3話 : 過去とこれから
“それ”が何処から来たのか、未だに分かっていない。地球産ではないことだけは分かっているが、何がどうなって生まれたのか分からないのだ。
宇宙からの贈り物。神秘の結晶。悪魔のささやき。神の御業。世界のカケラ。異世界からの挑戦状。様々な名で呼ばれたが、それには普遍的ではない、固有の名前があった。掌に収め、握りしめて誓いを交わした時に分かる、その“石”だけの、繋がった者だけに分かる名前が。
“それ”は様々なものを人にもたらした。誓いを交わした者が想い思うことによって、とてつもない“力の塊”が生み出される。それを燃料にして自由自在に世界の法則を書き換えることが出来る者を、石使いと呼び、人と繋がった石のことを心石と呼んだ。
デンスケの掌の中にある、色の無い石と同じように。
「―――剣」
言葉に反応し、デンスケの心石が僅かに輝きを発した。瞬きの間に、デンスケの掌中に無骨な片手剣が現れる。刀身は曇りない鋼の色。握り手の部分に拵えられた柄はなく、ただ荒く太い紐のみが巻かれていた。
それが合図であったかのように、光っていたコンテナから輝きが消え、そこから飛び出す影があった。大きさは、育ちきった大型犬のサイズで、外見には狼の特徴が色濃く出ていた。
副長が語った通り、狩人組合で脅威度3―――程度で言えば新任1年目の狩人は一人で対峙しないように、という分類がされている害獣を、組合ではシティウルフと呼んでいた。
口からは荒い息が漏れ、血走った眼で獲物を探すその害獣の姿は、戦う術をもたない人間であれば腰を抜かしていただろう。
その矛先が、獲物へと向けられた。ただ一声、ウルフは大きく吠え猛ると同時に、地を這う風のような速度で眼前の餌へと走り出した。デンスケは近づいてくる敵を見据えると、その場で迎え撃つことなく強化された脚力を使い後方へ大きく跳躍、トンボを切りながら3頭の位置関係を観察し、両足で着地して見分を始めた。
先程と変わらず、息荒くこちらに一直線に向かってくる敵の姿を見たデンスケは、小さく息を吐いた。
(包囲して来ない、知能が低いからか、飢餓のせいだろうな、その程度の奴ならば―――)
デンスケは瞬時に観察の結果をまとめた。それなりに俊敏で、飢えのせいか凶暴性が高まっていることを考えても、頭を使ってこない狼などただの“据物”と変わらない。デンスケは気負いもせず、敵との間合いを測ると先頭の獣が居る方向へとただ駆け出した。
途中の地面にある腕程度の長さがある廃材を拾い、呼気を一つ。
「しっ!」
デンスケは力を入れて、廃材を先頭の獣に向けて投げつけた。横移動での回避が困難になるように、廃材が水平方向へ回転するように。
駆け出していたウルフの内、先頭の一頭は獲物への到達時間が遅れることを嫌い、走った勢いのまま跳躍した。愚直なまでに一直線に、デンスケの頭にかぶりつく軌道を描きながらゆっくりと距離が近づき―――
「1つ」
その行動を読んでいたデンスケは、ウルフの下にかいくぐるように、すれ違い様の振り下ろしで一刀のもとにウルフを斬って落とし、更に一歩を進んだ。
「2つ―――」
注意力が衰えていたからだろう、1匹目が回避した廃材に頭を打たれ、ほんの少しひるんだ隙を見逃さず、振り下ろした剣を流れるように2匹目の頭へ突き刺した。
遅れていた最後のウルフは迂回し、剣が握られていない方向からデンスケの喉元へ向けて飛びかかったが、
「そう来るわな」
デンスケは刺さった獣ごと剣ごとぶん回し、その胴体を思いっきり横から叩き飛ばした。ぎゃん、という情けない声を上げながら、ウルフは硬球のように描いて飛んでいった。試験をセッティングした、観戦客が居る場所へと。
「―――」
停滞は一瞬。副長の男は軽く片手を上げた。中空を遊泳していたウルフはまるで見えない壁に叩きつけられたかのように、べちゃりという音を立てて止まった後、重力に従って自由落下していった。
