妄想オヤジ 高校時代編
十代の頃の恋は、切なく切なくて、言葉を交わした、手を触れた、だけでも強烈な記憶となって残っている。
年明けのある日、森嶋高志は家族四人で初詣に出かけた。自宅から一番近い神社、横浜中華街の中にある関帝廟に詣でた。春節でもないのに、台湾・香港系の人々でごったがえしていた。中国大陸系の人もいるようだが、見分けはつかない。もちろん、日本人もたくさんお参りに来ていた。中国の神様だが、神様には違いない。
多神教の神道の精神が根底にある日本人で良かった。仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、そして中国の神様など、ありとあらゆる宗教にお参りしても、罰が当たるどころかご利益がある神道は最高だ。
このとき、息子の翔介は高校二年生、娘の朋美は中学二年生。
「二人とも来年は受験だから、よくお祈りしなさい。」
高志は、その昔、自分が同じことを言われていたのを思い出した。
* * * * *
「来年は受験やでえぇ、よぉ~お祈りしとくんにゃざ。」
母親が、初詣に訪れた北陸の福井市の明神神社で言った。
「わかってるぅ~。」
そのとき高校二年生だった高志は答えた。だが心の中では、まったく違うことを祈っていた。
[今年こそはぁ、女の子とぉ、一言でいいでぇ、お話しがぁ、できますよぉうにぃ]
やりたい盛りの高校生の、なんともわびしい願いだった。
県立隆士高校に入学して約二年、高志は女の子と一言も話したことがなかった。一年生のときは、クラスの半分は女子だったので、チャンスはいくらでもあったのだが、できなかった。二年生になると、理系・文系にクラスが分かれ、高志の理系クラスは四十四人中、女子は四人だけ。ますます、話すチャンスはなくなった。もちろん、そんな理系クラスでも彼女のいる男子はたくさんいたし、気軽に文系クラスの女子と話している男子もたくさんいた。単に、高志が臆病だっただけのことだ。
高志に激しい妄想癖があることと女性に臆病なことは、幼い子供の頃からのことである。人の性格は、生まれながらの性質と育った環境の、両方の影響を受けるという。高志の場合は後者だ。
高志は、物心がついた三歳ころには、いつも怯えていて臆病だった。今でいうDVによるものだった。親からではなく、二歳上の兄からだった。幼いころの二歳差はとても大きく、体が倍以上違う。意味も無く指を噛まれたり、たたかれたり、積み木やおもちゃを壊されたり、と様々なイジメを受けた。そういう理不尽な目にあっても精一杯の抵抗を試みたのだが、体力ではとてもかなわない。毎日最低三回は泣かされていた。兄は、弱者の不幸に悦楽を感じるタイプで、泣いている高志を見ながら、勝ち誇ったようにいつもニヤニヤしているイヤな奴だった。見かねた祖母が、兄の手の届かない場所にハンモックを作って、そこに高志を置いていた。地上で遊ぶこともできず、ハンモックに揺られながら、一日中妄想にふける臆病な性格になっていった。
また、近所に同年代の女の子は皆無で、従兄弟にも女の子は皆無だった。女の子は、別世界の不思議な生き物として見ていた。小学生のころは、弱者を挫く兄の影響で、女の子によく意地悪をして嫌われていた。中学生のころは、事務的な言葉を交わす程度で、会話はなかった。
そして、やりたい盛りの高志は、女の子との接し方がまったく分からない臆病な男子高校生になっていた。新年の初詣でのお祈りでも、受験勉強や将来の夢は些細なことで、もっと大きなことは、一年に一回だけでもいいから女の子とお話しをすることだった。
[できれば児島千代子と・・・]
児島千代子は、女子バスケット部に所属する文系クラスの女子だ。セーラー服姿の彼女は、小顔で色白で清楚な雰囲気漂う美少女だ。それがバスケットウェアを着ると、途端に活発なスポーツ少女に変身する。女性的な曲線美があらわになり、セクシーさすら感じる。特に、腰まわりから太もも、ふくらはぎのラインはむっちりしていて絶品だった。一学年に二百人近くいる女子生徒の中でも、結構目立っていた。高志は長年の彼女のファンだった。
