祟られて30年
平成はどちらかと言えばいい時代ではなかった。バブルの崩壊による大規模な経済不況と格差の増大。
この30年は呪われた時代と言ってもいい。
もしこの呪われた30年が妖怪の祟りとして一人の男に覆い被さったとしたら?
昭和が実質的に終わった1988年、元号でいえば昭和63年。つまり今から30年前の事だ。俺は当時、ある人のために身を粉にして働いていた。詳しくは話せないが、裏の世界だけでなく表の世界でも実業家として羽振りをきかせていたお方だった。「だった」というのはもうすでにこの世にいないってことさ。
とにかく俺はその人の下でしばらくやっかいになっていた。最も今はすっかり堅気になって、ほら、こうしてあんたらの前におとなしくしているが、その当時は恐喝から喧嘩から殺し以外はなんでもやった。そうしないと俺のような学歴もコネも金もない人間は社会の底辺から這い上がれなかったからな。その頑張りのおかげで「ある人」に認められておいしいシノギも貰うことが出来た。まあ、そのおいしいシノギもバブル崩壊後の経済不況や警察の取り締まりの強化なんかで数年で失ったが……
とにかく、当時は今のような詐欺のような見せかけのバブル景気と違って本当に景気が良かったんだ。銀行の金利自体が今と違ってよかったからなあ。土地も株も値がどんどん上がってて本当にいい時代だった。
金回りが良かったんだ。というより金があり過ぎてなんでも買えるような錯覚を皆がしていたんだ。その錯覚の一つに美術品があった。ゴッホの絵でも世界一のダイヤでも金さえ出せば何でも買えると思わせた時代だった。
そうした中、俺の元にさっき話した「ある人」からあるものを預かってくれないか?という依頼が来た。依頼というよりは強制に近いんだが、とにかく当時の俺にとって「ある人」の意向は絶対だった。俺は当然二つ返事で引き受けた。
暑い夏の頃だったよ。たしか今はつぶれてもうないけど、かなり高級な料理屋だった。今はパチンコ屋になっていたっけな。そこで冷酒を飲みウナギを食べながらいつになく機嫌のよい「ある人」の姿が印象的だった。そうそう、俺の事をいつになく持ち上げてほめそやしていたのが今でも記憶に残っているよ。うまい酒を飲み美味しいものを食べ、偉い人に褒められる。しかも勘定は向う持ちとくれば誰でも気分が良くなる。
だから受けることにしたんだが、今から思えば虫の知らせというかなんだか釈然としなかったんだ。その「あるもの」というのが小さな木箱だった。中身を聞いても笑って教えてくれなかったし、その時は俺も気にも留めなかった。
何せ、その当時はバブル絶頂期で得体のしれないものから国宝級の一品まで信じられないほどの高値で美術品が国内で取引されていた時代だったから、何か税金対策などで手元に置いていてはマズい美術品の類だろうと思っていた。それに日ごろから美味しいシノギ、つまり商売を回してもらっていたこともあって到底拒否できる選択肢など当時の俺にはなかった。
その箱を受け取った夜から俺は悪夢にうなされるようになった。漆黒の夜の暗闇の中、ただっぴろい野原のような場所で立ってるんだ。いや、野原じゃなかった。徐々に暗闇の中、目が慣れ始めると周りに原始的な木造建ての平屋のような家屋の集まる集落のようなものが見えてきた。やがて眼の前におびただしい数の死体が横たわっていることに気付くと同時に強烈な死臭が鼻腔に押し寄せてきた。皆、ほら、NHKの大河ドラマとか民放の時代劇なんかに出てくるような粗末な昔の服を着ていた。