デンスケはスイングの拍子に2匹目の獣がすっぽ抜けた剣を片手に、落ちてきた3匹目へと距離を詰めると、袈裟掛けにその胴体を縦に切り裂いた。
その後も油断することなく、剣を構えながらデンスケは宣告した。
「―――3っつ。以上っス、副長さん?」
「……そのようだね」
終了を確認と副長が告げ、言葉を受けたデンスケは剣を解除した。
剣は石に戻り、刀身にへばりついていた獣の血が飛沫となって地面へ落ちていった。
第7支部の建物の最上階に、区長の執務室はある。質素な調度品ばかりが揃えられているその部屋の中央で、赤みがかったショートカットの女性は安物のソファを軋ませながら対面に居る痩身の男に問いかけた。
「では、感想を聞かせてもらおうか。副長、先程の奴の戦いぶりを貴様ならどう評価する?」
「ん~……地味の一言かと」
頭の回転はそれほど悪くはありませんが、と副長は答えた。価値を示せと言われた後の反応と、無駄に敵対しようとしない所も含め、心象点で言えば副長は総括して“可”であると評価していた。だが、武力としては―――
「新人レベルではありません。ですが、それ以外と言われると……やっぱり地味と評価する他ない。私の意見より、区長閣下はどう思われましたか」
「どうもこうもない。見るべき所はなかった」
素人ではないが、警戒に値しないと区長は断じた。
「取り調べの際、私が居たことにも気づいていなかっただろう。最後の一頭のこともそうだが、周りが見えておらん。今も語り継がれているあの三傑はおろか、現三傑とも比べ物にならん」
混沌の極みだったオオサカに舞い降りた者―――三傑。心石をもたらした者。最初の帰還者。三色の災厄。そして、売国奴に裏切り者。様々な名前で呼ばれている者達だが、強さという点では他に類をみないことで今も語り継がれていた。あれは鬼神か魔神の御手だったと。
勇者連合のトップを張る現三傑―――歴代で最強と言われている三色のトップも、人外の領域に達している。2人ともが、その圧倒的な能力を目にしたことがあった。
一方で、デンスケはただの剣1本で立ち回ったものの、あくまで上手く戦ったというだけ。総合的に評価すると下の上、というのが区長の意見だった。
「彼の者達であれば一瞬だ。ランキング下位の者であっても変わらん。炎で薙ぎ払うか、氷付けにして砕くか、一振りでまとめて両断するか、出力で抵抗を突き破り分解するか。方法の違いはあれど、コンマ数秒で戦闘終わらせるどころか、建物諸共に砕いていたことだろう」
組合員の者でも、優秀な才能を持つ者であれば、2秒程度で終わらせられる者も居る。区長の言葉に、副長は小さく頷いた。
「そうですね、それは同感です。何よりも血色が無いというのは、ね」
「無能の象徴だとはっきり言え。性質も普通の形状変化のみだろう、話にもならん。中央府が警戒している者ではあり得ない。……さりとて、それはそれで面倒くさいが」
「所属区が無いのでは、ここで解放しても意味ありませんしね。犯罪者を増やすだけで、ウチの責任問題になりかねませんから……いっそ、ミナミの今期教導所にでも叩き込んでみますか?」
名分は立つと、副長は説明した。今の中央府に書類を精査する余裕はない。キタのスクールは100%無理だが、ミナミの方はどうとでもなると。
「ちょうど4月ですし、不自然さは然程。何より、どう転んでもウチの管轄からは外れてくれますし?」
歴史の授業のことも、各地区から集まった生徒達に一斉に行われる。手間が省けると、副長は言った。区長は少し悩んだ後、小さく呟いた。
「……机上主義の利権バカどもに対する嫌がらせにはなる、か。決まりだな。早々に手配を済ませておけ」
「承知しました。区長閣下は……いつもの日課ですか」
「ああ」