実は、高志と千代子は中学一年生の時のクラスメートだ。高志はそのとき学級委員長をしていたので、名前と顔くらいは覚えてもらえていた。彼女のことはあまり気に掛からない存在だったが、ブルマー体操服姿でバスケットボールをしている姿を見たそのときから、彼女のファンになっていた。それ以来同じクラスになったことはなかったが、幸いにも同じ高校に進むことになった。また、彼女の自宅は、高志の自宅から直線距離で百メートル、大通りを挟んだはす向かいの集合住宅にあり、高志の部屋からその建物が見えていたので、常に気になる存在だった。高校二年になっても彼女のファンであり続け、学校の廊下ですれ違うたびにトキメキを覚えていた。
部活動をしていない高志は、休日は当ても無く自転車で街をぶらぶら徘徊することが多かった。ある休みの日、
[ほや、学校行こ]
と思い立ち、自転車で三十分掛けて学校に行った。目的は・・・・・・。
怪しまれないように学生服を着て行った。通学用自転車置き場に乗ってきた自転車を置き、体育館へ向かった。体育館の下窓から中を覗いてみた。
[ラッキーや]
女子バスケット部が練習していた。千代子もいた。細かい動きの全体練習から、パス回し、ディフェンス、シュートなど様々な練習をして汗だくになっていた。千代子も躍動している。セーラー服姿の清楚さとは百八十度異なり、そのギャップに、高志は萌えた。そして、中学生だったころよりもはるかに凹凸のはっきりした体型に釘付けになった。練習の最後は柔軟体操だった。高志が見ている目と鼻の先で千代子が柔軟を始めた。彼女の曲線がさらに曲がりくねって、高志にめまいを引き起こさせた。さらに、足を広げて開脚柔軟をするではないか! バスケットパンツとそこから伸びる素足・・・。目の前で太ももが大きく広げられた。
[あっ、あかんて。かっ、かんべんしてやぁ~]
* * * * *
「鼻血出てるよ、お父さん。」
関帝廟前で、女房と子供二人が心配した。
「お父さん、どこか悪いんじゃない? こんなに寒いのに鼻血なんて。」
「いや、大丈夫だよ。仕事のし過ぎかな。」
平静を装う森嶋高志五十二歳だった。
* * * * *
その年も、一言も女の子とお話しすることはできずに、月日は流れてゆく。高校三年生となり、みんな受験モードに入って行った。ただし夏休みは、九月にある最後の学園祭に向けて、準備に追われていた。祭りになると急に燃え出す奴は必ずいるもので、突然リーダーシップを発揮する連中が仕切っていた。体育祭の大型の山車の製作と、応援団練習が、クラスあげての大仕事だった。理系一クラスと文系一クラスが組んで一チームとなり、四つのチームで競い合う趣向になっていた。山車は高さ四メートルもあるアメリカンフットボール選手の製作、応援団は男子十人、女子十人で、統一の衣装を作り、パフォーマンスをする。
そのころの若者は、『シラケ世代』と呼ばれ、無気力、無関心が蔓延していたが、燃える奴は燃えていた。高志は典型的なシラケ高校生だった。『当たらす触らず』を心がけ、適当な理由をつけては準備をサボっていた。
ただし、応援団グループに誘われたときは、迷いが生じた。女の子とお話しができるかも、との期待があったからだ。そして、応援団のパフォーマンスにも大いに興味があった。女子の衣装は、太ももがあらわな超ミニスカートと、面積の小さな上着と相場が決まっており、それらを眺めるだけでも楽しめる。その上、男女一組になり、組んずほぐれずの密着したパフォーマンスをする。さらには男子が、太ももあらわな女子を肩車したりする。
[けなるいなぁ~]
下級生だった頃、三年生の応援団を見て、とても羨ましかった。そのチャンスが目の前にあった。しかし結局、応援団グループの誘いは断った。臆病すぎたのだ。
