるまいに』
辛辣な指摘だが、一理あると思ったデンスケはそれきり黙り込んだ。入ってきた者たちは各々が勝手に座っていく。デンスケはやけに長い時間だな、と感想を抱きつつも一通り観察を終えると、後ろの方の余った席に座った。
きっちりと装備品らしい頑丈そうな服を着込んでいる生徒ばかりの中で、デンスケは自分が思いっきり浮いていることに気づいたが、それはそれで仕方ないと自分を誤魔化した。服が配給されなかったら真っ黒なボロ着のままだった。もっと悪ければ下着姿で来るはめになっていたのだ。パンイチに比べれば許容範囲だろうとデンスケは自分を誤魔化すと、周囲を無視して教壇の方だけに意識を集中させた。
しばらくして入り口の扉が開くと、生徒全員が視線を集中させた。眼鏡をかけ、スーツを着込んだ教師らしき人物は慣れているのか、教壇の所までつかつかと歩き、辿り着いたと同時に生徒達を見回した。
「……少ないな。質が落ちているとは聞いたが、コレほどまでとは」
教師は小さなため息をついた。生徒の数人がぴくりと動き、数人が荒んだ雰囲気を放ち始め、デンスケは言葉の裏を読んでいた。
(ひょっとして、最終試験ってあの襲撃のことか)
『周囲の声を聞く限り、そうであろうな。二年目の者も居たようだ』
その後、教師はジャッカスの予想の通りの内容を話し始めた。新しく分かったのは、襲撃者が一学年上の在校生だった事と、戦わなくても教室に辿りつきさえすれば合格だったということ。逃げ足と運も実力の内、ということらしい。
デンスケはそのあたりの事情に対する興味は消しゴムのカスほどしかなかったので、すぐに忘れた。次に語られた内容が、欲していたものだからということもあった。
「―――それでは授業を始める。まずは歴史についてだ。地区の先任石使いや、口伝が残っている年寄り連中に聞いているかもしれんが、それらは全て忘れろ」
「え………ど、どうしてですか?」
教師の言葉に、生徒の中から疑問の声が飛んだ。デンスケから見ても素直で真面目そうな、やや軟弱な風貌を持つ男子生徒の質問に、教師は呆れ顔で答えた。
「正確なものとは限らんからだ。学校として、こちらは責任をもってハッキリと記録にして残している。比べ、人づての情報や口伝はえてして間違った情報を含むケースが多い」
尤もな理由だった。そして、と教師は質問をした生徒に辛辣な言葉を重ねた。
「他所で誤った知識をひけらかされれば、教育を施した我がスクールが恥をかく。私は分かりきったことをいちいち聞かなければ理解できない阿呆です、と喧伝して間抜けを晒している貴様のように」
「そ、そんな意図は」
「はっきりと最初に告げておく。入学した以上、貴様たちには責任と能力を兼ね備えた石使いになる義務がある」
教師は生徒達を―――特に発言した生徒と、デンスケを睨みつけた。
「狩人か、探索者のどちらを選ぶのか。冒険者にまでたどり着くのか、旅人の域にまで至れるのどうかは知らんが、石に心を交わし、望んでここに来たからには戦技者としての最低限の能力は身につけてもらう」
眼光鋭く告げる教師に、怒りを見せていた生徒も緊張した面持ちで黙り込んだ。
デンスケは頷き、思った。さっぱり分からん、と。
「……貴様、なんだそのとぼけた顔は。聞くフリをしているのではあるまいな?」
「え。いや、そんなことは」
「貴様のような奴が居るから、“所詮はミナミのスクール出身だな”と侮られるのだ。どこの出身区かは知らんが―――まあいい」
時間は有意義に使うべきだ、と教師が告げると授業が始まった。
ホワイトボードに大きく、大空白という文字が書かれた。
「旧西暦2119年の10月21日、16時37分に何が始まり、40分の間に何が終わったのか。それは東歴300年になった今でも明らかになっていない」
教師はボードの“大”という文字を叩いた。
「たったの40分間だというのに、何故“大”なのか。それは、世界に起こった異変が、空前の規模だったからだ。―――貴様達も、地元からスクールに来る途中の町並みは見ただろう? あのほとんどの地域が、異変より前は無かったものだ」
1つ、と教師は指を1本立てた。
「異変が終わったのは17時を過ぎた頃。その時は周囲もまだ暗く、何が起こったのかは一部に留まっていた。全市民が困惑の極みに至ったのは朝方だ。やがて、困惑は大混乱に成った。先日までには無かった町―――建物が、町中のあちらこちらに生えていたからには、当然の反応だろう」
