2.本編
SE 雪彦、床に倒れ込む
雪彦「……っ!」
貞一郎「……雪彦?」
奈々生「雪彦くん!」
ほとり「奈々生ちゃん、すぐに救急車を!」
奈々生「はいっ!」
SE 走り去る足音
雪彦(荒い息遣い)
貞一郎「雪彦……! おい雪彦、しっかりしろ! 雪彦!」
SE 救急車、遠ざかる
M プロローグ
貞一郎(M)「火葬された遺骨には、のどぼとけが残る。禅を組む仏の姿をした、小さな骨が残されるという。その俗説は人が都合のいいようにでっちあげた偽りなのだと、いつだったか医者である父が言っていた。曰く、のどぼとけとは軟骨であるがゆえに、窯から遺骨が引き出されるころには跡形もなく焼き消えてしまう。実際にして残るのは第二頸椎とかいう、なんてことはない背骨の欠片だ。その話を聞かされた時、俺は、へえ、と感心するのと同時に、些か興ざめしてしまったのを覚えている。医学というのは何でも赤裸々に暴いてしまって、時に随分と野暮なことをする。だが、真実がどうであれ、俺は生涯忘れはしないだろう。あの時にふれた雪彦ののどの尖り。今にも弱く羽ばたいてどこかへ飛んでいってしまいそうな、あの儚げな感触を」
タイトル「月面歩行」
作・饗庭璃奈子
M ~OUT
貞一郎(M)「雪彦との出会いは、春だった」
M 出会い
貞一郎(M)「町をぶらつこうと玄関に立ったところ、ちょっと前までは影も形もなかった少年が、庭先の階段の下に、忽然と現れていたのである。こちらをちらとも見ようとせず、惚けたように何かを見上げているばかりの少年を、俺は不審に思った」
M ~OUT
SE 小鳥のさえずり
貞一郎「おい、お前そこで何してる」
雪彦「……梅が、」
貞一郎「うめ?」
雪彦「梅の花が、とても綺麗に咲いていたものだから」
貞一郎「その木は、梅なのか」
雪彦「きみのうちじゃあないのかい?」
貞一郎「俺のうちじゃあない。いや、だけどまあ、今はここに住んでるんだから、俺のうちのようなものか。だからそいつは俺の木だ。あまり気安く見るんじゃない」
雪彦「……ふふっ」
貞一郎「何笑ってやがる」
雪彦「いや、ごめんね。面白い人だなあと思って」
貞一郎「ああ?」
雪彦「きみはいい人なんだね」
貞一郎「どうしてそうなる」
雪彦「花を見る、瞳が優しかった。名前は知らなくても、この木が好きなんだね。だったらきみは、いい人だ」
貞一郎「……勝手なことを」
雪彦「出かけるところだったんだろう? 邪魔をしてすまなかったね。それと、そういう口の利き方は、あまりきみには似合わないんじゃあないかな。それじゃ」
SE 雪彦、走り去る
貞一郎(M)「言うや否や、そいつはぱっと身を翻し、どこかに消えてしまった。妙な奴だ、としか、その時には思わなかった。もう二度と会うこともないだろうと思っていた。ところが思いも寄らぬ形で、そいつは再び俺の前に姿を現したのだ」
M 春風亭
ほとり「はいみんな、しゅうごーう!」
奈々生「ほとりさん? どうしたんですか?」
ほとり「いいからいいから。ほら、貞一郎も早く来る!」
貞一郎「んだよ、ほとり。めんどくせえな」
奈々生「ちょっと、貞一郎くん! それがお世話になってる大家さんに対する態度?」
貞一郎「うるせえ」
ほとり「いいのよ、奈々生ちゃん。こいつにはあとできつーい一発決めとくから」
貞一郎「けっ」
奈々生「はーい!」
貞一郎「んで? たった二人の下宿人集めて、一体どういう了見だ?」
ほとり「それじゃあサクッと本題ね。今日は二人に、新しい家族を紹介します」
貞一郎「ああ?」
奈々生「新しい、家族?」
ほとり「そう! 今日からこの春風亭に下宿することになった、但馬雪彦くんです! さ、雪彦くん。入って入って」
SE 足音、室内へ
雪彦「はじめまして。但馬雪彦です」
奈々生「はじめまして、雪彦くん。私は島村奈々生です。どうぞよろしくね」
貞一郎「(被せて)あーっ! お前!」
奈々生「へ?」
雪彦「久しぶり……でもないね。前に会ったのは、あの庭の梅が満開だった頃だから」
ほとり「もしかして二人、知り合い?」
貞一郎「まさかお前、最初から知って……!」
雪彦「いいや。あの日はたまたま新しく入る学校の説明会で、ここの前を通りすがったんだ。僕が入ることになっていた下宿だなんて、ちっとも知らなかったよ。表に、甘味処の暖簾が出ていたしね」
奈々生「うん。春風亭はね、昼間は甘味処を営みながら、私たちみたいな学生に部屋も貸してくれてるの。私は下宿生だけど、学校のあとは甘味処のお手伝いもしてるんだ。うち、あんまりお金ないからさ」
雪彦「学業と両立してるなんて、すごいです」
奈々生「あっ、ここでは私と貞一郎くんには敬語、いらないよ。ほとりさんも、みんな家族みたいなものだから」
雪彦「はい……いや、うん。よろしくね、奈々生ちゃん、貞一郎さん。それに古河さんも、これからどうぞよろしくお願いします」