腕が振られると同時、区長と呼ばれた女性の姿が消えていった。その特徴的な吊り目だけが宙に浮いたように、爛々と輝いていた。
「光折乱衣……見えていない自分が言うのも何ですが、見事ですな」
「世辞も洒落もゴマすりも不要だ。最低限の根回しは忘れるなよ、副長」
区長の言葉に、副長の男は敬礼を返した。対する返答はなく、ただ透明になった区長の気配が消えていった。10秒の後、副長は小さな声で呟いた。
「見事なもんだねえ……まったく。大したもんだ、親の恩恵ってやつは」
副長は小さなため息を一つ落とした。もしもあの娘が親から心石を引き継いでいなければ、あの年齢で区長にまで登り詰めることが出来たか、ということを考えながら。
そして、思い出していた。先程の戦闘の光景を。
(確かに、出力は低いの一言だ。性質も恐らく単純な物質変異と肉体強化のみ。一芸特化の偏重貴色でもない、複合色でもない、ただの無色だった)
それは典型的な持たざる者の象徴だ。才能が無い者の総称でもあった。組合にも勇者連合にも、どこにも所属できない無職の象徴と揶揄されているのが、色無しという人種だった。
狩人や探索者になった所で、一ヶ月も経たずに死にかねないぐらいの素質無しだ。素の肉体はかなり鍛えているため、力負けはせず、一刀で終わらせることが出来る程度の攻撃力を保持しているようだが―――と、副長は考えながら違和感を覚えていた。
(取り調べの際、彼が答えた言葉に嘘はなかった。灯りに仕込んでおいた概念素子検知器の反応を何度も確認した。つまり、厳しい世界で戦っていたという証言も真実、本当にあったことだ)
矛盾している、と副長は思った。先程の戦いぶりで、ケチをつけられるのはその素質と出力、能力系統のみだ。それ以外の力量―――特に戦闘時の立ち振舞いは、組合のベテランと比べても遜色なかった。
一手目に距離を取るという慎重さは、痛い思いをした過去を思わせる。間合いを測り、動き出したことはそれなりに訓練を受けた者であれば得られるものだろう。
だが、戦術ばかりは別だ。四つ脚を持つ獣の厄介な点は、低位置からの攻撃と、俊敏な機動力につきる。デンスケはタイミングを測り廃材を投擲することで先頭のシティウルフの武器を一気に潰し、それだけではなく次の行動へと繋げた。
振り下ろした剣を中段に構え、飛びかかるタイミングで狙い済ました突きを放ったのだ。攻防一致の動作であり、それだけでは終わらなかった。
(区長は気づいていないようだが、最後のアレは態とだな。恐らくはこっちの力量を見るため。観察されたのは、2つ……いや、3つか)
反応速度、防御壁の構築速度、防御壁を構築した範囲。出力偏重の傾向がある最近の界隈ではあまり重要視されていないが、使い手どうしの対人戦ではいずれも重要な情報となる情報となる。
終了の合図が出るまで装備を解かなかったこともそうだ。状況を過信しておらず、何時何があっても対処できる態勢を保っていた。
(区長なら弱者の小細工に小賢しい真似だと、一笑に付すんだろうな。そこまで気を張るのは臆病者で、自分の力に自信を持てないからだって)
牙を持たない子豚が獅子を倒すことは未来永劫あり得ない。区長の口癖だ。
だが、それでも―――それでも、と思うことは自由だと副長は思った。
心石の飾り立ての詳細は読み取れなかったが、少なくとも何かに頼った動きではなかった。反復練習でのみ身につけられる、流麗かつ純粋な人の技術など、最近ではそう見られるものではない。それを目の当たりにした副長は、何かを得した気分になっていた。
(人らしい技もそうだが、内面もそれなりに評価すべきかね。ロキオが言っていたのは正しかったな。確かに、ただの犯罪者とは毛色が全く違う)
心石を持っている者には、必ずと言っていい程に自惚れと誇りが同居する。選ばれた立場で積み上げた自負が、時間が、自分の無様を許さない。
