27話 : 爪牙の語らい(後編)
「……美味しいね」
「はい……とっても、美味しいです」
拠点の2階で、アーテとブレアは食事をしていた。デンスケについてくるなと言い付けられたからだった。自分たちは仲間だと言ったのにどうしてついていってはダメなのかと、二人は何度も主張した。だが、意見は聞き入れられなかった。
デンスケの横暴に怒ったブレア達は、報復といわんばかりに昨晩にスミネが作った美味しいおかずを食べ始めていた。
アーテは小さな手で持った茶碗の中の合成米を辿々しくも箸で掴むと、口元に運んでいく。条件反射のように、舌がおかずを欲する。アーテは皿に盛り付けられた煮魚をほぐし、ぱくりと食べた。
――調味料は安物の合成もので、魚も市場で一番安かった、鮮度が悪いカレイ。だが、スミネが調理したカレイの煮付けは、文句無しの美味だった。
素材や調味料が悪くても下処理から調理までを完璧にすれば、と宣言したスミネが昨夜に振る舞ってくれたのだ。安い調味料にはありがちの雑味は少なく、魚の美味しさが魔法のように口に広がっていく。こちらの世界の食事に慣れていないアーテ達でも絶賛するほどだった。
ブレアも、アーテと同じように無言のまま煮付けをぱくぱくと食べていった。丁寧に魚の身をほぐし、綺麗な所作で口へ運んでいく。
―――裾を捲った腕で、小皿に入れた出汁を口に、塩加減を整えている姿を。
―――久しぶりだから自信がなかったんだけど、と照れくさそうな様子を。
―――ようやく1つ勝てた、とテーブルに突っ伏していたデンスケを見てにんまりと笑う顔を。
思い出しながら、二人の箸は進んでいく。そうしてアーテより先に食べ終えた後、ブレアは窓の外を見ながら呟いた。
「……美味しかった。もう1匹食べたいくらいに」
「はい……でも」
二人は何かを言おうとして黙り込んだ。
残っていたジャッカスは、代弁するように語った。
『けど、作り方は教わってないのだな。このまま帰ってこなければ、二度とこの煮付けを味わえない訳だ』
「そう、ですね。スミネさんが帰ってこなければ………永遠に」
狩りから帰ってくれば、とスミネは約束した。だが、命をかけての戦闘に絶対はないのだ。デンスケの口癖で、アーテ達も分かっていることだった。イレギュラーは必ず起きる、問題はどこまで即興で対応できるか。できなければ、その時は―――
『反省は一瞬で済む。だが、後悔は一生どころか死後までついてまわる……悪ければずっと、ずっとだ』
ジャッカスはいつもとは異なり、真摯な声で問いかけた。永遠と一瞬、嫌な想いをするのならばどちらを選択するのか。
考えるまでもないと、二人は椅子を引いて立ち上がった。
「美味しいものはきっと正義―――だから、これは仕方ないこと」
「はい、仕方ありませんね」
アーテとブレアは視線を交わして頷き合うと、テーブルの上の食器を残したまま拠点の外へと駆け出していった。
「そこのォ! てめえもさっさと去ね!」
罵倒と敵対的な色の心素がデンスケに向けられた。狼と近くで対峙しているデンスケは一瞬だけ背後を見た。それだけで、小さな舌打ちと共に乱入者の説得を諦めた。既に攻撃用の方陣が展開されているだけではない、背後に居る3人の内の2人の形相と目を見たからだ。スミネと同じ手合か、と呟きハッとした表情で後ろを向いた。
「フリーズ・バレット―――避けてね?」
「っ、ふざけんなぁ!」
長髪の女は退避を待つのではなく、事後承諾で術をぶっ放した。前後両方の防御が出来ないデンスケは盛大に罵倒しながら、全力で横に飛んだ。
直後に、尖った氷の散弾がデンスケが居た場所を通過。そのまま何十もの鋭い氷の弾丸が先端を光らせながら、狼に襲いかかった。
狼はデンスケと同じように跳躍して回避したが、散弾の中の数発が途中で機動を変え、狼の胴体に命中した。
狼が僅かだが仰け反り、血の数滴が宙に舞った。だが、狼に堪えた様子はなかった。むしろ戦意が増したかのように赤い瞳に殺意をたぎらせ、横入りをした者達へ向けて走り始めた。