頭は混乱してまともな考えなんか浮かんで来やしない。ただ、その場の異様な光景を見続けることしかできやしない。それでも生理現象ってのは働くらしい。わずかな時間で強烈な死臭が俺の外の皮膚と中の臓物を覆い尽くすと同時に、目の前の異常な光景に対する生理的な拒絶を表すかのようにその場に吐いた。
今でもあの時の感触ははっきりと覚えている。臓物の中に入ってきた穢れを追い出すかのように吐き終わると、何か音がするのに気が付いた。暗闇の中、ようやく慣れてきた視覚をそっちに向けるが異常なものは何も見えなかった。
しかし、何かがこっちに近づいてくる気配が音と共に理解できた。それは、何かを引きずるような音だったり、何かの足音の様な音だったり、様々な音がこっちに近づいてきたんだ。逃げようとした途端、後ろから羽交い絞めにされた。
強烈な力で上腕筋の上から身体を締め上げられ、強烈な痛みが全身を駆け巡った。顔の横から強烈な悪臭が鼻腔を覆った。瞬時にこれは死臭だと理解した。それともう一つ、闇の中、ぼろぼろになった袖に包まれた腕に抱きかかえられているのも見えた。
必死に抜け出そうと、もがいても、もがいてもほどけやしない。やがて足首を掴まれたかと思うと、掴んだ奴が俺の下半身から上半身にかけて這い上がってきやがった。そして、俺を見上げたそいつの顔は……覚えていない。そいつの顔を見た瞬間、目を覚ましていたんだ。絶叫と一緒にな。
横にいた彼女が心配そうに俺の顔をじっと見ていたよ。もっとも、その女とはすぐに別れちまったがな。まあ、それはどうでもいいんだが。とにかくそういう類の悪夢をあの妙な木箱を預かってから毎晩見るようになって、すっかり精神的に参ってしまい、「ある人」に事情を話して木箱を返そうとしたんだが、時すでに遅しだった。
死んでたんだよ。既に。俺が行く前に家の電話が鳴り、知り合いから「ある人」が亡くなったことを聞かされた。それも尋常な死に方じゃなかったそうだ。朝、使用人が起こしに行くと首をつって死んでいたそうだ。警察が徹底的に調べたそうだが、「なぜ死んだのか理由が分からなかった」そうだ。考えてみればあの当時、「ある人」は不動産投資や未公開株投資なんかで相当儲けていて得意の絶頂だった。それに自殺した当日は商談で某企業の社長と会う予定だったんだ。どう考えたって自殺する理由は考えられない。
では他殺かというとそれも考えられない。あの屋敷のセキュリティーは「ある人」の用心深い性格を反映していて幾重にも組まれていたし、部屋の前には24時間体制で警備の黒服が交代で詰めていた。その黒服の身元も採用前に徹底的に調べられていて、ちょっとでもおかしなやつは絶対に入れなかった。これは屋敷で働いている使用人も同様だった。
死体を調べても不審な点は何一つなかったらしく、警察も「なにか悩みを抱えていてそれが発作的な自殺につながったんだろう」という結論だった。
「ある人」の突然の死によって当然のごとく跡目争いや相続争いが起こり混乱状態の中、例の木箱どころではなくなり俺は返すに返せなくなった。かといってこのままあんな曰くつきの品を手元に置いておくわけにもいかず、機会を見てはそれとなく遺族に返還の意思を伝えたが、なぜか遺族からは拒否された。理由を聞いても「あれは先代があなたにさし上げたものだからお返しいただかなくても結構です」という返事だった。それではこちらも困ると再三にわたって返還を申し入れたんだが、そのたびに「差し上げます」「先代のご意志です」と言われて拒まれた。それでは「先代」と縁が深かった者に渡そうとしたのだが、なぜか皆に拒否された。どう考えてもおかしいだろ?