だが、デンスケなる男は嫌味を受けながらも、一切の虚言を弄しなかった。犯罪者や鼻垂れの生意気な新人や、跳ねっ返りの組合員への尋問になれた自分が戸惑う程に、取り調べ中の会話で悪意や敵意を見せなかった。
最後の一言も、率直な罵倒のみ。戦闘の後には、怒りもさっぱり消えていた。
調子が狂うな、と呟く副長の口元はほんの僅かだが、緩んでいた。
「心象で加点が10点、かな。ま、それはそれとしてウルフをかっ飛ばした件についてはしっかり減点させてもらうんだけど」
サービスでシャンプーと石鹸の差し入れはしてやるかと副長は呟き、鼻歌を響かせながら支部の廊下を歩いていった。
四方を打ちっ放しのコンクリートで覆われた地下の一室。デンスケは部屋の端にある、床よりはマシかもしれない、という感想が出るベッドに寝転がりながら、ぼんやりと天井を見上げていた。
(……気持ち良かったぁ。つーか何年ぶりだよちゃんとした風呂なんて)
シャワー、シャンプー、石鹸、表面が解れていない、柔軟剤が使われたしっとり滑らかな白いタオル。術法ではない、文明の利器の凄さをデンスケは噛み締めていた。
癒やしをもたらしてくれた副長のことを、ひょっとしたら嫌味な陰険野郎じゃない、むしろいい人かもと讃えながら、デンスケはうっとり顔をしていた。
自分で調節できる湯量、温度に匠の技が見え隠れする細かい水滴。洗剤の完成度も段違いで、デンスケは久しぶりにさっぱりした気持ちになっていた。食べ物は固形の簡易食料しか与えられなかったが、貰えるだけ十分だと、デンスケは満足して寝転んでいた。
(それにしても、疲れた……今日は何も考えたくないな。色々なことがあり過ぎた)
混乱の度合いで言えば今まで生きてきた中で10指に入るほど。デンスケはその中で2番目に憔悴した、何もかもが始まってしまった時を―――こちらから、あちらの世界へ跳ばされた日のことを思い出していた。
―――大阪市内から祖父の居る河内長野市へ移ったのは、両親が事故で死んだ10歳の頃のこと。それまで住んでいたマンションから、新しく出来た新築の我が家へと引っ越しをするために、市内で歩いている最中のことだった。
突き飛ばされた衝撃に、何かが掠って盛大に転がされた衝撃に、真っ赤になった地面を見た時の衝撃。全てが視界を揺らし、心の奥の何かを揺さぶった。デンスケは、その後の記憶はあまり覚えていない。コマ送りでしか、脳裏に焼き付いていなかった。
病院の天井と、木の箱と、焼香の煙と。引っ越しの一ヶ月前、建設途中の家を見に行って両親と一緒にはしゃいだこと。あちらの部屋にこれを置こう、こちらの部屋にあれを置こうと相談していた未来が永遠に閉ざされたという事だけは、当時のデンスケにも何となく理解出来ていた。
2人が居ない状況に慣れるまでは、少し時間がかかった。河内長野に引っ越しして一ヶ月は、祖父に慰められていた。翌月もそうだ。三ヶ月目に、祖父がキレた。
(短気だったよなぁ、じじい………いや、じいさん………じいちゃん)
何故か落ち込んでいることを怒られて、理不尽だと怒りのままに反発して、それからも言葉で殴り合って。
数日おきに繰り返した。言葉をぶつけあう間隔が毎日から毎時、毎分になり。1年後に、デンスケは学校に通うという世間一般の子供に戻ることが出来た。もう何十年も昔のことのように思える、と呟くデンスケの口元は緩んでいた。
あちらの世界での日々は濃密だった。異世界に跳ばされた日のことを、デンスケは今でも忘れていなかった。
世間では老若男女問わず、人間が行方不明になる事件が多発していた。学校から何か言われたような気もするが、デンスケは覚えていなかった。
ただ、祖父からの言葉は覚えていた。