単純な移動速度という点では、この中に居る誰よりも狼が上回っている。引き離され追いつけないデンスケを一瞥もせず、狼は不規則に左右に跳躍しながら、間合いを詰めていき、舌打ちをした弓を構えた女が叫んだ。
「タケヒコ、カバー!」
「分かってる!」
途中で止めるのは至難の業だと、前回の戦闘で学習したが故の即断。弓を持ったショートカットの女性の指示に従い、包帯だらけのザンギリ頭の男が応えた。前に出ると両手に持った大剣を掲げ、大量の心素が注ぎこまれた障壁が眼前に展開された。
―――衝突音。
狼の両の爪と障壁がぶつかり、余波は部屋の大気を揺るがせた。数秒続いた競り合いは、障壁の方が勝った。諦めた狼が飛び下がり、着地する直前に獣を殺意が襲った。
「そこっ!」
気勢の声と共に、放たれた弓矢が空を裂いた。瞬きほどの速度で飛来した矢が地面に突き刺さったかと思うと貫通し、階下へと抜けていく。
「空中で、姿勢を―――」
「尻尾だ!」
デンスケが叫ぶ。狼は尻尾を地面に叩きつけた反動で横に移動したのだ。音から察するに、尻尾だけで相当な重量がありそうだと、デンスケは警戒を更に高めた。
「なら、まとめて焼くだけだ―――エミ!」
「分かってる」
長髪の女は答えると、先程の3倍はある方陣を展開し始めた。真紅に染められていくそれを見たデンスケは顔を引きつらせながら、ようやく辿り着いたスミネの隣で手を突き出した。今にも抜き放ちそうになっていたスミネの刀を柄を抑えるために。
「―――『束ねられし紅蓮の祝宴を今ここに』」
チリチリと、離れていても熱を感じるほど。力がこめられた声を前に、狼は低く唸り声を上げて応えた。
「『怨敵は我の眼前に―――肉を焦がし骨は灰に血の全てを煙に変えその存在全てを焼滅させよ』」
言葉と共に、方陣が揺れていく。宣言の通りに、全てを焼き尽くす炎の蛇が女の周囲で踊り、そして。
「これで終わり―――『火禍煉獄束炎蛇』」
宣言と共に、変換された炎が収束した蛇が放たれる。デンスケは詠唱と形状から推測していた。恐らくは対象に巻き付き、捕縛しながら全てを蒸発させる火の系統の心言魔法。
逃げ場ごと潰してやると言わんばかりに、わななきを上げた炎の蛇は八方から狼に迫った。離れていても呼吸が少し乱れるほどの熱量、直撃を受ければ狼とて無事には済まないだろう。
狼も理解していたのだろう、当然のように防御を捨てた。
迷わずに方陣を展開する。相殺するつもりか、とスミネが呟く。
今更遅いと、エミとその仲間達が酷薄な笑みと共に告げようして、その表情が驚愕に変わった。狼の真下、その周囲の床だけに穴が空いたかと思うと、狼が1階に逃げていったからだ。
「しまっ―――」
た、と告げると同時に炎の蛇は着弾した。誰も居ないコンクリートの床を焼き、穴の側面を熱した。中にある鉄筋が熱で膨張し、周辺のコンクリートに罅割れが伝染していく。物理的な衝撃も相当で、2階に居た全員が建物に生じた揺れに翻弄される。デンスケとスミネも、転倒しないようにと両足で踏ん張っていた。
揺れは数秒続いた。収まった後、大剣を持った男は開かれた穴を見ると舌打ちをして、女の方を見た。
「追うぞ。今度こそは油断しねえ、キリジの墓前にあいつの首を持っていく」
「分かっ………なに、これ?」
長髪の女は周囲に漂う紐を見て、訝しげに。正体を確かめる前に、漂っていた紐は女の身体を両腕ごと縛った。
「えっ――?!」
直後、紐が勢いよく引っ張られて女の身体が宙を舞い、女が立っていた床が砕かれたかと思うと逃げた筈の狼が姿を現した。
「なっ?!」
驚愕に、短髪の女が硬直する。近くにいた男はコンクリートの破片を防ぐために障壁を展開した。守りに入った訳ではないのだろう、来るなら来やがれと狼を睨みつける。狼は男を嘲笑うかのように背を向け、弓の女に向けて襲いかかった。
