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第4話 土の下の王子様(中世欧州風/旅人/森番/全年齢)

 高貴なる王子の墓に触れし者よ

 死は素早き翼をもってお前に飛びかかるであろう


 泉のほとりに苔むした墓碑が立てられていた。

 刻まれた碑文は、それはそれは物騒な内容だった。

 “この墓に触れればお前はすぐさま死ぬぞ”。すなわち、呪いだ。


 二日間ほとんど不眠不休でひたすら森を突き進んだすえ、サムは偶然にもこの泉にたどりついた。とりもなおさず、飛び込む勢いでこんこんと湧き出る澄んだ泉に顔を突っ込んだ。からからに干からびた喉を潤し、数日ぶりに人心地ついた。水辺の草むらに、手足を投げ出すようにあおむけに寝転がった。

 すると、唐突に視界の片隅に真っ赤なリンゴの木が生えているのに気が付いた。

 水筒を泉の水で満たすと、サムはリンゴの木に近づいた。ふと根元に目をやると、その木の向こう側にその墓碑があった。


 “高貴なる王子” 様にしては、ずいぶん辺鄙な場所に埋葬されている。

 いぶかしげに墓碑を見つめながら、サムは内心つぶやいた。

 墓の下に眠る “高貴なる王子” 様の名を確かめても、最初のうち、サムはぴんとこなかった。墓碑に刻まれた没年が正しいのなら、どうやら彼はおよそ百年前にこの地で永遠の眠りに就いたようだ。

 百年前といえば、サムが今向かっている隣の王国で激しい内乱が起こっていた。一つの王座を巡り、二つの王家が血で血を洗う権力闘争を繰り広げていた戦乱の時代。

 その内乱の最後の戦いで、敗北した王家の王子は戦場から行方知れずとなっていた。討ち取られたはずの首も、遺体も、忽然と姿を消したとされている。

 本来なら、勝者の子孫である隣の王国の現王家にとって、彼は逆賊だ。しかし、彼だけは例外的に勇敢で気高い悲劇の英雄として、国民から高い人気を誇ると聞く。

 なぜなら、彼と勝利した王家の王子、後の現王家最初の王は、幼い頃から厚い友情で結ばれた親友だったからだ。

 騎士物語として広く伝えられるところによると、最初の王は、終生、親友だった敗れた王家の王子の高潔な勇気と慈悲深く篤実な品格を称え、武勇の誉れ高き騎士として彼の名誉を守り続けた。

 墓碑には、その敗北した王家の王子と同じ名が刻まれていた。


 よく見ると、墓碑は苔むしていながらも非常に精緻で優雅な彫刻が施されていた。墓石はおそらく最高級の白い大理石だ。見れば見るほど、いかにも貴人の墓にふさわしい風情がある。

 もしかして、本当に行方知れずの王子様の墓なのだろうか?

 しかし、サムはこの墓を暴いてそれを確かめようとは思えなかった。

 仮にこれがその王子様の墓だったとして、権力闘争に敗れ、たった二十四歳で戦死し、内乱のどさくさでこんな森の奥に埋葬されているようでは、財宝も埋蔵金も期待できそうにない。

 それに、今この墓を掘り返すのに時間と体力を費やすわけにいかない。

 なにより、この森を抜け出す前に呪いをかけられ死んでしまったら、ここまで数日間かいくぐってきた危険と苦労がすべて水の泡だ。


 誰であれ、どこであれ、永い眠りに就いた人を起こすのは忍びない。

 サムは辺りを見回した。

 水辺に名も知らぬ白い花が咲いていた。何本か手折ると、墓碑に触れないよう慎重に手向け、短い祈りを捧げた。

 汝の魂よ、神の御許にて安らかに眠りたまえ。


「このリンゴをいくつかいただきますよ、王子様」

 腰のベルトからナイフを抜き取ると、サムは真っ赤なリンゴを数個摘み取った。リンゴは蜜がたっぷりつまっており、甘酸っぱくとても美味しかった。

 サムはこれからのことを考えた。

 このリンゴで数日間は飢えをしのげる。もうずいぶん日が傾いているし、今日はここで火をたいて夜を明かそう。墓のそばで寝るのは少々気が咎めるが、高貴なる王子様ならきっと慈悲深いはずだからお許しくださるだろう。