―――病院の帰りだった。あのヤブ医者が、オレは帰るぞと病室で騒ぐ、迷惑なほど元気な祖父の見舞いに行った。病室で他の患者に謝りながら部屋を後にしようとした。寄り道するんじゃねえぞ暗くなる前に帰れと照れくさそうに告げられた。
デンスケはその通りにした。電車が少し遅れたせいで、最寄り駅に到着したのは昼間から夜になりかける時間帯だったが、まだちょっと明るいからセーフと言い訳をしながら駆け出した―――その時だった。
(予兆は無かった、いきなりだ。でも、もしも、オレがあの時に見た光景が間違いじゃなかったのなら)
駅からの帰り道、慣れた道だった。平地で、転ける理由は皆無の筈、だというのに踏み出した足は行き場を無くした。ぽっかりと、地面に大きな穴が開いていたのだ。
あった筈の地面が踏めないという奇妙な感覚に焦る間もなく、自分はは落ちていった。デンスケはその最中、宵闇の空に見たものを思い出していた。
星を覆い、月をも隠す、空から落ちて来る“大陸”を。
思い返し、デンスケは呟いた。大きな地面以外の例えが思いつかない、インターネットで見た衛星写真の地面そのままが空から現れた。記憶違いか、厳しい生活で強迫観念にかられて作り上げた思い込みか、世界を越える時に見た訳の分からない幻覚の類だと思っていた。
(そう信じたかったオレは、自分を偽ってた。気休めにしかならない嘘は、いつもろくな結果しか産まないのに)
帰りたかった―――平和な故郷へ、日本へ、祖父が居るあの家へ。何も変わらない日常が戻ってくるのだと、根拠もなく信じきっていた。めでたしめでたしで、異世界旅行の日々は締めくくられるものだと決めつけていた。
『―――だから言ったではないか。貴様が願う平和など、夢のまた夢に過ぎんと』
突然入り込んできた声に、デンスケは飛び起きた。忘れようもない、あちらの世界で何度も聞いた、こちらに居る筈のない者の名前をデンスケは叫んだ。
「ジャッカス?! 死んだ筈じゃ―――くそ、マジで居やがる!」
デンスケは、目の前に現れた、線で出来た小人―――見た目は棒人間以外の何者でもない旧友を見ると、頭を抱えた。
『お陰様での。一歩手前まで逝ったわ、ボケスケ。照れ隠してにしてもあそこまでギンギンに封印を強めるか普通。あ、今舌打ちしたな貴様』
「悪いかよ。つーか、なんでここに居る。え、え、え………エリルに預けただろ。最後、別れる時に」
『……その年で健忘症か? まあ良い。答えは簡単だ。どさくさに紛れたのさ』
貴様の得意技だろう、とジャッカスこと棒人間が腕を組みながら嗤った。デンスケはその口調から、さては身体の欠片を剣か槍にこびりつけてやがったな、と種を見破り舌打ちをした。
「心石の余波を吸収したのか。相変わらず、血反吐よりしつこい奴だな」
『貴様のネーミングセンスほど酷くはないがな。それで……ここが貴様が語っていた故郷とやらか』
ジャッカスはコンクリートで固められた質素な部屋を見回した。
『……成程』
「待て、納得すんな。ち、違うから。ここは普通の場所じゃないから、特別な部屋だから」
『ああ、うん、特に別ね。了解した』
「変に素直になんなや」
それからデンスケとジャッカスの間で嫌味の応酬が続き。ジャッカスのため息と共に、罵り合いは終わりを迎えた。
『私がここに居るのは頼まれたからだ。“どう考えても私よりアイツの方が一人にすべきじゃ無い人間でしょ”、と言伝を受けてな』
「………お節介エリルめ」
最後まで敵わなかったな、とデンスケは俯いた。
『貴様の師匠の師匠も言っていただろうに。どだい、男が女に敵おうなんて無理な話ということだ』
「うるせえよ男女不明生物が。それで、何か用でもあるのか?」
『呑気なことをほざいている場合か―――らしくないと言いに出てきたのだ』
勝算はあるのだろうと、ジャッカスが言う。デンスケは、続くであろう言葉を推測し、即座に否定した。