有名な例を教師は上げた。隣の家は山田さんの家だった筈なのに、佐藤さんの表札が張られた家が入り込み、山田さんの家は更に向こうへ入り込んでいた。
「外国人が住んでいた家もあった。極めて少ないが、異世界の人間の家が入り込んでいる例も確認された……この現象をどう思う? 一体、何が起きたのか」
前の席に居た生徒が指されたが、分からないと答えた。もう一人の生徒は、「物理法則が曲がったのでは」と答え、抽象的過ぎると首を横に振られた。
「だろうな。そこのラフ野郎はどう思う?」
ラフって、オレのことか。オレのことだな、と頷いたデンスケは思ったままを答えた。
「この世界と、どこか別世界が融合しちまったとか。ドッキング現象?」
デンスケは降ってきた大陸から連想した。あのまま大地と大地が情熱的な口づけをすれば子供でも産まれかねないし、と少しヤケクソ気味に。
「………方向性としては間違っていない。なにせ、オオサカの面積は異変前の4倍になっちまったからな」
だからか、とデンスケは移動距離が長くなった原因について理解した。単純に移動距離が増えたから、あれだけ時間がかかったのだと。
「ただ、説明できない点も多い。特に元からこのオオサカにあったモノへの影響だ。具体例は、ウメダとアベノの2件が分かりやすいだろう」
ホワイトボードに環状線を模した円がかかれ、上の頂点と下の頂点に☆マークがつけられた。
「アベノ新天空ビルは一目瞭然だな。単純に融合しただけで、ああはならない。ウメダの地下ダンジョンも、規模が規模だ。実はこの2箇所が変異した状況には、似通った点がある。その前に、害獣の説明をしなければならんが」
環状線の内外に、点がつけられていく。
「市内、市外全域で大混乱が発生した後、事態は血を見る所まで発展した。当時の治安維持を務めていた警察も、あまりに想定外の出来事を前に暴徒を抑えきれなかったという」
治めろというのが無理な話だが、と教師は挟み、言葉を続けた。
「市内の食料の残量に陰りが見られ、死者が増え始めた時のことだ。市内のあちこちでまるで獣にやられたかのような凄惨な死体が発見された」
奇跡的に組織を維持していた者たちは情報を集めた後、更なる危機的状況に陥りつつあることを把握した。町の中に、神話や物語の中でしか現れないような、異形の化物が発生し、徘徊していることを確信したからだった。
「午後からの授業で話すが、旧来の銃は最早役に立たない状態に陥っていた。害獣の素早さは、素の人間にとっては驚異的だ。人々は武器を手に持ち勇敢に戦ったが、一戦を重ねるごとに屍が積み上げられていった」
警察機関は瓦解した。治安のレベルは底を抜けた。人々は安住の地を求めて、市内を逃げ惑い彷徨った。
「目的地の1つとして数えられたのが、ハルカスだ。地上に徘徊する獣や暴徒といった様々な脅威から、少しでも遠く逃げようと人々が集まった」
建設当時は日本一の超高層ビルとして名声を集めた建物だった。まだスペースがある筈だと無根拠な希望に縋りたい者達は、危険極まる町中を走り、ビルに逃げ込んだ。
「もう一つが、地下だ。獣は地下では発生しなかった。とはいえ、こもり続けることはできない。当時でいうエネルギ―………“電気”の施設関係はほぼ全滅しかけていた」
ウメダの地下街には独自の発電機が設置されていた。燃料も多く残っていたため、何とか明るさを保つことが出来ていた。だが、困窮した人が集まれば治安は悪化するもの。地下に居ながらにして不安を覚えた人々は、もっと、どこか安全な場所は、と救いの地を求めた。
「前兆は無かった、と今でも伝えられている。いきなりだったらしい。ある日突然、その2箇所が変わったのは」
切っ掛けは似通っていた。
ビルの中に居る人物は発見した。最上階より1つ上のフロアに繋がる階段を。地下街に居る群衆は発見した。地下の地下へと繋がる階段を。どう考えても発生する筈のないものが。
「ある日突然、それまで在ったものにある筈がないものが加えられる。歪み、変質する。その存在が持っている名前、印象、俗説、概念の延長線上に向けて急激に変質する現象」
これらをまとめて、ホワイトボードの☆は★へと、黒く塗りつぶされる。
称して、と教師の口から現象の名前が語られた。
「概念暴走。こいつが、大空白の際に世界を変えた元凶の1つとして数えられている」