ほとり「いやだ、古河さんなんて他人行儀に呼ばないでちょうだい。ほとりでいいわ。でもまあ、何だかよくわからないけど、貞一郎と雪彦くんが顔見知りだっていうなら話が早いわね。貞一郎、雪彦くんはね、吉野先生の患者さんでもあるのよ」
貞一郎「は!? 親父の!?」
ほとり「世間ってほんと、狭いもんなのねえ。主治医の息子とその患者さんが、こんなところで巡り合わせるなんて」
奈々生「貞一郎くんのお父さんって、お医者様の……雪彦くん、どこか悪いの?」
雪彦「ああ、大したことはないんだ。ちょっと心臓に持病があって」
奈々生「えっ」
雪彦「やだなあ、そんな顔しないでよ。そんなに悪かったら、僕は今ここにはいませんって。この春から桜田高校に入学することだってちゃんと決まってるんだから」
奈々生「あ、雪彦くんも桜田高校なんだね。私と貞一郎くんもなんだ。この春から三年生、クラスも一緒なの。ね、貞一郎くん」
貞一郎「……気に入らねえ」
奈々生「は?」
貞一郎「気に入らねえって言ってるんだよ、こいつの全部」
奈々生「いきなり何よ、それ!」
貞一郎「うるせえ奈々生! お前には関係ねえだろ! ……ああ、苛々する。とにかく俺はもう、部屋に戻るからな。寝る!」
SE 荒々しい足音
ほとり「あらあら」
奈々生「ちょっと、晩ごはんは!?」
貞一郎「いらん!」
ほとり「ほっときなさい、奈々生ちゃん。……それにこれも貞一郎には、きっと必要なことだから」
奈々生「え?」
雪彦「嫌われちゃいましたね」
ほとり「ごめんねえ、雪彦くん。あいつもちょっと、訳ありでね。でも、あいつのあれはただのあまのじゃくなのよ。素直になれないっていうか。きっと今頃部屋で罪悪感に苛まれてると思うわよ」
雪彦「そうでしょうか」
ほとり「そうそう、そうに決まってる! だから雪彦くんもあいつの言うこと、気にしちゃだめよ。さ、そろそろ晩ごはんにしましょうか。奈々生ちゃん、準備手伝って」
奈々生「はーい」
雪彦「それじゃあ僕も……」
ほとり「いいのいいの、今日は雪彦くんの歓迎会でもあるんだから。一人欠員が出ちゃったけどね。雪彦くんは座ってテレビでも見てて。うち、カラーテレビなのよ」
雪彦「あ、はい……」
(テレビの音声)
アナウンサー「特集です。昨年夏に月面着陸に成功したアポロ十一号。その今後を、お伝えいたします。アメリカのアポロ計画が立案されたのは一九六一年。時のケネディ大統領の声明により、一九六〇年代中に人間を月に到達させることを目標に開始されました(~FO)」
貞一郎「あー……うーん……。くそっ!」
雪彦「貞一郎さん?」
貞一郎「うわあっ!」
雪彦「何、してるの?」
貞一郎「急に現れんじゃねえ、びっくりするだろうが!」
雪彦「急にっていうか、さっきからずっとここにいたんだけど……。そこ、僕の部屋だけど、僕に何か用?」
貞一郎「とりあえず、その貞一郎さんってのやめろ。気色わりい」
雪彦「あ、うん。貞一郎くん?」
貞一郎「くんもいらん! 貞一郎でいい」
雪彦「ふふっ、わかった」
貞一郎「……ふん」
雪彦「それで? 僕に用があったんでしょ?こんなところで立ち話も何だし、よかったら中、入る?」
貞一郎「あ、いや、大した用じゃねえんだ。すぐに済む。えーっと、だな。さっきはその……悪かった。親父の名前を出されたから、ついカッとなっちまった」
雪彦「吉野先生の?」
貞一郎「俺は親父があまり好きじゃない」
雪彦「どうして?」
貞一郎「親父は俺に、無理矢理医者の道を継がせようとする。高校にだって、俺は本当は行きたくなかった。中学を出たらすぐに職に就いて、一人前になりたかったんだ」
雪彦「他に何か夢があるの?」
貞一郎「……いや。特にない、けど」
雪彦「……プッ」
貞一郎「あっ! てめえ、今笑ったろ!」
雪彦「だってなんだかきみって、随分粋がっているんだもの。きみにそういうのって、なんだか似合わないよ?」
貞一郎「勝手なこと抜かすんじゃねえ! あとそのきみってのもやめろ、体が痒くなる」
雪彦「わかったよ、貞一郎」
貞一郎「ぐ……! あーあ、めんどくせえのが一人増えちまったなあ!」
雪彦「まあそう言わずに、一つよろしく頼むよ、貞一郎」
貞一郎「貞一郎貞一郎うるせえんだよ!」
M 縮まる距離
雪彦「……あはははははは!」
貞一郎「笑うんじゃねえ!」
奈々生「あ……貞一郎くんと雪彦くん、仲良さそうにお話ししてる」
ほとり「ふふっ」
奈々生(M)「それから数日が経ち、雪彦くんの入学式の日がやってきました。私たち在校生にとっては、新入生を出迎えるための登校日。授業がはじまるのは明日からです。貞一郎くんはそんなものは面倒くさいとしきりにさぼりたがったのですが、」
(回想)
ほとり「一つ屋根の下に暮らす家族の入学式なんだから、あんたも必ず行くこと!」