返還を拒否されている間も、あの妙な夢は確実に俺の神経をむしばみ当然、商売など出来るような状態ではなくなった。病院通いの中、商売の権利や店舗も人手に渡りバブル崩壊後の経済の混乱とその後の大不況で俺は全てを失った。
いわゆる無一文になったわけだ。こうなると食べるためには職を探さなくては生きていけない。恥も外聞もかなぐり捨ててあらゆる伝手を頼っていったがダメで何とかアルバイトや派遣会社を転々としながら細々と生きてきたってわけよ。
ところが全てを失ったにもかかわらず、例の木箱だけは俺から離れないんだ。何度も何度もゴミの日に出してもいつの間にか戻って来てるんだ。フリーマーケットで売っても買い手がつかない。マルカリやフクオクで出品しても一切買い手がつかない。それどころかいつの間にかアカウントが削除されていたり出品不能になってたりするんだ。
それで、結局寺に預けようと考えて伝手を頼りに某寺の住職に訳を話してみたが、こちらでも「引き取るわけにはいきません」と拒否された。なぜか?と訳を聞いても訳は言ってくれない。
そうなるとついつい昔の癖が出てやや強硬に問い詰めると坊主が息も絶え絶えにようやく知り合いの霊能力者とやらを紹介してくれたんだ。自分では分からないし助けることもできないからこの番号に電話しろって。
言われたとおりに電話をかけて指定した場所に俺は向かった。ところがこの知り合いの霊能者とやらが指定した場所に向かう途中で交通事故に巻き込まれて来れなくなった。
原因は車の正面衝突で即死だったそうだ。この瞬間、俺の望みは全て立たれたように思ったよ。一縷の望みも絶たれて一生このままかと思われた時、全身の力が抜けて生きる気力が一気に消えて俺はふと死のうと思った。
ところが人生ってのは本当にわからないもんでそこから俺の運命の逆転が始まった。ちょうどリーマンショックから5年目、西暦で言うと2012年、平成で言うと24年ごろだったと思う。
ちょうど大不況でろくな仕事なんかなくて最底辺の年老いた期間限定の派遣社員としてあちこちを転々としていたころだ。突然、運がめぐってきやがった。きっかけはある夢が切っ掛けだった。
ある日、いつものように安アパートでその日の仕事が終わり、安物のカップ酒一杯を晩餐代わりにあおって寝た夜、俺は妙に見覚えのある場所に立っていた。真っ暗な村落の中にひとりぽつんといたのさ。いつか嗅いだ強烈な死臭が俺の鼻腔を通して体の中に何十年ぶりかに流れ込み始めた。それと同時に茫然と立ち尽くす俺の周りに徐々にだが人の気配がし始めた。一人や二人じゃない。大勢の気配。それが俺を取り囲んでやがるんだ。暗闇の中、徐々に目が慣れ始めるといつか見た光景が蘇ってきやがった。恐怖の記憶と共にな。
昭和の頃の遠い昔に見た光景が記憶に蘇ってきやがったんだ。周りの暗闇が徐々に人の影になって、それがやがて実態を伴った人の姿になって俺に迫ってきやがった。
俺は夢中で逃げた。とにかく必死だったよ。逃げて逃げて縋りついてくる手足を蹴飛ばし、死に物狂いで逃げ回った。強烈な死臭が鼻腔を通して体の中に入り、何度も吐きそうになったのを堪えて、いや、吐いていただろうな。吐きながら逃げ回った。
とにかく必死で逃げ回り無我夢中でその場から離れることに必死だった。どれだけ走ったかな?広い草原のような場所を抜け、森のような場所を途中で何度も転びながらもなんとか走り抜け、やがて小高い丘のような場所にたどり着いた。
ふと後ろを振り返ると、亡者の群がこちらに登ってくるんだ。あの、映画で見るゾンビのような連中。あれがふらふらと歩きながらこっちに来るんだ。塊のように列を作ってこっちに向かってくるんだが、それをよく見るとそいつらの中に明らかに他の連中とは違うのがいたんだ。そいつは色の青白い貧相な顔の爺だった。服装が、そうだな、みすぼらしい恰好はしているが、ほかの連中とは明らかに違うんだ。杖をついて、一人だけお椀のようなものを持っていた。
本能的にこいつが集団のリーダーだと気付いた。とにかく助かりたい一心で俺は足元にあった石ころをその爺の顔面に向かって思いっきり投げたんだ。何度も何度も石ころを投げたんだが、不幸なことにいくら投げてもかすりすらしない。
疲れが極度に達して息も絶え絶えになる。目の前にはどんどんゾンビのような亡者どもが迫ってくる。石を投げようにも腕が上がらない。
ようやく最後の力を振り絞って投げると爺の頭の上を通り越していきやがった。