尻尾を叩きつけ、反動で一直線に。女は急ぎ弓を構えようとするが、狼の方が圧倒的に早かった。すれ違いざまに、牙を一閃。着地の音と共に、狼は更に駆け、噴水のような音が女の首から。
「……あ」
間の抜けた声と、頸動脈から勢いよく飛び出ていく血。男はその光景を見て呆然とした後、憤怒に顔を歪めた。
「ま、た―――俺の仲間をやりやがったなクソ狼ィィっッッ!」
怒りと共に放出された心素が大剣に収束していく。余波で埃が舞うほどに、強く。デンスケにも出せない出力で、まともに当たれば狼でもただでは済まないだろう。
対する狼は真正面から男に挑んだ。男は、大剣を振りかぶり殺気を全開にする。やがて両者は真正面から―――衝突しなかった。狼が途中で横に逸れたかと思うと、途中で止まったからだ。
突っ込んでくると思っていた男の大剣は盛大に空を切った。全力の一撃はそのまま床を断ち割り、余波で大量の埃が舞う。
残されたのは決めるための一撃を外し、死に体となった無防備な間抜けの姿。狼は無言で男の足元までの方陣を敷き、やがて心素のような黒いものがこめられて、
「ん邪魔ァ!」
横合いから放たれたデンスケの渾身の飛び蹴りが、男の側頭部を直撃した。
防御の心素まで攻撃に費やしていた男は、吹き飛ばされ、床に叩きつけられるとそのまま転がっていった。
「グルアッ?!」
命中する筈だったのに、と方陣術を行使した後の狼が戸惑いの鳴き声を上げた。成果がなかった訳ではない。完全に回避することは敵わなかったのだろう、転がっている男の右手の指の先が削れていたが、全身と比べるとその差は明らかだ。
デンスケは蹴った勢いのまま跳躍していたため、無傷。それでも最初の攻防で負った傷口から血が流れ出ていたため、万全とは言い難い。
殺意が再びこちらに向けられるのを感じ取ったデンスケは、スミネに向けて叫んだ。
「―――スイッチ! 20秒稼げ!」
「っ、了解!」
入れ替えの合図を受け、スミネは前に出た。口元に鬼のような笑顔を浮かべながら間合いを詰め、デンスケに注意を向けていた狼へと側面から襲いかかる。
デンスケは心配そうな表情のまま、レベル1ポーションを飲み込んだ。ごく、ごくりと2秒で飲み干し、空の瓶を捨てながら移動し、唯一残った長髪の女へ話しかけた。
「最初の散弾頼む、合図したら撃て。これ以上余計なことはすんな」
「……横入りは私の意志じゃない。撃ったら私は撤退する、それでも構わないわね?」
「好きにしろ。ただ、二度目はないと言っておく。横合いから横取りしようとすればそのまつ毛を全部引っこ抜くぞ」
「斬新な脅し文句ね? ……分かったわ」
女の回答を聞いたデンスケは、再び前へ。傷を負い始めていたスミネを助けるように、横合いから狼に襲いかかった。
早いだけの蹴りを放ち、軽い衝撃で狼の行動を制限する。スミネは後ろに飛び、懐からレベル1ポーションを飲むと最初と同じように居合の構えを取った。
「しっ!」
「グルアァッ!」
呼気と共に、攻撃が交錯する。デンスケは至近距離で攻撃を交換しながら、狼のダメージを量った。
最初よりも鈍った動きから考え、散弾と障壁、心言魔法を凌ぐのは無傷とはいかなかったようだ。注意深く観察すれば傷口と、焼けて爛れた部位が少しだけ見えた。
回復のためだろうか、男に放った方陣術法も喰うことが出来たのは指の先の一部だけ。ほんの少しだけ成長したかもしれないが、身体を襲う痛みが勝っているのだろう、デンスケは狼の動きが精細を欠いていることを見抜いていた。
それでも、まだ相手の方が強い。傷口を狙った攻撃を幾度も放ち、その内の数発が命中したが悶絶することはなく、逆に勢いが増しているようだった。
手負いの獣の恐ろしさが、そこにはあった。撤退は難しいと考えているのだろう、逃げる素振りさえみせない。多少の怪我は承知の上でこちらの命を喰いに来ている。直感かどうかは知らないが、人体の急所を、太い血管がある場所を重点的に削ぎに来ていた。
(更に、激しく………っ!)