奈々生(M)「と、半ばほとりさんに追い出されるようにして、春風亭を出たのでした。学校まで続く満開の桜並木の道を、私と雪彦くんは肩を並べて、貞一郎くんはその少し先を、付かず離れず歩きました」
M 登校
SE 通学路のざわめき
奈々生「へえ、じゃあ雪彦くんはお兄さんに憧れて桜田高校に入ったんだね」
雪彦「うん」
奈々生「素敵なお兄さんだったんだ?」
雪彦「兄さんは努力家で、勤勉な人だったよ。近所の子供たちからも好かれていたし、床に伏せっていることの多かった僕のこともいつも気にかけてくれる、自慢の兄だった。今は独り立ちしてしまったけど、僕にとっては変わらずに憧れなんだ。だから兄さんと同じ、名門の桜田高校に入学することは、僕の夢の一つだった。今日、その夢を叶えることができて、本当に嬉しいんだ」
奈々生「お兄さんのこと、大好きなんだね」
雪彦「ふふっ、うん」
奈々生「……ちょっとぉ、貞一郎くんも黙ってないで会話に参加しなさいよ」
貞一郎「なんで俺が喋らにゃいかん。ていうかそもそも、ほとりに言われなきゃ誰がお前らと一緒に登校なんかするか」
奈々生「ふーん、あっそ。貞一郎くんって、なんだかんだほとりさんのいうことだけはきくんだよねえ。こんな不良も手懐けちゃうなんて、さっすがほとりさん!」
貞一郎「俺は不良じゃねえ!」
雪彦「そうなの?」
貞一郎「あのなぁっ!」
雪彦「あははっ」
奈々生「でも確かに貞一郎くんって、不良って感じではないかも。成績もそこそこいい方なのに、不思議だよね。なんでそんなにぐれてるの? 多感なお年頃ってやつ?」
貞一郎「ぐれてねえよ! あと気色悪いことも言うな! ただいろいろと、めんどくせえだけだよ。あーもうっ、お前ら歩くのとろすぎ! 俺、先に行くからな!」
SE 駆け出す足音
奈々生「あっ、ちょっとぉ! ほとりさんにちゃんと学校まで一緒に行くようにって言われたでしょ! 待ってってばぁ!」
SE 追いかける足音
奈々生(M)「貞一郎くんと雪彦くんと三人揃って学校に行くのなんて、これが最初で最後だと思っていました。だけど、実際そうはならなかったのです。最初はほとりさんに尻を叩かれるようにして渋々連れ立っていた貞一郎くんも、いつしかあまり苦い顔をしないようになり、桜がすっかり散ってしまう頃になると、私たちは一緒に登校するのが当たり前になっていたのでした」
貞一郎「それじゃあお前、今も週一で病院に通ってるのか」
雪彦「うん。吉野先生がいい病院を紹介して下さったから」
貞一郎「だから親父の話はするなっつの」
雪彦「あ、ごめん」
奈々生「でもじゃあ、雪彦くんがたまにふらっとどこかに姿を消しちゃうのは、病院に行ってたからなんだね」
雪彦「うん、まあね」
貞一郎「……そうか」
奈々生「貞一郎くん? どうかした?」
貞一郎「その、お前……大丈夫なのか? 病気。心臓、悪いって」
雪彦「……クスッ」
貞一郎「何がおかしい!」
雪彦「いや、別に。貞一郎って意外と心配性なんだなって思っただけ。前にも言ったでしょ、そんなに悪かったら、僕は今ここにはいないって。そんなに心配しなくても大丈夫だよ。でも、ありがとう」
貞一郎「誰が心配なんかするかっ!」
奈々生「貞一郎くんでしょ?」
雪彦「貞一郎だね」
貞一郎「お前らぁっ!」
奈々生(M)「三人で過ごす時間は、私にとってとても楽しい時間になっていきました。それまで貞一郎くんとろくに会話もしたことがなかったのに、不思議です。そして、楽しい時間は過ぎるのもあっという間です。いつしか桜の木は青々と葉を茂らせ、梅雨に入り、夏が近づいてきていました」
M ~OUT
ほとり「あ、奈々生ちゃん」
奈々生「ほとりさん。何か用ですか?」
ほとり「うん、ちょっとね。もう寝ちゃうならいいんだけど」
奈々生「いえ、まだ大丈夫ですよ」
ほとり「そう? じゃあちょっと頼まれてくれるかしら。雪彦くんにこれ、持っていってあげてくれる?」
奈々生「毛布と、珈琲……? 雪彦くん、どこにいるんですか?」
ほとり「縁側で星を見てるわ」
奈々生「星を?」
ほとり「ほら、今夜は流星群が観測できるって、テレビで言っていたでしょう。雪彦くん、星とか宇宙とか、大好きなのよ」
奈々生「へえ、素敵ですね」
ほとり「だから、ね、お願い。今の時分でも、夜はまだ肌寒いと思うから。奈々生ちゃん、行ってあげて」
奈々生「はい、わかりました」
M 夜
奈々生(M)「それは、とても静かな夜のことでした。三和土に揃えた靴を突っかけ、玄関先の梅の木の脇をすり抜けて庭の方へ回り込んだ私は、思わず息を呑み、立ちすくみました。満天の星空を見上げる雪彦くんの横顔が、あまりにも何か、焦がれるように切ないものだったからです」
SE 虫の声
奈々生「……雪彦くん」
雪彦「奈々生ちゃん」
奈々生「邪魔しちゃってごめんね。ほとりさんが、これを雪彦くんにって」
