21話 : 涙の夜
硬いコンクリートの破片がまるで花びらのように舞い上がった。信じがたいほどの衝撃のせいで宙に浮かされたアーテは、余波を受けた男達の一部が鮮血と共に混じっていることに気づいた。
その光景を前に悲鳴を上げる暇もない。何もかもがスローモーションになっていく中で、アーテはただ一人こちらに駆け出した者の姿を見ていた。
担いでいる女性を離すのは一瞬、踏み出す一歩目から全力であることは分かるほどにその男は必死な形相で手を伸ばしてきた。
アーテは障壁を消すと、迷わずにその血まみれの男へ―――デンスケへ手を伸ばした。
二人の手と手が重なり、しっかりと握られる。そのままアーテはデンスケに身体ごと抱き寄せられたが、頬に誰のものなのかは分からない血がべったりと付いた。アーテはその一切を気にすることなく、小さなその手を男の背中に回し、必死にしがみついた。
急激な加速。倒れた黒髪の女が床に頭を打つ音が聞こえた。直後、天井を突き破って降りてきた狼型のナニカが繰り出した爪が風圧となってアーテの髪をたなびかせた。
障壁を、というデンスケの言葉を受けたアーテが再度、全力で障壁を展開した。
間一髪で間に合った壁は、突進してきた狼の鼻を潰した。
衝撃の余波で、床に罅が入る。そこでようやく、真正面から敵の姿を見たアーテが呟いた。
「銀色の……狼?」
見るからに硬そうな銀の体毛が全身を覆っているた。種類だけで言えばシティウルフに似ていなくもなかったが、サイズからして何もかもが上だった。
特に身に纏っている威圧感が、脅威度3ていどの害獣とは比べ物にならなかった。周囲に居た男たちが、狂乱のまま背を向けて逃げ出すほどに。
「ギィ……ガアアッ!」
狼は雄叫びを上げながら、標的を変えた。その怒りをデンスケ達ではなく、逃げようとしている男達へ向けたのだ。
タシッ、という獣が跳躍する音。それだけで逃げる獲物との距離を詰めた狼は、爪の一振りで周囲にいた3人をまとめて千切り飛ばした。
間違いなく即死だった。あまりにも容易く命が終わっていく凄惨さを直視してしまったアーテは気絶しそうになったが、自分を包む体温がその意識を繋ぎ止めた。
『惚けるな、アーテ!』
「は、はい! ……あ、名前」
『よし、まだ余裕はあるな……落ち着いて聞け』
デンスケは無言でアーテを下ろし、1つ呼吸を落とした。アーテは何かを言おうとしたが、その前にジャッカスが割り込んだ。
『説明している余裕がない。簡単に説明するが、状況は最悪に近い』
階下に逃げていった男たちを追っていったのだろう、既に狼の姿はなかった。だが、床と壁を簡単に貫く化物のような害獣が相手だ。全身全霊で警戒することで、何時どこから来るか分からない奇襲に対応するしか、生き残る道はない。
そう判断したデンスケは、ジャッカスに念話だけで指示を与えていた。
『昨日に渡した方陣術は覚えているな?』
「は……はい。あの、真っ白な色でしか起動しないもので」
『それだ。大至急、今ここでそれを展開しろ』
「え……で、でも、まだ成功したことなんて一度も」
『やるしかない―――でなければ全滅する』
ジャッカスは狼が起こした破壊跡を見ながら告げた。俊敏さと攻撃力が高すぎる、1つ打つ手をしくじればまとめて餌にされてしまうぞ、と脅すように。
それを裏付けるように、階下からいくつもの悲鳴が聞こえた。断末魔と分かる、鈍く重く甲高い悲鳴が生まれては消えていった。
デンスケは今なら話せるか、とアーテを横目で見ながら説明した。
「あの害獣、素早さも厄介だけどそれだけじゃない。方陣術のようなものを使うみたいだ。全てを見る余裕はなかったが……アーテの障壁でも防げない可能性がある」
階下で奇襲を受けた時のことをデンスケは語った。