デンスケは顔をしかめながら応戦した。傷の影響がなければ、手足の1本は覚悟しなければならなかったかもしれない。
だが、痛みがなくなったりはしない。手傷と負傷があれば動きが鈍るのが道理だ。自分は痛みに強いと自負する者や、痛がる怪我人を嘲笑う者は、大抵がその傷を負ったことがないから言えるのだ。肉を裂かれて焼かれるか、骨を折られた者の戦闘力が下がらない筈がないのだ。一握りの例外を除いて。
無才能と断じられたデンスケだが、2つだけ師匠から認められた才能がある。その内の1つが“痛みに強い”というものだった。我慢強い、愚直、怖がりなどと揶揄されたこともあったが、師匠が褒めることは滅多に無かったため、デンスケははっきりと覚えていた。
(根比べだ、クソ狼―――どっちが我慢強いか)
治りかけた傷口に新たな痛みを負っても、デンスケの動きは止まらない。鈍ることもなく、1つ1つ、確実に狼の傷の跡をなぞるように拳や蹴りを当てていく。
互いの血が流れ、されど部屋の中に響くのは狼の悲鳴のみ。有利を悟ったデンスケは、瞬時に勝利までの戦術を組み立てた。
このまま消耗させ、判断力が鈍った所を長髪の女に狙わせる。先程よりも、散弾は多く命中するだろう。そこをスミネの一撃で決する。待機しつつ狼を睨むことで、スミネの心素量は蓄積され続けている。そこに刀が持つ元来の切れ味が加われば、強固な皮膚と筋肉を持つ狼とてひとたまりもないだろう。
これなら、と考えながら戦っているデンスケに、その好機が訪れた。
見るからに動き鈍った狼が足をもつれさせたのだ。デンスケは知覚と共に一歩踏み込んだ。右手の拳で捻り込むような一撃を直撃させて、引く。衝撃が残留する一瞬に、返しとなる左手の掌底を叩き込んだ。
逆回転での一撃が狼の肉体の表層で弾け、衝撃が伝播する。吹き飛んだ狼に、デンスケは右手を上げて術士の女へと合図を出した。
―――だが、方陣は展開されなかった。見えたのは、仲間を見捨てて窓の外へと逃げていく女の後ろ姿だけ。
「まずっ―――くそ!」
デンスケは驚くより前に、走り出していた。血を吐いた狼が、地面に転がっている獲物を見て走り始めたからだ。
狙いを看破したデンスケは狼の切り札である方陣を展開させまいと、身体強化を限界まで高めた。一瞬の内に10mを踏破し、残るは5歩の間合いまで詰める。
狼は追いつかれると思ったのか、迎撃のために今まで使わなかった尻尾での攻撃を放った。食らった心石使いから取り込んだものだろうか、あちこちから刃が生えている尻尾を伸ばしたかと思うと横薙ぎに。まともに受ければ切断は免れない尻尾での斬撃が、デンスケの横っ腹を目掛け唸りを上げて襲いかかった。
「そ、こだぁぁぁっ―――!」
デンスケが取れた対処方法は2つだけ。右手の仕込み手甲で防御する事と、物質収納で収められていたものを取り出すこと。
取り出された2つの壺が狼の眼前に飛び込んだ所で、方陣術が作動した。進路上にある男の肉体と壺をまるごと飲み込み、我が者にせんと一瞬で食らい付くした。
デンスケは着地し、体勢を整えると狼を睨みつけた。目をそらせなかったからだ。男を喰ったからだろう、明らかに威圧感が増している。火傷の傷口はまだ残っているため完全ではないだろうが、怖気が走るほどの心素量が狼の周囲で渦巻いていた。
「だけど、効いただろ……それなりに高かったんだぜ?」
そう、渦巻いている―――まるで制御しきれていないように。その様子から色々と看破したデンスケは「感想を聞かせろよ」と小馬鹿にしたように笑いと共に告げた。
「全部飲み干した感想だよ、聞いてんのか? ……度数99%のアルコールと毒薬の豪華盛りだ。さぞ美味しかったろうなぁ」