雪彦「え? あ……ふふっ。ほとりさんも奈々生ちゃんも、春風亭の人たちはみんな本当に心配性だなあ。(珈琲を一口啜って)ありがとう、美味しいよ」
奈々生「淹れてくれたのはほとりさんだよ」
雪彦「持ってきてくれたのは奈々生ちゃんでしょ」
奈々生「……隣、いい?」
雪彦「勿論」
SE 歩み寄る足音 腰を下ろす
M ~OUT
奈々生「流れ星、見える?」
雪彦「うん。今日が天気でよかったよ。ここの星空はすごく綺麗だね。僕のいた町の空は、もっと濁っていたから。この町が、僕は好きだな」
奈々生「そっか。よかった」
雪彦「奈々生ちゃんも僕の方ばかり見ていないで、少しは星を見たら?」
奈々生「えっ!? 私、そんなに雪彦くんのことじっと見てた?」
雪彦「うん、見てた」
奈々生「ご、ごめんなさい」
雪彦「あはは、いいよ。気にしないで。それよりほら、また星が流れた。あっちでも、こっちでも。本当に綺麗だ」
M 流星群
奈々生「わあっ……! すっごく綺麗!」
雪彦「ほら、ね?」
奈々生「でも、雪彦くんも綺麗だったよ」
雪彦「え?」
奈々生「あ……な、何でもない」
雪彦「へんな奈々生ちゃん」
奈々生「ごめん……」
雪彦「ねえ、奈々生ちゃんは知ってる? 流れ星の正体」
奈々生「流れ星の、正体?」
雪彦「うん。流れ星の正体はね、宇宙を漂うたくさんの小天体、つまり塵なんだ」
奈々生「塵……」
雪彦「そう。その塵が大気圏に突入する時、摩擦熱で燃える光が、地上からは流れ星として見えるんだよ。星屑が燃え尽きる、たった一瞬の最期の光。それが、地上の人の願いを叶えてくれるという。何だかロマンチックだよね。まるで賢治のさそりの火のようだ。
〝僕はもう、あのさそりのように、本当にみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない〟」
M ~OUT
奈々生「……ね、雪彦くん。せっかくだから私たちも、流れ星に願い事しよっか」
雪彦「えぇっ? はは、急に言われても、なんにするか迷っちゃうなあ」
奈々生「互いに願いは一個ずつ。せーので、最初に見つけた流れ星に願うんだよ。どう、雪彦くん。願いは決まった?」
雪彦「んー……うん、決まった」
奈々生「じゃあ、せーので最初に見つけた流れ星だからね。いくよ、せーのっ!」
間
奈々生「……願った?」
雪彦「……うん、願った」
奈々生「ふうっ、何だかすごく集中しちゃった。たった一瞬のうちに、三回も唱えなくちゃいけないんだもんね、願い事」
雪彦「奈々生ちゃんは何を願ったの?」
奈々生「春風亭のみんなが、ずっと仲良しでいられますようにって」
雪彦「いい願いだね」
奈々生「雪彦くんは?」
雪彦「僕は内緒」
奈々生「あ、ずるい」
雪彦「そうだね。でも、どうしても叶えたい願いだから、口にしてはいけないような気がして」
奈々生「そっか。そうかもしれないね」
雪彦「ごめんね」
奈々生「ううん、いいの。……あのね。私本当は、ずっと貞一郎くんが怖かったんだ」
雪彦「貞一郎が?」
奈々生「うん。だって貞一郎くん、いつも全人類が自分の敵、みたいな顔をしていたものだから」
雪彦「確かに、そうかもね」
奈々生「でも、雪彦くんが春風亭に来てから、貞一郎くん、変わったよ」
雪彦「え?」
奈々生「あ! そっか。雪彦くんと出会ったから、貞一郎くんは変わったんだ」
雪彦「僕は貞一郎に何もしてないよ。一緒に過ごすのだって、朝晩の食事の時と登校の時くらいだし。……そう、僕は貞一郎に何もできない」
奈々生「そうかもしれない。でも確かに、貞一郎くんを変えたのは雪彦くんだよ。なんていうか、うまく言えないんだけど、柔らかくなったような気がするんだ。最近は教室でも、お友達と話しているところを見かけるようになったし。前はずっと一匹狼で、どうしようもなかったんだから」
雪彦「貞一郎らしいね」
奈々生「少しも物怖じせずに貞一郎くんのこと呼び捨てにできるのなんて、雪彦くんくらいだったもん。年下なのにさ、すごいよ」
雪彦「貞一郎は優しいから」
奈々生「え?」
雪彦「だから僕が呼び捨てにしても怒ったりしない。照れ隠しはするけどね。それに、そこの梅の木」
奈々生「ああ、玄関先の?」
雪彦「僕と貞一郎は、あの梅が満開だった頃に出会ったんだ。たまたま通りかかって、梅の花があまりにも綺麗だったから、僕は思わず足を止めて見蕩れていた」
奈々生「そういえば越してきた時、前にも会ったことがあるような感じだったね」
雪彦「うん。僕が梅の花に目を奪われていたらね、いつの間にか玄関先に、貞一郎が立っていた。それで僕に、声をかけてきてね。彼、あの花の名前も知らなかったんだよ」
奈々生「それこそ、貞一郎くんらしいわ」
雪彦「何をしてるって尋ねるから、梅の花を見ていたと答えたら、貞一郎、なんて言ったと思う?