窓から、黒髪の女と共になだれ込んできた狼は、デンスケ達を見ると雄叫びを上げた。それからコンマ数秒後、背筋に走る悪寒に従い、横に飛んだ先でデンスケは見た。
狼の足元から方陣のようなレールが伸びたかと思うと、その上を高速かつ無音で突進してくる狼の姿を。その進路上に居た何もかもが消滅した所まで。
何がどうなったかはデンスケの理解の外だったが、結末だけをデンスケは見た。
方陣の上にあったものの中で、残ったのはヤスヒロだったものの一部だけだった。
硬い唾を飲み込みながら、デンスケは青い顔で告げた。
「総合的に洒落にならん。脅威度で言えば、アキラを殺したアイツ以上だ。……間の悪いことに、今のオレのコンディションだとあの時ほどの一撃は出せないしな」
切り札が使えないため、正面からの殴り合いになってしまう。
だから、とデンスケは言おうとした所で入り口を見た。間もなくして、狼が部屋の中に舞い戻ってきた。足音まで消せるのか、とデンスケが呟く。
そして剣を構えると同時に、その狼へ斬りかかっていく背中を見た。気絶していた筈の、黒髪の女だった。素早い動作で間合いを詰めると、力いっぱいに太刀を狼に向けて振り下ろした。
狼は太刀を横っ飛びで回避したかと思うとすぐに女へと跳躍し、その凶悪な爪を振るった。甲高い金属音が鳴り、両者の間で火花が散った。間一髪、爪を叩き落とした女は返す刀で狼の腹を切り上げるが、威力が足りないのだろう、皮膚の数ミリを斬るだけに終わった。
それでも傷は傷として認識したらしかった。怒りに、狼が大きく吠える。シティウルフとは比べ物にならない大音量が部屋の中で反響し、窓ガラスに皹が入った。
至近距離に居た女はあまりの音量によろけ、その無防備な頭へ爪が振り下ろされ――
「らぁっ!」
――るその寸前に、デンスケは狼の横っ腹へ蹴りを食らわせた。
奇襲を受けた狼が、小さい悲鳴を上げながら部屋の壁へ叩きつけられる。
「な、邪魔を」
「言ってる場合か!」
デンスケは怒鳴りつけながら、飛びかかってくる狼を剣で迎え撃った。
その口から舌打ちがこぼれる。先程繰り出したのは吹き飛ばすための蹴りで、決めにかかったものではないが、想像以上に手応えが硬かったためだ。
直後に飛びかかってきた姿を見るにまるで堪えた様子がない。攻・防・速・術の全てが高レベル、小指の爪の欠片たりとも侮れる相手ではないと、相手の脅威度を上方へ修正したデンスケの背筋に、冷たい汗が流れた。
狼もデンスケを容易い相手ではないと見たのか、左右にうろうろと歩きながら様子を伺い始めた。今しかない、とデンスケは狼から目を離さないまま女に言葉だけを向けた。
「……おい、刀女」
「なんですか」
2人とも敵から目を逸らさないまま。デンスケは心石を具足に変えながら、右で同じように構えている女へ声だけで告げた。
「オレは牽制、お前がトドメ。それで良いな?」
「なにを―――」
一瞬だけ集中力を切らした女が、ハッとした顔で狼を見たが、遅かった。既に狼は右の壁へ跳躍していたのだ。壁を蹴り、狼の姿を見失っていた女に向かって鋭い牙が煌めいた。
瞬間、呼気が1つ。その一瞬でデンスケは宙空の狼へ詰め寄り、無防備な腕を掴みながら体毛で覆われた腹を蹴り上げた。
渾身の一撃に、倒立のように狼の巨体が傾く。デンスケはそのまま勢いよく地面へ叩きつけけると、狼の口から小さな悲鳴が溢れた。だが、成果はそれだけに終わった。
狼は即座に力づくでデンスケの腕をひっぺがすと、再度2人から距離を取った。やっぱり硬いな、とデンスケは舌打ちした後、狼から視線を離さないままもう一度だけだ、と尋ねた。
「撹乱するから、トドメは任せた―――それでいいな」
「……分かった」