言葉の直後、狼の足が大きく揺らいだ。今までにない様子で、身体をよろめかせる。泥酔した酔っぱらいのように、千鳥足になっていた。傷口からは変な色の血が滲んでいた。恐らくは取り込まされた毒の効果だろう。そこにアルコールが加えられたことにより、即効性が生じているように見えた。
(最初は酒の壺で判断力を低下させた所を、毒を喰らわせて決めるつもりだったが)
デンスケは咄嗟の判断で一気に放出したのだが、良い結果に繋がったと安堵のため息をついた。残りは、トドメだけだ。
スミネの刀にこめられた心素量は、既に限界に近い所まで蓄積されている。
あとは決定的な機を作り出すだけ。だが、今の狼は戦闘力だけで言えば先程よりも数段は上だった。毒が回っているとはいえ、有り余る力を正面から叩きつけられれば、自分でも防ぐことは難しい。
突進を受ければ一撃で折られる。手か足か、受け流した所で大きく傷めつけられる。爪が直撃すれば、などと考えたくはない。輪切りどころではない、部位ごとはじけるだろうから。
(遠距離からの攻撃方法が無いことはないだろうが、もう1手……)
デンスケは周囲を見回し、使えるものを探した。目的のものはすぐに見つかった。デンスケはスミネに近寄り、作戦を説明した。
「内容はさっきとほぼ同じ。オレが矢を当てて注意を引きつける間に、スミネが決めろ。心配するな、当てる術はある……スミネの方が危険な役割になるが」
「問題ありません……戦いを望んだ私が命を賭けるのは、当然の役割ですから」
そして、とスミネは横たわった死体を見ながら呟いた。
―――あれは自分だ。あのまま一人で復讐することを選択した自分の末路だ。横入りには腹を立てたが、死者を悪し様に語った所で不毛に終わるだけ。それよりも、自分の仮の姿を知れたことをスミネは感謝していた。
「……分の良い賭けになる所まで連れて来て頂きました。断る理由なんてどこにも無いんですよ、本当に」
スミネは感謝の念をこめ、微笑みながら答えた。デンスケはその顔に一瞬だが見惚れそうになった。初対面の状態と今までの仏頂面を思い出せば詐欺だと訴えられそうな変化っぷりだったからだ。
「……やりましょう。大丈夫、外しませんよ」
「こっちこそ。それに、ゆっくりしている時間も無さそうだ」
デンスケは狼の周囲に漂っていた心素が、徐々にだが落ち着きを見せていたことに気づいていた。体内の毒素とアルコールを急激に分解でもしているのだろうか、詳細は不明だがこのままでは最悪の事態になりかねない。
「―――行くぞ」
「了解」
最後だ、と告げてデンスケは弓の女の死体がある場所へ走った。出血多量と頚椎損傷で、女は既に死んでいた。デンスケは床に広がっている血に手を当てると、心石を弓の形に変えた。
―――心石の能力と命の定義は、人それぞれだ。誰もが自分の考えを持ち、それを元に能力を組み立てている。強化の度合いも異なるし、方向性も異なる。方陣術を使う際の色の変化の速度や深さもまた異なる。
魂の性質によって異なるのだ、とは誰か言っていたか。デンスケは思い出せなかったが、命の定義については自分なりに見出していた。
(血だ。命の想いは、念は、血にこそ宿る)
自分から流れ出ていく血、大切な人から流れ出ていく赤色。尽きて止まったそれを見たデンスケは、血こそが命の源であると感じた。修行の途中や、あちらの戦闘の時に死にかけた時もそうだ。傷口から零れ出る熱と鉄の臭いから、それこそが命の雫であるとデンスケは定義した。
他の誰かの意見や科学的根拠など関係ない、自分が思うから“そう”であると。心石使い特有の出鱈目さで、デンスケは鏃を作成し始めた。狼を恨みながら死んでいったであろう女の血を取り込んで形成した、鋭く尖った矢を3本。
それを口に咥えながら、残る心石を短弓に変異させた。女が持っていたものと同じサイズにしたのは、それなりに同情する想いがあったからだ。立ち上がり、1本目の矢をつがえる。