〝そいつは俺の木だ。あまり気安く見るんじゃない〟」
奈々生「あははっ、何それ! 貞一郎くんの家でもないのに、偉そうね」
雪彦「でも、それで僕は確信したんだ。ああ、この人は、こういう態度で煙に巻いているけど、本当はとても優しい人なんだって。名前は知らなくても、あの木がとても好きなんだって。だから、春風亭で再び貞一郎と相まみえた時も、僕はちっとも彼が怖くなんかなかったよ。嫌われちゃったかなって、ちょっと心配にはなったけどね。それも吉野先生のことがあったからで、あとからちゃんと謝りにきてくれたし」
奈々生「貞一郎くんは、ひねくれてるから」
雪彦「確かにちょっと、素直ではないね」
ブリッジ
奈々生・雪彦「プッ……あはははははは!」
ほとり「あら。ふふっ」
奈々生(M)「一緒にいたら、隠せないことの方が多いものです。本当は私はこの時、既に気がついていたのかもしれません。気づいていて、見て見ぬふりをしたのかもしれません。雪彦くんと二人、星に願ったあの晩のことを、私は死ぬまで忘れないことでしょう。だって私と雪彦くんが二人きりで語らったのは、生涯を通じて、あの日が最初で最後だったのですから。
やがてやってきた夏休みのあいだ、私は実家に帰省することになりました。ちょっとのあいだ、ほとりさんと雪彦くんと貞一郎くんとお別れです」
M 夏
奈々生「それじゃあ、ほとりさん。お店のこと、よろしく頼みますね。それから貞一郎くんが雪彦くんのこと虐めないように、ちゃんと見張っておいて下さい」
貞一郎「おい、どういう意味だよ」
ほとり「まっかせて。しっかり首輪つけておくわ」
貞一郎「ほーとーりー……」
雪彦「クスクス」
奈々生「貞一郎くん、雪彦くん。また春風亭でね」
貞一郎「おう」
雪彦「お元気で」
奈々生「それじゃ、みんな。またね!」
貞一郎(M)「こうして奈々生は行ってしまった。俺は親父との仲があるから実家には帰らないし、雪彦も長時間の移動は体に負担がかかるからと、どうやらこっちに残るらしい。今、この春風亭には、俺と雪彦とほとりだけだ。ほとりは相変わらず店の方の仕事に追われていて、必然的に俺と雪彦は二人だけで過ごす時間が増えた」
(テレビの音声)
アナウンサー「(FI~)昨年七月二十日に人類をはじめて月面へと到達させたアポロ十一号。あれから一年以上が経った今も、未だ世界中が、この小さくて大きな一歩に、注目しています。アームストロング氏のあの言葉、印象深いですよね(~FO)」
貞一郎(M)「いざ奈々生がいなくなってみると、雪彦と何を話せばいいのかまるでわからなかった。雪彦も何を考えているのか、俺に必要以上の言葉をかけてくることはしない。俺と雪彦は居間でテレビばかり眺めて過ごした。沈黙が、うるさかった」
(テレビの音声)
アナウンサー「(FI~)それでは今一度、月面着陸の瞬間を、ご覧下さい」
SE アームストロング船長の声
〝That's one small step for a man,
one giant leap for mankind......〟(~FO)
雪彦「体が丈夫であれば、僕は宇宙飛行士になりたかった」
貞一郎「……何故?」
雪彦「気分が良さそうじゃあないか。あれを見ろ。宇宙服はまるで奇怪で格好がつかないが、あんなに重たげなのに、宇宙飛行士たちは悠然と、美しい月の砂を掻いて歩いている。ああいう気分を、僕も一度味わってみたいものだ」
貞一郎「……なんかお前、今日はいつもと感じが違うな」
雪彦「そう? 気のせいじゃない?」
貞一郎「そんなになりたいなら、なればいいじゃないか」
雪彦「そうだね。実に単純明快なことだ」
貞一郎「……なあ、雪彦」
雪彦「うん?」
貞一郎「何か宇宙飛行士になれない、理由でもあるのか」
雪彦「……どうしてそう思うの」
貞一郎「長時間の移動は体に負担がかかるから、ここに残ると言っていたな。お前、病が悪くなっているんじゃないのか」
雪彦「悪くなっていたら、僕はとっくに吉野先生のところに追い返されているよ」
貞一郎「親父の名前を出して誤摩化そうってか。そうはいかねえぞ」
雪彦「きみは聡いのか馬鹿なのかわからないね」
貞一郎「俺は馬鹿じゃねえ。あとそのきみってのはやめろと言ったはずだ」
雪彦「そうだったね。お前は馬鹿じゃない、貞一郎」
貞一郎「……っ!」
雪彦「でも、そうだね。僕には奈々生ちゃんの願いを叶えてあげることは、難しいかもしれないな」
貞一郎「なんの話だ」
雪彦「さあね。貞一郎には関係ないよ。僕と奈々生ちゃんだけの秘密」
貞一郎「ふざけてんのか」
雪彦「ふざけてなんかないよ。大真面目」
貞一郎「てめえっ!」
SE 足音
ほとり「……ん? ちょっとちょっと、何、喧嘩? やめてよね、今ここに仲裁役の奈々生ちゃんはいないんだから。男子二人は夏休み中、おとなしくしてること!」
雪彦「はい、すみません」
貞一郎「ちっ」
貞一郎(M)「結局その場ははぐらかされてしまったが、その頃から俺は、ある一つの疑念を胸に抱きはじめていた。俺がそれ以上問い正すことをしなかったのは、ひとえに雪彦を信じたかったからにほかならない。沈黙にも辟易してきた頃、俺たちはテレビを見ながらぽつりぽつりと、雪彦の好きな宇宙についての話をするようになった」
M アポロ十一号
貞一郎「へえ、それじゃあ、当時宇宙技術において優っていたのは、アメリカよりもソ連だったのか」
雪彦「うん。アポロ十一号の月面着陸以前に、ソ連は世界初の人工衛星、有人宇宙飛行、宇宙遊泳、月無人探査機の着陸、あらゆる目標を先に達成していたからね」