 サムはリンゴの木の根元を今夜の寝床に決めた。

 木の枝を拾い集めて火をおこす。すると、疲労と安堵が一気に押し寄せてきたのか、サムはたちまち泥のように深い眠りに落ちた。


「朝だ。起きろ」

 力加減なしに揺すられ、サムは目を覚ました。

 夜明け前の薄青色の光が、部屋にぼんやり射し込んでいる。屋根そのままの天井に、むき出しの梁がかかっている。煮立った山羊の乳のこってりとしたにおいが鼻をくすぐる。

 男がいた。 灰色熊(グリズリー)のように大柄で、いかにも屈強そうな若い男だ。

 サムは腹部に巻き付けたさらしを確認した。ほどかれ巻き直された様子はない。ベッドの足下に革袋もある。何も奪われていないようだ。たまらず、安堵の溜め息がこぼれた。

 驚愕と動転を懸命に抑えながら、サムはベッドの中で微動だにせず、目だけ開いて部屋の中を見回した。頑丈で簡素な石造りの、人一人暮らすのがやっとの小さな家だ。森番小屋だろうか。男を注視しながら獣の毛皮の毛布の下で腰のベルトに手を伸ばすと、男がゆったり振り向いた。

「あなたは誰ですか?」

 サムは用心深く尋ねた。

「ロバートだ」

 奥まった黒い目でサムを見据えながら、男はあっさりと名乗った。

「ここはどこですか?」

「ここは私の家だ。お前は、私がここに担いで連れてきた」

 担いで連れてきた!?

 サムは心の中で悲鳴を上げた。その間、サムは目を覚ますことなく、一晩中ずっと朝まで眠り続けていたということだ。

 そんな、まさか、ありえない!

「なぜあなたは俺をここに連れてきたんですか?」

 焦りを困惑の表情にすり替え、サムは男に聞いた。

「お前が眠っていたあの泉は、この森の狼たちの根城だ。夜になれば狼たちが群れを成して集まってくる。あのままあそこにいたら、お前は今頃、肉ごと身ぐるみ剥がされ骨だけになっていたぞ」

 サムはいささか血の気が引いた。

 まさかあの王子様の呪いだろうか。リンゴを摘み取ったのがいけなかったのか? いや、墓のそばで一夜を明かそうとしたのがいけなかったのかもしれない。喉の渇きと空腹を一時的にでもしのげて、気を緩めた途端これだ。しかし、この男のおかげで助かった。彼がいなければ、今頃サムは狼たちの腹の中だったかもしれない。