デンスケは親指の腹に矢を乗せながら、弓の向こうに狙いを定めた。狼を中心に添えながら横を見る。スミネは既に位置についている。全身を限界まで強化した状態で、殺意は完璧に一点に集中をさせながら、ゆっくりとその時を待っていた。
これならば、きっと。デンスケは期待と共に矢を引き、放った。
ピィン、という甲高い音と共に矢が飛ぶ。
狼は音でそれに気づき、回避しようと横に飛んだ。毒が残っていたため僅かに2m程度の跳躍。だが、1本の矢を避けるには十分と油断し―――その報いを受けた。
デンスケが狼の回避行動を予測していたこともあったが、矢に意志があるかのように、狼その方向を狼へと自ら変えたように見えた。
「ギっ―――グルアアアアァァッッッ!」
部屋を震わせる、痛みの叫び。狼は怒りの咆哮と共に、デンスケへと襲いかかった。
逃れられないと判断しての行動、しかしコンマにして6秒ほど遅かった。1本目が命中するかどうかを見極める前に、デンスケは次の矢をつがえていたからだ。
(―――つがえるとは、番えると書く)
かたく約束する、という意味もある。横に居る死者とは面識もない。それでもデンスケは無念に散った狩人に約束できることは1つだけだと、彼女の遺志を矢に乗せた。
甲高い音と、2発目が突き刺さる音。目に刺さった一撃に、距離を詰めようとしていた狼が一層大きい悲鳴を上げた。
デンスケはその姿を捉えながらも、哀れみは覚えなかった。誰しも譲れない一線はある。自分が望んでいたかもしれない、新しい住居。両親がいれば叶えられていただろう、新居での幸せな日々。女々しい模倣と思われるかもしれないが、それでも同じように居場所から追われた仲間と一緒に作り上げようとしていたのだ。
そんな、新しい帰る場所の門前を汚した者を、デンスケは許すつもりはなかった。
(その全てを、矢にこめて)
弓の向こう側に殺気を叩きつける。だが、それで退くような狼ではない。
決死の形相で距離を詰めると、矢の狙いを外すためだろう、大きく跳躍した。鋭い爪牙を前に、空中からデンスケに襲いかかる。
だが、鏃の先は既に狼に向けられていた。
「―――詰みだ、ケダモノ」
言葉と共に放たれた矢が、狼の口の中に突き刺さった。同時にデンスケは弓を変異させて、大きな金槌へと姿を変えると、遠心力を乗せて思い切り狼を叩き飛ばした。
矢の痛みで一瞬だけ呆けていた所を狙っての一撃は、見事に顔面へと直撃。デンスケは反動で腕の筋肉が少し千切れる音を聞いたが、構わずに振り抜いた。
無防備に、仰向けの状態で狼は宙に。その着地点へと、駆ける姿があった。
「一意専心、一撃必殺、因果応報―――」
自然と出た声と共に、スミネの腰にある鯉口が切られた。チャキリ、という音と共に刀から膨大な量の心素が溢れ、収束していく。
―――華山院墨音は走りながら、喪った仲間の笑顔を幻想した。
無口だけど誰よりもタフで、笑顔は無邪気な子供のようだったセイレ。作った料理を何度も何度も美味しい美味しいと食べてくれた。嫌な予感がすると言った時に、従っていれば良かった。そうすれば、もう一度料理を振る舞って、あの可愛いセイレの笑顔を見ることができたのに。
ゴメンね、と申し訳がなさそうに、それでも笑いながら死んだイズミ。いつかビッグになる、と言いながら大きな胸を揺らした時のことは忘れない。挑発しているのかと、胸ぐらを掴み合ったことも。人付き合いが苦手だった自分は、イズミが強引に引き回してくれなかったら、犯罪者か外人に落ちていただろう。
同時に失った。仇を取るためならばこの命をかけても、と誓ったけれど失ったものは大きく、落ち続けた挙げ句、仇討ちまでの距離は更に遠くなった。
だけど、今この時にたどり着けた、ならば。
怨敵までの最後の1歩は、コンクリートに罅が入るほどに踏み込みだった。