そうこうするうちに丘を登ってきた亡者の先頭の連中が俺の腕をつかみ上にのしかかってきた。どんどんそいつらは俺の身体の上にのしかかってくる。腕をつかみ足を掴み、全身が引き裂かれるような激痛が俺の身体を包み込む。
痛覚神経が痛みを全身に伝える。疲労感と徒労感が悔しさとなって目から涙となってほとばしり出る。その涙でくしゃくしゃになった顔に亡者の汚い死臭が漂う手が覆いかぶさってきた。鼻腔から強烈な死臭が奔流のように体の中に入り顔を強烈な力が締め上げていく中、苦し紛れに最後の力を振り絞って身体をよじらせて手足をばたつかせる。
死ぬ前の虫が手足をばたつかせて暴れるだろ?あれだよ。死ぬ間際に手足をばたつかせると幸いなことに手足を掴んでいた亡者の手がするりと取れた。最後の力を振り絞って暴れて目の前の亡者を殴りつけたり蹴飛ばしたりしながら逃げようとした。最後の抵抗ってやつだよ。
足を掴まれた転んだ拍子に掴んだ奴の足を蹴飛ばし、亡者どもの足元を何とか潜り抜けた俺は手元の砂を例の奇妙な爺の方に向かって投げた。それを無我夢中で繰り返したんだが、これが幸いしたんだ。煙幕のようになり俺の姿が一瞬見えなくなったのか、亡者どもが動きを止めた隙を狙って俺は全速力で例の爺の前に走っていき思いっきり顔面に拳を叩き込んだ。
1発、2発、3発…どれだけ殴りつけただろうか?もう無我夢中だった。とにかくこいつさえどうにかすれば助かるという考えが頭の中を支配していた俺は殴って殴って殴り続けた。全力で、いや、全身全霊で、力の限り目の前の爺を殴り続けた。
爺の顔面はものすごい勢いでへこんでいき、やがて青白い顔が見えなくなった頃、一筋の光が爺のへこみ切って細い棒きれのようになった顔面から差してきた。それにもかまわずに俺は爺の顔面を殴り続けた。恐怖心から無我夢中で殴り続けた。
どうなろうとかまわずに無我夢中で殴り続けている間にも棒のような顔面はやがて線になりどんどん細くなり始めた。それに比例して目の前の光はどんどん広がっていく。光が疲労をどんどん和らげていきやがて俺だけでなく周りを照らし始めて広がっていった。
それまで鼻腔から入り続けていた死臭が急速に消えていき周りの亡者たちも急速に黒い影となったかと思うとやがて消え去っていった。
なおも殴り続ける俺の前に光の線のようなものが垂直に立った瞬間、それが一際眩しく輝いたのが見えたのが俺が覚えている最後の光景だった。俺は意識を失った。いや、正確にいうと目が覚めたんだ。目の前には見慣れた小汚い安アパートの見慣れた光景があるばかりだった。でもな、その時に何かやっかいなことが終わったように感じたんだ。
俺は例の木箱が急に気になって箱を初めて開けた。それまで不思議なことに開けようとすら思わなかったものを、預かってから20年以上開けたことのない木箱を初めて開けたんだよ。そうしたら、中には何が入ってたと思う?
箱の中にはバラバラになった人形のようなもの、いや、かつて人形だったらしいものが細かい破片になって散らばっていたんだ。その散らばった破片の中から小さな細い細い金属製の仏像、いや、針のような細い金属製の棒状のものに仏さんを掘ったものが見つかったんだよ。
仏さんの周りにあった散らばった破片は黒ずんでいて後でわかったんだが文字のようなものが書かれた腐った布状のものが巻かれていたんだ。
そいつらは例の寺の坊主に強制的に引き取らせたんだが、初めて会った時と違って今度はすんなりと供養してくれたよ。これだったらうちでも十分に供養できるとか何とか言ってな。
あと、これはその時に話した坊主の解釈なんだが、どうやらいろんな人間の負の念が長い年月をかけて人形に憑りついていって強力な負のエネルギーを持って半ば妖怪化したんじゃないかと言っていた。
そうすると俺に平成の何十年にもわたって憑りついていたのはその長年の負の情念のようなものが実体化した妖怪でそれをあの時、俺が退治して浄化したってわけさ。
例の夢を見てから数か月後にダメもとで受けた某社の面接に合格してその後は派遣から直雇いのバイトを経て契約社員になり今じゃ正社員にまでなれた。
もうすぐ平成も終わるが、できればこれからは幸運の箱として今まで失った分を利子つけて返してほしいもんだ。
次の時代が俺も含めて皆様にとって幸せな時代でありますように。
今年は平成最後の年なのでバブル崩壊後に没落した男の再生の物語を書いてみました。