貞一郎「ちっとも知らなかったな」
雪彦「当時は結構話題になったものだけれど」
貞一郎「んー、そういう話に全く興味なかったからなあ」
雪彦「貞一郎らしい」
貞一郎「だが、そのアメリカがなんでまた月面着陸なんて偉業を成し遂げちまったんだ」
雪彦「冷戦だよ。科学力においてソ連に劣っているという事実は、アメリカとって衝撃的だったのさ。だから計画成就のために政府は金を惜しまず、人類初の月面着陸を成功させることが叶ったってわけ」
貞一郎「なるほどね」
雪彦「だけどさ、人間が月に降り立つなんて、ロマンだと思わない? 少なくともアポロ十一号の搭乗員たちは、きっと少しも政治的なことなんて考えてなくて、ただ月面着陸という人類の夢を叶えるために、みんながみんな必死だった。僕、アームストロング船長のあの言葉、大好きなんだ。
〝これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である〟」
貞一郎「……そうかもな」
貞一郎(M)「宇宙のことについて、正直俺は大して興味もなかったが、宇宙の話をしている時の雪彦を見るのは好きだった。そういう時の雪彦は、普段の蒼白い顔色がうそのように、他のどんな時よりもいきいきと、生気に満ちて見えたからだ」
M ~OUT
SE 蝉の声
奈々生「たっだいまー!」
貞一郎(M)「夏休みが終わる頃になり、奈々生が春風亭に帰ってくる」
ほとり「お帰りなさい、奈々生ちゃん」
奈々生「お久しぶりです、ほとりさん」
SE 二人分の足音
雪彦「お帰りなさい」
貞一郎「おう」
奈々生「あれ? 二人が一緒に出てくるなんて、珍しい」
貞一郎「あ? そうか?」
奈々生「うん。今までだったら二人が一緒に出てくるなんて、考えられない」
貞一郎「まじかよ……。俺たちどんだけ仲悪いと思われてたんだ……」
ほとり「そうそう、貞一郎と雪彦くん、この夏休みのあいだにすっかり仲良くなっちゃったのよ。こっちも一安心だわ。最初は喧嘩なんかもして、大変だったんだから」
貞一郎「余計なことは言うんじゃねえ!」
奈々生「へえ、そうだったんだ。だけどやっぱり喧嘩もしたのね。もう、ほとりさんに迷惑かけちゃ駄目じゃない、貞一郎くん」
貞一郎「なんで俺だけに言うんだよ」
奈々生「あーあ、長旅で何だか疲れちゃった。私、ちょっと部屋で休ませて貰いますね。あ、これ、うちの実家のお土産です」
貞一郎「無視かよ!」
ほとり「ありがと」
奈々生「それじゃあみんな、積もる話はまたあとでね! おやすみなさーい!」
SE 近づく足音
奈々生「(耳元で)よかったね、貞一郎くん」
SE 走り去る足音
貞一郎「だからなんで俺に言うんだよ!」
雪彦「クスクス」
貞一郎「……ちっ!」
貞一郎(M)「全く女というのは、妙なところで聡くて嫌になる。それというのに俺がその時、奈々生の言葉を否定できなかったのは、雪彦と自然に接し、言葉を交わせることを、俺自身、心のどこかで嬉しく思っていたからかもしれない。雪彦が倒れたのは、そんな矢先のことだったのだ」
SE 雪彦、床に倒れ込む
雪彦「……っ!」
貞一郎「……雪彦?」
奈々生「雪彦くん!」
ほとり「奈々生ちゃん、すぐに救急車を!」
奈々生「はいっ!」
SE 走り去る足音
雪彦(荒い息遣い)
貞一郎「雪彦……! おい雪彦、しっかりしろ! 雪彦!」
SE 救急車、遠ざかる
貞一郎(M)「これが悪夢であったならと、どれほど強く願ったことだろうか」
(回想)
雪彦「体が丈夫であれば、僕は宇宙飛行士になりたかった」
貞一郎(M)「どうしてあの時雪彦は、過ぎたことのように、諦めきったかのように、こぼしたのだろうか」
(回想)
雪彦「僕には奈々生ちゃんの願いを叶えてあげることは、難しいかもしれないな」
貞一郎(M)「ほとりと奈々生と三人、救急車の中で身を寄せ合い、毛布の端からはみ出した、力なく揺れる雪彦のつま先を呆然と見つめながら、俺はそのあまりの現実味のなさに、途方に暮れるほかなかった。隣町の病院に着くなり、雪彦は即座に緊急治療室に運び込まれた。やがてほとりだけが呼ばれ、治療室に吸い込まれていった」
SE ドアが開く
貞一郎「ほとり!」
奈々生「ほとりさん! 雪彦くんは……?」
ほとり「雪彦くんなら、意識が戻ったわ」
貞一郎「そうか……!」
奈々生「よかったぁ……!」
ほとり「……あのね、奈々生ちゃん、貞一郎。二人に、大切な話があるの。雪彦くんからの、伝言よ」
奈々生「雪彦くんから?」
ほとり「雪彦くんはもう、先が長くない」
奈々生「え、」
貞一郎「……は?」
ほとり「雪彦くんがはじめて春風亭に来た時から、わかっていたことだったの」
奈々生「そんな……! でも雪彦くん、自分の病気は大したことないって!」
ほとり「雪彦くんのお母さんと私はね、旧い友人なの。だからはじめから、全部知っていたわ。知っていて、彼を春風亭に受け入れたの。例え明日がわからずとも、生きている限り雪彦くんの望みを叶えてあげることが、ご両親の願いだった」
貞一郎・奈々生(絶句)
ほとり「二人には、悪いことをしちゃったわね。でも、一緒に暮らす人たちに余計な気を遣わせたくないっていう雪彦くんの思い、尊重してあげたかったから……」
貞一郎「あンの野郎!」
ほとり・奈々生「貞一郎!?」
貞一郎「舐めた真似してくれやがって。一発横っ面ぶん殴ってやる!」
ほとり「やめなさい、貞一郎!」
奈々生「だめぇっ、貞一郎くん!」
貞一郎「離せ奈々生! どけ、ほとり!」