よくも、という言葉さえ使わない。スミネは胸の中にある全てを殺意に変え、大きく吐いた息と共に刀を抜き放った。
刀の重さだけではない、存在さえ消えたかのような会心。今までの頑強さが嘘だったかのように、放たれた居合斬りは狼の腹から頭部にかけてを一直線に両断した。
確認するまでもない、絶対たる絶命の手応えにスミネは狂喜し、表情を緩ませ――直後に腹を襲った狼の尻尾の一撃に打たれ、後ろに吹き飛ばされていった。
視界が床と天井を交互に映していく。自分が転がっているとスミネが気づいたのは、止まってからだった。次に襲ってきたのは、腹部を覆う激痛。あちこちを擦りむいている筈なのにまるで気にならないほど、腹部からの痛覚の訴えがスミネの頭を占領していた。
声を出すことさえ出来ない、呼吸さえもままならない。だが、なんとしてもとスミネは横に転がった。そこで死体となった狼を見て、状況を把握した。
(きられる、まえ、に……はなったの。とっさの、こうげき……が?)
攻撃に集中するあまり気づいていなかった。だが、スミネは上等な結果だと、満足した笑みを浮かべていた。
刺し違えられるのならば、ずっと良い結果だと。このままここで死ぬのだと確信した上で、駆け寄ってくるデンスケに向けて笑みを向けた。
「おい! おい、しっかりしろスミネ! ……くそっ!」
一瞬の攻防だった。狼は既に絶命している。だが、後ろからくる自分の死神の気配を察知していたのだろう、最後の悪足掻きとばかりに、クソ狼はクソ以上の置き土産を残していった。
恐らく、スミネは全く見えなかっただろう。着地寸前、地面を這うような軌跡だった。その下からの尻尾での一突きは半ば鞘に当たったものの、致命傷を負わせるには十分な威力だった。デンスケはスミネの状態を見ると、迷わずに万が一のためにと用意していたレベル2のポーションを取り出した。
「飲め。おい、聞こえるか? ……ありがとうじゃねえよバカ!」
デンスケはうわ言のようにありがとうと繰り返すスミネの顎を引っ掴むと、ポーションを流し込んだ。スミネの身体が光り、怪我が治っていく。
「……くそっ、やっぱり足りねえ。せめてアーテがいれば……!?」
デンスケは聞こえた声に、勢いよく振り返った。夢じゃないかと疑ったが、青い顔でこちらに駆け寄って来ている姿を見るに、幻覚の類ではなかった。
「デンスケさん!」
「……全部、後だ。助かったのは事実だから」
事は一刻を争うと、デンスケはスミネを見た。医療について正式な教えを受けたことはない。だが、長年の経験がデンスケに訴えていた。時間との勝負になるのはあと3分程度で、過ぎればどのような対処をした所で無駄に終わると。
(違う……現実から目を逸らすな。アーテの治癒術だけじゃ、足りない)
アキラの時は、身体の内部に入った触手が周辺に突き出していたことで、内臓という内臓を傷つけていた。今であってもどうしようもない、手遅れな傷だった。
その一方で、スミネのダメージは表面の刺し傷と、衝撃による影響で内臓と肺が傷んでいるだけ。怪我と治療にはそれなり以上の知識があるデンスケだが、それが故に顔をしかめた。
「ダメだ。アーテの治癒術だけだと、この傷の深さは……!」
「や、やります。全部注ぎ込んででも!」
「ダメよ。それじゃあ逆効果になるだけ」
ブレアは指摘し、制止した。治癒術による治療は修復促進と時間干渉の複合だ。媒介となるのは施術者の心素。怪我人の身体に他者の心素が注ぎ込まれることで成立する仕組みだが、使い方を誤れば取り返しのつかないことになる。急激に大量の心素がこめられれば肉体が反発し、崩壊してしまう恐れがあるからだ。
最高級の方陣術であれば、そのあたりの調整は可能だ。少ない心素量で効率的に、短時間での治療が可能になる。あまりにも高価で、今のデンスケ達には手が届かなかったが。