 もっとも、この男が嘘をついていない保証はない。

 この森には狼などおらず、この男は明確な目的を持ってサムをここに連れてきたのかもしれない。


「助けていただき、ありがとうございます」

 ベッドの上で起き上がり居ずまいを正すと、サムは男に礼を述べた。もちろん、右手は腰のベルトから決して離さずに。

「俺はサムです」

 男は感情の見えない表情でうなずき、サムの言葉を静かに受け止めた。それから鍋で煮詰めた山羊の乳を使い古したマグで汲むと、サムに差し出した。

「あなたはここの森番なのですか?」

 サムは問いかけながらマグを受け取った。

 温かな湯気をたてる山羊の乳は、たまらなく美味しそうだった。

 しかし、見知らぬ男の差し出したそれを、サムは親切な労りとして素直に受け取ることはどうしてもできなかった。

「お前は一人で旅をしているのか?」

 出し抜けに、ロバートはサムに尋ねた。

「はい」

「女の一人旅は危険だ。感心しない」

 サムは息を詰めた。

 ロバートの黒い目には、懸念も疑念も好奇さえも見当たらなかった。月も星もない夜の闇のような目が、揺さぶりも駆け引きもなく、ただ真っ直ぐにサムを捕らえた。


 宮廷女官、町娘、踊り子、農婦、騎士見習い、従僕、道化師、旅人、少年。サムは多くの名と、多くの身分と、多くの肩書きを持っている。

 彼女の兄たちも姉たちも、彼女の両親も、その親も、さらにその親も、そうして代々主の一族に仕えてきた。

 だからこそ、命に代えても主を守るのがサムの使命だ。

 きつく巻いたさらしの下に肌身離さず携えた主より託された書簡を、隣の王国に届けなければならない。


「飲め」

 ロバートはサムに言った。

「私がお前をどうこうするつもりなら、ゆうべのうちにとっくにそうしている。お前が無事ということは、私にその気がないということだ」

 ロバートは続けた。

「女の一人旅は感心しないが、お前にはお前の事情があるのだろう。私にはあずかり知らぬことだ。そんなことより、さっさと朝食を食べるぞ」

 サムはテーブルを見た。驚いた。オーツ麦の粥と山羊のチーズ、仔イノシシ肉のハムにコケモモの蜂蜜漬けという、思いがけず豪勢な食事がテーブルに用意されていた。喉がごくりと上下し、それから早朝の静寂に腹の鳴る音が間抜けに響いた。

 一瞬だけ、ロバートの厳めしい目尻に深いしわが刻まれた。サムは彼から渡された山羊の乳をすすった。こってりと甘く、温かかった。


「それでこの森を直進することにしたのか?」

 二人で朝食を取りながら、ロバートはサムに言った。

 相変わらずロバートの口調は淡々として抑揚がなく、黒い目から感情は読み取れなかった。それでも、サムのあまりに無謀な旅順を聞いた彼の声には、呆れだけでなく彼女を面白がり感心したような気配があった。

「そりゃあ、山麓沿いの街道なら道も整備されているし、宿もあるし、安全なのは百も承知よ。でも、あんな迂回した道じゃあ、どんなに速い馬を飛ばしても十日もかかるのよ。そんな時間はないの。この森を直進すれば、四日で王都の隣町に抜けられる。それならこっちを選ぶに決まっているでしょ」