奈々生「嫌!」
ほとり「あんたがその拳を下ろさない以上、この部屋には入らせないわよ」
貞一郎「おい雪彦! 聞こえてんだろ! 俺はお前を許さねえぞ! 小賢しい真似してくれやがって! そうだ、お前が死んだって、俺はお前を許さねえ……畜生っ!」
SE 荒々しい足音
奈々生「ちょっと、貞一郎くん!」
ほとり「奈々生ちゃん、貞一郎をお願い。あたし今夜はここに残るわ」
奈々生「わかりました!」
SE 走り去る足音
雪彦「……ごめんね」
貞一郎(M)「長期の入院が決まった。俺が雪彦の見舞いに行くことは、なかった。悔しかったのだ。あんなにも瞳を輝かせて宇宙への夢を語らった雪彦が、そんな大事なことを俺たちに隠していた事実が。裏切られたような、気がしたのだ」
(回想)
雪彦「人間が月に降り立つなんて、ロマンだと思わない?」
貞一郎(M)「春風亭にはどこかぎこちない空気が漂い、無論、奈々生と一緒に登校することもなくなった。雪彦の姿がそこにないだけで、世界にはぽっかりと穴が空いてしまったかのようだった」
(回想)
雪彦「僕、アームストロング船長のあの言葉、大好きなんだ。
〝これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である〟」
SE 木枯らし
貞一郎(M)「木々が色づく秋が過ぎ、凍てつく冬が訪れていた。そして一つの決意を胸に、俺はようやくはじめて、雪彦の病室の前に立っている」
SE ノック
雪彦(OFF)「どうぞ」
SE ドアを開ける
貞一郎「……よう」
雪彦「……貞一郎、」
貞一郎「見ないうちに少し、痩せたな」
雪彦「そうかな。自分のことはよく、わからないや。まさかお前が来てくれるとは思わなかった。外は寒かっただろう」
貞一郎「ああ、いい。まだ寝ていろ」
雪彦「平気だ。今日は随分調子がいいんだ」
貞一郎「だめだ。じきに回診の時間だろう。それまではちゃんと体を休めていろ」
雪彦「吉野先生と違って、貞一郎は頭が固いな」
貞一郎「放っとけ。生まれついての性分だ。俺は親父のようにはなれないし、なりたいとも思わん」
雪彦「僕が生まれついての病であるのと同じに、か」
貞一郎「そういうことを言ってるんじゃない! 俺は、俺が言いたいのは……!」
雪彦「ごめん、嫌なことを言ったね」
貞一郎「……なあ、雪彦。お前どうして、病のことを隠していたんだ。本当は出会った時から、お前の病は悪かったんだろう。なのに、どうということもないような顔をして……、」
雪彦「十までもたぬと言われて育ってきた」
貞一郎「え、」
雪彦「その体をだましだまし、どうにか今日まで生きてきた。僕は本来なら、ここにいないはずの存在なんだよ。そんなこと、誰にも知られたくはなかった。本当は最後まで、言わないつもりだった。それなのに言ってしまったのは、どうしてだろうね」
貞一郎「……雪彦。俺は今、勉強をしているんだ。医者になるための勉強だ。俺は医大に行くんだ。そう決めた」
雪彦「夢ができたんだね。素敵だ」
貞一郎「親父のあとを継ぐ形になっちまうのは癪だが、そんなものはたまたまだ。俺は俺の意志で医者になると決めた」
雪彦「そっか。……ねえ、貞一郎。僕のぶんまで夢を叶えて」
貞一郎「あ?」
雪彦「月の満ち欠けと同じように、人の夢の形はそれぞれ違えども、天へと焦がれる気持ちは皆同じだ。月面着陸を強く夢見たアポロ十一号の宇宙飛行士たちのように。だから、僕のぶんまで。そして僕のこと、どうか忘れて」
貞一郎「何を……、」
雪彦「奈々生ちゃんとね、二人で流れ星に願い事をしたことがあったんだ。僕はこう願ったよ。〝例え僕が死んでも、春風亭の人たちが、僕のことを忘れて幸せに生きてくれますように〟って」
貞一郎「馬鹿なことを……!」
雪彦「明日をもわからぬ身だとわかっていながら、僕は春風亭の人たちに親しみを抱いてしまった。誰も僕を悼まぬように、その一線だけは決して越えてはいけなかったのにね。だからこれは僕の罪なんだ。忘れ去られることは、僕の罰なんだ」
貞一郎「何だよ、それ……」
雪彦「ごめんね」
貞一郎「何だよっ……勝手なことばっか抜かしやがって。……ふざけんじゃねえっ!」
雪彦「貞一郎……」
貞一郎「俺がどうして医者になると決めたか、わかるか」
雪彦「え、」
貞一郎「お前のような奴を、一人でも多く宇宙飛行士にしてやるためだ」
雪彦「あ……!」
貞一郎「俺は雪彦、お前の生き様が眩しかった。お前を見てると、自分が情けなくて仕方なかったよ。俺はどこもかしこも健康なのに、未来に何の理想も描けず、怠惰な日々を過ごしていた。お前にどこかすげなく接してしまったのも、真っ直ぐに前を向いて歩むお前が羨ましかったからだ」
雪彦「お前ははじめから、優しかったよ」
貞一郎「そうやっていつも、お前は俺を認めてくれるな。本当はずっと、嬉しかったんだ。そんなことを言ってくれる奴は、はじめてだった。粋がっていた俺を、奈々生も他の奴らも、みんな怖がったから」
雪彦「あんなに優しい目で梅の花を見る人を、怖いと思うわけないだろう」
貞一郎「……なあ。散々悪態ついたけどさ、お前の病が本当はとても重くて、夢を叶えることすら叶わないと知ったあの日、俺はもう医者になることを決意していたよ」
雪彦「え……、」
貞一郎「雪彦。俺を変えてくれたのは、お前なんだ。わかってるよこんなのはただのエゴだ、それでも! 俺はお前を絶対に忘れたりなんかしない。絶対にだ」
雪彦(息を呑む)
貞一郎「……どうして、お前なんだよ」
雪彦「貞一郎、」