『……いや。揃っている材料だけで何とかする方法はある』
「ジャッカス?」
『デンスケ、お前次第だ。それでも、賭けてみる価値はあるぞ』
「何を言ってる? 反発されたら、そこで終わり―――いや、そうか」
固有領域内ならば、とデンスケは呟き、意を決したかのように顔を上げた。
「……デンスケ? 一体何をするつもり」
「説明している時間が惜しい。ブレアは周囲の警戒を、アーテは治癒の準備を」
告げるなり、デンスケは立ち上がった。目を閉じて両腕を降ろし、自然体になる。
「治療の開始は、合図してからだ―――願った通り全力で、崩壊は気にするな」
「――はい。デンスケさんを信じます」
アーテの返事にデンスケは頷き、両手に心石を取り出した。そして瞬時に全てを紐に変えると、自分とアーテ、スミネとブレアの全員を覆う三次元の方陣を描いた。
「これ、は………!?」
「詮索は後だ! この程度の範囲なら、何とか覚醒なしでも……っ!」
方陣展開浸透術法、その応用。デンスケはそう呟き、アーテに指示を出した。
「反発を、恐れるな―――時間がない、アーテ!」
「――はい!」
アーテはスミネの傷口に両手を向けた。既に意識が無い様子に唇を噛みながらも、白い光を携え、全力で治癒術を行使した。
規格外の心素量が注ぎ込まれ、みるみる内にスミネの傷が修復されていく。まるで人体に詳しい医者が施術しているかのように。
「ぐ、っ……!」
「………っ!!」
アーテは起きている事象に疑問を抱かず、ただ自分にできることをした。崩壊が始まれば、それ以上の治癒術は逆効果になる。知識にある限界まで、あと少し。
だが、止まらずに心素を注ぎ続けた。ぴしり、と周囲を覆う紐に罅が入った音を聞きながらも。
(く、そ……想像以上に難しい!)
デンスケが行っていることは2つ。領域内の仲間に、自分の感覚の一部を提供していることと、スミネの肉体の反発の緩和だ。危険な部位の修復を優先するように、アーテには自分の知識と感覚の提供を。スミネには、アーテから放たれた心素が馴染むように調整を。
同時に行うものではなく、成立している時点でおかしい。それを知るブレアは、信じられないものを見る目で呆然と立ちすくんでいた。
(あ、と……10秒………維持を……!)
そうすれば、と考えたデンスケの傷口から血が噴出した。狼から受けた傷が開いたのだ。拙い、と思ったデンスケはそこで信じられないものを見た。
スミネが持っている刀に付着していた狼の血。その一部が心石の紐に触れた途端に、輝き始めたのだ。同時に、デンスケの脳裏に二人の女の子の顔が浮かんだ。
デンスケはその一瞬で立て直した。制御の負荷も落ちている、これならば。そう呟くとスミネを見た後、向こうで転がっている狼の死体を見た。
(―――そうか。喰われたとはいえ、あの二人の血も)
どれだけ残っているのかはわからないが、二人は確かにそこに存在していたのだ。
ならば、応えるのが残された者の道理だろう。
治療が終わったのは、それから3分後。デンスケは最後まで治療をやり遂げた後、盛大にぶっ倒れた。完全破砕とまではいかないが、心石にかなりのダメージを受けた事と、心身共に蓄積された極大の疲労が原因だった。
アーテは助けられたことに喜び、やったやったと飛び回っていたが、デンスケが倒れる音を聞くなり、「ちょっ?!」と悲鳴を上げて駆け寄った。
周囲を警戒し、見守っていたブレアは小さく笑った。
慌てた様子で騒いでいる小さな名医。
それを補助し、今は白目を向きながら悶絶している斜め上の男。
そして、仰向けで寝ている、顔に赤みが戻った女の子を。
―――笑みを浮かべ、閉じた目の端から涙を零しているスミネの無事に、安堵の息を吐きながら。