頷いた女の雰囲気が、鋭いものに変わった。表情も刃のようになる。仮令刺し違えても千回は殺してやるといわんばかりの、殺意の塊が部屋の中に顕現した。
アーテの小さな悲鳴が部屋に響き、デンスケが横目でチラリと見た。
直後、狼はデンスケの誘いに乗り。
デンスケは、真っ向からその脅威を迎え撃った。
上下左右に、衝撃と擦過の音が響き渡った。床も壁も天井もない、デンスケの手甲と具足と狼の爪牙がぶつかり合った証拠となる火花が咲いては散っていく。安全地帯にいるアーテは一瞬、その光景に見とれていたが、横合いからジャッカスの声が入り込んだ。
『惚けるなと言った―――早くしろ、長くはもたんぞ』
「わ、分かりました」
アーテは座ったまま何度も方陣を展開しようとする。心石から方陣を取り出し、目の前に展開して光を注ぎ込んでいく。だが、その尽くが失敗に終わった。
難易度もそうだが、暗い部屋の中で生死の境目に立っているという緊張が、制御の精度を下げていた。それでも、アーテは必死に方陣を展開しようとした。
(お願い……このままじゃ、デンスケさんが)
助けたいという気持ちをこめて何とか色を変換していく。青を取り払い、白だけに染めなければならない。だが、どうしても途中で白の心素が漏れてしまうか、別の色になってしまい、期待していた効果がまったく現れなかった。
時間とともに、デンスケ達の戦況も怪しくなっていった。攻防の最中、体勢を崩した狼に女が刀が振るうも、致命傷には程遠かった。やがて体力が尽きた女が突進の一撃に吹き飛ばされると、そのまま気絶して起き上がれなくなっていた。
だが、デンスケは倒れなかった。手甲で牙を逸らし、具足で強化した足で跳躍と蹴撃を繰り返しながら、常に狼に対する牽制を途絶えさせなかった。
無傷とはいかず、あちこちに傷が出来ても構うものかと、狼へと挑んでいった。それを横から見ていたアーテは、あることに気づいた。どうして、という表情をしたアーテに、ジャッカスは告げた。
『――そうだ。あいつ一人なら逃げ切るのは難しくない』
教えるなと言われていたが、と小さなため息と共にジャッカスは告げた。お前を抱えて逃げるとなると、確率にして半々の賭けになってしまうと。
『休み無く牽制を続けているのも、お前に意識を向けさせないためだ。心石破砕の傷も癒えていないというのに』
アーテは、その単語をはっきりと覚えていた。想像を絶する痛みで二度と経験したくないと、気丈な母でさえそれを語る時には身体を震わせていたからだ。
『あいつの横に並びたい、仲間になりたいとお主は言うが―――そのザマでか?』
見下し、嘲笑するような口調。だが、決して間違ってはいない。
(――何を勘違いしていたんだろう。助けたい? そんなことは前提だ)
アーテは唇を固く閉じ、拳を握りしめると身体を小刻みに震わせた。アーテは目の前が真っ赤になったような錯覚に陥っていた。
これは、怒りだ。アーテは自分に問いかけた。どんな怒りかを。
アーテは、答える―――不甲斐ない自分に対する怒りであると。認識した紫の瞳の奥に宿る光が、輝きを増していく。小さな手が、滑らかな動作で目の前に突き出された。
試行錯誤ではない、最初から全開で、これが最後と思え。その覚悟を以って、アーテは口を開いた。
「応えて―――わたしの月白色の霞草」
アーテは問いかけた。自分は守られるだけのお荷物で満足するのかどうか。
口だけで終わっていいのか。あそこで血を流している人の期待に応えられないままでいいのか。
――全て、否である。その回答にこめられた熱量を示すかのように、心石の輝きが増していく。
(―――そうだ。心石は自分。私が変える。望む方向に、世界を)