高志の夏休みは、ダラダラ過ぎていった。九月の学園祭もほぼ終わって、最後の締めのフォークダンスを残すのみとなった。高志のような臆病な男子にとっては、年に一回だけ女子の手に触れる幸せな時だ。幸せなのは高志だけで、触られる方の女子は迷惑千万だったに違いないのだが。音楽が流れ出す前に、あちこちで女子たちが大きな声で談笑している。大抵、お目当てのイケメン男子との順番が回ってくるかどうかの話題だ。高志のような雑魚は、存在すら無いかのようだった。
音楽が鳴りダンスが始まる。次々にパートナーが入れ替わっていく。トキメク女子もいれば、残念な女子もいる。高志は間違いなく残念な男子だ。三曲目が流れ出すと、遠くに児島千代子が見えてきた。心臓の鼓動が徐々に早くなってきた。千代子の背中が見え、いよいよ次のパートナーとなった。その時、曲が終わった。
[俺の人生、いつもこうやなぁ~]
すると、あまり馴染みのない別の曲が始まった。皆、踊り方が分からず、ざわつき始めた。後ろから押されるようにパートナーが入れ替わり、高志は千代子とのペアになった。千代子は、
「これ、どやって踊るんやったんかなぁ? 確かこやったかなぁ。あれ? ちがうなぁ。」
と言いながら、高志と腕を組んだり、手を握ったり、胸にもたれかかったり。高志はあまりの緊張で体が硬直していた。マネキン人形のように千代子のなすがままに体を弄ばれた。まわりの生徒たちも試行錯誤していて、パートナーは固定したままとなっていた。
「分からんわぁ、森嶋君。」
と千代子は微笑みながら話しかけた。これが中学高校を通して、初めての児島千代子から高志への言葉だった。
[やっぱ俺の名前、覚えてくれてたんやぁ~。感激ぃ]
高志は引きつった笑顔を作っただけで、一言も言葉を発せられなかった。そのとき、アナウンスが入った。
「この曲はあまり馴染みがないようなので、フォークダンスはこれで終了します。」
ほんの三十秒くらいだったが、小さいけれど、とてつもなく大きな幸せだった。
* * * * *
高志がほくそ笑んでいると、
「お父さん、元気が出てきたみたいね。」
女房と子供たちが安心していた。
* * * * *
受験を終え、高志は地元の大学に入ることにした。憧れの東京の大学も合格していたのだが、兄がすでに東京で大学生活をしていたので、あきらめた。親の仕送りの苦労を考えると、贅沢は言えなかった。
児島千代子は、京都の大学に進学したらしい。また、彼女の自宅は、高志の家のはす向かいの集合住宅から郊外へと引っ越していた。もう二度と千代子と会うことはないだろう。もし偶然に街で会ったとしても、高校卒業までの六年間、会話がなかったのだから、お互いに気づかないフリをして通り過ぎるだけだろう。
[彼女も今は、五十二歳のオバチャンやなぁ~]
児島千代子が住んでいた集合住宅は、十年前に取り壊され、駐車場となっている。そのとき、高志はある事実に気がついた。幼い頃、近所に同い年の女の子は皆無だと思っていたが、千代子が最も近くに住む女の子だったことだ。大通りを隔てたはす向かいだったので、小学校の学区が異なり、中学校まで出会うチャンスがなかったのだ。幼い頃に遊び友達になっていたら、まったく違った展開になっていただろう。
そして、衝撃的な遠い記憶が蘇ってきた。それは、高志が幼稚園の年長組のころだった。母親が地域のイベントの集金に、近所をまわっていたことがあった。高志も母親について近所をまわった。そのとき、千代子の住む集合住宅も訪問していた。集合住宅の、ある家の玄関に入り、そこの主婦と高志の母親が世間話を始めた。すると奥から、高志と同年代の小さな女の子が姿を現した。高志とその子は、興味深げにじっと見つめ合った。女の子は生まれたままの姿だった。高志についているものが、彼女には無かった。高志が初めて見た同い年の女の子の裸が、児島千代子だった。千代子にとっても、自分のすべてを見られた初めての男の子が高志だったに違いない。
[ほうかぁ、俺が最初の男やったんかぁ]
高志は満面の笑みになった。
* * * * *
「お父さん、回復早すぎ!」
娘の朋美が言った。
オヤジになってから、高校時代の憧れの人の『初めての男』だったことに気が付いた時の衝撃は、
物凄かったです。