 そうすれば、奴らより先に隣国の国王陛下に主からの書簡をお渡しできる。

 青年として振る舞うのをやめたサムは、年若い娘らしいかしましい調子でまくしたてた。

「そこで、ロバート、あなたにお願いがあるんだけど……」

 サムはおずおずとロバートに切り出した。彼は目だけで続きを促した。

「このチーズとハムを今日一日分だけ恵んでもらえない? お願い!」

「構わん」

 サムの決死の依頼をロバートはあっさり了承した。

「本当!? ありがとう!」

 テーブルから身を乗り出してロバートの手をつかみ、サムはぶんぶんと振り回した。

「お礼はこれで足りるかしら? これ以上は、森を抜けてからの旅費で必要になるから難しいんだけど……」

 感謝と敬意を込めて、最大限の対価としてサムは銅貨三枚を差し出した。無言で彼女の手を押し戻すと、ロバートは静かに続けた。

「こんなところで暮らしていると、金など宝の持ち腐れだ」

「だめよ。あなたにはただでさえ狼の群れから助けてもらって、一晩暖かなベッドで眠らせてもらった。そのうえ食糧まで恵んでもらうわけにはいかない」

 サムは言い募った。

「それなら、お前が摘み取ったリンゴをくれ」

 ロバートはサムの革袋を指差して言った。

「リンゴでいいの? あの泉に行けば好きなだけ取り放題なのに」

「あぁ、リンゴがいい」

 サムが革袋の中からリンゴを取り出して渡すと、ロバートはなでるように優しい手つきでそれを受け取った。

「よほどリンゴが好きなのね」

 返事の代わりに、ロバートはリンゴを見つめたまま奥まった目を細めた。

 いかめしい偉丈夫が、愛おしそうにリンゴを見つめる様はどこか奇妙で滑稽だった 。サムの胸に、奇妙で得体のしれない、引き絞られるような哀切が流れ込んできた。

「そろそろ行くぞ」

 リンゴをそっとテーブルに置くと、おもむろにロバートは立ち上がった。

「え? 行くぞって、あなたも行くの?」

 サムはあわてて声を上げた。

「ここから半日で森の出口に着く。案内しよう」


 甲冑をまとった騎士のようにいかめしい巨体ながら、ロバートは鬱蒼と茂る森をすいすいと進んだ。木の枝にひっかかれ、蔓草に足を取られ、深い森の道なき道に難儀させられたサムとはえらい違いだ。彼女の目には、まるで木の枝や蔓草が彼をよけてやっているかのようにさえ映った。

「森番はみんな、そうやって庭を歩くみたいに森を歩けるものなの?」

 サムは好奇心まるだしでロバートに尋ねた。

「私はここでの暮らしが長い。慣れているだけだ」

 前を向いたまま、ロバートは静かに答えた。

「ここでの暮らしが長いといっても、あなたはまだ若いわよね。二十五歳くらいかしら。生まれたときからずっとここで暮らしているの?」

「お前は女なのによくしゃべるな。まるで雛鳥のようだ」

 ロバートは肩越しに振り返って言った。お転婆な小娘をたしなめる、優しい兄のような口ぶりだった。

「家族のみんなからも、そんなことを何度も言われたわ」

 家族の顔を一人一人思い出しながら、サムは苦笑いをこぼした。

 父さんも母さんも、兄さんも姉さんたちも、みんな今頃きっと不出来な末娘の私が主にきちんとお仕えできるか案じているだろう。


 神の御許に召されても、心配と不安のあまり、おちおち眠りにつくことすらできないに違いない。

 サムの家族はもう誰もいない。

 どんなに恋しくても、もう会えない。

 彼らの魂が静かに、穏やかに、安らかに眠れるよう、サムは祈りを捧げることしかできない。


「私は小さな頃から出来が悪くて、父さんと母さんに怒られてばかりだった。兄さんや姉さんたちに助けてもらってばかり。いつまでたっても一人前になれないひよっこだった」

 物心ついた頃から、サムはずっと落ちこぼれの烙印を押されて生きてきた。優秀な兄姉たちに比べ、要領も物覚えも悪く、のろまで、必ず痕跡を残しては家族の誰かがそれを消して始末した。

 それでも、家族から愛されていた。主からもかわいがってもらえた。

「でも、今、動けるのは私だけなの。私がやらなきゃいけない」

 ロバートではなく、自分に言い聞かせるようにサムは言った。

「私の…… 雇い主は、こんなひよっこの私を信じてくださった。お前にしか頼めない、お前ならできる、って。本当はすごく怖いの。実はね、一人きりで仕事をするのは、これが初めてなんだ。これまでずっと家族の誰かにくっついていたから。我ながら恥ずかしいんだけどね」

 サムが顔を上げると、ちょうど木の幹の巣穴から野鳥が一羽飛び立っていった。

 もっと早く一人前になりたかった。

 あのとき、私がもっと強ければ、もっと賢ければ、今も家族と共に主をお守りできただろうか。

「雛鳥は飛べない。自力で森を渡ることはできない」

 歩みを止めず、前を向き、ロバートは言った。

「お前は今、自らの意志と足で森を渡っている。お前は雛鳥ではない。お前が恥じることは何一つない」

 肩越しにサムに振り向きもせず、ロバートはただひたすら前を向いて歩き続けた。彼の声には、憐れみも慰めも労りも励ましもない。ただ、目の前に在る事実を肯定するだけの、静かで力強い声だった。