極めれば何でも出来る、と命を賭けて戦っている人は言った。ならばそうなのだろう。それが当たり前なんだ、と認識したアーテは立ち上がった。襲われるのが怖くて座っていた自分を叱りつけ、最後に成功すればいいという弱気な自分を打ち捨て、堂々と。
「アーテ・フィアリエルの名の下に告げる―――」」
少女の前に、膨大な量の方陣が展開していく。その余波で、金色の髪まで風に吹かれて舞い上がる。汚れのない白の光の中心で、この場の全てを解決する方陣の名前が謡われた。
「害意を退ける奇跡をここに! ―――白光天臨閣!!」
少女の叫びに応え、白の爆発と共に光の聖域が誕生し。デンスケが気絶した女をひっつかんでその中へ飛び込むように避難したのは、ほぼ同時のことだった。
「……帰りませんね」
「そうだな」
部屋の中、アーテとデンスケは壁に背を預けながら横並びに座っていた。白い光で組まれた防護方陣の向こう側で、忌々しそうにこちらを睨みつけてくる狼の害獣を眺めながら。
どうやっても侵入は不可能のようだった。白い光の壁に爪をぶつけても爪が折れる。切り札らしい方陣を展開しようとしても、その方陣が白い光の前までしかいかない。勢いよく突進しても、鼻が潰れて血が出るだけ。
色々な試行錯誤をしている様子を身構えながら眺めていたデンスケ達だが、30分もすると色々と安心してくつろいでいた。
アーテの所感によると、その気になれば何日でも展開できるという。エリルから聞いた通りの効果に、デンスケは安堵の息を吐いていた。
そして、尋ねた。男たちから逃げる途中にアーテに告げた言葉を、もう一度。
「―――裏切ってくれていい。そう伝えた筈だが」
自分でついていく者を選べばいい。デンスケが告げた言葉に、アーテは答えた。
「言われた通り、私は自分で選びました。だから、ここに居るんです」
「……そうか」
「そうなんです」
アーテの答えを聞いたデンスケが、無言でため息をついた。アーテも沈黙したまま、狼を眺めた。やがて、ぽつりぽつりと呟くようにアーテが質問を始めた。
私は恩知らずと思われていたんですか、どうして破砕の影響が残っていると教えてくれなかったんですか。どうして頼ってくれないんですか、と尋ねたアーテの目に涙がたまっているのを見たデンスケは、慌てて弁解をした。
「色々とオレに付いてくるのは茨の道だと思ったからだ。今のアーテの立場だと、断ることも難しいと思ってだな………破砕とか傷は、情報漏えいの恐れがあったからだが」
「……私が本当はついていきたくないと。デンスケさんを裏切ると、そう思っていたんですね?」
「その可能性はあった。―――なら、対処するのがオレのやり方だ」
地力で劣る者としての癖だ、とデンスケは告げた。タネがバレた状態で地力に勝る相手と真正面から戦えば、負ける確率の方が高くなると。
その弱気を払うように、狼は尻尾で光を払い始めた。その無駄な行為に苦笑しながら、デンスケは本音を語った。
「オレはオレの得意分野でしか勝てない。だけど、能力や戦術が露呈すれば対策されちまう。そうなった時が、オレの最期だ」
切り札はいくつか持っているが、それが通用するのはせめて戦況を五分以上に持ち込めた場合だけ。届かない相手には、そもそも勝負にさえならないというのが、デンスケの本音だった。
「……分かり、ました。理屈の上では、納得、します」
「全然納得してるようには見えないんだが」
感情を処理しきれていないのだろう、言葉に詰まる様子を見たデンスケが顔をひきつらせた。だが、アーテは聞き流したまま話を続けた。
「試験官の人と戦ったんですよね。強そうな人でしたけど、どうやって勝ったんですか……勝ったんですよね?」
「殺さずに勝った。まんまと誘いに乗ってくれたからな」
デンスケは簡単な流れを説明した。