貞一郎「宇宙飛行士になるんだろう? お前、そう言ったじゃないか!」
雪彦「……エゴっていうなら僕の方だろう」
貞一郎「あ? 何が、」
雪彦「さわってみろ」
貞一郎「のどを、か?」
雪彦「早く」
貞一郎「ああ」
雪彦「僕が焼かれたら、これが残る。こののどの尖りが、仏の姿をした小さな骨となって残される。だから、この感触を忘れるな」
貞一郎「……ああ」
雪彦「またうそをついてしまうところだったね。僕は本当にどうしようもないうそつきだ。貞一郎、これが僕の本当の、本当に正直な気持ち。僕は本当は、お前に忘れられたくなんかない。春風亭の人たちに、僕が生きていたことを覚えていてほしい。ほらね。僕はわがままな奴だろう」
貞一郎(M)「ああ、こいつは知らないんだ。今にも弱く羽ばたいてどこかへ飛んでいってしまいそうな儚げな感触を、ふれる肌に灼きつけながら、俺は奇妙なかなしさを覚えていた。火葬のあとに残される仏の姿をした骨は、こののどの尖りではない。今、俺がふれているこれは、炎のうちに溶けて消えてしまう。ふれたそばから熱に形を失くし、消え入ってしまう雪のように。知らないまま、こいつは死んでいく。その事実が無性に、かなしかった」
貞一郎「ああ、忘れねえよ。例えお前が死んだって、お前が死んだことを俺は許さねえ」
雪彦「ふふっ、何だよそれ」
貞一郎「忘れねえからな」
雪彦「……うん。あ、雪」
貞一郎「あ……、」
雪彦「貞一郎、知っているかい。月面に足を踏み下ろす時、アームストロング船長は月の様子をこう表現した。
〝今、着陸船の脚の上に立っている。脚は月面に一インチか二インチほど沈んでいるが、 月の表面は近づいて見るとかなり……、かなりなめらかだ。ほとんど粉のように見える。月面ははっきりと見えている〟
……月の砂は、この雪のように白いのかなあ。或いは焼かれた骨のように。
〝僕はもう、あのさそりのように、本当にみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない〟」
貞一郎(泣き崩れる)
M 終わっていく
奈々生(M)「いつものように雪彦くんのお見舞いに来て、病室の中に貞一郎くんの気配があるのに気がついた時、私は重く閉ざされたそのドアを開けることができませんでした。廊下の壁に背中を預け、貞一郎くんが声もなく泣き崩れるのをぼんやりと聞きながら、ただ、何かが静かに終わっていくのを感じていました」
貞一郎「聞いてたのかよ」
奈々生「うん」
貞一郎「……奈々生」
奈々生「うん?」
貞一郎「俺は医大に入るために猛勉強する。だから邪魔すんじゃねえぞ」
奈々生「……うん」
貞一郎(M)「その言葉通り、雪彦が倒れたあの日以来、春風亭にいる時間のほとんどを、俺は机に向かって過ごしていた。何としても、雪彦が生きているうちに医大に合格しなければならなかった。夜、眠くなってきた頃を見計らったかのように、ほとりの淹れた珈琲を奈々生が部屋まで届けてくれるのがありがたかった。二月。俺は第一志望の私立医大に、合格した」
M エピローグ
ほとり「それじゃあ奈々生ちゃん。準備はいーい?」
奈々生「はいっ!」
ほとり「せーのっ!」
ほとり・奈々生「雪彦くん、貞一郎、退院と医大合格おめでとう!」
貞一郎「……どういう風の吹き回しだ?」
ほとり「びっくりした? 奈々生ちゃんと二人で、雪彦くんの退院日に合わせてこっそりお祝いパーティー計画してたのよ」
奈々生「貞一郎くんが雪彦くんを迎えに行ってるあいだに全部飾り付けるの、すっごく大変だったんだから」
ほとり「奈々生ちゃんのポカで、貞一郎には何度かばれそうになったけどね。あんたが鈍い奴でつくづくよかったわあ」
奈々生「もうっ、ほとりさん! 言わないで下さいよ! ごめんなさいってばぁ!」
貞一郎「お前らなあ……」
雪彦「うわあ、すごい……! 春風亭じゃないみたいだ」
貞一郎「! ……ふふっ」
ほとり「でも、ここが雪彦くんの帰ってきたかった場所でしょ」
雪彦「……はい。ほとりさん、奈々生ちゃん。本当に、ありがとうございます」
奈々生「えへへー」
ほとり「やだ、なぁに? そんなに改まらないで。このくらい当然でしょ。さ、今日はパーッと騒ぐわよ。雪彦くん、何食べる?」
雪彦「何でもいただきますよ」
ほとり「じゃあ今日は、胃袋の許す限りたっぷり食べてちょうだい。奈々生ちゃんと腕によりをかけて作った料理だからね」
奈々生「あっ! 貞一郎くん、今私のお皿から取ったでしょ!」
貞一郎「うるせえ」
奈々生「返せ返せ、口から吐き出せー!」
貞一郎「もう腹ん中だよ。いや、まだこの辺か?」
奈々生「もぉーっ!」
ほとり「ほらほら、喧嘩しないで仲良く食べなさい。たくさん用意したんだから」
奈々生「(同時に)はーい!」
貞一郎「(同時に)へーい」
雪彦「クスクス」
貞一郎「おい、雪彦」
雪彦「うん?」
貞一郎「ぼーっと見てないで、お前も食え」
雪彦「……うん!」
ほとり・奈々生「ふふっ」
貞一郎(M)「雪彦は学校にはもう行かない。雪解けの水が小川のせせらぎとなり、雪の下に埋もれていた若い蕗の薹や、福寿草の黄色い花が芽吹き、そうしてまた、あの庭の梅の蕾が再びこぼれ咲く頃には、既にここにはいないだろう。誰もが、それを知っている。知っていて、笑い合う。雪彦の存在がここに在る、今この瞬間が、奇跡のように大事だから。そうしていつの日か、月の砂を渡る夢を見るのだ」
M ~OUT
雪彦「貞一郎」
貞一郎「あ?」
雪彦「ありがとう」
貞一郎「……ああ」
〈終〉