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黒川が小夏を連れてきたのは喧騒な表通りから少し離れた所にある静かなイタリアンのレストランだった。
そこまで広くは無い店内には夜の七時にだというのに小夏たち以外に客は一人も居なかった。
「気楽に楽しんで、今日は貸し切りだから」
「え? そんな、わざわざこの為にですか? 」
「そりゃ大切なメーカー様だもんね」
「いえ、本来ならこちらが席をご用意しないといけないのに、何と言っても大得意様なんですからマルナガ屋さんは」
「冗談ですよ、あんまり仕事の話ばかりしても楽しくないし、そういうのは忘れて楽しみましょう」
黒川は子供のような顔でニコッと笑うとネクタイを緩めた。
「本当はこういう堅苦しいのは嫌いなんだ」
そういうと今度はスーツの上着を脱ぐとネクタイと一緒にウェイターに預けた。
小夏が見る限り、小さなお店と言っても所々に高級感もあり、かと言ってそれは決して派手ではなく、オーナーのセンスの良さを窺わせる店作りになっていて、入る者にもそれなりの品格を求められているような雰囲気があった。
万が一何も知らずに店内でワイワイと喋りながらスマホで撮った画像をSNSに簡単にアップでもしてしまえば、それだけで贔屓の客から顰蹙を買いそうな、まだ手垢の一つも付けられていない隠れ家のような店だった。
「いいんですか? いくら貸し切りでもそんなラフな格好で」
ワイシャツ姿になった黒川は遂に腕まくりまで始めたのでさすがに小夏はお店の人に怒られるんじゃないかと不安になった。
「日前宮さんにももっとリラックスしてもらいたいし、それに大丈夫だよ自分のお店で今日は他にお客さんは来ないんだから」
「へ? 自分の? お店? 」
「うん、僕の店」
黒川はまたいたずらっ子のように笑うと、緊張してガチガチに張っている小夏の肩の力をストンと落とした。
運ばれてくる料理はすべて小夏には真新しい瀟洒なもので見ているだけで小夏は満腹になった。
最初の言葉通り黒川は仕事の話は一切せずに、学生時代の自分の失敗談や、思い付きでバックパック一つで渡米した時の話なんかを大きな身振りを交えて、時には料理を口から溢しながら喋って小夏を楽しませた。
近くの静かなバーに店を変えた小夏と黒川はその頃にはすっかり打ち解けており、それを示すかの様に小夏の頬もすっかり紅く染まっていた。
ーー もしかしてこのまま黒川課長と…… ってことも…… あり? ……
バーの化粧室の鏡の前で小夏は紅くなった自分の顔をちょっと満足気に見ながら、自分自身に聞いてみた。
『ああ、これ完全に落ちちゃった時の顔ですわ』
「ひぇっ! 何よ! 急に現れないでよ! 」
気付くと小夏の背後に涼太がぼんやりと出現していたのだった。
『そんなに怒んなよ、別に邪魔しに来た訳じゃねえんだから』
「充分邪魔! 近くに居るだけで気分が滅入るわよ」
『俺はお前に幸せになってもらいたいのよホント、だから協力はするけど邪魔はしないから』
「…… 」
小夏は無言でバッグの中から千里に貰った手鏡を取り出すと上に向けて結界を作った。
『なんだよ! おい! いいだろ? 別に近くに居ても』
「うるさい!」
席に戻った小夏に黒川は優しく話し掛ける。
「遅かったね? ちょっと酔った? 大丈夫? 」
「あっ、いえ、あっ、はい…… ちょっと酔っちゃったみたいで…… 」
「そうみたいだね、顔色があまり良くないみたいだ、送って行こうか? それとも少し休んでから帰る? 」
小夏の顔が急に真っ赤になった。
「変な風に取らないでね、あくまで大事な取引先の方としてね」
小夏は顔を上げて黒川を見た、が、その黒川の後方数メートル先につまらなそうな顔をして浮かんでいる涼太までもが視界に入ってきた。
「大丈夫です、今日はなんとか一人で帰れます。本当に楽しかったです、黒川課長さえ良ければぜひまた誘って下さい」
「そう、じゃあタクシー呼ぼうね、ちょっと待ってて」
黒川はほんの少しだけ間を置いてそう言うとウェイターの所に行った。
「今日は本当にありがとうございました、ここまでして頂いてなんてお礼を言っていいのか」
到着したタクシーの横で小夏は黒川に大きく頭を下げた。
「日前宮さんに喜んでもらえて僕も嬉しいですよ、ぜひまた今度、すぐにでもお誘いします。その時は…… 」
「はい? 」
「ううん、もっと美味しいものを食べに行きましょう」
黒川は最後まで爽やかに紳士だった。タクシーに乗った小夏は黒川が見えなくなるまで手を振り続けると、小さなため息を一つ付き横に居る涼太を睨んだ。
『なんだよ? そんな怖い顔して』
「なんで付いてくるのよ! 変態幽霊! アンタが居なけりゃ今頃」
『今頃ホテルであんなことこんなことやってたのか? 』
ドスンッ!
「お客さんどうかしました? 」
乗せていた客がいきなり座席をおもいっきり叩くもんだからタクシーの運転手はびっくりしてブレーキを踏んだ。
「あっ! いえ、すみません! なんでもないです」
運転手は怪訝な顔をして再びタクシーを走らせた。
「アンタのせいで私が変な人だと思われてるじゃないの! 」
『俺のせいでなくても充分変な奴なんじゃねえのか? 』
ドスンッ!
キキーッ!
「お客さん…… 」
「すみません! すみません! 本当すみません! 」
タクシーの運転手は明らかに苛立っていて、その後家に着くまで肩身の狭い思いをしなければならない小夏であった。