奇襲を予想していたこと。全てを防ぐことはできないだろうと、予め覚悟していたこと。傷で油断を誘い、カウンターで一撃を食らわせることで相手の血を自分の剣に付着させたこと。
血を払った時のヤスヒロの反応を見て、障壁を緩和させる効果を知らないと踏んだこと。剣筋を見定め、障壁の弱い所を探った後でわざとよろめいて、相手の全力攻撃を誘ったこと。自分の使える武器が剣だけだと錯覚させた上で、奥の手である体術を使い勝負を決めたこと。
全てを聞いたアーテは、不満そうな顔をしていた。デンスケもその顔を見て、なんでそんな顔をするんだと不機嫌そうな顔を返した。
「だって……傷つくことを前提としてるじゃないですか」
「確実に勝つために必要だったからな。最後の一撃に繋げるために」
破砕の影響がなかったらもう少しスマートに勝てていたが、無いものをねだっても仕方がない。そう告げるデンスケに、アーテはそれ以上は追求しなかった。何か、デンスケが大事だと想い抱えているものに、無遠慮に触れてしまう行為だと感じたからだった。
それでも色々と説明が足りなく、一人で抱えるだけで何もこちらに預けてはくれないと、アーテは不満を抱えていた。
この絶体絶命の状況で上手く方陣も起動できたのに、並ぶまではいかないけど仲間っぽい働きはしたのに、と少し頬を膨らませながら。
そう考えたアーテは、意趣返しにとデンスケに尋ね始めた。
「今回のことですけど……私が仲間に相応しいかどうかを、試したんですよね?」
「……まあ、捉え方によってはそう言えなくもないか」
「はい。それで、なんですけど……わたし、合格ですか?」
「合格どころじゃない、大合格だ。眩しいぐらいにな」
嘘偽りのない言葉で、デンスケは答えた。正しく在れることに僅かばかりの嫉妬を覚えていたが、それ以上に純粋な心が嬉しかったからだった。
「……良かった。じゃあ、仲間としてデンスケさんに当然のことをします」
じっとしていて下さい、とアーテは方陣を展開した。デンスケは驚き、見たことのない方陣を前に硬直している間に、その効果が発揮された。
淡い白の光がデンスケを包んだかと思うと、身体中に出来た戦いの傷がじわりじわりと治り始めたのだ。
「これは……治癒方陣? いったいどこで」
「お節介の薬屋のおばあさんからです」
嬉しそうに、アーテは告げた。回復量は少ない、初歩の初歩の治癒方陣であること。そのため、術者に対して敵意や害意を持っている者や、自分を受け入れていない相手には決して効果を発揮しないことを。
説明を聞いたデンスケは顔を上げながら、おかしそうに笑った。
「はは、今度はオレが試された訳だ」
「人聞きが悪いです。私はただ、デンスケさんの傷を癒やしたかっただけですから………ちょっとだけ抵抗を感じた所は、貸しにしておきますから」
「それは……すまん」
「……謝られたい訳じゃ、ないです」
「そうだな―――ありがとう。暖かくて、助かるよ」
デンスケはアーテの目を見ながら礼を告げた。アーテはその黒い瞳をじっと見つめた後、小さく頷き、こちらこそと笑顔を返した。
『―――お熱い所を邪魔して悪いが』
「あ、居たのか棒の」
『最初からおるわ。それよりも、だ。これから今回のような誤解が生じないように、色々と腹の中を割って話すべきだと思う訳じゃが』
特に、そこのアーテが隠していることについて。告げられたアーテは、何のことだか分からずに首を傾げた。
『……実は天然か? ほら、どうしてもやりたい事があると言っていたじゃろ』
言いたいことを察したアーテは、ハッとなった。そして、今なら嘘だと思われないと小さく頷き、デンスケに向き直った。
「パパとママは、心石と契約をしていました。そして、異世界の……こちらの世界からの旅人と交流があったんです」