「あるけど、すぐにはやらんぞ。少なくとも品定めの結果が出るまではな」
『……シャンプーとやらが脳まで回ったか? 弱い立場だというのに受け身で居続けることの危うさが分からない貴様でもあるまいに』
情報不足だとしても、身柄を拘束されて良しとし続ければ抵抗できない所まで落とされる可能性が高まっていく。見切りをつけて強引に逃げ出し、潜伏する方が事態が好転する可能性もある。ジャッカスはその選択肢を考えずに、消極的になっているデンスケに腹を立てていた。
『普通の扱いにはならない。それが分かっているのだろう? 平和主義に目覚めたとは考えられん。率直に聞くが、何が狙いだ』
「別に何も。ただ、副長の男の目を見ただけだ」
取り調べの時もそうだが、試験だという戦闘の最後に副長なる男が見せた目をデンスケは思い返していた。
頭から決めつけるのではなく、自分を見極めようとする目。観察する瞳だった。そのどちらかは分からないが、自分という人間を人として見ているからこそだと、デンスケは嬉しそうに笑っていた。
「畜生以下の扱いするなら考えたさ。でも、人として見られてるなら、自分勝手にやんのは止めだ。どういう事をやらされるのかは分からんけど、格好だけはつけるさ」
『……爺さんの教えの通りにか?』
「ああ。数少ない教訓だ。今更、じいさんに化けて出られても困る」
ダさい真似はしない、格好をつけろと教えられたこと。デンスケは少し寂しそうに言いながら、ベッドの上で寝転びながら足を組んだ。
「それで? いい加減、本題に入ってくれよ」
『分かった。とは言え、私に預けられたメッセージを貴様に伝えるだけなんだが』
ジャッカスは沈黙したデンスケに構わず、告げた。
『“見てられないから、爺さんという人に会いに行きなさい。肉親とかそういうのはいいから、ケジメつけて。死んでいるなら、墓に参ること。そうすることで、アンタはようやく最初の一歩を踏み出せる”』
声色まで正確に再現された言葉を聞いたデンスケはただ一言、エリル、と言葉を託した人物の名前を呟いた。
続けて、二人目の言葉が再生された。
『“故郷に戻れたら、黒シャツに黒のジャケットはやめておけ。言い出し難かったけど、やっぱ暗いし重いしクソダサい”』
淡々と事実を並べる口調はただ一人、師匠と呼んだ人の他には出せない味で。デンスケはボロいシャツにダサいジーパンのおっさんスタイル貫いたあんた程じゃねえよ、と悪態をついた。
『あとは……“お前らしく”と。それだけだ』
「……それだけか?」
『ああ、それだけだ』
「……それだけ、か」
何を思って自分を助けたのか。育てたのか。果ては、命まで懸けてくれたのか。それはもう永遠に分からない。会えた所で、教えてくれないだろう。秘密主義で、最後まで本心を明らかにしない男だった。
あとは、いい加減だった。真面目に生きるつもりは毛頭ないと、顔を見れば分かった。だが、師匠だった―――色々と生き方を教えてくれた恩人だった。もう二度と、誰かのことを師匠と呼ぶことはないだろう。良し悪しはあれど、それだけのものを残してくれた人だった。
故に遺言なら聞くのも吝かではないと、デンスケは全て果たすことを決めた。
ひとまずの目標は、家の裏にあるであろう祖父の墓へ参りに行くこと。
服も、度重なる戦闘で限界が訪れている。着替えて、気分を一新すればこの困惑も少しは晴れるだろう。
そこからは、自分らしく。
かつてより変わらず、これまでと同じようにこれからも。
―――通常では考えられない獣が居ること。
―――それを倒してのける者や、封じ込める術を持つ者が居ること。
―――何より、あちらの世界と同じ、心石があること。
嫌な符号も何もかもをひとまずは腹の中へと飲み込み。
大したことはないぜと心の中で繰り返しながら、デンスケは戻ってきて初めての夜の夢の中へ意識を落としていった。