 太陽が空の最も高い位置に届く頃、サムとロバートは森の出口に到着した。

 森の出口は、岩肌がむき出しの深い渓谷に面していた。岩をも削り剥がすように、激しい急流の荒々しい轟音が地鳴りのように響き渡っている。

 渓谷は、そのまま地獄に落ちてしまいそうなほど深い。しかし幸いなことに、真新しくとても頑丈そうな吊り橋がかかっていた。ひょろりと痩せて身軽なサムなら、全力で駆け抜けてもびくともしないだろう。

 ただちに頭の中で地図を思い返し、渓谷の地形と北にそびえる山脈の稜線の角度から、サムはおよそ自分がどの地点にいるのか推し測った。

 おそらく、向こう岸の山を道なりに下れば王都の隣町の城門まですぐだ。急げば明日の昼間には王都に入れるかもしれない。

 快哉を叫びたいのをぐっとこらえ、サムは拳を握り締めた。

「ロバート、こんなに早く森を出ることができたのはあなたのおかげよ。本当にありがとう。あなたは私の恩人、森の聖人ね」

「早く行け。決して振り返るな」

 ロバートは素っ気なくサムを促した。

「橋の上で立ち止まり後ろを振り返ると、そのまま渓谷の川に呑み込まれるぞ」

 サムは思わず顔をくしゃっと崩した。岩のように堅く寡黙な男かと思いきや、ロバートも若い女を怖がらせるという、若い男らしい愚かさを人並みに持ち合せていたようだ。

「ばかにしないで。これでも高い所はかなり得意なのよ」

 サムは自信満々に胸を張った。

 城の尖塔をよじのぼったり、屋敷のバルコニーから飛び降りたり、屋根と屋根の間を跳び回ったりするのは、サムの貴重な特技だった。

「じゃあね、ロバート。元気で」

 サムは駆け出した。崖の底から唸りを上げる急流の轟音に包まれても、サムの胸にはかけらの恐怖も不安もなかった。前だけを見て吊り橋を走り抜けるわずか数秒の間、サムは背中を押され、前へ前へ引っ張られるような奇妙な力を感じた。転がるように森の対岸に到着すると、勢い余ってすぐに立ち止まることができなかった。

 道のそばまで来てようやく立ち止まると、サムは後ろを振り返った。

 吊り橋の先、渓谷の向こう側にロバートはいた。森の手前に立ち、じっとサムを見守っていた。

 サムは大きく両手を振った。谷の向こうに声が届かないことなど気にも留めず、力の限りに叫んだ。

「ロバート! ありがとう! この先ずっとあなたが幸せでありますように!」

  大木の幹のように太い両腕を高く上げ、ロバートはサムに手を振った。

 はっきりと見えなくても、サムには分かった。ロバートは笑って彼女を見送っている。ただそれが嬉しかった。書簡を届け、無事主を救い出し、我が国に平穏を取り戻したら、再びロバートに会いに来よう。

 腕を下ろし、サムは身をひるがえした。町に向かい、山道を歩き始めた。


 不意に、サムは耳元で名を呼ばれた。家族と主しか知らぬ、本当の名を。

「我が友に花を手向け祈りを捧げてくれたこと、感謝する」

 サムは弾かれるように振り返った。

 渓谷にかかっていた吊り橋が消えていた。

 崖と崖を裂く谷間は深く、その底からは無慈悲な急流の轟音が唸りを上げ続けている。空を飛ぶ翼を持つ鳥でなければ、到底向こう岸へ飛び越えて渡ることは叶いそうにない。

 ロバートもいなくなっていた。

 たった今、森の入口で手を振っていたのに。サムの耳元でささやかれた声は、たしかに彼のものだったのに、彼はどこにもいない。

 王子様が眠る深い森だけが、変わらずそこに広がっていた。

 汝の魂よ、神の御許にて安らかに眠りたまえ。

 サムは森に向かって祈った。そして再び前を向き、彼女は走り出した。

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