商売上との繋がりとは別に、色々な話をしたという。オオサカの良いところ、悪い所。そして、未開の地に広がっている神秘的な場所を。
「危険なのは間違いありません。でも、命を賭けてでも見る価値のある風景が、そこにはある。お話を聞かせてくれたパパとママは、言っていました」
もしも自分たちが現役なら、と。アーテはその時の両親の瞳に、見たことのない輝きが宿っていたことに気づいた。それが知りたくて話をせがんだ。昔に、あちらの世界を―――レッドランを巡った旅の話を聞いて育ってきたと、アーテは懐かしそうに語った。
「だから……いつか、と思っていたんです。いつか、私が旅をして。こちらの世界の秘境を巡った話を、パパとママに聞かせて上げたいって」
自分がしてもらったように、聞くだけでワクワクする夢のような旅の物語を。大切な想い出が詰まった煌めく星のような時間を読み聞かせて上げるのが夢だったと、アーテは空を見上げるようにしながら語った。
「……足手まといにはならないよう、頑張ります。努力します、色々と覚えます。だから……だから、私を置いていかないで下さい」
目的は微妙に異なるが、道中に見る風景は同じだからと。告げるアーテに、デンスケは小さなため息をついた。否定だと受け取ったのか、小さく肩を跳ねさせたアーテにデンスケは逆だと苦笑を返した。
「願ってもないどころか、土下座してでもお願いしたい所だ。才能無しで悪いが、こちらこそ見限らないでくれよな」
よろしく、とデンスケが手を差し出した。アーテは、輝くような笑顔でその手を握り返す。今までで一番の表情に、思わずとデンスケは本当に、と告げた。
「本当に……本当に、大切に。自分の命以上の宝だって想われ、育てられたんだな」
突然の不意打ちに、ぴたりとアーテの身体が止まった。デンスケはその様子に気づきながらも、思ったことを最後まで声にした。
「本当に、素敵な両親だったんだな……アーテのパパとママは」
「……は、い。意地っ張りなところも、あって。けんかも、したことは、あり、ました、けど………」
「もういい―――もういいんだ。我慢しなくていいんだ、アーテ」
デンスケは強引にアーテを抱き寄せた。そして予想の通りに、泣き出さないよう全身に力を入れていた女の子を解きほぐす言葉を贈った。
「アーテは本当に、両親のことが大好きだったんだろ―――だから、我慢なんて必要ない、全力で悲しめ。傷を負った人間が血を流すことは、恥なんかじゃ無いんだから」
色のない血の流れるままに、今だけは強くなくて良いと。遠回しな表現だったが、デンスケの言葉と思いやりが、身体の温もりと共にアーテへと伝わっていく。
それは突然の別れから今まで、何十にも重ねてきたアーテの我慢を決壊させるには十分過ぎるものだった。
ひっ、という声が響く。そのままアーテはくしゃりと歪めた顔を隠すように、デンスケの胸に押し当てると、力のままに泣き始めた。
どこにでもいるただの子供のように、感情のまま強く。嵐のように激しく、狼まで逃げ出す程に、悲しみの嗚咽を何度も繰り返しながら。
デンスケが背中をさする度に、弱音が涙と共に零れ落ちていった。
どうして、という言葉も。もう一度会いたいよというささやかな、今ではどうしようも無くなってしまった願いに応えられる者は誰もおらず。
部屋の外にまで届く、女の子の涙の声はいつまでも響いていた。その全てを受け止めるようにデンスケはずっとアーテを抱きしめ続けた。
その唇が、“じいちゃん”と静かに動いたことを知る者はなく。
気絶していた女の両目から、涙が溢れたことを見た者はなく。
血塗れになった戦場の夜に、ただ悲しみは流れていった。




